戻っていく感覚(再会という選択)
「戻っていく感覚」というテーマで書いている。
昨年の10月から書き始めた。
今年は、もっと書いていこうと考えている。
昨晩書いた「オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択)」も、
やはり戻っていく感覚なのだろうか、といま思っている。
「戻っていく感覚」というテーマで書いている。
昨年の10月から書き始めた。
今年は、もっと書いていこうと考えている。
昨晩書いた「オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択)」も、
やはり戻っていく感覚なのだろうか、といま思っている。
ドンシャリ、という表現があった。
いまも使うようではあるが、以前からするとオーディオ雑誌で目にすることはかなり減ったし、
オーディオマニア同士の会話でも(少なくとも私の周りでは)、
ドンシャリという単語を耳にすることはほとんどない。
説明するまでもないと思うが、ドンシャリとは
低音がドンドン、高音がシャリシャリと表現されるような音のことだ。
日本の、ずっと以前のオーディオ機器(特にスピーカー)は、ドンシャリの傾向が強いといわれていた。
けれど、中音域が大事だという動き・考えが起ってきて、やがてドンシャリ型の音は消えていった。
いわばドンシャリ型とはナローレンジのカマボコ型とは正反対の特性の音ともいえ、
それは技術が進歩して低域も高域も、以前より延ばせるようになってきたから登場したといえるだろう。
私がオーディオに興味を持ち始めたころは、ドンシャリ型の音は消えはじめていた。
ところが、面白いことにアメリカからドンシャリ型のスピーカーシステムが登場するようになっていた。
ステレオサウンド 60号・特集の座談会で瀬川先生が、そのことについて語られている。
*
彼らが挑戦しようとしている過去のアメリカの音というは、非常に乱暴な分類をしてしまうと、スピーカーでいえばカマボコ型の特性をしている。中域をたっぷりさせて、高域と低域はスローダウンさせる。それはアルテックだけに限らず、JBLだって初期のスピーカーはそうだし、エレクトロボイスにしても、ARにしてもいってみればカマボコ型だったそこで、それらの反動として、いまのアメリカ若い世代は、突然低域と高域を強調した「ドンシャリ」に目覚めたのではないかと思います。このドンシャリというのは、カマボコ特性に対するものとしていっているので、決して悪い意味でいっているわけではありません。これはぼくの勝手な思い込みではなくて、何人かの若いオーディオファイルやオーディオ関係者に会って、彼らの音を聴かせてもらってわかったことなのです。いままでのアメリカのスピーカーでは出なかったところのハイエンドやローエンドに、絶対彼らはびっくりしていると思う。このIRSというスピーカーにしても、そのドンシャリ型の音を彼らの現在の理論、方法論でどこまで煮詰めていけるかというような考え方の一つの現れではないかと思います。
日本でもかつてドンシャリ時代がありましたよね。それに対して、中音も大事にしようという動きが起こってきて、そのうちにアメリカやイギリスのバランスのいいスピーカーがだんだん日本に入ってくるようになり、本当に低音から高音まできちんとエネルギーバランスのとれた音はどういう音かということを、ようやく日本人もここ数年来広く理解するようになってきた。ところが、アメリカというのは、その点もう一遍本卦還りしているんじゃないですか。つまり、菅野さんも言われたように、アメリカの過去のオーディオの黄金時代をつくった人間が齢をとってしまった、という思い込みから、しかもその良き伝統を受け継いでいないから、アメリカの若い世代のエンジニアというのはまったくのゼロからスタートしているのです。ゼロからスタートするとやはり、まずドンシャリにひっかかりますよね。これはいまの世代の人にかぎらないと思う。個人的には、少し幼いところがあるという感じがするのですが、こういうものを果敢につくる開拓精神というのはすごいものだと思います。
*
「ゼロからスタートするとやはり、まずドンシャリにひっかかりますよね」とある。
facebookのタイムラインに表示されていて読んでみて、驚いた。
そこに引用されていたのは,次の文章だった。
*
北口 ちょっと話の腰を折ってしまうんですけど、スピーカーでハイレゾって聴けるんですか?
井上 聴けます。
北口 それは、みんながふつうに持っているもので?
