第八回audio wednesday (next decade)
第八回audio wednesday (next decade)は、5月3日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
第八回audio wednesday (next decade)は、5月3日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
昨年、レコード芸術を読んでいて、
こんなディスクがあるのか、と思ってTIDALで検索して聴いたのは一枚だけだった。
そのディスクも月評で取り上げられていたのではなく、
連載記事の一つで紹介されたのを読んで、である。
Dina Ugorskajaのシューベルトのピアノ・ソナタだ。
この一枚に関してはレコード芸術を読んでいてよかった、と感じた。
一年十二冊のレコード芸術で取り上げられるディスクの数はどれだけなのか。
数えたことはないが、そのうちの一枚は割合としては極々小さい。
一枚でも、そういうディスクをレコード芸術によって知ることができた事実は、
ありがたいことであるし、そういうことがまたあるかも、という期待をこめて、
Kindle Unlimitedでレコード芸術を読んできた。
それも昨年12月からなくなっている。
そのことに淋しさのようなものを感じてもいない。
出逢えるディスクは、遅かれ早かれ、いつかその日が訪れるからだ。
レコード芸術が休刊になることは、昨晩知っていた。
それに今年休刊になる音楽・オーディオ関係の雑誌は、まだある。
どの雑誌がそうなのかも知っているが、まだ発表になっていないので控えておく。
1947年創刊のスイングジャーナルが2010年6月に休刊、
1952年創刊のレコード芸術が2023年6月に休刊。
1966年創刊のステレオサウンドは──。
2012年、2022年とKindle Unlimitedで、レコード芸術は読んでいた。
時代は変った、と感じたのは、
レコード芸術の月評で紹介されているディスクを、
ストリーミングを活用している人ならば、かなりの数聴ける(聴いている)ということだ。
TIDALを使っているから、けっこう数のアルバムを、
レコード芸術で紹介される前に聴いている。
それが当り前の時代である。
月評だけがレコード芸術のおもしろさではない。
むしろ特集や連載記事のほうに関心・興味をもって、あのころは買って読んでいた。
それがいつしか興味をそそられる特集記事が減っていった。
テーマはおもしろそうだと思っても、意外にそうでなかったりする。
それは名曲名盤の特集が、いちじるしく顕著だった。
あれほどダメになってしまった特集はない。
いまインターネットで、レコード芸術の継続の署名運動がある。
レコード芸術に書いている人たちが発起人となっている。
どれだけ集まるのだろうか。
かなりの数あつまったとしても、休刊が撤回され継続されるとは思えない。
署名した人たちが毎号定期購読してくれたとしても、である。
広告が増えない限り、その保証がない限り、まず無理であろう。
レコード芸術がなくなると、
クラシックのレコード(録音物)の新譜情報が得られなくなる──、
と心配する人はほとんどいないはずだ。
いまではレコード会社のウェブサイトやソーシャルメディア、
それにタワーレコード、HMVといった大手の販売店のメールマガジンを受けとっていれば、
新譜情報で困ることはない。
レコード芸術が、6月発売の7月号で休刊になるニュースを、
すでに目にされた方も多いことだろう。
2010年6月、スイングジャーナルが休刊した。
6月だから、7月号が最後のスイングジャーナルであった。
スイングジャーナルの休刊が発表になったとき、
ソーシャルメディアでは、次はレコード芸術の番と投稿する人がけっこういた。
たしかにそのころからレコード芸術は薄くなっていた。
広告が減っていったからである。
でもスイングジャーナルの休刊から十三年。
レコード芸術を買うことは一度もなかった。
図書館に行けば、レコード芸術は読めたし、
毎号読みたいとも思っていなかった。
レコード芸術を熱心に読んでいたのは、1980年代だった。
あのころはレコード芸術の発売日を楽しみにしていた。
それがいつのころからだろうか、少しずつ惰性で買うようになっていた。
そうなると買っても、熱心に読まなくなっていく。
そして買わない号が出てきて、買わなくなってしまった。
そして書店で手にとることすらしなくなった。
いまはどうだったかといえば、昨年まではKindle Unlimitedで読んでいた。
それも12月発売の2023年1月号から読めなくなった。
もしかするとレコード芸術も、かなり厳しいのか……、
そんなことを思うようになってきたときに、今回の休刊の発表である。
やっぱりそうだったのか──、と思ったし、驚きはなかった。
