Archive for 12月, 2010

Date: 12月 21st, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その15・余談)

オーディオクラフトの社長は、花村圭晟氏だった。
花村氏とお会いしたことはない。
けれど、どういう経歴の人であったかは、なんどかきいたことがある。

瀬川先生はステレオサウンド 58号に次のように書かれている。
     *
社長の花村圭晟氏は、かつて新進のレコード音楽評論家として「プレイバック」誌等に執筆されていたこともあり、音楽については専門家であると同時に、LP出現当初から、オーディオの研究家として長い経験を積んだ人であることは、案外知られていない。日本のオーディオ界の草分け当時からの数少ないひとりなので、やはりこういうキャリアの永い人の作る製品の《音》は信用していいと思う。
     *
菅野先生も、花村さんは、ぼくらの大先輩だ、とおっしゃっていた。

この花村氏の名前を、なぜか、なんら関係のない人が名乗っていることを、数年前に知った。
花村圭晟から一文字だけ削った、そんなまぎわらしい名前で、
オーディオ、ジャズについて、あれこれ言っている人だ。
本名はまったく違う人だ。

詳細は伏せておくが、そのことでオーディオ関係者が憤慨されていたことも知っている。
そのときの名前の使い方からすると、あえて利用しているとしか、私には思えなかった。

Date: 12月 20th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その15)

SMEの3012-Rとほぼ同じ時期に、オーディオクラフトのAC3000 (4000)シリーズの存在もあった。
AC3000はアームパイプを根元から交換する構造で、
アームパイプは材質、形状にいくつもの種類を用意して(ストレート型が5本、S字パイプが3本)、
ハイ・コンプライアンスのカートリッジからロー・コンプライアンスのモノまで、
ひとつのトーンアームでの対応を目ざした、いわゆるユニバーサルトーンアームとして開発されている。

その前身のAC300のころから、瀬川先生は愛用され、高く評価されていた。
AC300のころはアームパイプの交換はできなかったが、3000になり採用。
このときから、ヤボったさの残っていた外観の細部が変化して、ずっと洗練された見た目になっていった。
おそらくデザイナーとして瀬川先生が手がけられたのだ、と私は思っている。
色、仕上げもAC3000 Silverになり、また良くなった。
使いこなしてみたい、とおもわせる雰囲気をまとってきた。
欲をいえば、もっともっと洗練されていくことを期待していたけれど、
瀬川先生がなくなり、オーディオクラフトから花村社長が去り、この有望なトーンアームも姿を消す。

当時のカタログや広告をみれば、AC3000シリーズには、豊富な、
日本のメーカーらしいこまかなところに目の行き届いた付属アクセサリー(パーツ)が用意されていた。
カートリッジに対してだけでなく、取り付けるプレーヤーシステムのことを考慮して、
アームベースは、フローティングプレーヤー用に軽量のものもあった。
出力ケーブルも、MC型カートリッジ用の低抵抗型、MM型カートリッジ用の低容量型もあった。

これはもう、日本のメーカーだから、というよりも、当時の社長であった花村氏のレコードに対する愛情から、
そしておそらく瀬川先生の意見されてのことから、生れてきたものというべきであろう。

AC3000を使う機会は、残念ながらなかった。
101 Limitedを買っていなければ、AC3000か4000を買っていた、と思う。

状態のいいモノがあれば、ぜひ、いま使ってみたいトーンアームでもある。

Date: 12月 19th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その14)

オーディオ機器の中で、ユニバーサルということばがつくものといえば、トーンアームがまずあげられる。
ユニバーサルトーンアーム、という言い方がある。
その代表としてあげられるのが、SMEの3012である。

