Archive for 12月, 2011

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その11)

なぜ、そのような使い方をするのか。

その前に、同じJBLのスピーカーシステム、ハークネスのことを書きたい。
ハークネスは、いまでも「欲しい!」という気持がつづいている。
ステレオサウンド 45号の連載記事「サウンド・スペースへの招待」を読んだときから、
ずっとその気持は続いている。
ときに強くなったり、かすかになったりしながらも、1977年から持ち続けている気持だ。

この号の「サウンド・スペースへの招待」の副題には「木に薫るハークネス」とついている。
紹介されているのはデザイナーの田中一光氏のリスニングルーム。
このときの田中一光氏のシステムは、
スピーカーシステムは、もちろんJBLのハークネス(001 System)、
コントロールアンプはマッキントッシュのC22とマークレビンソンLNP2L、パワーアンプはマランツの510M、
プレーヤーはヤマハのYP800でカートリッジはピカリングXSV/3000。

ステレオサウンド 45号が手元にある方はぜひひっぱり出して見てほしい、と思う。
こんなにハークネスが見事に部屋に収まっているのを見た14歳の私は、ずっと憧れてきた。

ハークネスというスピーカーシステムは、美しい、と思う。
けれど、他のJBLのスピーカーシステム、
たとえばハーツフィールド、パラゴン、オリンパスと比較すると、
エンクロージュアはバックロードホーンではあるものの、サランネットをつけた状態ではそのことは判らない、
四角い箱でしかない。

金属製のテーパーのついた細い脚、
シックなサランネットもフラットではなく中心から両端にかけて奥に引っ込んでいる。
JBLのスピーカーシステムの中で、モダーンデザインの成功例だと思う。

そういうハークネスだから、
ハーツフィールド、パラゴン、オリンパスに見られるような家具的要素・側面は希薄であり、
通常のスピーカーシステムと同じように内側に振って設置するという使い方もある、と思うし、
田中一光氏の、見事な使い方もある。

田中一光氏のハークネスの使い方は、家具として扱われている。
そのことを意識されていたのかいなかったのかは、「サウンド・スペースへの招待」を読んでもわからないが、
氏のリスニングルームの写真を見れば、
ハークネスが家具として、あるべきところに収まっている、としかいいようがない。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その10)

タンノイのRHRを聴くとき、サランネットは、ではどうするか。
どちらでもいい、と思う。
聴く音楽によって付けたり外したりしてもいいし、音量によっても付けたり外したりして、
自分によって、そのときの自分にとって好ましい方をその都度選択していく、という使い方でいい、と思う。
それに鳴らしはじめのころと、使い始めて1年後、3年後、5年後、10年後……によっても変ってくる。
かたくなにどちらに決めてしまって使うよりも、その方がいい。
サランネットの脱着は簡単に行えるし、RHRはフロントバッフルも仕上げてあるから、
サランネットを外した状態でも外観的に気になるわけでもない。

ではオリンパスは、どうかというと、これはもうつけた状態で聴くしかない。
組格子を外した状態の音が、付けたときの音よりもずっとずっと好ましいとしても、
オリンパスというスピーカーシステムを使うのであれば、あの組格子は外したくない。

組格子を外したオリンパスの外観も、精悍といえなくもないが、
それでもオリンパスは組格子付きの状態こそがオリムパスというスピーカーシステムを成立させている。
オリンパスを組格子なしで聴くのであれば、
いっそのこと、ほかのスピーカーシステムにした方がいいとさえ、私は思う。

そう私に思わせるのは、オリンパスに家具的側面を強く感じているから、でもある。
オリンパスを使ったことはないし、これから先も自分のモノとして使うことはないはずだ。
それでも、もし使う機会がおとずれたとしたら、オリンパスを家具として映える位置に設置するだろう。
そこが音的にはあまり芳しくないとしても、
オリンパスというスピーカーシステムの正しい使い方のひとつ、と思えるからだ。

使い方と使いこなしは似ているようで、違う。

オリンパスは、家具的側面のない現代のスピーカーシステムのようには、角度を付けて設置したくはない。
つまり聴取位置に向けて内側に振りたくはない。
まっすぐ向くように設置したい。
理由は前述しているとおり、映えるようにしたいからだ。

