Archive for 7月, 2013

Date: 7月 22nd, 2013
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その6について、さらに余談)

私がトーレンスのTD224のカラー写真を見たのは、ステレオサウンド 39号が最初だった。
「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」にはカラーが4ページある。
扉にはガラード・301とトーレンスのTD124/IIを真正面撮った写真、
つづく見開きのページには斜め上からの301とTD124/II、
カラーページの最後にTD224だった。

この39号のカラー写真が最初だったこともあり、
TD224のデッキ部分の色は、こんな感じなんだ、とずっと思っていた。
同じトーレンスのTD124とはずいぶん色合いが違うけれど、
これもターンテーブル単体のTD124とプレーヤーシステム、それもオートチェンジャーのTD224、
それぞれの性格の違いから、あえてデッキ部分の色を変えているのだと、そう受けとってしまった。

TD124、301は実物を見る機会も、触る機会も、音も聴くことができたけれど、
TD224に関しては、岩崎先生のTD224を対面するまで、それらの機会はなかった。

そんなこともあって、いま私のところにあるTD224、
確かに汚れはあるけれど、デッキ部分の色はステレオサウンド 39号のままだ、と思った。

昨日、Exclusive F3のクリーニングのために「激落ちくん」を買ってきた。
「激落ちくん」に関しては、特に説明は要らないだろう。
ドイツ生れの新素材のスポンジで、水に濡らして、あとは軽くこすっていくだけである。

特殊な薬品を使わずに汚れを簡単に落していける。
Exclusive F3はずいぶんキレイになった。
まだ細部のクリーニングは残っているけれど、
この「激落ちくん」でTD224もクリーニングしてみよう、と思い、
こっちを優先してしまった。

塗装面ということもあってか、Exclusive F3のときよりも劇的に汚れが落ちるわけではないけれど、
少しずつ汚れは落ちていく。
すると、ステレオサウンド 39号のTD224のカラー写真は、
実は煙草のヤニによって変色していたことがわかる。

ステレオサウンド 39号は1976年出版、
岩崎先生が中野でやられていたジャズ・オーディオは1974年春に閉店している。
いまとは違い、当時は禁煙席などないし、煙草の煙はきっと店内に充満していたことだろう。
なにせ1970年代のジャズ喫茶なのだから、それが当然の風景であったはず。

そういう場所・時代で使われてきたTD224だから、その汚れも「勲章」なのかもしれない。
いわば時代の証しとして、TD224の表面を覆っている、この汚れ、
すでに一部落し始めてしまった。落した汚れはもう元には戻せないから、
これから先ゆっくりとキレイにしていくしかない。

Date: 7月 22nd, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その2)

ステレオサウンド 43号で、瀬川先生はExclusive F3について、こう書かれている。
     *
自宅で数ヵ月モニターしたのち、返却して他のチューナーにかえたら、かえってF3の音質の良さを思い知らされて、しばらくFMを聴くのがイヤになったことがある。C3やM4と一脈通じる、繊細で、ややウェットではあるが、汚れのない澄明な品位の高い音質で、やはり高価なだけのことはあると納得させられる。
     *
これだけでなく、トリオのKT9700のところでも、Exclusive F3については少し触れられている。
     *
音の傾向は、9300と同系統の、やや硬質で輪郭の鮮明な印象。反面、音のやわらかさやふくらみや豊かさという面では、たとえばパイオニアのF3あたりの方に軍配が上がるが、この辺は好みの問題だ。
     *
ステレオサウンド 43号はベストバイの特集号で、
KT9700は五人(井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三)による選出、
F3はふたり(上杉佳郎、瀬川冬樹)だけである。

KT9700とExclusive F3の音の傾向は正反対であることがわかる。
チューナーとしての性能は、KT9700は150000円と、
Exclusive F3(250000円)よりも安いけれど、
トリオはチューナーを得意としていただけに遜色はないレベル。
それだけに、このふたつのチューターは好対照のように、当時の私は捉えていた。

とにかく瀬川先生の文章によって、F3の音に興味をもった。
43号の一年後の47号でも、
《エクスクルーシヴシリーズに共通のエレガントな音質が独特の魅力。》と書かれている。

51号、55号は筆者別のコメントはなくなり、
どの人がどの機種に点数をいれたのかもわからなくなっている。
それでも55号では、各ジャンルからMy Best3が挙げられている。