たしかに3012は、調整のポイントをしっかり把握した上で使いこなせれば、
かなり融通のきくトーンアームの、数少ないモノである。
私自身も3012-Rを使っていた時期があるし、
ステレオサウンドの試聴室のリファレンス・プレーヤーのマイクロのSX8000IIに3012-R Proだった。
カートリッジの試聴において使用するトーンアームは、私がいたころは、この3012-R Proだけだった。
3012-Rだけで、ハイ・コンプライアンスのカートリッジからオルトフォンのSPUまで、
MM型からMC型まで、じつにさまざまなカートリッジを取り付けては調整し、また交換しては試聴してきた。

だから私にとって、 SMEの3012-Rはもっとも手に馴染んでいるオーディオ機器である。
だからこそ、信頼して使えるオーディオ機器でもあった。

話はすこしそれるが、アナログディスク再生において、もっとも重要なことのひとつに、
この、手に馴染む、ということがあると、私は考えている。
もちろん基本性能の高いことはいうまでもないが、それだけではアナログディスクを再生、というよりも、
演奏するオーディオ機器としては不十分ではないだろうか。

たとえばカメラ。ライカのカメラの評価は素晴らしいものがある。
でもすべてのカメラ好きの人の手に、ライカが馴染むかどうかはどうなのだろうか。
最初にさわったときからすっと手に馴染む人もいるだろうし、
愛着をもってつかいこなしていくうちに、手に馴染んでくる、ということもある。
でも、世の中にひとりとして同じ人がいないのだから、
どうしても、どうやってもライカが手に馴染まない人もいて、ふしぎではない。

そんな感覚が、アナログディスクを演奏するオーディオ機器にはある。
とくにトーンアームこそ、そうである。

アナログディスクの演奏においてこそ、手に馴染む、手に馴染んでくるモノを使うべきである。
それを見極めるのも、アナログディスク演奏には重要なことでもある。

Date: 12月 18th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その10)

私は、というとそれほど多くのカートリッジを所有していたわけではない。
学生時代、最初に買ったのはエラックのSTS455E、そのあとにオルトフォンのMC20MKII。
このときも、ほとんどMC20MKIIでだけ聴いていた。
STS455Eに付け替えたのは、ほんの数回だったような気がする。

なにもエラックのカートリッジの音が気にくわなかったわけでもないし、
オルトフォンのほうがすべての点でまさっていたわけでもない。
ときどきエラックの、あの艶っぽさの濃厚な音を聴きたくなっても、
どうしても聴きたい、という気持があるところまでつもってくるまでは交換しなかった。
基本的に、カートリッジを頻繁に交換するのは、好まない。
ひとつの気に入ったカートリッジを、きっちりと調整したら、
できるだけそのままにしておきたい、という気持がつよい。

ステレオサウンドで働くようになってからは、わりと早い時期にトーレンスの101Limitedを手に入れたから、
カートリッジはほぼ自動的に、最初はトーレンスのMCH-I、
それからEMTのTSD15、そのファインライン針版のTSD15SFLになっていった。

仕事で、ステレオサウンドの試聴室でさまざまなカートリッジを聴くことができるということも重なって、
自宅ではEMT以外のカートリッジを取り付けることはほとんどなかった。

それでも、いくつかのカートリッジは試している。
オーディオテクニカからEMTのトーンアーム用のヘッドシェルが出ていたから、
それを使っていくつか気になるカートリッジを使ってみた。
それからフィデリティ・リサーチのFR7のEMT用も試したことがある。

でも結局、EMTのカートリッジがあれば、他は要らない、というわけではないけれど、
これひとつでもいいかな、という気持になっていた。

そんな私でも、カートリッジを交換したときの楽しみは知っているし、
ステレオサウンドで働いてなかったら、もう少し、カートリッジの数は増えていたはずだ。

カートリッジは、スピーカーシステムやアンプなどとは違い、買い換えでなくても、
買い足していくことが、当時の価格であれば、わりと気楽にできた。だからこその、カートリッジの楽しみだった。

それがいまのカートリッジの価格では、あれこれ気軽に買い足していくことはかなりしんどい。
それにカートリッジの音のヴァリエーションも、アナログ全盛時代とくらべると狭くなっている。

