Archive for 8月, 2013

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 型番

型番について(その23)

QUAD・ESL63が出て、そう経たないうちにステレオサウンドで働くようになったから、
意外にも早く、それも販売店の試聴室とは比較にならない、いい条件で聴くことができた。

たしかに、ステレオサウンド 61号で、
特集「ヨーロピアン・サウンドの魅力」と長島先生による「QUAD ESL-63研究」、
この二本の記事で高い評価を得ていたし、期待はふくらむだけふくらんでいた、
そして実際のESL63の音は、ステレオサウンド 61号に書かれている通りの音だった。

でも、私としては不満があった。
音がしっとりしていない、ただその一点だけがどうしても受け入れられなかった。

音がしっとりしていない、
つまり音が乾燥気味に聴こえる。
ただ、これはあくまでもESLのしっとり感と比較しての印象であって、
乾ききった音ではないのだが、
どうしてもコンデンサー型スピーカーに対して照らし合せると、
しかもそのコンデンサー型スピーカーの音イメージは旧型のESLによってつくられているから、
だからこそやっかいなのだが、
ESL63の音は立派ではあっても、しっとり感が足りないというだけで不満だった。

型番がESL63ではなく、ESL62とかESL64だったら、
そこまで不満にも思わなかった。
ESL63だから、1963年生れの私は、個人的な強烈な思い入れがあった。
その思い入れが、ほんのすこしだけ損なわれた、というだけの話であっても、
当時まだ10代だった私は、とても大きなことではあった。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 型番

型番について(その22)

QUADのESLは、マーク・レヴィンソンがHQDシステムの中核として使っていたスピーカー、
というイメージが、1970年代後半からオーディオに興味を持ち始めた私にはある。

Electro Static LoudSpeakerの頭文字をとったESLではあるが、
昔からいわれているように、loudな音は苦手とするスピーカーである。

音量はどちらかといえば控え目で繊細な表現を得意とするESLだから、
よりloudな音を要求する人は、ESLを二段スタック、さらには三段スタックの道に行く。

それに発音原理上、平面波ということ、そして3ウェイという構造もあいまって、
聴取位置はかなりシビアなスピーカーシステムでもあった。
それでも、このスピーカーシステムでしか聴けぬ音の表現があったからこそ、
ながいこと、多くの人の支持を得てきたし、
いまもドイツのQUAD Musikwiedergabe GmbHの手によって再生産されている。

オリジナルのESLが持つ、そういうところについては、
開発・設計者のピーター・ウォーカーがいちばんよくわかっていたことであろうし、
だからこそ1963年という早い時期から次期モデル開発をスタートさせたのだろう。

ESL63に関する記事がステレオサウンドが載った時、
そのころ魅かれていたロジャースのPM510とともに、
ESL63は私にとって、かなり理想に近いスピーカーシステムとなるのではないか、
そう感じていた。
音を、はやく聴きたい、と思っていた。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 型番

型番について(その21)

QUADのコンデンサー型スピーカーシステムが、ずいぶんよくなっている、ときく。

現在のラインナップは6枚パネルのESL2912と4枚パネルのESL2812がある。
個人的には放射面積の広さが増えることのメリットをとりたいので、
ESL2812よりもESL2912の方に魅力を感じる。

スピーカーとしての奥行き、横幅はどちらも同じなのだから、
背の高さが気にならなければESL2912であり、
現在日本に輸入・販売されているスピーカーシステムのなかで、
いま何を選ぶかとなると、その第一候補としてESL2912がある。

ESL2912は前作のESL2905から、細部のいくつものところが改良されている、とのこと。
そうなると原型といえるESL63と比較すると、その改良点はどれだけの数になるのだろうか。

いろいろな箇所が改良されている、ということは外観からもうかがえる。
ESL2912の音は聴いていないが、音は間違いなく良くなっている、と確信している。

ESL63が日本に登場したのは1981年。
もう30年以上前のことになる。
外観もずいぶん変っている。
QUADという会社の体制も変っている。
そんなことを考えると、ESL2912と型番がなってしまったのは当然とは理解できても、
どこかにESL63の後継機種であることを示してほしい、と思う。

