22年(その2)
《勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。》
五味先生が「私の好きな演奏家たち」で、そう書かれている。
22年目。
五味先生の、この言葉が浮んできた。
《勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。》
五味先生が「私の好きな演奏家たち」で、そう書かれている。
22年目。
五味先生の、この言葉が浮んできた。
audio sharingは2000年8月16日に公開した。
今日で22歳。
20よりも22のほうが、個人的にはなぜか感慨深かったりする。
いろいろあった。
あと22年やれるかどうかは、なんともいえない。
あと10年くらいかもしれないが、
これまでの22年よりも、いろいろあるのかもしれない。
ここ数年、ソーシャルメディアで目にすることが増えてきたのが、
球ころがし、である。
真空管は、比較的簡単に交換できる。
それにいくつかの真空管は、複数のブランドのモノが手に入る。
手軽に挿しかえられ、あれこれ試せる(楽しめる)。
その行為を、球ころがしという人たちが増えてきているように感じている。
本人たちは喜々として、球ころがしといっているのだろうが、
球ころがしは、土地ころがしから来ているとしか思えない。
土地を安い時に買っておいて、高くなったら売る。
その投機的行為のなかでも悪質なのを、土地ころがしという。
球ころがしなんて言っている人たちは、
土地ころがしの意味を知った上で使っているのか。
だとしたら、真空管の転売屋だといっているようなものである。
交換して音の違いを楽しんでいるだけなのであれば、
球ころがしなんて表現は使わない方がいい、と思う。
ギターは小さなオーケストラ、といわれていることは昔から知ってはいた。
知ってはいたけれどそう実感したことはなかったから、
そういうふうにいうんだなぁ、ぐらいだったのが、
“Friday Night in San Francisco”を聴くまでだった。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ギターが小さなオーケストラであることを実感できたし、そのことが衝撃でもあった。
そしてギターという小さなオーケストラは、凝縮されたオーケストラでもあった。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を四十年ほど聴いてきて、
ギターは魂に最も近い楽器だ、と感じるようになってきた。
ここでの魂は、弾き手の魂なのだが、
そこにとどまらず聴き手の魂にも最も近い楽器だと思っている。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も、
まさにそうである。
そういう音で鳴ってくる。
リーダーとエース。
組織(チーム)における絶対的エースが、そのチームのリーダーとは限らない。
リーダーだからエースなわけではないし、
エースだからリーダーなわけでもない。
エースでありリーダーでもある。
そういうこともあるだろうが、おそらくそうでないことのほうが多いはずだ。
エースがいて、リーダーがいて、という組織(編集部)が理想だとして、
現実にはエースはいるけど、リーダーは不在、
その反対でエース不在だけれど、リーダーはいる。
もしくはエースもリーダーも不在ということだってある。
エースとリーダー、
どちらかだけならば、優れたリーダーがいる組織のほうが、
おもしろいオーディオ雑誌をつくってくれると思っている。
リーダーが絶対にやってはいけないこと。
だんまり、黙殺、無視だと私は思っている。
リーダー(リーダーシップ)とマネージャー(マネージメント)。
オーディオ雑誌における、このことを、今日、ある人と話していた。
リーダーではない編集長がいる。
マネージャーでしかない編集長がいる。
編集長はリーダーであるべきだ。
わかりきったことだ。
けれど副編集長的にマネージャーでしかなかったりする。
マネージャーの仕事は副編集長にまかせておけばいい。
というか、マネージャーが必要なのだろうか、とも思う。
リーダーとしての資質を持たない人が、編集長になってしまう。
オーディオ雑誌の役目がある。
それぞれのオーディオ雑誌の役割がある。
役目がわかっていないオーディオ雑誌は役割を果たせない。
名ばかりのリーダーしかいないオーディオ雑誌がそうなってしまう。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
聴いてどうだったのか。
どちらがいいのか、どちらが人気があるのか。
昨晩、両方ともMQA Studioで聴いていた。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いたあとに、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いていた。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月5日、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月6日。
けれど、その録音が発売になったのは、1981年と2022年である。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、これまで数え切れないほど聴いてきている。
最初はLPで聴いて、CDで聴いて、SACD、そしてMQA Studioで聴いている。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、昨晩が最初である。
MQA Studioでしか聴いていない。
聴いてきた長さ、その他もろもろが違いすぎる。
そして1981年に、“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も同時に発売になっていたら、
いまとは違う比較をしていただろうし、感じ方も違っていたであろう。
でも、現実は四十年ほどの開きがあって、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”である。
しかも“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
別項でも何度か書いているように、ステレオサウンドの試聴室で、
アクースタットのコンデンサー型スピーカー、Model 3で聴いている。
それゆえの衝撃の大きさ、強さがある。
ほんとうに強烈な体験だった。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、そうではない。
それに昨晩聴いたばかりだ。
正直、比較する気は私にはまったくない。
どちらも聴くと楽しい。
それでいい、と思っている。
単段アンプは回路図を描く必要すらない。
そのくらい簡単な回路である。
だからこそ、試してみたいことがある。
