スピーカーの述懐(その57)
いわゆる耳のいい人というのは、割といるものだ。
細かな音の違いを聴き分ける人で、
破綻のない文章が書けて、オーディオの技術にも、ある程度明るいと思われていれば、
オーディオ評論家として食っていけるであろう。
もちろん周りへの配慮、営業力みたいなことも求められるけれど、
いまオーディオ評論家として食っていけていても、
その人たちをオーディオ評論家(職能家)と呼べないのは、
洞察力が欠けているからではないのか。
いわゆる耳のいい人というのは、割といるものだ。
細かな音の違いを聴き分ける人で、
破綻のない文章が書けて、オーディオの技術にも、ある程度明るいと思われていれば、
オーディオ評論家として食っていけるであろう。
もちろん周りへの配慮、営業力みたいなことも求められるけれど、
いまオーディオ評論家として食っていけていても、
その人たちをオーディオ評論家(職能家)と呼べないのは、
洞察力が欠けているからではないのか。
roon rockとして使っているNUCの電源として、
スーパーシャントレギュレーターが最良の結果をもたらすかどうかは、わからない。
それでも一度は、その音を聴いてみたい。
となると、市販品ではないし、これから先も登場してくるとは考えられない。
自分で作って試すしかないわけだが、
これでもし非常にいい結果が得られたとして、実際に使うのかとなると、
正直なんとも言えない。
発熱の多さをどうするかだ。
ヒートシンクにかなり大型なモノを使えば、自然空冷でもなんとかなるだろうが、
NUCは常に通電しているから、その電源も常に発熱していることになる。
しかも半端な発熱ではないわけで、
冬ならばまだいいだろうが、真夏になると、NUCを置いている部屋のクーラーはつけっぱなしになるはず。
スーパーシャントレギュレーターによるNUCで楽しみたい気持はかなりあるが、
熱の問題を考えると、二の足を踏む。
NUCの電源としてスーパーシャントレギュレーターは、
馬鹿げているといえば、その通りだ。
それでも聴いてみたい、と思うとともに、
聴いてしまうと後戻りはできないことになるかもしれない──。
そんなことを頭の中だけであれこれ考えていると、
スイッチング電源の存在が大きくなってくる。
日本に輸入されていない海外のオーディオ・ブランドは、いくつもある。
過去に輸入されていたけれど、いまは取り扱う会社がなくて、という場合もある。
新たな輸入元ができて、取り扱い再開というケースもある。
今年になって、SMEが輸入されなくなった、という話を聞いた。
一時期輸入が途絶えていたSMEだが、2020年からリジェールが取り扱うことになった。
インターナショナルオーディオショウにも出展していた。
なので、リジェールがやっているのでは? とまず思ったわけだが、
確認のためと思い、昨晩、SMEのウェブサイトを見てみた。
リジェールのウェブサイトでは、SMEをいまも扱っている。
少なくともウェブサイト上では、そうなっている。
SMEのウェブサイトでは、日本の取り扱いに関しては、
“Contact SME direct”と表示される。
つまり日本には輸入元が存在しないことになる。
roon rockとして使っているNUCの電源として、
リニア電源を用意するならば、安定化回路はシャント型を、一度は試してみたい。
1978年にスタックスがCA-Xというコントロールアンプを出した。
当時の国産アンプには珍しい外部電源方式で、
電源部はアンプ部よりもはるかに大きく重かった。
ちょっとしたプリメインアンプほどの電源部だった。
スタックスがCA-Xのために開発したのが、
スーパーシャントレギュレーターと名付けられた回路だった。
そのころの安定化電源の回路といえば、大半がシリーズ型だった。
スタックス以前にシャント型を採用していた会社は、どれだけあっただろうか。
しかもスタックスは、スーパーを付けている。
当時のラジオ技術では、このスーパーシャントレギュレーター回路についての記事が、いくつかあった。
そのころのラジオ技術の執筆者の一人、石井義治氏は、
まずコントロールアンプに採用、その後パワーアンプ、
それも出力段までスーパーシャントレギュレーター回路で安定化するという、
なかなかすごい内容の自作アンプ記事が載っていた。
確かA級動作で、出力は15Wだったと記憶している。
出力段の電源まで安定化したアンプは、テクニクスがすでにやっていたし、
マークレビンソンのML2もそうであり、少ないながら前例はあった。
けれどシャント型安定化電源を採用していたわけではなかった。