Date: 12月 17th, 2010
Cate: 言葉

造詣

今月9日に上杉先生が亡くなられていることが、ニュースになっていた。
兵庫にお住まいだったから、他の評論家の方ほどお会いする機会はなかった。

それでもいくつかの想い出はある。それを書くこともできるが、
それよりも書いて置きたいことは上杉先生の不在により、
ステレオサウンドの筆者から真空管に造詣の深い人がいなくなってしまったということ。

以前は長島先生の存在もあった。長島先生と上杉先生、おふたりとも真空管への造詣は深かった。
おふたりの違いは、造詣の深さの違いではなく、もうすこしべつのところにあった。

いまはインターネットに接続できれば、手軽に真空管に関する情報は厖大な量を手にすることができる。
以前はネットに接続するにはパソコンからだったけど、
いまやiPadやiPhoneからでも、外出先からでも簡単に高速に接続できる。
もしかすると、真空管に関しても、長島、上杉先生よりもくわしい人、それも若いひとがいてもふしぎではない。

そういう時代をインターネットは可能にしている。

だがそういう人が、真空管に関して、造詣が深い、かとなると必ずしもそうではない。
造詣の深さには、もちろんある量の知識は必要である。だが知識の量だけでは、造詣は得られない。

こういう時代だからこそ「造詣」とはなにかを、もういちどはっきり見直しておきたい。
そして真空管に関してだけではない。
私個人としては、アナログディスク再生に造詣の深い人が、
いまのステレオサウンドの筆者のなかには、いない……、そう感じている。

真空管、アナログディスク──、これらのことはオーディオにつながる、ある項目である。
その項目に関して造詣の深い人の不在。これが意味することはなんであるのか。

Date: 12月 16th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その9)

昔、カートリッジは、「音の宝石」とたとえられたこともあった。
針先のダイアモンド、オーディオ・コンポーネントの中でももっとも小さなパーツでありながら、
音を大きく変えてくれるカートリッジは、まさに「音の宝石」といえた。

いまはどうだろう……。

そういった意味よりも、むしろ価格の面で「音の宝石」となりつつある。

以前のように手軽に手を出せる価格のモノが減ってきて、非常に高価なモノの比率が増えてきた。
モノの価格がどうやって決められていくのか、それを知らないわけではないけれど、
いまのカートリッジの高価格化に、誰も疑問を抱かないのだろうか。

カートリッジは、オーディオの中で、数少ない消耗品である。

どんなに高価なカートリッジでも針先のダイアモンドの寿命は、大きく変ってくるものではない。
数万円のカートリッジよりも数十万円のカートリッジは、針先の寿命が10倍になるわけではない。
ほとんど同じである。
カートリッジの針先の寿命は、同じ製品でもバラつきによって異ってくる。

天然ダイアモンドを採用しているならば、カットしたときに生じるバラつきによって、
驚くほど長持ちするモノがあるし、反対にえっ、もう……と言いたくなるほど寿命が短いものもある。

いまはどうなのか知らないが、EMTのカートリッジはとくに、この差が大きかった。
きくところによる、その違いはダイアモンドのカットする時の結晶の方向に関係することらしい。

Date: 12月 15th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その8)

いま現在市場にでまわっているヘッドフォン(イヤフォン)の数はどのくらいあるのだろうか。
オーディオがブームだといわれた1970年代のころよりも、ずっと多くの機種、
そしてヴァリエーションも豊富になっているように感じられる。

そんな状況をみていて思うのは、
アナログ全盛時代のカートリッジがヘッドフォンに変っていったのではないのか、ということ。
CDが登場するまでは、カートリッジを複数個もつのは、音に関心のある人ならば当り前のことだった。

1個のカートリッジしか所有したことがない、という人はおそらくいないと思う。
少ない人でも数個、多い人では何十個というカートリッジを持っている人もいた。
瀬川先生はヘッドシェルに取り付けて、
すぐに聴ける状態にあるものだけで80個をこえて所有されていた、と書かれている。

