「はだしのゲン」(その3)
死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。
そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。
あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。
それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。
小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。
長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。
アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。
なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。
けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。