スーパーシャントレギュレーターは、回路を見ればわかるが、とにかく発熱が大きい。
シャント型はシリーズ型よりも発熱が大きいのだが、
スーパーシャントレギュレーターは、さらに発熱する箇所が通常のシャント型よりも多い。
そんなスーパーシャントレギュレーター回路を、大電流を扱うパワーアンプの出力段に採用することは、
スタックスでもすぐにはやらなかったことである。
そんなことをこの時代のラジオ技術は自作アンプ記事として掲載していた。
石井義治氏の記事はスーパーシャントレギュレーター回路の設計方法まで載っていた。
音も音楽も所有できない。
オーディオにゴールはない、通過点があるだけだ。
私は、そういう考えでオーディオをやっているし、
オーディオで音楽を聴いている。
もちろん、私と正反対な考えもいる。
それはそれでいい。
私と同じに考える人、
正反対に、音も音楽も所有できる、
ゴールはあり、それを目指している人。
大切なのは、前者の場合、存在の「重さ」のはずだ。
HiVi 2025年春号が、Kindle Unlimitedで読める。
特集は、Qobuz。
読み応えがあった。
ステレオサウンドの記事とは、真剣度が違う。
昨年10月下旬に日本でのサービスが開始になった。
関心を持っているけれど──、という人は少なくないと思う。
いきなり高額な機器を導入して、ということにためらいもあるだろう。
そういう人にとっても、HiViの今号は役に立たはず。
QobuzもTIDALもスマートフォンとヘッドフォン(イヤフォン)、
それに小型のD/Aコンバーター兼ヘッドフォンアンプがあればすぐにでも始められる。
そして予算に応じて、いくつものアプローチがあるわけで、
そこらあたりについてもきちんと取り上げている。
どの段階から始めるのかはその人次第なのだが、一人でいくつもの段階を楽しんでもいいわけで、
今号のHiViは、その点でも実用的であり、
製品情報も表によってある程度整理されている。
これらの情報は、インターネットで収集できることといえばそうなのだが、
今号の、HiViは一冊にまとめている。
HiViは月刊誌から季刊誌になったことが活かされている。
ステレオサウンドの取り組み方のぬるさとは対照的でもある。
黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
*
今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
*
私にとってのシーメンスのEurodynは、まさにフルトヴェングラー的存在である。
少しもスマートなスピーカーではない。
造りも音も、佇まいもそうである。
スピーカー本体としてはそれほど大きくもないし、重くもないが、
この劇場用スピーカーは、平面バッフルとして、2m×2mほどの大きさを要求するし、当然部屋の広さも、それに見合うほどを要求する。
何もかもがスマートではない。
けれど、Eurodynがきちんと鳴った音を聴けば、《時代の忘れ物》に聴き手は気づくはずだ。
気づかない人もいよう。そういう人はフルトヴェングラーの演奏を聴いても、そうなのだろう。
とにかくEurodynは、そういうスピーカーだから、
アンプを選ぶともいえる。
そんなEurodynにアインシュタインのOTLアンプを接いだ音に、
私は違和感を覚えることなく音楽を聴けたし、
この組合せで、クナッパーツブッシュの「パルジファル」、
それもMQAで、さらにはメリディアンのULTRA DACで聴けたらな──、
そんなことまで想っていた。
先週、映画「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」を観てきた。
そろそろ大スクリーンでの上映も終りになるころだろうから、
それにちょうど時間も空いたので、観た。
主人公は、タイトルが示す通りキャプテン・アメリカ。
初代のキャプテン・アメリカではなく、二代目のキャプテン・アメリカ。
二代目は、初代とは違い、血清による超人的な力は持っていない。
それでもキャプテン・アメリカなのだが、観ているうちにキャプテンとリーダーの違いについて、なんとなく考え始めていた。
「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」中でのリーダーは、
ハリソン・フォード演ずるアメリカ大統領である。
だからキャプテン・アメリカはアメリカのリーダーではないのか、
キャプテンとつくぐらいなのだから、キャプテンなのか。
リーダーとキャプテンの違いは──、
この項で書いているオーディオ・ジャーナリズムにおけるリーダーとキャプテンとは?