ステレオ再生のために2台のオリンパスをどう設置するのが、もっとも映えるのかを考えれば、
私にとってのオリンパスの設置はこうなってしまう。
そして内側に振るのをやめるだけでなく、
できるだけ左右に広げて、それも部屋のコーナーぎりぎりまでに寄せた方が、より収まりがいいはずだ。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その9)

だからといって、すべてのスピーカーシステムのサランネットを外して試聴していたわけではない。
基本的にフロントバッフルがきれいに仕上げられているスピーカーシステムは、
サランネットを外した状態を標準として試聴していた。
国産のスピーカーシステムは、ブックシェルフ型もフロアー型もフロントバッフルはきれいに仕上げられている。
一方、イギリスのBBCモニター系列のスピーカーシステムとなると、
スペンドール、ハーベス、ロジャースのスピーカーシステムをみればわかるように、
エンクロージュアの側板、天板(機種によっては裏板)はツキ板仕上げでも、
フロントバッフルは黒色の塗装というものが多かった。
この種のスピーカーシステムはサランネットを装着した状態での音づくりをしていることが多く、
実際に音を聴いてもサランネットありの音が好ましく思えることが多い。

サランネットをつけた音か、つけない音かは、メーカーによって違う。
それに開発時期によっても違っている。
外した常態化つけた状態か、その音の判断は、そのスピーカーシステムを使う人が判断することであって、
フロントバッフルが黒塗装のスピーカーシステムでもサランネットを外した音が好ましいと感じるのであれば、
外して聴いた方がいいと思うし、
サランネットがない音のほうが気に入ったとしても、スピーカーユニットが見えるのが嫌だという人もおられる。

こういう例もある。
タンノイのRHRはバックロードホーンのエンクロージュアで、
フロントバッフルと呼べるほどの面積はないもののきちんと仕上げてある。
とはいってもサランネットを外して聴くスピーカーシステムなのかといえば、
サランネットの裏側をみると、そうともいえない。

サランネットにカーヴをもたせるために小孔がいくつもあけられたパンチングメタルが、ネットの裏にある。
これを叩いてみるとけっこうな音がする。
それに小孔を音が抜けるときにも、そのことによる固有音が発生する。

こんなものがスピーカーユニットの前にあったら音質が劣化する──。
たしかに劣化する、といえるし、劣化ではなく音の変化でもあると、この場合はいえる。

タンノイはあえて、こういうサランネットを作ったのであろう、と思っている。
サランネットにカーヴを持たせるには、ほかのやり方がいくつかあったはず。
それでもパンチングメタルを使っている。
小孔、といえば、タンノイの同軸型ユニットの特徴でも、多孔型イコライザーがある。

JBLやアルテックのコンプレッションドライバーがリングスリット状のイコライザーを採用しているのに、
タンノイは一貫して細い孔を、スロートから見て放射状に広がるようにあけたタイプとなっている。

RHRのサランネットの裏側をみたとき、タンノイがあえてこういう構造にしたのは、
多孔型イコライザーとの関連性からかもしれない、と思った。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その8)

私がオーディオに興味をもちはじめた1976年は、まだ組格子のスピーカーシステムが現役であった。
学生だった者にとって、もっとも身近な組格子のスピーカーシステムといえば、
サンスイがJBLのLE8Tを採用したSP-LE8Tだった。

1976年にはすでに製造中止になっていたけれど、
JBLのオリンパスは、私にとっては見事な組格子のスピーカーシステムという印象が、まず最初にある。

オリンパスもSP-LE8Tもエンクロージュア自体は基本的に四角い箱である。
オリンパスはひさし状になっているし、組格子の上からみるとコの字型になっていて、
組格子といってもSP-LE8Tのものとは大きさも造りの立派さも違う。

当時、中学生で4343に惹かれていた若造の目には組格子そのものが、実のところ古臭いイメージとして映っていた。
SP-LE8TはLE8Tそのものに関心があったため、早く聴いてみたい、と思っていたものの、
オリンパスに関しては、立派な外観のスピーカーシステム、という印象以上のものが持てずに、
聴いてみたいスピーカーシステムのリストにははいっていなかった。
それに、あの頃は、いま、こうやって書いているように、
オーディオが家具だった時代があった、とは思ってもいなかった。