瀬川先生にとってのチューナーのMy Best3は、アキュフェーズのT104、ケンウッドのL01T、
それにExclusive F3である。

ここにきて、私のExclusive F3への興味は、やっと強いものになってきた。

Date: 7月 22nd, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その5)

《今迄このレコードには、たくさんの〝借り〟がある。だが、それをまだ返したことはない。僕にできることといえば、いつも自分のそばに置いておくことだけなのかもしれない。》
     *
岩崎先生にとってソニー・ロリンズのSaxophone Colossusは、
そんな存在のレコードだった。

「あの時、ロリンズは神だった……」は、Saxophone Colossusについての岩崎先生の文章だ。
ビクターの社内報のために書かれた、この文章は、若い時よりも、
歳を重ねたいま読むことで、感じるものがずっと多く、ずっと重い。
最初に読んだ時より、ずっと確かなものが感じられるようになった。

「あの時、ロリンズは神だった……」はSaxophone Colossusとの出合いから始まる。
Dというジャズ喫茶での出合い、というよりも、「僕を襲った」と表現されていることからもうかがえるように、
それがどれだけ衝撃的だったのか、
なにかほかの表現がぴったりくるであろう、そういう出合いである。

《戦慄が背筋を駆けあがる。一瞬、僕はすくむ。後は、ただガタガタ身震いが続いた。
あの何か得体の知れないスゴイものに出合った時に共通する感覚……。》

Dというジャズ喫茶をでた後、都内のレコード店を奔走し、
Saxophone Colossusの輸入盤を見つけ、抱えて帰宅。

《その夜は、スピーカーを通して語りかける〝神〟の声を聞きながら眠った。》
《確かに僕はこのレコードの背後に〝神〟の存在すら垣間見るような気がする……。》

翌朝も早く起きて、薄明りの中でSaxophone Colossusを聴かれている。

《それから、何週間かは他のレコードを聴く気になれなかった。だから、ターンテーブルの上には、しばらく〝サキソフォン・コロッサス〟が乗せたままになっていたのである。》

いったい、どれだけ集中してSaxophone Colossusを聴かれたのだろうか。

Date: 7月 21st, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・修理のこと)

パイオニアのExclusive F3は、C3、M3と同時発表ではなかった。
M3の次にA級動作のM4が出て、F3の登場は翌1975年だった。

その後、C3、M4は小改良を受け、C3a、M4aになったが、
F3はそのまま製造販売されていた。

いつまで製造されていたのかまでは知らないが、
すくなくとも1980年までは現行製品であった。

最初に製造されたExclusive F3は38年、
1980年に製造されたモノでも33年経過している。

今日、岩崎先生のお宅からExclusive F3をいただいてきたわけだが、
これが故障したら……、どこで修理できるのだろうか、そんなことを思っていたら、
パイオニアでいまでも修理を受けつけてくれることを知った。

Googleで検索してみると、確かに受けつけている。
パイオニアサービスネットワークという会社が、2007年4月に、
「専門性の高いハイエンド製品の修理に特化した拠点を設立し、高品質の修理対応を実施」
を趣旨として設立されていた。

集中修理対象機種として、主にエクスクルーシブ製品、とある。
Exclusive F3も集中修理対象機種リストにはいっている。
ただリストには、Exclusive F3の発売年月が、なぜか1982年11月となっている。

あと二年で発売から40年を迎える製品を、いまでも修理してくれる。
もちろん故障の状況によっては、完全な修理は無理になろうが、
とにかく、こういう体制をつくってくれていることは、ありがたいことである。
すこしでも永くつづいてほしい、と心底おもう。

Date: 7月 21st, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その1)

パイオニアのFM専用チューナー、Exclusive F3の存在を知ったのは、
ステレオサウンド 41号の特集、井上先生の文章によってだった。

Exclusive F3に興味を持つようになったのは、
ステレオサウンド 43号の特集、ベストバイでの瀬川先生の文章を読んでからだった。

なぜ41号で存在を知った時には興味を持たなかったのか。
それはコントロールアンプのExclusive C3、パワーアンプのExclusive M4とともに、
Exclusive F3も一枚の写真におさまっていたのだが、
C3、M4、F3の中では、F3だけデザインで、なにか違う、という気がしていた。

