真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その16)
カノア・オーディオのAI 1.10が、けっこう気になっている。
OTOTENで、ジャーマン・フィジックスのHRS130をうまく鳴らしていたということもあるが、
フロントパネルがあるという点も、私にとっては大きい。
(その15)で書いているように、
管球式プリメインアンプには、フロントパネルがついていてほしい。
出力管が見えているスタイルのほうが好き、という人もいる。
でも、それは管球式パワーアンプですむ。
管球式パワーアンプ(フロントパネルなし)に、
ツマミを数個つけただけの管球式プリメインアンプには、
その音が魅力的であろうと、個人的にはさほど魅力を感じることはない。
管球式プリメインアンプはこれからも登場するだろうが、
フロントパネルをもつ管球式プリメインアンプは、もう絶滅機種かもしれない──、
と(その15)では書いたけれど、AI 1.10が登場した。
これに続く管球式プリメインアンプが他社からも登場してほしい。
REPLY))
いつも拝読しております。ありがとうございます。
真空管プリメインアンプからフロント・パネルが無くなった理由について考えてみました。
・素子として高価である真空管が一目で見える
・真空管のメカニズムに触れることができる
・経費節約
素子として高価なものを前面に出す理由は、ユーザー側の虚栄心を満たします。反対にパネル代が浮くという利点はメーカーサイドの視点です。視点は異なりますが、この二つは競争主義がその要因です。
真空管のメカニズムに触れる目的は、真空管を見る機会が少なくなったためではないでしょうか。確かに真空管には小さな都市とも呼べる美しい情景があります。機構の透過されたデザイニングによって、見る者への科学に対するインテリジェンスの拡張が見込まれます。
フロント・パネルが無くなったことによる損失については、コンソールとしての魅力が落ちたということが、まず第一に挙げられるのではないでしょうか。自動車が、決して全自動では動いてくれないように、アンプを作動させることについても、ボリュームを操作するという能動性から逃れることはできません。フロント・パネルの存在によって、そこに生じていた、音楽に対するクリエイティビティが、多少ならずとも損失していることは指摘できるかと思います。返して言えば、これは大衆における音楽への能動性が、低下している証拠とも言えることで、リスナーが受動的になっていることを反映していると紐づけることができます。
先にも述べたように、フロント・パネルを排することは、メカニズムに対する知性を拡張するということになりえるでしょう。しかしながら、オーディオが科学に偏る事については反駁の余地があります。科学は理系学問の最高峰であり、多くの発明を生み出すことができます。ところが、生み出されたそれというのは、平和利用にも兵器にもなり得るのです。それを取り締まることができるのは、法学を始めとする文系分野の学問の仕事です。法の原則として、法学の基礎は良心によって構築されています。裁判官の良心は国語、哲学、倫理学などによってバックアップされていますが、さらに単語と単語の間に存在する複雑な感情の機微を表現する手段として、音楽が存在しています。またさらに、目で見て異変を感じる能力を育む役割として、芸術が存在します。幾何と数学が理系の基盤を支えているように、音楽と芸術が文系学問の根幹を担っています。そういった理由によって、リベラル・アートには音楽が含まれているわけです。
もちろん、音楽のすべてが芸術と結びつくというものではありません。ですが、音楽において芸術的な側面というものは無視するわけにはいきません。ですから、芸術的な感性を刺激しない製品というのは、音楽を奏でる製品として一つの要素が欠落していると言えると思うのです。
私は優れたアンプならば、デザインの面においても、何らかの感動や示唆を与えるものであってほしいと考えます。以前、宮崎さんがおっしゃっていたJBLのSA750のデザインについての一連の文章、私はまったく同感と思いながら読んでおりました。
このページの読者に説明は不要でしょうが、説明責任を果たす為に、一応、簡単に説明致します。SA750とは、JBLの名器であるSA600というアンプリファイアをオマージュしたJBLの新製品のことです。宮崎さんは、この新しくオマージュされたSA750のデザインに難色を示されたというわけです。私はこれに大いに共感した次第なのです。
ちなみに旧式のSA600は、管球式ではなくトランジスター式のプリメインアンプです。しかしながら、実に風格のある素晴らしいデザインを持っていました。あのノブの、先端の鋭利に尖ったデザイン。そこには、留まることを恐れない先進性と、前進する勇気のようなものが感じられます。それでいて、落ち着いたラグジュアリーな顔も同時に持ち合わせています。その顔というのは、本当に情熱のある人が、内なる情熱を抑えたときの静けさと似た理性であり、一人の健全な市民が、確かな自我を持って生活しているというイメージを彷彿とさせます。そこにあらわれる生命の活力というものは、見る者を圧倒し、示唆し、罪悪感さえも抱かせる力を持っているのです。
いま話題のAIにしてもオーディオにしても、これらはいずれも科学の産物であることに変わりはありません。科学の産物ということは、人間の道具であるというです。人間が勝手に作って、勝手に使っているものですから、人間の為に存在しています。学問における文系領域は科学を始めとする理系領域へのアンチテーゼとならなければなりません。人文を支える音楽が、音響装置に支えられているという現状から考えても、我々はもっとオーディオに厳しくなる必要があるでしょう。
巷に溢れた粗末なオーディオ。それらが奏でる音楽を聞いていると、Cメジャー7のコードがEマイナーのように聞こえることが多いのです。低音の不足によって、和声が崩れているわけですね。こうしたサウンド・デザインの反乱は、人間の良心を司る精神を破壊できる一つの要因となっていると思います。都市化する社会に順応することで培われた現代人の鋼のメンタリティは、何を生み出すのでしょうか。