けれど、いま家具としてオーディオ機器をとらえようとすると、
オリンパスは、家具としてみることができるスピーカーシステムといえる。

オリンパスをそううけとっているのは、組格子の存在である。
もしオリンパスが組格子ではなくエンクロージュアの形状、仕上げはそのままで、
ほかのスピーカーシステムと同じようにサランネットだったら、
たとえそのネットの布地に気を使い良質の素材を使っていようと、色も慎重に決めていたとしても、
オリンパスを家具とは見れなかった、はずだ。

オリンパスのトレードマークといえる組格子だが、
音的に見た場合、スピーカーユニットの前に、けっこうな厚みの木でできた組格子は障害物となる。
布だけのサランネットでさえ、音の透過性が問題になり、
サランネットをなくしてしまったスピーカーシステムが出てきているし、
1980年代でも、ステレオサウンドの試聴室では、
大半のスピーカーシステムの試聴時にはサランネットを外していた。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その7)

QUADのESLとESL63の重量はカタログ発表値ではどちらも18kgといっしょである。
なのにESLには持運び用の把手といえるものがあるのに対し、ESL63には把手に相当するものはついていない。
ESL63Proには両サイドに持ち運びに便利なバンドがついているが、
これはモニタースピーカーとして、
スタジオだけではなくコンサートホールなど録音会場に持ち運ぶことを考慮してのものであり、
家庭用スピーカーシステムとしてのESL63には、把手もバンドもついていない。

そしてESL63はESLのようにパネルヒーター的な外観ではない。
ESL63本体を覆っているのは布地のネットである。存在を目立たせないようにか、色もブラウンとなっている。
オーディオにまったく関心のない人だと、すぐにはスピーカーだとはわからないかもしれないESL63だが、
だからといってなんらかの家具に見えるわけでもない。

なぜESL63には把手が付いていないのか。
それは(その6)で書いたことのくり返しになるが、ステレオ再生では2台のスピーカーの位置は、
モノーラル再生よりもずっと重要で厳密になってくる。
だからリスニングルームにおける最適の位置探しが──それも片方だけではなく2台のスピーカーに対して──、
モノーラルでスピーカーシステムが1本だけのころよりもずっと大変で難しい。
そうなってくると、もうスピーカーシステムを音楽を聴かないときにはどこかに移動したり仕舞っておくものではなくなる。

ESL63に把手がなくなったのはステレオ用スピーカーシステムとして最初から開発されたものであるということ、
だから中高音域においては電極を同心円状に配置してディレイをかけることで球面波をつくり出そうとしている。

1981年に登場したESL63は、すでに音を奏でる家具ではなくなっていた。

他のスピーカーシステムはどうだろうか。
家具というイメージにぴったりなのは、やはりJBLのパラゴンがまず浮ぶ。
パラゴンに関しては、別項できちんと書いてみたい。
パラゴン以外のJBLのスピーカーシステムはどうだろうか。
オリンパスやハークネスは、どうとらえることができるか。

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 書く

毎日書くということ(このブログとは)

毎日書くということ、について、何本か書いてきた。
そのときは、タイトルの通り、毎日書くという行為についての自問であり、その答えだった。
今日ふと思ったのは、そうやって毎日書くという行為による、
この、audio identity (designing)というブログそのものは、いったい私にとって何なのか、という自問だった。

わりとすぐに答えは返ってきた。
これは「墓」なんだ、と。

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その6)

QUADのESLをつかったことのある人ならば気づかれていると思うが、
ESLの後側丈夫にある木製フレームの中央は、わずかだかふくらんでいる。
ちょうど手のかかるくらいの幅で、ふくらんでいる。
しかもその部分のESLの裏側を覆うパンチングメタルは、このあたりがわずかだか凹みがもうけられている。
つまり、木製フレームのでっぱり(ふくらみ)は、ESLを持ち運ぶための把手のようなものといっていい。