「63」と数字を活かした型番に、個人的にはしてほしかった理由がある。

ESL63の「63」という数字には、
1963年から開発が始まった、という意味がこめられている。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(正直な音)

この項のつづきを書こうとして、いま考えていることに、
素朴な音と近い音として、正直な音、というのがあって、
この正直な音を、これまで意識してこなかったけれど、ずっと求めてきた・探してきたような気がしている。

オーディオは、ある意味で虚であるからこそ。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その8)

いま聴くことができるバルトークの弦楽四重奏曲のすべてを聴いているわけではない。
自分で購入して聴いてきたもの、友人・知人のところに行ったおりにたまたま聴く機会があったもの、
レコード店にてあれこれ見てまわっているときに、たまたまかけられていたもの、
インターネット・ラジオを聴いていたら、たまたまかけられたなどによって、
いくつかの弦楽四重奏団によるバルトークを聴いてきた。

それらの中には、五味先生がもし聴かれたら、
「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」、
「気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ」
と思われただろうか──、そんなことをつい思ってしまう演奏もある。

そういう弦楽四重奏団によるバルトークが「歇んだとき」、
五味先生は「ホッとした」のだろうか。

どんな弦楽四重奏団による演奏であれ、
バルトークの弦楽四重奏曲が、ほかの作曲家の弦楽四重奏曲に変るわけはない。
五味先生がバルトークの弦楽四重奏曲に感じられた、いくつかのことは、
バルトークの音楽だからであるから、であり、それがジュリアード弦楽四重奏団による演奏盤であったからである。
私は、そう考えている。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと・余談)

アニー・フィッシャーに関する情報は、昔は少なかった。
いまではインターネットのおかげで、
私がアニー・フィッシャーをはじめて聴いた時に比べればずっと多くの情報が得られるとはいえ、
それでもほかのピアニストと比べれば、情報はそれほど多くはない。

それでもアニー・フィッシャーが素晴らしいピアニストであることにはなんら影響を与えることはないのだが、
それでもアニー・フィッシャーの人となりは、少しは知りたい気持は、いまもある。

twitterには、Botとよばれる、著名人の発言をツイートするアカウントがある。
私もそんなBotをいくつかフォローしていて、そのなかのひとつにRichterBotがある。

ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルに関するものだ。
今日ツイートされた中に、リヒテルがアニー・フィッシャーについて語っているものがあった。
     *
(アニー・フィッシャーは)実に率直な人物で、私の見るところ外交辞令など一切抜きである。だから言うことが信じられる。何でも包み隠さず、こちらの目を見ながら言ってくれる。私の弾いたバッハ『フランス組曲ハ短調』とモーツァルトの『ソナタへ長調』の演奏を的確に批判したことをよく覚えている。
     *
やはり、そういう人だったんだ、と思った。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その7)

1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがそのまま2013年の現在にいたとしても、
1963年と同じ演奏をするとは思えない。
1981年の録音の方向へと、より洗練したものになるのではなかろうか。

1963年と、ジュリアード弦楽四重奏団がデジタルで三度目の録音としたときとでは、
バルトークの弦楽四重奏曲の聴かれ方も変化している。
レコードも、それほどとはいえないものの数は増えていた。

2013年の現在、バルトークの弦楽四重奏曲はいったい何組出ているのか。
HMVのサイトで検索してみると、けっこうな数があることがわかる。
1963年には現代音楽であったバルトークの弦楽四重奏曲は、
1981年には現代音楽と呼びにくくなっていたし、
2013年の現在では、現代音楽とはすでに呼べなくなっている。

もう「知らしめる」ということは必要ではなくなっている。

そんな時代の移り変りがあるから、
1963年当時のジュリアード弦楽四重奏団と録音スタッフがいまにいたとしても、
1963年と同じ演奏・録音(つまり表現)は行わない。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団のバルトークに感じられた気魄は、
まだバルトークの弦楽四重奏曲が現代音楽であったこと、
そして知らしめると役目も担っていたからこその気魄でもあったはず。