井上 いや、ハイレゾに対応しているスピーカーじゃないと無理ですね。あ、でも、本当に昔から出ているような、ひとつ100万円とかするようなものだと、対応しているものもあります。スタジオなどで使っているスピーカーなどはそういうものですね。
*
このとんでもないことを話している井上という人を、最初はIT関係のライターだと思った。
けれど、リンク先の記事を読むと、そこには「ソニーのビデオ&サウンド事業本部」とある。
ソニーの社員によるハイレゾ解説が、このレベルであるのを、どう受けとったらいいのだろうか。
ソニーの社員が話したことであるから、多くの人がこれをソニーの見解として受けとめてもおかしくはない。
ハイレゾに興味をもちはじめている人がこれを読んだら、どう思うのか。
そして、個人的にもっとも驚いたというか、
ほんとうなのか、と目を疑ったのは、この井上という人のフルネームだった。
そこには、井上卓也、とあった。
同姓同名の人はいる。
オーディオ業界にもいて不思議はない。
けれど、よりによって井上先生と同姓同名の人が、こんないいかげんなことを話している……。
貧すれば鈍す、なのだろうか。
1992年、サザーランドからC1000というコントロールアンプが登場した。
ステレオサウンドの新製品紹介のページで、C1000を見た時に「やられたぁ」と思っていた。
そう思ったのにはいくつか理由があるが、
そのひとつはB&Oの4チャンネル・レシーバーBeomaster6000のことがあったからだ。
前回も書いたが、もう一度書いておく。
B&OにはBeomaster6000という型番の製品が二機種ある。
ひとつはよく知られている、1980年代のレシーバーで、
私がここで書いているのは1974年に登場したBeomaster6000のことである。
Googleで画像検索すれば、どちらのBeomaster6000もヒットする。
見てもらえば、どちらなのかはすぐおわかりいただけるはずだ。
4チャンネル・レシーバー、つまり古い方のBeomaster6000を最初に見たのは、
なんだったのかはもう憶えていない。
それでも、これが4チャンネル・レシーバーではなくコントロールアンプだったら……、
と強烈に思ったことは憶えている。
サザーランドのC1000を見た時、
このコントロールアンプの開発者もBeomaster6000を知っているはず、とだから思ってしまった。
それゆえの「やられたぁ」だった。
C1000の開発者がBeomaster6000を知っていたのか、
その影響を受けていたのか、ほんとうのところはわからない。
それでもC1000の写真を初めて見て、頭に浮んでいたのはBeomaster6000だった。
オーディオ機器との再会は、自分自身の選択以外にもある。
オーディオをながくやっていれば、オーディオマニアのリスニングルームに訪れる機会は、
少ない人でも何回はあるし、多い人はそれこそ数えきれないほどでもある。
とにかく誰かのリスニングルームで、以前使っていた・鳴らしていたオーディオ機器と、
ふたたび出会うことはまったくないわけではない。
こういうことが多いのか少ないのかは、なんともいえない。
JBLの4343、マークレビンソンのLNP2といったモデルであれば、そういう機会は割とありそうだし、
例えばSUMOのThe Goldあたりになると、めったになさそうともいえる。
何かの理由で手離したオーディオ機器と再会する。
予期できた再会もあれば、予期せぬ再会もある。
「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」、
そんなことは懐古趣味だとばかりに短絡的判断を下す人は、
そんな時にも口に出さないまでも心の中で「いまさらねぇ……」とつぶやくのだろうか。
人によっては口に出してしまう人もいる。
誰かのリスニングルームに行き、そこで「いまさらねぇ……」という行為は、愚かしいとしかいいようがない。
オーディオの想像力の欠如が生むものが、現在のオーディオ界である──、
そうは思いたくない。
けれど、完全に否定できずにいる。
オーディオに関わっている人すべてから、オーディオの想像力が欠如しているわけではない。
けれど、欠如しているとしか思えない人が、少なからずいる、と思える。
カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによるマタイ受難曲。
CDは三枚組で、昨夜一枚目だけを聴いた。
いま聴いて良かった、と思っていた。
カラヤンのマタイ受難曲は1972年には出ている。
10代、20代のとき、聴こうと思えば聴けたわけだが、
もしそのころ聴いていたら、一回聴いて、それでいいや、ということになったと思うからだ。
若いうちに積極的になんでも聴いていくことは決して悪いことではないが、
必ずしも、それだけがよいことだともいえないのではないか、とも思う。
少なくとも私に関しては、カラヤンのバッハ演奏に関しては、そういえる。
人によって、聴くべき時期は違っている、ということかもしれない。