ESLはモノーラル時代に登場したコンデンサー型スピーカーシステムである。
QUADのESL以前にコーナーリボンと呼ばれていた、
その名の示すとおりコーナー型のスピーカーシステムを出していた。
それにESLはパネルヒーターに似たパンチングメタルが前面を覆っている。

これらのことから、少々強引に推測すれば、
QAUDは、少なくともスピーカーシステムを家具としてもみていた、と思われる。
だから最初のスピーカーシステムはコーナー型、
つづくESLは動作原理上、構造上からもコーナー型とはできないけれど磁気回路を必要としないESLの重量は軽い。
片手で持てる重量しかない。
しかも裏側に把手がついている。

これはもう聴かないときはESLは部屋の隅、もしくは邪魔にならないところ、
目につかないところに片付けておくことを前提としているのでないだろうか。
日本のちゃぶ台に似た考えともいえる。

ステレオであれば2台のESLを必要として、その位置関係の問題もあるため、
聴かないときはどこかにしまっておき、聴くときに所定の位置にESLを設置する、というのは、
正直めんどうな作業になってくる。
シビアに聴こうとすればするほど、簡単に持ち運びできるESLであっても、だ。

だがモノーラル再生であればESLは1台ですむ。
その1台のESLだけを聴くときは目の前に持ってくればいい。
ここにはステレオ再生に要求される2本のスピーカーシステムの厳密な位置関係は求められないから、
今日は少し大きめの音で聴きたいな、と思えば、ぐっと近くにもってきれるのもいいし、
なんとはなしに小音量でバックグラウンド的に鳴らしたいのであれば、
それほど前に出してこずに鳴らす、という自由度もある。

こんな使い方をピーター・ウォーカーが考えていたのかどうかは、はっきりしない。
でも実際にESLを使ってみると、どうしてもそういう意図があったように思えてならない。
そして、やはりこれはESL、つまりはスピーカーシステムを家具とみている、
もしくは家具に似せた、家具と錯覚するようなものにしたかったから、ではないのか。

そして、この点が、ESLとESL63の大きな違いともいえる。

Date: 12月 21st, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その5)

アクースティック蓄音器を、音を奏でる家具としてとらえてみた場合、
モノーラル時代に数多く登場してきたコーナー型のスピーカーシステムも、
家具としての見方が可能なようにも思えてくる。

アクースティック蓄音器に電気が加わり、いわゆる電蓄になり、
さらにそれまでひとつにまとめられていた構成パーツが単品パーツとして独立していく。
SPがLPになり、その傾向はますます強くなっていく。
もちろんこの時代にも電蓄と呼ばれるモノはあったし、その頂点にあるのがデッカのデコラであり、
デコラが、オーディオが家具だった時代の最後ともいえるだろう。

電蓄から、プレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが独立して存在していくことで、
オーディオ(蓄音器といったほうがいいだろう)が家具だという印象も、同時に解体されていったのであろうが、
それでもスピーカーシステムに関しては、その大きさ、存在感からなのか、
まだまだ音を奏でる家具という印象が色濃く残っていた、と私は思う。

モノーラルLP時代の、いま名器と呼ばれているスピーカーシステムの多くはコーナー型である。
コーナー型である理由は、
部屋のコーナーをホーンの延長として利用して低音域の再生の拡充をはかることである、となっている。
たしかにオーディオ的・音響的にはそうであろうが、
家具としてスピーカーシステムをとらえた場合には、
それはコーナー型というのが必然的な形態ではなかったのか、と思えてくる。

タンノイのオートグラフ、JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
その他にも同時代のコーナー型スピーカーシステムはみな大型。
1954年にARのスピーカーシステムがワーフェデールの大型スピーカーシステムを公開試聴で負かすまでは、
充分な低音域を確保するためには大型化するのはさけられなかった。

大型であれば、それだけ部屋にあれば目につくことになる。
スピーカーシステムは音を鳴らさないときは、ほとんど何の役に立たない。
箱なのに、なにかを収納出来るわけでもない。
そんなモノが部屋の中にごろんとあったら、オーディオに関心のない家人はどう思うだろうか。
邪魔物でしかないはずだ。