今、経済学的に生産的なことが、環境学的な観点から見ると非生産なことになっているという、極端な事柄が多くなっているようです。オルテガは「専門家こそが大衆的人間の代表である。大衆とは、特別な資質を持たない一般的な人間だ。」と述べました。(ホセ・オルテガ著『大衆の反逆』)
さらにル・ボンは彼の著書「群衆心理」の中で、このように語っています。
「群衆の持つ第三の性質は、感情が単純で誇張的であるということだ。群衆は、微妙なニュアンスを理解しようとせず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。また、自分の持っている感情が、一般の賛成を得ると、著しくその力を増大させる。そのため彼らは、極端から極端へと走りやすいのである。」
彼らは、産業の細分化が、市民からコモンセンスを奪い、烏合の衆を形成させるという、都市化によるメカニズムについて考察しています。考える能力も感じる能力も奪われ、それによって生ずる極端な性質が、社会的に不和をもたらすと述べているわけです。
極端で、感情の微妙なニュアンスが理解できない人物というのは、言葉から言葉へと感情が移ろいやすい傾向にあります。物事を点で捉え、時間軸の中を推移する線を理解できません。音楽とは時間の芸術ですから、私は、こうした大衆の持つ負の側面を変転させる段階的なプロセスとして、音楽教育の強化に意義を見出します。
また、真の音楽教育とは、家庭などインティメート(親密)なスペースで行うべきものであり、良質なコンポーネントの民主化が必要だと思っています。
家庭内における文化資本の再生産を考える上で、オーディオを使用することが、最も民主的、市民的、かつ生産的(LIVE)であると思われるのです。
LIVEとEVIL、それを明確に定義づけるためには、環境学の民主化が必要です。国民主権の民主社会の中で、我々市民(citizen)がその事実に気が付くためには、人文への情操が必要であり、その最も根幹を担う音楽と芸術が、重要であると私は考えます。
1969年、経済学者アイクマンの提唱によって新自由主義が広まります。チェルノブイリによるソ連崩壊、共産主義の転落によって、この新しいムーブメントに拍車がかかりました。こうして、急速に蔓延した自由競争社会の中で組織は、生存性を高めるために低俗化を計らうようになっていきました。各種コンテンツも、これに従って低俗化が進んでいくことになります。
最も低俗化したコンテンツがポルノです。性的ポルノ、フードポルノ、感動ポルノ。こうしたコンテンツは、極端な性質を持ち、論理的な整合性や、均衡、中庸性が無視された、分かりやすい虚構によって成り立っています。フードポルノは「おいしいけれど、身体に悪い」性的ポルノは「あなたは野蛮なままでよい」感動ポルノは「これで泣けたら、あなたは善人です。もう何も成長しなくても良い」というメッセージが込められています。こうした低俗化したコンテンツは、示唆を嫌い、成長欲求の動機付けとなる感動を、排除する性質を大衆に植え付けました。
オーディオのみならず、家電や自動車、あるいはインテリア、都市設計といった、あらゆるものが、低俗化し、成熟する事を否定するようになったように思います。我々ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)は、種としてネオテニー(幼体成熟)な存在であり、「超人とは幼子の精神を宿した者である」とニーチェは言いましたが、(ニーチェ著『ツラトゥストラ』)本当の幼子の姿というものは「大人になろうとする者」の姿であるはずです。本当の子供は「子供でいたい」などと考えないのです。
話を元にもどしますが、私も真空管式のプリメインアンプは、やはりフロント・パネルが付いていて欲しいと考えるほうです。熱効率の点で難がありますが、それを差し引いてもフロント・パネルが欲しいと思うのは、コンソール・パネルというものが、音楽を生み出すクリエイティビティを育む性質があると考えるからです。
たとえそれがボリュームとセレクタのみという顔を持っていたとしても、パネルというものが持つ、芸術的な情動への働きかけを選択したいのです。字を書くにしても、ハンドルを握るにしても、人間のアウトプットは筋肉を使います。―ですから、リベラル・アート(教養)には体育が含まれているわけで・・・―、オーディオの操作も同様です。コンソール・パネルというのは、言うなればコクピットのようなものです。触覚にうったえかけ、筋肉を動かすことによって生み出される人間の情操というものが、人間らしさを育み、さらには良心、倫理、哲学という観点を生み出す要素となり得るわけです。
私が最も愛した真空管のプリメインアンプはエロイカ電子工学のオールマイティ55というアンプです。このアンプは非常に強い示唆を私に与えました。エロイカというのは英雄という意味ですね、命名はベートーベンから来ていると思うのですが・・・。オールマイティというのは全知全能という意味です。その名のごとく風格のあるアンプでした。55という型番ですが、これはフィフティ/フィフティという意味ではないかと思います。全体的に透明感のある音質でしたが、非力ということはありませんでした。なにより時間軸に伴った音の動きに、相当の説得力がありました。数年前に重篤な故障を起こし今は動いていませんが、保管を続けています。
シルバーのトップパネルを持っていて、トーンコントロールの部分だけブラックのパネルでデコレーションされているのですが、そのバイトーンの配色が陳腐でないところが良かったです。ノブのコンポジションも絶妙な隙と色気があり、センシュアルな外観を持っていました。
少し長くなりましたので、このあたりで文を結びたいところです。
ところで宮崎さんに質問したいのですが、宮崎さんの思う真空管プリメインアンプのベスト・デザインを、ぜひ教えてください。また、その理由についてもお聞かせいただけると嬉しい限りです!