製造される国が違い、発電方式もさまざまな違いがあった、それぞれのカートリッジ。

まめな人ならば、レコードごとにカートリッジを交換していた人もいたときいている。
レコードのジャケット裏の片隅にカートリッジの機種名をメモしておいて、
そのレコードを演奏する時には、かならずそのカートリッジにつけかえる。
そこまでまめな人でなくても、常用カートリッジはひとつときめていた人でも、
季節の変り目であったり、気分を大きく変えたい時、あるいはふだん聴かないジャンルを音楽を鳴らすとき、
その音楽がふだん聴いている音楽と大きく異る性質のものであるならば、カートリッジの交換によって、
うまくいけば、その性質の違いは際立ってくることになる。

一部、非常に高価なカートリッジはあったものの、アナログ全盛時代においては、
カートリッジの価格はそう高価なわけではなく、手の出しやすいモノが多かった。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その45)

この項(その32)に、瀬川先生のKEFの105の試聴記を引用している。
そこに「組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のようにツヤや味つけをしてやらないと、
おもしろみに欠ける傾向がある。」と書かれている。
このことは、瀬川先生がマークレビンソンのアンプ(このときはML7はまだ登場していない)の音を、
どう感じておられたかがわかる。

もしこのとき、LNP2やJC2(ML1)、ML2などがとっくに製造中止になっていて、ML7とML3だけになっていたら、
こんなことは書かれなかったと思う。
ステレオサウンドの1981年夏の別冊の巻頭原稿「いま,いい音のアンプがほしい」に、どう書かれているか。
     *
その当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
     *
「その当時のレヴィンソン」とは、ジョン・カールと組んでいた頃のマーク・レヴィンソンだ。

Date: 12月 13th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その3)

そう、ほとんどの機種は、感覚的にも直感的にも名器だと納得できる。
それはステレオサウンド 50号を最初に読んだとき、まだ16歳だったけれど、
それぞれの写真から伝わってくるもの、それぞれの筆者の書かれたものから伝わってくるのはわかった。

それでもJBLのオリンパスS7R、ARのAR3aは、これもなのか……と思うところも正直あった。

オリンパスが選ばれるのであれば、なぜ同じJBLのハークネスがないのか。
柳沢氏の文章を読んでも、完全には納得できなかった。
私は、オリンパスよりもずっとハークネスが、スピーカーシステムとして美しいと思っている。
それにハークネスは、JBLのスピーカーシステムとしてはじめて左右対称に作られたモノでもある。
ステレオ再生ということを念頭に置いて作られた、それほど大きくもなく、
いま見ても美しいスピーカーシステムが、ない。

オリンパスに較べるとAR3aは、まだ納得がいく。
ARのスピーカーシステムが登場した時代を体験しているわけではないが、
それでもいくつか、このころについて書かれた文章を読めば、
ARのアコースティックサスペンション方式のもたらした衝撃がどれほど大きかったのかは理解できる。
ブックシェルフ型スピーカーは、ARがつくりだした、ひとつのジャンルであるのだから。
だから、頭では理解できる……。

あとひとつあげれば、マッキントッシュのMC240。
MC3500、MC275が選ばれているし、この2機種と比較すると、
なんとなく影が薄い、そんな存在のMC240がなぜ選ばれているの? という疑問がないわけじゃない。
それでも、理解できないわけでもない。

ステレオサウンド 50号が出たのは、31年前。
いま同じ企画を行ったら、それでも50号で選ばれたオーディオ機器の多くは、また選ばれるだろう。
そして、何が加わるのだろうか。

Date: 12月 12th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その2)