Kindle Unlimitedで読んでいて、ここまで広告が減ったのか、という驚きはあったけれど。
ステレオサウンド 226号がKindle Unlimitedで読めるようになっている。
特集のハイレゾオーディオ2023について書く前に、
新製品紹介で、CHプレシジョンのC1.2のことについて触れておく。
三浦孝仁氏が担当で、
本文中には《本機ではMQAにフル対応していることも大きなトピックといえよう》とある。
けれど続く音についてのところでは、MQAの音についてはまったく触れられていない。
《大きなトピック》だったら、なぜMQAの音について触れないのか。
MQAの音について触れないのであれば、
《本機ではMQAにフル対応していることも大きなトピックといえよう》
と書かなければいい──、個人的にはそう思うのだが。
《本機ではMQAにフル対応している》、そこで終っているだけでいい。
《大きなトピックといえよう》とある。
なのに、実際のMQAの音がどうだったかについて、三浦孝仁氏は一言も書かれていないのをみると、
もしかするとステレオサウンド編集部がMQAを封殺しようとしている──、
そんなふうに勘ぐってしまう。
三浦孝仁氏はMQAの音について書きたかったのかもしれない。
けれどステレオサウンド編集部から、触れるな、というお達しがあったのか。
会場となったRITTOR BASEの正面はスクリーンがあり、
そこには「狂気」のジャケットが映し出されている。
地下にあるため照明が落とされると、スクリーンの光量だけで、暗い。
目を閉じて聴いていると、
「狂気」の冒頭の心臓の音、それから続くいくつかの効果音──、
不気味な映画を目を閉じて聴いている感覚でもあった。
「狂気」50周年ボックスのチラシには、
先に引用した國﨑 晋氏の文章の他に、武田昭彦氏の文章もある。
*
ピンク・フロイドは2003年、『狂気』の30周年記念盤となるSACD/CDハイブリッド盤で、ジェームス・ガスリーによる5.1チャンネル仕様のサラウンド音声を発表している。今回のBlu-Rayにもその5.1チャンネル・ミックスは収められているが、新たに制作された7.1.4チャンネルのドルビーアトモス・ミックスは従来のそれとは別物で音の定位や広がり、細部の音の処理などが異なっている。本作はバンド・サウンドに加え、SEが効果的に駆使されているのが大きな特徴だが、ヘリコプターや時計の音、各種アナウンスなどがサイド・スピーカー2本と頭上4本のスピーカーに振り分けられたことで、音の包囲感が高まり聞き手の想像力をいっそう刺激してくれる。
従来の5.1チャンネル・ミックスがリスナーのリビングルームやプライヴェートな空間を想定した音作りだとすれば、今回のドルビーアトモス・ミックスは映画館ないしコンサート会場を想定したようなスケールの大きさを感じさせる。
*
今回は5.1チャンネルの音は再生されなかったし、もちろん2チャンネルの音もなしである。
聴いたのはDolby Atmos Mixの音だけである。
すべての音を比較試聴できればさらにおもしろいのだが、
今回のイベントは、そういう試聴会ではなく、
「狂気」Dolby Atmos Mixの鑑賞会といったほうがいいのだから、それを求めてもしかたない。
目を閉じて聴いていると、上に書いたような感覚だったのだから、
武田昭彦氏の文章にあるように、5.1チャンネル仕様の音よりも、スケールアップしたものなのだろう。
けれど《聞き手の想像力をいっそう刺激してくれる》のかは、疑問でもある。
おそらくなのだが、國﨑 晋氏も武田昭彦氏も、
「狂気」をそれこそ数え切れないぐらい聴いてきているのだろう。
そして、これから先も、何度も何度も聴いていく人たちなのだろう。
そうでない聴き手も、一方にいる。
「狂気」発表の1973年、十歳だった男は、同時代に聴いているわけではない。
もちろん世の中は広いから、十歳くらいで「狂気」を聴いて、狂喜した人もいるだろう。
「狂気」の存在を知ったのは、五年後くらいだったか、
その時でも「狂気」を聴いたわけではなかった。
「狂気」を聴いたのは、東京で暮らすようになってからで、さらに五年以上経っていた。
しかも自分で購入し、自身のシステムで、というわけではなく、
知人宅で聴いたのが最初である。
そういう男と、國﨑 晋氏、武田昭彦氏とでは「狂気」への思い入れがまるで違うはず。
だからといって、2チャンネルのみに固執しているわけではない。
ステレオサウンドにいたころは、菅野先生のリスニングルームでSSS方式を何度か聴いている。
多チャンネルの再生方式に関心がまったくないわけではない。
それに2013年、船橋のTOHOシネマズが、
日本で初めてDolby Atmosを導入した時に、スタートレックを観にいっていることは、
別項に書いているとおりである。
このときの驚きは、そうとうに大きかった。
だからDolby Atmosへの期待を書いているし、