それに瀬川先生も、41号で、
「チューナーの方は、性能は第一級品だと思う。が、デザインがC3、M3、M4の域に達していない。結局、性能と仕上げの両面のバランスのとれているものはC3とM4、ということになる。」
と書かれていた。

C3もM4もシルバーパネルなのに、
なぜかF3だけヒンジパネル内に細かなボタンを収納するという共通点はあるものの、黒を基調としている。
FMチューナーだから、という理由も考えられなくもないけれど、
Exclusiveシリーズの製品として眺めた時に、どこか違和感がある。

Exclusive F3のデザインが違ったものであったら、
ステレオサウンド 41号の時点で、きっと興味をもったと思う。

Date: 7月 21st, 2013
Cate: 岩崎千明, 終のスピーカー

終のスピーカー(2013年7月21日)

Tour de Franceの100大会の初日(6月29日)に、岩崎先生のお宅にはじめて伺った。
Tour de Franceの100大会の最終日の今日、また行ってきた。

意図的にそうしたわけではなく、たまたまTour de Franceの日程と重なっただけ。
今日は岩崎先生の原稿をお借りしてきた。
手書きの原稿が数本、
手書きの原稿をコピーしたものが数本、
それから口述筆記の原稿も数本あった。
その他に週刊FMで連載されていた「カタログに強くなろう」の記事のコピーが揃っていた。
この連載記事の一部はある方から譲っていただいてすでに入力が終っているが、
歯抜けが今回すべて埋めていけることになる。

実は、この他にいただいてきたモノがある。
パイオニアのチューナー、Exclusive F3だ。

外形寸法、W46.8×H20.6×D38.9cm、重量は16.6kg。
これだけの大きさで、受信できるのはFMだけである。

いまFM放送はインターネットを介して聴ける。
音にこだわらなければiPhoneでも聴くことができる。
こうなってきたこの時代に、プリメインアンプ並の大きさと重量のチューナーで聴く。

それはどこか時代錯誤といわれるのかもしれない。
チューナーは一台、なにか欲しい、と思ってはいた。
できればバリコンを使ったチューナーがいい。

インターネットで聴けるものを、わざわざチューナーを介して聴くわけだから、
チューナーならではの音の美しさをもっているモノで聴きたい、
そんなことを漠然と思っていた。
それに別項で「チューナー・デザイン考」を書いている。
そのためにも最高級のチューナーでなくともいいけれど、
すくなくとも手もとに置いときたくなるモノがいい──、
そこにExclusive F3がやって来た。岩崎先生が使われていたExclusive F3である。

Date: 7月 20th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その4)

DE ROSAに乗り始めて、あれこれ試行錯誤していた。
ただ力まかせにペダルを踏んでいけば速く走れるというものではない。

自転車の乗り方は、その意味ではスピーカーの調整とよく似たところがある。
とにかく意識して乗っていると気づくことがある。
なにか自転車に腰のあたりを押されているような感覚があることに気がつく。

そういうときはうまく乗れている時であり、
うまく乗れているときほど、自転車から、もっともっと、というふうに腰を押されている感じを受ける。
つまり、自転車にあおられている、とはこういう感覚である。

この自転車は、もっと速く、もっと遠くまで走れる──、
お前はまだまだ、もっともっと力を出し切れ、そんなふうに感じられるから、
ロードバイクという自転車に乗る爽快感とともに、乗り終ったときにぐったりもする。

自分の好きなように乗ればいいじゃないか、
なにもプロの自転車選手を目指しているわけではないだろう──、
そんなことはわかっている。
そういう乗り方をしよう(つまりポタリング、散歩的な走り方)と思っていても、
体が温まってくると、自転車からあおられて、ポタリングではななくなっている。

「Harkness」におさめられているD130ソロから鳴ってきたSaxophone Colossusにうけた感覚は、
まさにそういう感覚だった。

Saxophone Colossusの鳴り方は、他のディスク(録音)を鳴らした時とは明らかに違う。
その違いは、あおられる感覚であり、挑発されているかのようでもある。

明らかに違う鳴り方とは、いい音であるわけだが、
でも同時に、まだまだこんなもの(レベル)じゃないぞ、
もっと鳴らしてみろ、もっともっと……と、そんなふうにあおられている。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: audio wednesday

第31回audio sharing例会のお知らせ

8月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その6についての余談)