だから大型スピーカーシステムほど、できるだけ部屋の中にあっても邪魔にならない場所、
つまり部屋のコーナーに、いわば押し遣られる。
そして家具として美しくなければならない。
これらの要求から生れてきたのが、
ハーツフィールドであったり、オートグラフ、パトリシアンなどのコーナー型スピーカーシステム──、
こんな想像も成りたつのではないかと思うのだ。

Date: 12月 20th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その53)

まだオーディオブームが続いていた1970年代後半とはいえ、
東京ほどにはあれこれいろんなオーディオ機器を聴ける(聴けた)というわけではない。
意外なモノが聴けた反面、意外なことではあるがGASのアンプを聴く機会は、田舎に住んでいたときはなかった。
だから、GASのアンプの音については瀬川先生の書かれたものが、私のなかでの評価そのものになっていた。

当時、瀬川先生はGASのアンプを、男性的な音と評価されていた。
もちろんいい意味での表現であるのだが、
それに続けて「私自身はもう少し女性的なやさしさや艶っぽさがなくては嬉しくなれない」とつけ加えられていた。
GASのアンプは線の細さを強調することはないことが、まず伝わってくる。
そして力に満ちた表現力をもっていることも。

まだ10代だった私は、アンプの音をまず音色でとらえていた。
もちろんその前提としてクォリティの高さはあるのだが、
あるクォリティをこえたアンプに対して、それについて書かれたものを読んで頭の中にイメージしていたのは、
くり返すが、そのアンプの音色についてだった、といえる。

音色的要素に気をとらえがちであったわけだ。
だからHIGH-TECNIC SERIES 3の井上卓也・黒田恭一・瀬川冬樹、三氏によるトゥイーターの鼎談を読んだとき、
つまり2405とT1について語られているのを読んだとき、
マークレビンソンとGASという対比は浮んでいなかった(GASのアンプを聴いていなかったことも関係しているが)。

けれど、いまは違う。
2405とT1について、井上先生は2405はトランジスターアンプの音、T1は管球アンプの音に喩えられていることは、
この項の(その48)に書いている。
井上先生がT1を管球アンプにたとえられたのは、音像が立体的に定位するからである。

じつは、出来た管球アンプがもつ、この良さはトランジスターアンプに移行したときに失われてしまった、
と私は思っている。
マークレビンソンのLNP2は新しいソリッドステートアンプ(トランジスターアンプ)の代表的な存在である。
それまでの管球アンプでは出し得なかった領域をLNP2がはじめて提示してくれた、といっても言い過ぎではない、と思う。
トランジスターアンプの可能性を、新しい音とともに表現したLNP2ではあるが、
その可能性は、トランジスターの可能性の、いわば半分だけだったようにも、いまは思う。
トランジスターの、もう半分の可能性を、やはり新しい音とともに表現した最初のアンプは、
実のところ、GASのThaedraとAmpzillaのはずだ。

Date: 12月 20th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その52)

思ってもどうにもならないことだけど、10年早く生れていたら、と思うことがないわけではない。
10年早く生れていていたら、1976年の10年前、1966年ごろからオーディオに興味をもっていたら、
トランジスターアンプの進歩を実際に音で体験していけたであろうし、
4チャンネル再生も同時代で体験できたはずだ。

1976年にはマークレビンソンもすでに登場していたし、SAEもAGIもGASなど、
真空管アンプ時代からソリッドステートアンプへ移行してきたマッキントッシュやマランツとは違う、
最初からソリッドステートアンプで名を挙げてきたメーカーが、すでに存在していた。

瀬川先生がJBLのSA600をはじめて聴かれたときの昂奮、
そしてマークレビンソンのLNP2をはじめて聴かれたときの驚きと、早く聴かなかったことの後悔、
こういったものは蓄音器の時代から、モノーラルからステレオの時代、
真空管アンプからソリッドステートアンプの時代、
そのソリッドステートアンプにしても初期のアンプと1970年代後半以降のアンプとの違い……、
そういったことを自分の耳で同時代に体験してきたからこそのものであり、
私が初めてLNP2を聴いたときの昂奮とは、まったく違うものであり、
こればかりは早く生れて早くから体験してきた人には(たとえ才能やセンスが同等であっても)かなわない。