4月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。
1980年4月1日、五味先生が逝去された。
だから4月1日の例会のテーマは「五味康祐」である。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
「空なる実装空間」
川崎先生のコメントには、そう書いてあった。
昨夜、audio sharing例会でステレオサウンド 194号をじっくり見た(読んだとはあえて書かない)。
194号の特集が「黄金の組合せ」だと知り、
私だったら、こんなふうにする、と勝手に想っていた。
「黄金の組合せ」という表現を、いまあえて使い、
ステレオサウンドがどういう記事にするのか、非常に興味があった。
なにも私が想像していた通りでなければダメだとはまったく思っていない。
とにかくどういう内容で、どういう誌面構成にしたのかに興味があった。
特集の内容については、あえて書かない。
194号を見ながら考えていたのは、なぜ、この内容の特集に「黄金の組合せ」を使ったのか、である。
しかも「黄金の組合せ2015」となっている。
ということは、今回の特集の評判がよければ、来年の春号では「黄金の組合せ2016」をやるのだろうか。
冬号では、毎年恒例のステレオサウンド・グランプリとベストバイ、
春号は「黄金の組合せ」ということになれば……、
もうなんといったらいいのだろうか、言葉に迷ってしまう。
それとも来年秋の50周年記念号以降は、隔月刊にでもするのだろうか。
そのための布石としての「黄金の組合せ2015」だったのか、と、ちょっと思ったけれど、
隔月刊化は可能性としては低い。
そんなことよりも、なぜステレオサウンド編集部は、194号の特集に「黄金の組合せ」とつけたのか。
私は、ここに、なにがしかの「オーディオの想像力」を感じとることはできなかった。
ならば「耳」の想像力とは、いったいなんなのか。
以前、組合せはオーディオの想像力、と書いた。
これはいまもそう思っている。
オーディオの想像力が、「耳」の想像力でもあるのだろうか。
私が熱心にステレオサウンドを読んでいたころも、
私がステレオサウンドで働いていたころも、
日本のオーディオ機器には個性がない、とか、オリジナリティがない、とか、
海外オーディオのモノマネの域を脱していない、などよくいわれていた。
そういう面がまったくなかったとはいわない。
これらを言っていたのは、確かな人たちであり、なぜいわれるのかも納得はしていた。
けれど、ふり返ってみれば、その時代の国産MCカートリッジに関しては、
それらのことはあてはまらない、とはっきりいえる。
1970年代後半にMC型カートリッジのブームがおきた。
それまでMC型カートリッジに積極的でなかったメーカーも製品を出しはじめた。
これらのカートリッジの詳細と図解は、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2を参照してほしい。
長島先生による本である。
この本こそ、ステレオサウンドは電子書籍化して、
これから先何十年経っても読めるようにしてほしいと思う。
HIGH-TECHNIC SERIES 2の図解をみていけば、誰もが気付く。
国産MC型カートリッジの構造のオリジナリティに、である。
鉄芯巻枠を使った、いわゆるオルトフォンタイプのMC型もあるが、
ここから完全に脱却した各社独自のMC型カートリッジがいくつもの登場している。
川崎先生の3月4日のブログ『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』にある、
《それはスケッチがアナログであろうがデジタルであろうが、
「手」の想像力を訓練する一番の方法だと思っているからです。》と。
オーディオにおけるスケッチとは、「耳」の想像力を訓練する一番の方法ということになる。
ケイト・ブッシュが1989年に”THE SENSUAL WORLD”を出した。
センシュアルワールドであって、決してセクシュアルワールド(sexual world)ではなかった。
センシュアルとセクシュアル。
似てはいるけれど、まったく同じ意味の言葉ではないからこそ、どちらも存在しているわけである。
このときは「あぁ、オーディオはセンシュアルワールドだな」と思った。
26歳の時にそう思っていた。
いまちょうど倍の年齢になっている。
やはりセンシュアルワールドだな、と思いつつも、
セクシュアルワールドではない、とはっきりと言い切れるのか、となると、
いま考え込んでいる。
それは歳とともに増していく、己の執拗さに気づいているからだ。
金は最も安定した金属だといわれている。
輝きを失わないのが金である。
ならば黄金の組合せも、そういう組合せであるべきではないのか。
10年経っても20年経っても、輝きを失わない組合せを、
人は意図的につくり出せるのだろうか。
黄金の組合せは、どこか発見するものような気がする。