ステレオサウンド 50号の旧製品 State of the Art 賞の扉にはこう書いてある。
     *
往年の名器の数々の中から、〝ステート・オブ・ジ・アート〟賞に値する製品を選定していただいた。
以下に掲載した製品がその栄誉ある賞を獲得した名器たちであるが、いずれもその後のオーディオ製品に多大な影響を与えた機種であり、また今日のオーディオ発展のための大きな原動力ともなったものである。ここではこれらの名器がなぜ名器たり得たのか、そこに息づいているクラフツマンシップの粋、真のオーディオ機器の精髄とは、を探っている。
     *
ここには名器という言葉の他に、クラフツマンシップの粋、という言葉もある。

古い読者の方なら「クラフツマンシップの粋」ときいて、
このころステレオサウンドに連載されていた同盟の記事を思いだされるはずだ。
「クラフツマンシップの粋」の1回目は37号(1975年12月発売)に載っている。
とりあげられているのはマランツの#7、#9、#10B。
2回目は38号。JBLのSG520、SE400S、SA600。3回目は39号で、ガラード301、トーレンスTD124。
4回目は41号。JBLのハーツフィールド。
5回目は43号、QUADの管球アンプ、6回目は44号、アンペックスのデッキ。
7回目は45号でエレクトロボイスのパトリシアン・シリーズ、
8回目(最終回)はノイマンDSTなどのカートリッジだ。

この「クラフツマンシップの粋」でとりあげられたオーディオ機器は、
ほとんど旧製品 State of the Art 賞として選ばれている。

50号で掲載されているの機種は以下のとおり。カッコ内は執筆者。
●スピーカーシステム
 エレクトロボイス Patrician 600(山中)
 JBL D30085 Hartsfield(柳沢)
 タンノイ Autograph(岡)
 KEF LS5/1A(瀬川)
 シーメンス Eurodyn(長島)
 JBL Olympus S7R(柳沢)
 ローサー(ラウザー) TP1(上杉)
 AR AR-3a(岡)
●スピーカーユニット
 ウェスターン・エレクトリック 594A(山中)
 グッドマン AXIOM 80(瀬川)
 ジェンセン G610B(長島)
●コントロールアンプ
 マランツ Model 7(山中)
 JBL SG520(菅野)
 フェアチャイルド Model 248(岡)
●パワーアンプ
 マランツ Model 9(長島)
 マッキントッシュ MC3500(山中)
 マッキントッシュ MC275(菅野)
 マッキントッシュ MC240(上杉)
 マランツ Model 2(井上)
 QUAD QUAD II(岡)
 ラックス MQ36(井上)
●FMチューナー
 マランツ Model 10B(長島)
●プレーヤーシステム
 EMT 927Dst(瀬川)
●ターンテーブル
 ガラード 301(柳沢)
 トーレンス TD124(岡)
 T.T.O R-12(瀬川)
●カートリッジ
 ノイマン DST(山中)
 デッカ MKI(岡)
●トーンアーム
 SME 3012(瀬川)
 グラド Laboratory Tone-Arm(瀬川)

ほとんどが、名器として個人的にも納得できるモノばかりである。

Date: 12月 11th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その1)

「名器」と呼ばれるモノが、どんなジャンルにおいてもある。
もちろんオーディオにも、名器と呼ばれたモノは、いくつもあった。

名器と呼ぶにふさわしいオーディオ機器とは、いったいどういうものなのだろうか。
一流品、高級品と呼ばれるものが、名器とはかぎらない。
名器は一流品ではあっても、必ずしも高級品(高額品)ではない。

あれは名器だ、といったことを口にすることもあるし、耳にすることもある。
納得できるときもあれば、口に出して反論はしないまでも首を傾げたくなるときもある。
私が名器としているモノを、ある人はそうは受けとっていないかもしれないし、また反対のこともある。
そういうモノは、果して名器と呼べるのか。
すくなくとも名器と呼ばれる以上は、私も他の人も、ほとんど多くの人が認めるモノでなくてはならないのだろうか。
そんなモノ、そういう名器は存在してきただろうか。

