Archive for 9月, 2010

Date: 9月 7th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その11・補足)

ノイマンのカッターヘッドは、SX68のあとにSX74が登場している。
どちらも型番の数字は、発表年をあらわしている。SX68は1968年、SX74は1974年。

ならばショルティの「復活」のオリジナル盤制作に使われたSX45はというと、
正確な年代は不明だが1958年ごろだときいている。
つまりSX45の「45」だけは年代ではなく、45°/45°のステレオレコードからきている。

SX68が登場した頃、SX45からの音質改善はめざましいものがあったようで、
SX68サウンド、という言葉もうまれたときいている。
それだけにSX74を、改良ではなく改悪というひともいたらしい。

SX68、SX74にして、これらはカッターヘッドのみであり、
ドライブアンプ、カッティングレースは、それぞれ用意されている。
SX74用ドライブアンプとしてはSAL74がある。
トランジスター式の準コンプリメンタリー方式で、出力は600W+600W(9.5Ω負荷でのブリッジ接続時)。

SX68、SX74ともにドライブコイル(スピーカーのボイスコイルに相当)のDC抵抗は4.7Ω、
インピーダンスは10kHzで7.5Ω。
ただ20kHzでは10Ω近くになり、5kHz以下では4.7Ω付近になる。
そのためドライブアンプの負荷をどの周波数においても一定に保つために、
SLA74から見た場合、全帯域で9.5Ωのインピーダンスになるよう、
ドライブコイルとSLA74とのあいだには抵抗とコンデンサーを並列接続したネットワークがいれてある。

カッティング・レースとしてよく知られているのはノイマン。ほかにスカリーもあるが、
ノイマンのVMS70の登場により、スカリーもノイマンの旧タイプ(VMS60)もほとんど姿を消したときいている。
VMS70の回転スピードは、33 1/3rpm、45rpmのほかに、16 2/3rpm、22 1/2rpm、それに78rpmもある。
78回転があったからこそ、オーディオ・ラボから出た「ザ・ダイアログ」のUHQR盤は、
LPにもかかわらず78回転盤が可能だったのだろう。

Date: 9月 6th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その11)

これといった理由もなくショルティを毛嫌いしていた20代のとき、
それでもシカゴ交響楽団との2度目の録音となるマーラーの交響曲第二番を聴いたときは、すなおに驚いた。
第一楽章の、あの冒頭での低弦の凄さには、驚くしかなかった。

ショルティの1度目の録音は、1966年、ロンドン交響楽団によるもので、じつはこのLP(それもオリジナル盤)は、
やはり低弦による出だしは、すごかった、ときいている。

これについては岡先生の著書「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻でふれられているので、引用しておく。
     *
このレコードの開始部の凄まじい低弦の表現力というもは、おそらくどんなコンサートでも聴かれない強烈な効果で聴き手を圧倒する(筆者がこの曲をコンサートで聴いたのは、小沢征爾が日フィルを振った一回しかないが、コンサートでは、ベルリンPOやシカゴSOであろうと、ショルティのレコードのようには鳴らないだろうと思っている)。明らかに低弦にブースト・マイクが置かれており、しかもハイレベルでカッティングされている。このレコードが出た当時のデッカのカッティング・ヘッドはノイマンのSX45であったはずだが、明らかに低域の低次ひずみが存在しており、それがかえって低弦の表現に強烈なダイナミックな効果を添えていたと思う。のちにSX68でリカットされたこの部分は、明らかに低次ひずみが減って音はおとなしくなり、コンサートで聴かれるチェロとコントラバスのユニゾンのフォルテらしい音になっていたけれど、凄まじいまでの迫力は失われていた。
     *
’66年録音のオリジナル盤とリカット盤を聴きくらべる機会はなかったけれど、
1980年の2度目の録音を聴くと、ある程度は想像できるともいえる。

岡先生はオリジナル盤の「効果」は、
「カッティング・システムの性能を意図した計算づくのもの」と考えられていた。
そしてショルティ2度目の「復活」を聴いて、「多分間違っていなかった」と思われた、とも続けられている。

いますこし岡先生の文章を引用する。
     *
十四年間の録音系の進歩は、レコードの音質の改善に明らかであるが、ショルティは《復活》の冒頭の低弦を、前回よりもさらに強烈に表現する。低弦に対するマイクは旧録音よりさらに近づけられ、低弦楽器の低次倍音までなまなましくとらえる。
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ショルティの2度の「復活」の録音は、パッケージメディアについて考えるにあたり、最適な例のひとつといいたい。

Date: 9月 5th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その10)

20代のころ、ショルティをどこか毛嫌いしているところがあった。
しかもショルティのレコードは、一枚も買ったことがないにもかかわらず、である。

いま思えば、たいした理由からではない。
その理由を、ひとつひとつここに書いていこうかと思ったが、
ほぼすべて直接音楽とは関係のないことばかりで、それこそ「若さはバカさ」の、
それも悪い方の見本ばかりなものであり、もう苦笑いするしかない。

ただあまりにも「指環」について語られるのもののなかに、
ショルティの「指環」ではなくカルショウの「指環」といったふうにとりあげるものがいくつかあり、
そういうものなんだぁ……、と「指環」を買えなかった学生は、思い込もうとしたのかもしれない。