そこに時代を、聴き手のわれわれは感じとることができる。
そして、五味先生にとって「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」ことにも、
それは影響を及ぼしている──。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その6)

10年以上前のレコード芸術の記事だったと記憶している。
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが語っていたことがある。

著名な演奏家による、いわゆる売れ筋の録音のときに、
同時にあまり知名度のない作曲家や新しい作曲家の作品を録音してカップリングするのは、
より多く売れる録音とひとつとして売ることで、
そのレコード(録音物)の聴き手に、知らしめるためでもある、ということだった。

そういった作曲家の、そういった作品だけを集めた録音では、
マニアックなごく一部の聴き手は買ってくれるだろうがほ、
多くの、そうでもない聴き手の耳に届くことはない。

彼らは音楽のプロフェッショナルである。
プロフェッショナルであるから、音楽を録音してそれを売ることで収入を得ている。
だが、商業的なことだけを考えて、企画をたて録音をしているわけではない。
そこには聴き手への教育的な意味合いもこめられている。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲の全集にも、
そういう意味合いがこめられている──、そんな気もする。

1963年にバルトークの弦楽四重奏曲がどれだけ一般的な聴き手の耳に届いていたのか、
正直わからない。
この時代のシュワンのカタログでもあれば、
バルトークの弦楽四重奏曲のレコードがどれだけ出ていたのか、それがわかるし、
おおよそのことは想像できるだろうが、この時代のシュワンのようなレコードのカタログ誌はもっていない。

ハンガリー弦楽四重奏曲による1961年の録音とジュリアード弦楽四重奏団のモノーラルの録音くらいしか、
他にどれだけあったのかを、私は知らない。
バルトーク弦楽四重奏団による録音は1966年ごろ、
タートライ弦楽四重奏団は年代がはっきりしないが60年代半ばごろだ。

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その5)

五味先生は、つづけてこう書かれている。
     *
 そのくせ、バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵している。不幸にして私が狂人になったとき、私を慰めてくれる音楽はもうこれしかあるまい、と思えるし、気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ。狂人に音楽が分るものかどうか、その時になってみなければ分らぬが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする。
 そういう意味で、私のこれは独断だが、バルトークは現代音楽でモーツァルトに比肩し得る唯一の芸術家だ。アルバン・ベルクもビラ・ロボスもシェーンベルクも、ついに新音楽ではバルトークの亜流にすぎない、そう断言してもよいと思う。
     *
「ジュリアードの演奏盤」としか書かれていない。
ジュリアード弦楽四重奏団は、三度バルトークを録音している。
モノーラル時代、ステレオになり1963年、デジタルになり1981年。
五味先生は1980年に亡くなられているから、
五味先生が秘蔵されていたジュリアードの演奏盤は、
バルトークの弦楽四重奏曲のすごさを、多くの聴き手に思い知らせたという意味でも、
モニュメンタルな録音といえる1963年のもののはずだ。

1963年はちょうど50年前。
私はうまれたばかりだから、当時のことを自分の体験として知っているわけではないが、
本やきくところによると、1963年にはバルトークは「現代音楽」として聴かれていた、ということだ。

バルトークの弦楽四重奏曲の第一番が1908〜1909年、
第二番が1915〜1917年、第三番が1927年、第四番が1928年、第五番が1934年、最後の第六番が1939年。

ジュリアード弦楽四重奏団がステレオ録音したとき、第六番の完成から24年後。
「現代音楽」としてバルトークの音楽が聴かれていた時代がはっきりとあって、
1963年はまだまだそういう時代だったからこそ、
ジュリアード弦楽四重奏団による二組のバルトークの全集を聴きくらべたとき、
音の良さでは1981年の録音が優れている。
けれど、演奏の気魄となると、1963年の録音に圧倒される。

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その6)

バラコン──、
決していい言葉ではない。けれど、往々にしてグレードアップを何度か行うと、
バラバラなコンポーネントという印象に、デザインに関してはなってしまうことがある。