そして、ずっと名器の名を欲しいままにしてきたモノは、あるのだろうか。

1978年の暮に出たステレオサウンド 49号の特集は”State of the Art” 賞だった。
その2年前の41号で、コンポーネントステレオ 世界の一流品、という特集をやっているのが、
49号の前身ともいえる。

State of the Art は数年後に Component of the year 賞に名称がかわり、
さらにステレオサウンド・グランプリとなり、現在も年末に出る号の特集として定着している。
これらの号で取り扱っているのは現行製品だけだが、49号のすぐあとに出た50号は、
ステレオサウンド創刊50号記念特集として、栄光のコンポーネント 旧製品 State of the Art として、
過去の製品、スピーカーシステムではJBLのハーツフィールド、タンノイのオートグラフ、
エレクトロボイスのパトリシアン600、マランツ、マッキントッシュの管球アンプ、
ガラード301にトーレンスTD124、ノイマンのDSTなどが選ばれている。

この50号に登場するモノは、ステレオサウンドの筆者が選んだ「名器」といえる。

Date: 12月 10th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その9)

カラヤンのベートーヴェンの精妙さは、どこから生れてくるものだろうか。

録音された時期は、ちょうどマルチマイク・マルチトラックの録音手法が十分に消化された時代でもあり、
その前の録音と比べると、真空管を使った録音機材からトランジスターへの転換も経て、
初期のトランジスターを使った機材にあった音の不備(音の固さやノイズの多さ)もほぼ消えたころでもある。

真空管時代の名録音──マイクの数もすくなくことも関係して、暖かく柔らかい響き──に対して、
この時代には、細部に音のピントをあわせていき、やや冷たい肌ざわりながら、
混濁感のない解像力の良さ、周波数レンジ、ダイナミックレンジの広さなど、新しい音の魅力を安定して、
聴き手に届けてくれるようになっていた。

録音の歴史の中で、この時代は、録音(機材をふくめて)の、ひとつの完成度の高さがあった。
新しい録音が完成された、ともいえよう。
そういう時代に、たっぷりの時間をかけて、カラヤンのベートーヴェンは録音されている。
しかもカラヤンは、録音に知悉していた、といわれている。

どちらも同じドイツ・グラモフォンによるカラヤンとバーンスタインのベートーヴェン全集。
このふたつの録音の違い、つまりスタジオ録音とライヴ録音の違いは、枠の有無だと感じる。

バーンスタインのライヴ録音にも、枠はある。
けれど、カラヤンのスタジオ録音の枠とは、性質が違う。

いわゆる「枠」は、録音の限界によってどうしても生じてしまう。
だから録音機材、録音手法が向上にともなって枠が広がり薄れていくことはあっても、なくなることはない。
そういう意味での枠が、バーンスタインのベートーヴェンにある枠だ。

一方カラヤンの録音にある枠は、制作者側が、ではなく、演奏者(つまりカラヤン)がはっきりと意識している。
だから、あの精妙さが生れてきたのだと思う。

Date: 12月 9th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その8)

(その6)に引用したカラヤンの、(その7)に引用したブレーストの発言からわかることは、
同じベートーヴェンを録音しても、カラヤンとバーンスタインの対照的な姿である。

カラヤンのやりかたでは、バーンスタインと同じライヴ録音はとうていできないだろうし、
バーンスタインにカラヤンがやったような緻密なスタジオ録音をやらせたら、
もちろんプロの音楽家としてやりとげるであろうが、ブレーストの発言にあるように、
エキサイティングな要素は失われていたはす。

ブレーストは徹底した完璧主義者のカラヤンだから、ライヴ・レコーディングは望めない、と、
だからバーンスタインは演奏会場(ライヴ)で、カラヤンはスタジオでというのが、
DGGの基本的な姿勢だともつけ加えている。

バーンスタインのベートーヴェンの全集は持っている。
カラヤンの、1975年から’77年にかけて録音されたカラヤンの全集は持っていない。
ずっと以前に、いくつかの曲を聴いた記憶で書けば、
カラヤンのこの時代のベートーヴェンは、精緻なスタジオワークだからこそ可能になった精妙な表現、
バーンスタインのベートーヴェンには、カラヤンの精妙さはないかわりに、熱気が伝わってくる。