アースに関係することで、少し実験的なアースの配線をやってみようと考えている。
回路がそのくらい簡単だし、部品数もほんとうに少ないから、
試してみたいと考えてきたことを実験するにはちょうどいい存在でもある。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、すぐに予約した。
二回発売日変更と価格変更のメールが、タワーレコードから届いた。
私が注文したSACDは価格は当初よりもかなり安くなって、
8月19日発売と、いまところなっている。
なので、まだ届いていない。
TIDALでも、まだだった。
いつになるのか、が、もしかすると配信されないのかも……に、変りはじめていた。
けれどやっと配信が始まった。
MQA Studioで、192kHzである。
e-onkyoでも昨日から買えるようになっているが、
こちらはDSF(2.8MHz)とflac(196kHz)のみで、MQAは予想した通りない。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”をMQAで聴きたいのであれば、
いまのところTIDALのみである。
そして、もうひとつ嬉しいことがあった。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が、
これまでMQA Studio(44.1kHz)からMQA Studio(176.4kHz)に変更になっている。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”にあわせてなのだろう。
こういうことがあると、いまはほんとうにいい時代になったなぁ、と思う。
素敵な時代になったとも思う。
別項「ラックス MQ60がやって来た」で書いているように、
50CA10の自作シングルアンプも一緒にやって来た。
電圧増幅管は6AQ8である。
まだ中は見てないのではっきりしたことはいえないが、
オーソドックスな回路構成であろう。
シングルアンプだから、MQ60よりも使用真空管は少ない。
けれど自作ということもあって、シャーシーのサイズはMQ60よりも大きい。
もっと小さく、ぎゅっとした感じにまとめなおしたい、
そんなことを入浴中におもっていた。
使われているタンゴのトランス類はそのまま流用して、
どこまで小さくできるか、とともに、どこまで回路を切り詰めていけるのか。
50CA10の単段シングルアンプに仕上げてみるのもおもしろいじゃないか。
ふとそう思いついた。
単段アンプは、1980年前後に、池田圭氏がラジオ技術に何度か発表されている。
これ以上、部品を削ることができないまでの回路構成である。
ラジオ技術では、他の筆者による単段アンプの製作記事も載った。
そのいずれも入力トランスを必要としていた。
けれど出力レベルの高いコントロールアンプがあれば、入力トランスも省ける。
この入力トランスは汎用のモノではなく、タンゴの特註品が多かったと記憶している。
入力トランスがなければ、さらにアンプのサイズを小さくできるし、
コスト面に関しても、出費が少なくて済む。
私の手元には、GASのTHAEDRAがある。
ラックスにはMQ60を無帰還アンプとしたMQ60Cがあった。
ということは50CA10単段アンプも無帰還でいける。
THAEDRAはもともと8Ω負荷で約3Wの出力を持つ。
50CA10の単段アンプの出力は、自己バイアスにするつもりだから5.5Wほどで、
THAEDRAの出力の二倍弱。
それでパワーアンプと呼べるのか、となると、むしろブースターアンプという感覚である。
手頃なシャーシーが見つかれば、すぐにも完成できそうな回路である。
(その2)で、オーディオマニアのなかには深刻ぶっている人がいる、と書いた。
深刻ぶる人は、若い時からそうだ。
少なくとも、私の周りにいる深刻ぶるオーディオマニアは、若い時からそうだった。
みな歳をとる。
深刻ぶるのが好きなオーディオマニアもそうでないオーディオマニアも。
みな老いていく。
老いとともに深刻ぶるのが好きな人は、さらに深刻ぶっているように見える。
私からすれば、深刻ぶっていて何が楽しいんだろう──、となるのだが、
深刻ぶっている人は、深刻ぶるのが好きなのかもしれない。
だから老いとともに、さらに深刻ぶっているのか。
本人が楽しければそれでいいのだけれど、
オーディオって、そういうものじゃないのに……、といいたくもなる。
さきほどラックスのMQ60(ラックスキットのKMQ60)が届いた。
MQ60だけかと思っていたら、もう一台、アンプがあった。
MQ60と同じ出力管50CA10のシングルアンプである。
MQ60はラックスの製品だから、トランス類はすべてラックス製。
自作のシングルアンプのほうは、チョークも含めてすべてタンゴ製である。
MQ60は30W+30Wの出力をもつが、
シングルアンプの50CA10の規格をみると、
A級シングル動作で、固定バイアスで6W、自己バイアスで5.5Wである。
これまでいろんな規模の真空管パワーアンプを聴いてきたけれど、
50CA10のシングルアンプは初めてである。
MQ60にしても自作シングルアンプにしても、
いま目にすると、むしろ小型アンプのように感じてしまう。
実際、横幅は410mmあるのだから、小型とはいえないのだが、
昨今のオーディオ機器の巨大化からすれば、小型とうつる。
大きさを誇示するようなところがない。
50CA10そのものが大型の真空管ではないこともあいまって、である。
古くからのオーディオマニアの友人と話していて、
マッキントッシュの真空管パワーアンプでどれを選ぶ、という話題になったことがある。
彼はMC275も好きだけど、MC240も捨て難い、という。
その気持はわかるけど、私は、いま買うのであればMC275、と言った。
MC275とMC240、どちらがアンプとして優れているとか、
音が好みに合うとか合わないとか、そういうことではなく、
出力管の安定供給ということで、 MC275を私は、いまならば選択する。
MC275はKT88、MC240は6L6GCである。
真空管全盛時代に製造されたKT88、6L6GCを十分なストックしているという人ならば、
MC275、MC240、好きな方を選べるけれど、
どちらの出力管に関してもまったくストックしていない人ならば、
いまならばKT88のほうが、良質なモノが入手しやすい、というのが、
私がいまならばMC275を選ぶ、という理由だ。
いま流通しているKT88のすべてが良質とはいわないけれど、
PSVANEのKT88は信用できると感じている。
いまのところPSVANEのラインナップに6L6GCはない。
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である。
八年前の私自身のちいさな結論に、あらためてそうだとおもっている。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
五味先生の《いい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで》へとつらなる。