Dolby Atmosで観られる映画はできるだけ観るようにしていた。
Dolby Atmosの登場がきっかけとなって、
映画館で映画を観る回数が増えていった。
このころから映画館が輝きを取り戻したようにも感じたから、である。
そのDolby Atmosが音楽再生にも採用されるようになったのは数年前からだ。
関心はあるものの、だからといって積極的に自分で対応機器を購入してまで聴きたい──、
そこまでの積極性は持っていない。
そうであっても、よりよい条件でDolby Atmosで音楽を再生すると、
どういう感じ方になるのかは、一度体験しておきたい。
ここ一、二年はそう思うことが増えてきたからこそ、
今回の「狂気」のDolby Atmos Mixは聴き逃せなかった。
「狂気」のDolby Atmos Mixの試聴会は、さわりだけの試聴会ではない。
アルバムの最初から終りまで聴かせてくれた。
最初に簡単な挨拶があっただけで、すぐに「狂気」がDolby Atmos Mixで鳴ってきた。
「五味オーディオ教室」を出発点とする者にとって、
五味先生のこの文章は強烈な真理として刻まれている。
*
そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき〝音の革命〟をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
2チャンネルは、断じて4チャンネルより高級
いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
*
1976年のころの話だから、このころの4チャンネルはアナログ信号処理による。
現在の多チャンネルは、いうまでもなくデジタル信号処理による。
それに1976年当時と現在のオーディオ機器とでは、物理的なS/N比も違う。
その意味では、物理的な静寂さはある程度確保されている、といえる。
けれど、五味先生は書かれている、
《ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある》と。
このことに関しては、物理的なS/N比だけの問題ではない。
昨年8月に、別項でHDtracksが、MQAを取り扱うようになったことを書いている。
HDtracksを利用したことがないので知らなかったのだが、
MQAが登場したばかりのころ、HDtracksはMQAを取り扱っていた。
けれどHDtracksのエンジニア(たぶんノーマン・チェスキーのことなのだろう)が、
途中でMQAの評価を変えてしまい、扱わなくなった、とのこと。
それが昨夏、ふたたびMQAを取り扱うようになったということは、
そのエンジニアがMQAの評価をまた変えた、ということなのだろうか。
前回、そして今回、なぜ変えたのか。
その理由は何も知らない。
けれど、それでいい。
MQAを扱うところが増えてくる。
それだけでいい。
ロベルト・シュトルツのCDをまったく持っていないわけではないが、
それらのCDはシュトルツを聴きたくて買った、というよりも、
共演者を聴きたいというのが目的での購入だった。
シュトルツの指揮ぶりをまったく聴いていないわけではないが、
熱心な聴き手ではなかった。
なのにここ数日、シュトルツをわりと聴いているのはTIDALを使っているからだ。
けっこうな数のアルバムが、TIDALで聴ける。
しかもMQAで聴けるアルバムもけっこうある。
急にシュトルツを聴こうと思い立ったのには、特にこれといった理由はない。
TIDALであれこれ検索していっている際に、おすすめのところにRobert Stolzと表示されたからだ。
いまのところRCAの録音とオイロディスクの録音を聴いていた。
どちらもMQAで聴ける。
どちらもなかなか楽しいアルバムなのだが、
録音の傾向はかなり違う。
オイロディスクは、なんとも色濃い録音なのだ。
シュトルツは1975年に亡くなっている。
RCAもオイロディスクも、最新録音ではない。
最新録音でなくてよかったかもしれない、と特にオイロディスクの録音を聴いているとおもう。
こういう録音は、いまではどこもやらないだろう。
MQAで聴いていると、RCAとオイロディスクの録音の傾向の違いも、明瞭となる。
ピンク・フロイドの「狂気」の発売は1973年。
2003年には30周年ということでSACDで出た。
今年は50周年ということで、ボックスセットが発売になっている。
このボックスセットは盛りだくさんな内容で、
Dolby Atmos MixがBlu-rayディスクに収録されている。
2003年のSACDには5.1チャンネル仕様で、今回のDolby Atmos Mixは7.1.4チャンネルである。
SACDの5.1チャンネルは聴く機会はなかった。
今回のDolby Atmos Mixは、RITTOR BASEでのイベントで聴くことができた。