カラヤンを静、とすれば、バーンスタインは動、であり、
カラヤンの演奏を楷書とすれば、バーンスタインのは草書、でもある。

音楽通信の取材には、動であり草書であるバーンスタインの演奏が選ばれている。

この取材がおこなわれていたころに録音されていたカラヤンの三度目(最後)のベートーヴェン全集は、
精妙さという言葉では語れない印象を受ける。

Date: 12月 8th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その13)

ユニバーサル(universal)がつく言葉に、ユニバーサルデザイン(universal design)がある。
ユニバーサルデザインの定義については、川崎先生の「デザインのことば」のなかに、こうある。
     *
「誰でもが使いやすいモノやコトのデザイン」という定義が一般化してしまったことは、この言葉の本質を訴求するうえでは、大きな誤用であったと指摘しておきたい。7原則である、公平性・自由性・単純性・省力性・安全性・情報性・空間性は、我が国においては、その内容を大きく変容させる必要がある。まして、「誰もが使えるモノ」などあるわけがなく、高齢者や幼児、障害者すべてに対するデザインが、いわゆるユニバーサルデザインの本質において、デザインの理想主義の確信を強調させた意味を持っているだけである。この意味が重要である。
     *
ここに引用したところだけでなく、ぜひ全文を読んでいただきたい。

川崎先生の「デザインのことば」を念頭において、「ユニバーサルサウンド」について考えてゆく。

Date: 12月 8th, 2010
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その23)

この項の(その18)でふれているが、同軸型ユニットにおいて、
ウーファー用とトゥイーター用のマグネットが独立していた方がいいのか、
それともひとつで兼ねた方がいいのか、どちらが技術的には優れているのか、もうひとつはっきりしない。

タンノイのリビングストンは、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
アルテックの604との比較、それにマグネットを兼用していることについて語っている(聞き手は瀬川先生)。
     *
これ(604のこと)に比べてタンノイのデュアル・コンセントリックは全く違います。まず、ホーンでの不連続性はみられません。第二にコーンの前に障害物が全くないということです。第三に、マグネティックシャントが二つの磁束の間にあるということです。結局、タンノイは一つのマグネットで二つのユニットをドライブしているわけですが、アルテックは二つのマグネットで二つのドライバーユニットを操作しているわけで、この差が大きなものになっています。
     *
第三の理由として語られていることについては、正直、もうすこし解説がほしい。
これだけではなんともいえないけれど、
少なくともタンノイとしては、リビングストンとしては、
マグネットを兼用していることをメリットとして考えていることは確実なことだ。

そのタンノイが、同軸型ユニットなのに、
ウーファーとトゥイーターのマグネットを独立させたものも作っている。

そのヒントとなるリビングストンの発言がある。
     *
スピーカーの基本設計の面で大事なことは、使われているエレメントが、それぞれ独立した思想で作られていたのでは、けっしていいスピーカーを作り上げることはできないと思うのです。サスペンションもコーンもマグネットも、すべて一体となって、それぞれがかかわり合って一つのシステムを作り上げるところに、スピーカーの本来の姿があるわけです。例えば、ボイスコイルを研究しているエンジニアが、それだけを取り上げてやっていると、トータルな相関関係が崩れてしまう。ボイスコイルだけの特性を高めても、コーンがそれに十分対応しなかったり、磁束密度の大きいマグネットにしても、それに対応するサスペンションがなかったりするわけで、そこでスピーカーの一体感というものが損なわれてしまう。やはりスピーカーを作る場合には各エレメントがそれぞれお互いに影響し合い、作用し合って一つのものを作り上げているんだ、ということを十分考えに入れながら作る必要があると思います。
     *
「一体」「一体感」「相関関係」──、
これらの言葉が、いうまでもなく重要である。