ステレオサウンド 39号掲載の「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」、
ここではトーレンスのTD124とガラードの301がメインで取り上げられていて、
TD224についてもふれられている。

367ページには、岩崎先生、長島先生、山中先生が、
301とTD224をはさんですわられている写真が載っている。

301はキャビネットなしの単体、
TD224はかなり大きめのキャビネットに取り付けられた状態。
このTD224は、私の部屋にいまあるTD224そのものである。
つまり岩崎先生のTD224であり、
中野のジャズ・オーディオで使われていたTD224である。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(S.A.C. その1)

ネットワークによる音楽の配信が、これから先、どう展開していくのか。
正確には予測できない要素がある。
オーディオマニアがほんとうに望む音楽配信は、どれだけ実現されるのだろうか。

権利の問題、利益の問題、その他、業界の外にいる者には伺い知れない理由もあるはず。
それらによって翻弄されていかないとは言い切れない。

今日も、ユニバーサルミュージックに対してソフトバンクが買収を提案した、というニュースがあった。
拒否した、という報道もあり個人的にはほっとしているのだが、
もしソフトバンクがユニバーサルミュージックを買収したとしたら、
音楽配信はどういう方向に進む(流れる)のか……、と考えてしまう。

なんとなくでしかないのだが、オーディオマニアが望む方向とは違ってくるような気もする。
詳細はわからないし、今後どうなるのかもわからない。

巷では、CDに未来はない──、そんな言い方がなされている。
CDはあくまでも、1982年の時点で、デジタルで家庭に音楽(録音)を届ける最初の手段であった。
いまはCDだけが手段ではなくなっている。

遅かれ早かれCDというメディア(手段)はなくなるであろう。
インターネットによる配信がある──、と安心もできない。

昨日までオーディオマニアにとって理想的な配信を行っていた会社があっても、
企業買収により翻弄されてしまう可能性もないわけではない、と、今日の買収のニュースを読んで思っていた。
そして、このソフトバンクによる買収のニュースがきっかけで、
この項(オーディオと「ネットワーク」)にサブタイトルとして、「S.A.C.」をつけて、
なにか書いていけるのではないか、と思ったわけである。

S.A.C.とはStand Alone Complex(スタンド・アローン・コンプレックス)の略である。
「攻殻機動隊」の主人公、草薙素子による造語である。

Date: 7月 18th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その4)

ともかく五味先生はオーディオ評論家ではない。
私は一度たりとも、これまで五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。
オーディオ評論をやる作家だとも思ったことはない。

こんな当り前過ぎることを、こうやって書かなければならないことに、
なんとも表現しようのない気持になってしまう。

安岡章太郎氏は書かれている。
     *
本当のところ五味は、オーディオについての製品テストや消費者リポートの如きものをやっているわけではない。何々印のスピーカー、何々社製のアンプというのは、じつはキカイのことではなくて、音楽を語る言葉の代用としてつかっているにすぎない。五味には、それ以外に音楽を語る言葉がなかったのだ。いや、五味でなくとも、音楽そのものを直接語る言葉などというものがあるだろうか。──言葉が語ることができるのは、せいぜい演奏家の技術や、作曲家のプロフィールといったことぐらいではないか──。繰り返していえば、五味にとって音楽は宗教であり、〝音楽〟を信仰することで自分がよみがえったと信じているのである。音楽を語る言葉がありさえすれば、キカイをうんぬんしたりする必要もヒマもまったくなかったはずである。
     *
いうまでもなく、「〝言葉〟としてのオーディオ」とは、このことである。

誰も「音楽そのものを直接語る言葉」はもっていない。
岩崎先生も瀬川先生ももっていない。

もっていないこと、もつことができないこと、
それを生み出すこともできないのであれば、「〝言葉〟としてのオーディオ」を意識せざるを得ない。

だが、どれだけの人が、そのことを意識しているといえるだろうか。
五味先生の他に、誰がいたのか。
瀬川先生、岩崎先生はそうだったと、私は思っている。

Date: 7月 18th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その3)

インターネットが普及し、匿名での発言が簡単に行えるようになったことも関係している、とは思っているが、
とにかく、驚いたことは、五味先生のことをオーディオ評論家、もしくはオーディオ評論もする作家、
そんなふうにとらえている人がいた、ということである。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌に、連載をもっていたからオーディオ評論家なのか。
その短絡的思考には驚くしかないのだが、
もっと驚くのは、五味先生をそう捉えている人がどうも少なくないことである。