マークレビンソン、SAE、AGI、スレッショルド、GASなどは、
いわば新しいソリッドステートアンプ(トランジスターアンプ)といえるし、
ステレオサウンドにも、この時代、そういうふうに紹介されていた。

とはいえ、この新しいトランジスターアンプの中でも、
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 3でのトゥイーターの試聴におけるJBLの2405とピラミッドのT1に、
それぞれあてはまるのが、2405にはマークレビンソン、ピラミッドT1にはGASである。

Date: 12月 20th, 2011
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと

五味康祐(1921年12月20日 – 1980年4月1日)

Date: 12月 19th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その45)

もう少し五味先生の文章を引用する。
     *
ノイマンのカッティング・ヘッドは、ステレオ・プレザンスの良否を決定するクロストークが、従来のものでは百ヘルツ〜一万ヘルツで20dB(デシベル)であったのに競べ、四十〜一万六千ヘルツ全域にわたって、35dB以上と、群を抜いているそうで、某社の技術者も、今までは高音域の音はコワくてゲインをあげてはカッティングできなかったが、ノイマンの新製品(SX68)では、安心して出せると、その優秀性を強調していた。ソニーさんが絶賛するのは当然なのである。それでいて、音が悪いのには、私の場合は理由があるらしい。
 じつはそのマスター・テープをカッティングするときに、技術者は「ハイを落とさせてくれ」と言った。一万五千ヘルツ以上はカットし、低いほうも四十ヘルツ以下は、切り捨てる。そのかわり七、八千ヘルツあたりを3dBあげる、そのほうが耳あたりがよくなる、と言うのである。
 私は、SX68の機能を全幅に信頼するなら、そういう小細工は意味がないだろうし、ご免だと断った。高低音域とも、マスター・テープのままにカッティングしたい、そのほうがさぞよかろう、とシロウト考えで思ったわけだ。結果は、見事、裏切られた。専門家は職人気質で、どの音域をどの程度もち上げ、あるいは落とせば、どのようにレコードとして快く鳴るかを知っているわけだ。最新式のカッターをもってしても、レコードの《いい音》は、まだ、現場で働く人の、長年の体験による〝音作り〟をまたねばならない。手前勝手な想像だが、ソニーさんには最新式のカッターはあっても、それを扱う現場人——体験者に人を得ないから、シロウトの私に似たあんな過信で、音のよくないレコードを作ったのではなかろうか、そう思ったくらいである。
 念のため、同じマスター・テープをスカーリーのカッターでもカッティングしてみた。ノイマンでもう一度、現場の人の任意にカッティングされるのと聴き比べてみた。明らかにノイマンとスカーリーでは音が違う。同じマスター・テープで作られるレコードが、カッターによって、あるいはカッティングする技術者の腕によって、優れた周波数特性を刻んだからかならずしもいい音に鳴るとは限らないし、またカッターが変わればマスター・テープそのものまで別物に思えるほど音は違ってくることを、かくて、この耳で私は知ったのである。つまり優秀なカッティング・マシンを使ってさえ、音色を左右するのはマシンではなく、まだ人間の耳──音楽的教養のある耳なのである。
     *
これを読んで、カッティング時にカッティング・エンジニアが音をいじっていることを、
意外に思われる方もおられるかもしれない。
私は、オーディオをはじめるときに、この文章を読んでいたから、
カッティング時にイコライジングされるのは、あたりまえのこととして、ずっと受けとめていた。

でも、この話をすると、えっ、という表情をされる方がいる。
レコーディング・エンジニアがマスタリングを終えたテープ、
つまりカッティングに使うマスターテープは神聖にして侵すべからずもので、
レコーディング・エンジニアがいじるのならともかく、
録音に携わっていないカッティング・エンジニアが音をつくる(いじる)のは認められない、と思われる方もいよう。