RITTOR BASEはリットーミュージックが御茶ノ水に開設した多目的スペース。
一度は行ってみたい(聴いてみたい)と思っていただけに、
今回のイベントは、「狂気』がDolby Atmos Mixで聴けるのならば、
この機会を逃したら、たぶん聴くことはないだろうから、ということで行ってきた。
RITTOR BASEに着くと、椅子の上に今回の50周年ボックスのチラシが置いてあった。
そこには、RITTOR BASEディレクターの國﨑 晋氏のコメントが載っている。
*
数え切れないほど聴き、すべての音を把握していたつもりのこの名盤に、さらなる深みがあったことに心底驚いている。ステレオのキャンパスでは収まらなかった、5.1chサラウンドの地平でも望めなかった、ピンク・フロイド『狂気』の真の姿が、Dolby Atmosによってついに解き放たれたとしか思えない。
*
これを聴く前に読むのだから、期待は大きくなる。
インターネット・オークションといえば、日本ではヤフオク!となる。
ヤフオク!を頻繁に利用はしないけれど、
こんな値段で落札できていいの? と思ってしまうほど、
以前から欲しかったオーディオ機器をいくつか落札したことは別項で書いている。
こういうモノがあるのか、と思う反面、
オーディオに関しては弱いな、とつねづね感じている面もある。
そういうところが、eBayは違う。
製造中止になっているオーディオ機器の補修パーツならば、
ヤフオク!はほとんど頼りにならない。
eBayである。
今月は、三つほど、eBayで補修パーツを手に入れた。
送料が高いのは海外からなのでしかたない。
補修パーツ自体は良心的な価格だった。
eBayの品揃えの豊かさを眺めながら、ヤフオク!と比較してしまうと、
こういうところでも取り残されつつあるような──、そんな感じを受けてしまう。
TIDALという巨大な書店を楽しむには、
そしてうまく使いこなすには、roonが必要と考える。
roonについての説明は省く。
このブログを読んでいる人は、当然のことなのだが、
インターネットを使っているわけだし、roonについて調べるのは難しいことではない。
先日、roonを購入した。
roonの支払いは、月払い、年払い、そして買い切りが用意されている。
今回、買い切り(829.99ドル)で支払った。
去年まで699.99ドルだった。
値上げ前に、と考えていたけれど、あれこれあって値上げ後になってしまった。
安いにこしたことはない。
現在の為替レートでは、十万円を超える。
十万円ちょっとあれば、あれが買えるのではないか──、
そんなことをつい思ってしまうけれど、今回のroonの買い切りを後悔はしていない。
roonの音がみすぼらしく聴こえてしまうほど、
素晴らしい再生アプリケーションが今後登場してくるかもしれない。
そうなったらなったで、再生には、音のよいアプリケーションを使う。
けれど、そのアプリケーションがTIDALを検索していくのに最適なものかどうか、
それはなんともいえないことだし、roon独自のデータベースは一朝一夕に構築できるものではない。
それに今後ずっと買い切りが用意されるという保証もどこにもない。
月払い、年払いだけになる可能性も考えられる。
第七回audio wednesday (next decade)は、4月5日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
(その11)に、facebookにコメントがあった。
ゾノトーンのツイートへのリンクがあった。
そのゾノトーンのツイートは知っていた。
どんな内容かといえば、オーディオアクセサリーを購入する際、
頼りにする情報源は何か、というアンケートである。
結果は、
メーカー発信情報が11%、
オーディオショップ意見が13%、
オーディオ雑誌社の記事が6%、
その他インターネット情報が70%、
である。
メーカー発信情報もインターネットでのことだろうから、
その他インターネット情報とあわせると81%となる。
オーディオ雑誌は、わずか6%である。
このリンクを投稿された方も指摘されているが、
この結果は、ソーシャルメディア上でのものだから、
この数字をそのまま鵜呑みにはできない面もある。
それでもインターネット上の情報を頼りにする人は、かなり多いとはいえよう。
だから、現実にはオーディオ雑誌は読まれていない、
だから封殺も何もない──、とコメントにはあった。
コロナ禍前だったら、今回のコメントにかなり同意しただろうが、
コロナ禍を経て、オーディオマニアのインターネットの活用の具合を、
少しばかり知ることで、実際はけっこう違っている、という認識をもつにいたっている。
ゾノトーンのアンケートは、比較的若い世代の方によるものだろう。
一方、ステレオサウンドの読者の年齢層は、60代より上である。