そんなことを考えるようになっていた。
《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
ステレオサウンド 61号(1981年12月発売)、
「さらに聴きとるものとの対話を 内藤忠行の音」で、黒田先生が書かれている。
1981年は四十年以上前。
恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代が、いまも続いているどころか、
ひどくなっている。
恥じらいが失われつつあるからなのか。
だとしたら、なぜそんなふうになっていったのか。
そして、このことは人に限ったことでもない。
オーディオ機器、それもハイエンドオーディオ機器の中には、
そう感じてしまうモノがないわけではない。
音のためだったら──、なんでもやっていいのだろうか。
スピーカーが、どんな表情で鳴っているのか(歌っているのか)。
怒り顔で鳴っているのか、苦虫を噛み潰したよう顔で、なのか、
寂しそうな表情なのか、まったくの無表情なのか、
それとも微笑んでるのか。
そのことに無頓着で、スピーカーを鳴らした、とは言えない。
スピーカーからの音を聴いているとき、
目の前を人がよぎれば、音は変化して聴こえる。
どんなに音に無頓着な人でも、
目を閉じて聴いていたとしても、
スピーカーと自分との間を誰かか歩いていくわけだから、
音が変化するのは、わかるものだ。
ただスピーカーによって変化量は違ってくる。
Ktêmaは、その変化量が少ない。
音が変化しないわけではないが、極端に変るスピーカーもけっこう数多く存在するなかで、
Ktêmaは変化量の、かなり少ないスピーカーといえる。
エンクロージュアの形からくる効果なのか、独特のユニット配置からくることなのか、
これら二つがうまく作用してのことなのか、
いまのところなんとも言えないし、どういうことをもたらしているのか、
そのこともわからないが、
これからKtêmaを聴く機会がある人は、このことにも関心を払ってほしい。
別項で、
音は、オーディオはどこまで行っても通過点である、と書いたばかりだ。
このことは言い換えれば、ゴールはない、ということでもある。
オーディオマニアの中には、ゴールに最短距離で進んでいると豪語する人がいる。
その人はそれでいい。とやかくいうことでもない。
私とは、音、オーディオの捉え方がまるで違うのだろう。
くり返す、
音は、オーディオはどこまで行っても通過点である。
だからこそ「終のスピーカー」を求めていたのかもしれない。
4310から続くシリーズは、いまも作られている。
4311になり、いまは4312となり、型番末尾にアルファベットがつくようになった。
ロングセラーモデルといえるわけだが、ロングライフモデルとも思っていた。
けれど最近は、少し考えを改めた。
なぜJBLは、4312SEからウーファーにローパスフィルターを足すようになったのか。
4310から4311、4312の途中までの特色は、
ウーファーにはネットワーク(フィルター)が介在しないことでだった。
このことによる音の特徴はあったわけで、それをJBLは辞めてしまった理由について考えると、
時代にそぐわなくなったということもあるだろうが、
長く使っていることて生じる劣化もあるのではないのか。
ローパスフィルターを必要としない設計のウーファーは、
ボイスコイルボビンとコーン紙の接合にコンプライアンスを持たせる。
このコンプライアンスによってメカニカルフィルターを形成しているわけだが、
この部分は経年変化によって、どう変化していくのだろうか。
硬くなっていくとしたら、メカニカルフィルターが効かなくなってくるわけで、
スコーカーの帯域までウーファーからの音がかぶってしまうようになるし、
反対に柔らかくなれば、メカニカルフィルターの効きが、より低い周波数に移行することになり、
スコーカーの受持帯域との間にギャップを生じることになるはずだ。
実際のところ、どうなのだろうか。
私の周りには、以前鳴らしていたことはある人はいるけれど、いまも鳴らしている(長いこと使っている)人はいないから、
確かめようがないが、初期特性を維持したまま鳴っているとは考えにくい。
このことを配慮しての4312SEなのかもしれない。
ソーシャルメディアを眺めていたら、B&OのBeogram 4000の写真が表示された。
サンローランから、Beogram 4000Cとして、10台のみ発売になる、というニュースだった。
日本語で、これを伝えているサイトでは550,000円としていたが、
サンローランのウェブサイトを見ると、5,500,000円と一桁違う。
完全な新品ではない。
これを高いと感じるのか、安いとするのか。
人それぞれの価値観によって違ってくるだろうが、
私がまず思ったのは、故障したらどうなるのかだ。
B&Oが完全に修理してくれるのか。
もともと故障しやすいモデルであるし、
カートリッジもB&Oのモノしか使えないから、
カートリッジの針交換は、どうなるのか。
そんなアフターサービスのことをまず思った。
このモデルをためらいなくポンと購入できる人は、そんなことを心配しないのか。
トロフィーオーディオとして飾っておくだけのモノならば、
それでもいいのだろうけど。
2月のaudio wednesdayでは、Ktêmaを正面、もしくは少しずれた位置で聴いた。
3月の会では、右チャンネルのKtêmaのほぼ真横で聴いている。
こんな位置で聴いていても、なんとなくステレオ的に聴こえていた。
同じことを、来られた方からも聞いている。
これはKtêmaだからなのか。
それもある。
けれどそれだけではない。
四谷三丁目の喫茶茶会記でも、同じ体験をしている。
スピーカーは、もちろんKtêmaではなかった。
アルテックの2ウェイに、JBLの075を足したシステムだった。
この時、少しばかり席を外して戻ってきたとき、ドア付近で立って聴いていたのだが、
その時の感じが、今回に近かった。
この時は左チャンネルのスピーカーよりも外側で聴いていたのだが、
コンサートでその位置からステージを見ているような感じで、音が定位していた。
不思議な感じだった。
この時感じたことを、ブログに書こうと思いつつも、そのまま書かずにいた。
今回、同じ感覚を味わって書いている。
スピーカーも違う、アンプも違う、部屋も違う。
共通していたのは、メリディアンのULTRA DACでMQA-CDを鳴らしていたことだ。