でも、現実にはカッティング時にも、カッティング・エンジニアならではの音づくりがなされているのが現実である。

ならば、なぜレコーディング・エンジニアはカッティング時のカッティング・エンジニアの音づくりをみこんだ上で、
マスターテープを仕上げないのか。
そうしていればカッティング・エンジニアはそのまま忠実にカッティングすればいいことになる。
けれど、現実にこれを行っているレコーディング・エンジニアはいないのではないだろうか。

Date: 12月 18th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その43・余談)

輸入盤よりも音がよいと感じた国内盤LPは、私にもあった。
挑発するディスク」でとりあげたカザルスのベートーヴェンの交響曲第七番がそうだ。

カザルスのベートーヴェンを最初に聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室。
そのLPはCBSソニーのもので、日本でのカッティング、日本でのプレスである。
ジャケット裏には、ノイマンのカッターヘッドSX74でカッティングしたことが書かれてあったように記憶している。
カザルスの演奏についての解説は宇野功芳氏だった。

そこにはこんなふうなことが書いてあった。
カザルスの演奏によるベートーヴェンは触れれば切れる、と。

宇野功芳氏の書かれるものについては意見がわかれよう。
私はどちらかというとあまり読まないようにしている。
けれど、このカザルスのベートーヴェンの演奏については、素直に同意する。
まさに、触れれば切れる、そういう印象なのだったから。

カザルスのベートーヴェンのレコードは、当時日本盤しか入手できなかった。
数年後、西ドイツ盤が入手できた。
いわゆるオリジナル盤はアメリカ盤なのだろうが、とにかく輸入盤で聴ける、と、
西ドイツ盤を手に入れたときはうれしかった。
さっそく聴いてみた。

たしかに鳴ってきた音は五味先生の言われるとおり、
「高音域のつや、かがやき、気品、低音部の自然なやわらかさ」においてCBSソニー盤よりも優っていた。
けれど、私がカザルスのベートーヴェンを最初に聴いたときに打ちのめされたものが、かわりに稀薄になっていた。
宇野氏のいう、触れれば切れてしまう感じが薄い。

音色の美しさは西ドイツ盤に軍配をあげる。そのくらいの差異があった。
けれど聴きたいのはカザルスのベートーヴェンだ。
ほかの指揮者のほかのオーケストラのベートーヴェンであれば、西ドイツ盤の音をすなおによころんで選択した。

おそらくCBSソニーのカザルスのLPは、送られてきたマスターテープのコピーをそのまま、
いわゆる音づくりなどいっせいせずにカッティングした、そんな印象を抱かせるような音である。
とにかくマスターテープのコピーにできるだけ忠実であろうとしたことが、
カザルスのベートーヴェンに関しては、ある部分とはいえ、うまい具合に働いていたのではないだろうか。

いまカザルスのベートーヴェンはCDで入手できる。
七番だけでなく八番もおさめられている。
この八番も私は、カザルスの演奏で聴くのが好きである。

だがCDには不満がある。それは七番の第三楽章と第四楽章のあいだにわずかな時間とはいえ空白がある。
スタジオ録音であればまったく気にならない、この空白が、
ライヴ録音のカザルスのベートーヴェンでは致命的に近いまずさではないか、といいたくなる。
第三楽章と第四楽章はつづけて演奏するように指示されているはず。
それにライヴ録音だから演奏会場のバックグラウンドノイズも収録されていて、
そのノイズがいったん途切れてしまう。これでは感興がそがれてしまう。

この点でも、CBSソニーのLPは、カザルスの熱気、オーケストラの熱気、それに聴衆の熱気を伝えてくれる。

Date: 12月 18th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その44)