しかも音はまとまりをみせていっているであろうから、
人によってはデザインの統一感のなさ(バラバラな感じ)をどうにかしたくなる。

オーディオとはそういうものである、と自分を納得させることができればいいが、
そういう人でもデザインの面でもまとまりがあれば、
音が同じであれば、バラバラのデザインよりも、そちらを採るだろう。

マッキントッシュ、QUAD、B&Oのシステムのもつ魅力に憧れはもっている。
欲しい、と思うこともある。
けれど、どれでもいい、どれかひとつのシステムを買ってきて、
どれだけ満足できるか、というと、それはそう永い期間ではないように思う。

ここでのどれだけ満足できるかは、音の満足度ということよりも、
どれだけながく、そのシステムを変えることなく使っていけるか、という意味の、
時間的な長さのことだ。

もうひとつ書いておきたいことがある。
ここであげているマッキントッシュ、QUADに関しては、
いまのマッキントッシュ、QUADのイメージではなく、
私の中ではQUADはピーター・ウォーカーが生きていた時代までのQUADであり、
マッキントッシュも同じようにゴードン・ガウが生きていた時代までのマッキントッシュであり、
このふたつのブランドに関しては、そこまでのイメージが圧倒的に濃い。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: audio wednesday

第32回audio sharing例会のお知らせ

9月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その10)

パイオニア、Exclusive F3の開発にそれだけの時間がかけられている──、
このことをいま知って、うんうんとひとり頷きながら納得している。

けれどチューナーにほとんど関心のなかった、若いときにこのことを知っていたら、
うーん、そうなんだ……、ぐらいの感想になっていたのは間違いない。

そして、そのことももう忘れてしまっていたことだろう。
活字による同じ情報でも、こちら(受けて)の状況で、その重要度が大きく違ってくる。

だから、いまExclusive F3がやって来て、少しずつF3について調べている、
このことは、現在(いま)でよかった、と思っているところだ。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その9)

三井啓氏の記事によれば、チューナーも、コントロールアンプ、パワーアンプとともに企画されていたことがわかる。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のパイオニア号、
204〜205ページにデザイン・スケッチが掲載されている。

コントロールアンプ、パワーアンプのスケッチとともに、
あきらかにチューナーのデザイン・スケッチがそこにはあった。

ではなぜチューナーのExclusive F3だけが約一年も遅れたのか。
その理由は、測定器の開発から始まったことにある。

三井氏の記事にはこうある。
     *
今日では広く採用されている群遅延特性測定器や、微分利得特性測定器といった精巧な測定器は、「エクスクルーシヴ」のFM専用チューナーを開発するうえで必要に迫られ、設計グループによって実現したものであった。
     *
記事には測定器の写真も載っていて、その説明文には「測定器メーカーとの共同開発による」とある。

オーディオ機器の開発の大変さは、なんとなくではあっても想像がつく。
けれど、測定器、それも新しい測定器となると、どれだけ大変なのかは、私には想像がつかない。

おそらく新しい測定器の開発と並行しながらExclusive F3の開発・設計も進められていた。
記事にも、「新しいFM専用チューナーは、昭和47年末ごろの設計の段階では」という記述がある。
昭和47年は1972年、Exclusive F3の発売は1975年。

Exclusive F3は、それだけの時間がかけられたチューナーといえる。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その4)

小学校の時の、そんな体験を彷彿させたのが、
五味先生の「西方の音」を読んでいたときだった。
長崎原爆資料館を訪れてから、約十年が過ぎていた。

「バルトーク」という一篇があった。
長くなるが引用しておく。中途半端に省略したくなかった。
     *
 もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。
 そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさら私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった。しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。
 またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない。——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。
 とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。
「やめてくれ」
 私は心中に叫び、それが歇んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靭な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。
     *
「それが歇んだときホッとした」とある。
ここで、小学低学年のころの映画のこと、
小学五年での長崎原爆資料館のことを思い出すことになった。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その3)

死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。

そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。

あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。

それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。

小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。

長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。

アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。

なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。

けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。