五味先生とは直接関係のないことなのだが、
これに関連することで私が最近驚いたのは、ステレオサウンド 186号の特集だった。
タイトルは「ほしくなる理由、使いたくなる理由」であり、
サブタイトルとして「評論家11人のオーディオコンポーネント選択術」とついている。

11人が登場している。
だが、この11人すべてをステレオサウンドはオーディオ評論家としているのか。
そのことに意外な感を受けた次第だ。
確かに11人のうちの多くは、ステレオサウンドでオーディオ評論家として執筆されている。
彼らが、本当の意味でオーディオ評論家なのかどうかを、ここで問いたいわけでなく、
その人たちのことをステレオサウンドがオーディオ評論家とすることには、特に異論はない。

けれど数人の方たちは、ステレオサウンドにときどき執筆されているけれど、
私の認識ではオーディオ評論家ではない、音楽評論家であったり、オーディオ愛好家であったりする。

ステレオサウンド 186号の特集に、
オーディオ評論家ばかりでなく、音楽評論家、オーディオ愛好家が登場するのはいい、と思う。
けれど、オーディオ評論家とそうでない人たちの境界を曖昧にしてしまっている。
なぜ、こんなことを編集部はしてしまったのだろうか。

ここにも、編集部の「言葉」に対する感覚が滲み出ている。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その2)

 この本の『オーディオ』巡礼という書名は、まことに言い得て妙である。五味康祐にとって、音楽は宗教であり、オーディオ装置は神社仏閣というべきものであったからだ。
     *
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評は、この書き出しではじまっている。
この書き出しは憶えていた。
そして、どんなことを書かれていたのかも、今回読みなおしてみて、
割と憶えていることを確認できた。
にも関わらず、大見出しとなっている、〝言葉〟としてのオーディオ、
この部分だけをなぜだか見落していたのか、それとも記憶の片隅に追いやってしまったのか、
とにかく、大事なことにいままで気づいてこなかった……、
そういう気持をつよく感じた。

安岡章太郎氏の書評の中に、「〝言葉〟としてのオーディオ」がそのまま登場するわけではない。
この「〝言葉〟としてのオーディオ」が、安岡章太郎氏自身によるものなのか、
ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。

どちらでもかまわない。
「〝言葉〟としてのオーディオ」は、こうやって毎日ブログを書いている私にとって、
ほんとうに多くことを考えさせる。
だから、その意味では、今回、改めて「〝言葉〟としてのオーディオ」に出合えて、よかった。

ステレオサウンド 56号は1980年の9月に出た号だから、
私は当時17だった。
オーディオに夢中になっていたし、オーディオ関係の仕事につきたいと思うようになっていたころではあった。
でも、オーディオについての文章を書いていたわけではない。
そんなときの私には、まだ「〝言葉〟としてのオーディオ」の持つ意味を、
どれだけ理解できたか、はなはだあやしい。

そして、「〝言葉〟としてのオーディオ」は、
当時よりも現在において、その重みを増している。
それはなにも私だけにおいてにとどまらず、広い意味において、そうである。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その1)

ひとつ確かめたいことがあって、ステレオサウンド 56号を手にとった。
確認はすぐにできた。やっぱりそうだった、という感じだった。

せっかく手にとった、ひさしぶりの56号だから、
パラパラと頁をめくっていた。
56号は、かなり熱心に読んだ号である。
瀬川先生によるJBL・パラゴンの記事、
「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法 あるいはグレードアップ法」というタイトルの記事、
トーレンス・リファレンスの記事、ロジャース・PM510の記事の他にも、
黒田先生の「異相の木」が載っているし、
この他にも……、ひとつひとつあげていったらかなりの数になってしまうので、
この辺にしておくが、とにかく1980年に出た4冊のステレオサウンドで、
もっともくり返し読んだのは、56号であることは間違いない。

だから、この記事も読んでいた。
確かに読んでいた。
それでも、なぜか、この記事の大見出しは記憶から消えてしまっていた。

426ページに載っている。
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評である。

ここには大見出しとして、こうある。

〝言葉〟としてのオーディオ

この短い見出しに気づき、
いいようのない感覚におそわれた。
そして、なぜ、この、〝言葉〟としてのオーディオ、をいままで見落していたのか。
自分のうかつさを反省していた。