これについては、少し長くなるけれど五味先生の文章を引用しよう。
     *
たとえば、ソニーが最近さかんに宣伝しているレコードがある。ノイマン社の最新型カッティング・マシンとカッティング・ヘッド、およびこれらを駆動かつ制御するトランジスター・アンプのトータルシステムによるもので、これによって「カッティング時の“音作り”を不要とし、マスター・テープそのままの音をディスクに忠実に再現する」と言っている。私のところにもそんなレコードが宣伝用に送られてきたが、さて鳴らしてみると、さっぱり音はよくないのだ。ソニーともあろうものが、こんなアホウなレコードをなぜ宣伝につかうのか、ふしぎでならなかった。
 そこで、同じノイマンのカッティング・マシンを購入している某社へ行って、私自身、レコードを録音してみたことがある。私はシロウトである。しかしシロウトでも技術者に介添えしてもらえば、カッティングぐらいはできる。ソニーの宣伝文句ではないが、〝音作り〟は今や不要なのだから。そしてカッティングと同時に刻々その音を再生し、モニター・スピーカーで聴けるようにマシンはできているが、これで聴くと「マスター・テープそのままの音」では断じてなかった。こんなものを「そのまま」とはよほどソニーの技術者の耳は鈍感なのか、と思ったくらいだ。
 さてそうしてカッティングしたレコード(私の場合はラッカー盤)をわが家へ持ち帰って聴いてみたが、おどろいた。さっぱりよくない。ソニーの宣伝用レコードと等質の、いやらしい音だった。念のために知人のジム・ランシングのパラゴンで聴いてみたが、やはりよくない。別の知人のアルテックA7でも鳴らしたが、よくない。
 ことわるまでもなく、市販のレコードは、カッターで直接カットしたラッカー盤を原盤とし、これをメッキし、再度プレスしたものである。私のラッカー盤は、これらの二工程を経ていないから、理論的には、よりマスター・テープに忠実といえるだろう。それがどうして悪い音なのか?
     *
頭の中だけで考えるならば、
マスターテープに記録されている信号をできるだけいじらずそのままにストレートに音溝として刻むことが、
いい音を得ることの唯一の方法のように思えなくもない。
だが、現実にはどうもそうではないことを、
私はオーディオをはじめると同時に、「五味オーディオ教室」で読んでいた。

実は、五味先生のいわれていることを同じことを菅野先生からなんどか聞いたことがある。
ステレオサウンドにいたころの話だから、1980年代のころだ。
マスターテープで聴くよりもレコードにして聴いた方が音はいいんだよ、と言われていた。
このことは1980年代のステレオサウンドの「ベストオーディオファイル」の中でも語られていたと記憶している。

俄には信じられない人もいよう。
あらためて言うまでもなく菅野先生は長年レコードの現場におられた。
その菅野先生の言葉だからこその重みがある。

Date: 12月 18th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その43)

ハーフ・スピード・カッティングのほうが通常スピードのカッティングよりも、
マスターテープにより忠実に音溝を刻んでいけるように、頭の中ではそう思える。
おそらく間違っていないはず。
それでも……、という気持がつねにあるのは、「五味オーディオ教室」を読んできたこと、
そのことが私のオーディオの出発点になっているからでもある。

「五味オーディオ教室」のなかに、国内盤と輸入盤の音の異なることについての章がある。
輸入盤と日本プレスのLPとでは
「高音域のつや、かがやき、気品、低音部の自然なやわらかさ」に歴然たる差異がある、と書かれている。
瀬川先生も「虚構世界の狩人」のなかの「ふりかえってみると、ぼくは輸入盤ばかり買ってきた」に、
まったく同じことを書かれている。

だから極力輸入盤ばかりを買うようにしていた。
どうしても入手できない盤にかぎり、国内盤を買うことはあったが、それでも輸入盤をあきらずにさがしていて、
見つけたら購入するようにしていた。

それでも、五味先生は輸入盤と国内盤の音の差異について語られているところで、
まれに「国内プレスのほうがあちら盤より、聴いて音のよい場合が現実にある」とも書かれている。

マスターテープは本来1本しか存在しない。
国内録音の場合は日本にマスターテープがあるけれど、
海外のレコード会社による録音の場合、
イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどのレコード会社にマスターテープは保管されていて、
日本のレコード会社に送られてくるのは、そのマスターテープのコピーであるのは周知の事実である。
そうやって送られてくるマスターテープのコピーには、ずさんなものもあるらしい。

それでも国内盤のほうが音のよいことがあることについて、
五味先生は書かれている──、
「マスター・テープのもつ周波数特性の秀逸性などだけでは、私たちの再生装置はつねにいい音を出すとは限らぬ」と。

なぜそういうことが起りうるのかは、「五味オーディオ教室」のなかに、やはり書かれている。