けっしていまもショルティの熱心な聴き手とはいえないけれど、40前後あたりから、
ショルティが、ふしぎに急速によく感じられてきた。

そして想うのは、グレン・グールドはコンサートをドロップアウトしてレコードの可能性を信じていた、
ショルティはコンサートをドロップアウトこそしていないものの、レコーディングに積極的だったカラヤンよりも、
じつはグールドに近い、録音意識の高い演奏者だった、ということだ。

Date: 9月 4th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その14)

黒田先生は、同じ文章の、もうすこし前の方に書かれている──。
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それぞれの装置の呼ぶレコードがある。カートリッジをとりかえた、さて、どのレコードにしようかと、そのカートリッジで最初にきくレコードは、おそらく、そのカートリッジを選んだ人の、そこで選ばれたカートリッジに対しての期待を、無言のうちにものがたっていると考えていいだろう。スピーカーについて、アンプについても、同じことがいえる。
     *
「装置の呼ぶレコード」とは微妙に違うものの、同じ面をあらわしていることに、
使っているオーディオ装置(鳴らしている音)が、いつのまにか聴くレコードを選んでいる、ということがある。

家庭で音楽を聴く、レコードで音楽を聴くときの主体は聴き手なのに、
知らず知らずのうちに、自分の音(装置)がよく鳴らしてくれるレコードばかりかけている、そんな自分に気がつく。
どんなに人にも、すくなくともいちどはそういう時期があったはずだ。

そんなことは一度もなかった、断言できる人は、すくなくともオーディオマニアではない。
装置が呼ぶレコード、装置が鳴らしたがるレコードがあることを察することができないということは、
どういうことなのかを考えてみればわかることだ。

Date: 9月 3rd, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その13)

気ままに距離を変えるためには、重くては困る。
すごく軽くなくてもいいけれど、QUADのESLのように片手でもてるのであればそのぐらいでもいいし、
キャスターがついた台のうえにのせていれば、もうすこし重くも、片手で動かすことはできる。

それほど大きくてなくて、それほど重くなくて、というふたつの条件が満たされなければ、
装置(スピーカーといいかえてもいい)と聴き手の距離を変えることは、ただ億劫になるだけだ。

ステレオサウンド 47号の黒田先生の文章を読みなおしてみても、
キャスターのついた白い台を、両手で動かされていたのか、片手だったのかは書かれていない。
ただ「かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたら」とは書かれている。

両手で動かしていたら、「後から気がついて」とはならないように思う。片手ですっと動く。
だから、白い台を音楽によって動かしているときはそのことに気がつかなかった、とはいえいなだろうか。

大きくなく重くない。つまり、物量投入の大きくて重いオーディオ機器ではない。
そこには、制約がいくつか生じてくる。

黒田先生は、テクニクスのコンサイス・コンポで聴かれたレコードについても書かれているが、
最後のほうで、聴かなかったレコードをあげられている。
     *
たしかに、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、マーラーのシンフォニーも、ハードなロックもきかなかった。結局、そういうレコードは、それらの装置が呼ばなかったからだろう。きいたレコードのうちの多くがインティメイトな表情のある音楽だった。
     *
「呼ばなかったからだろう」と書かれている──。

Date: 9月 2nd, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その22)

高城氏に質問することはもうできないが、ひとつ確かめておきたかったのは、
再生時の音量について、である。

原音再生を掲げられていて、ずっと追求されてきたわけだから、
少なくともあの場所でピアノを録音し再生するときの音量は、
録音時のピアノが鳴らしていた音量そのままのはずである。
もうその音量よりも、再生時において小さかったり大きかったりしたら、原音再生とは厳密にいえなくなる。

いいかえれば、原音再生に音量設定の自由は存在しない、ということだ。

レコード音楽の再生は、いうまでもなく、そんなことはない。
音量の設定は、聴き手次第で、大きくも小さくもできる。

深夜にどんな大音量を鳴らしてもかまわないという恵まれた環境にあるからといって、
その人が必ずしも大音量で音楽を聴くわけではないし、大音量派といえるひとでも、
昼と夜とでは音量は変ってくることもあるだろうし、深夜ひとりでひっそりとした音で聴く音楽だってある。
反対に、真夜中にひとりきりでマーラーのフォルティッシモを、爆発するような音量で聴きたいときもある。

大音量再生で知られる岩崎先生だって、つねに大音量であったわけでないことは、
書かれたものを読めばすぐわかることだ。

音量をいつでも聴き手の自由に設定できることこそ、レコード再生の大事な因子のひとつである。
この因子が、原音再生にはない、というか、取り除くことによってしか原音再生は成立しない。

原音再生においては、ボリュウムは原音と同じ音量に設定するためのものでしかないわけだ。

Date: 9月 1st, 2010
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その1)

ここここで、スミ・ラジ・グラップのことばを引用した。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」

またここで引用するのは、
オーディオからの音楽でこのことばを実感するには、孤独(ひとり)でなくてはならないということ、
この、音楽を聴くうえであたりまえすぎることが、不可欠だということを言いたいがためである。

結局、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

それには,まわりに親しい友人や家蔵がいようとも、孤独とは無縁のように思える場にいたとしても、
スピーカーが鳴らす音楽に対して、その瞬間、たったひとりで、そこでの音楽に没入できなければ、
音楽はスミ・ラジ・グラップのことばからとおいところに行くのではなかろうか。

ひとりきりで音楽に向かうことこそが、実は「孤独」そのものなのではなかろうか。