Archive for category テーマ

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その1)

先ほどfacebookを見て知ったばかり、
NIRO NakamichiがHE1000というスピーカーシステムを発表している。
まだNIRO Nakamichiのウェブサイトはあることにはあるが今日現在何も公開されておらず、
岡山のオーディオ店AC2のサイトでの公開である。

Nakamichiブランドでもない、NIROブランドでもない、
NIRO Nakamichiブランドである。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その1)

ときおりみかけるのが、五極管シングルアンプ製作は、
真空管アンプを製作したことのない人にいちばんすすめられる、というのがある。
(ここでの五極管とはビーム管をふくめての意味で、便宜上三極管以外の出力管を五極管と書く)

その場合6L6系列の球をすすめられることが多いようだ。
こういうのをみかけると、時代がかわったのかなぁ、と思う。

誰だって最初は初心者だし、初心者向きのモノ・コトがあれば、
そこから始めれば失敗のリスクも低くなる。

私がそういった意味で初心者だったころ、
初心者向きの真空管アンプ製作といえば、プッシュプルアンプだった。

EL84(6BQ5)、6F6、6V6などの出力管のプッシュプルで、
電圧増幅管には五極管と三極管をひとつにまとめた複合管、
ECC82(12AU7)、ECC83(12AX7)などの双三極管を使い、
初段で増幅したあとにP-K分割の位相反転段という構成だった。
いわゆるアルテック回路、ダイナコ回路と呼ばれたものだった。

これだと片チャンネルあたり使用真空管は三本。
出力もそれほど大きくないから出力トランスも大型のモノを必要とはしないから、
アンプ全体もそれほど大きくならずに製作出来る。

真空管もポピュラーなモノだし、電源トランスも容量の大きなモノは必要としないから、
製作コストも高価になることはなかった。

私はいまでも初心者向きの真空管アンプ製作といえば、こういったアンプをすすめる。
私は少なくとも当時、シングルアンプは腕が上達してから挑戦するモノという感覚だった。

それはシングルアンプ・イコール・直熱三極管のシングルアンプというイメージがあったためでもあるが、
そういうイメージを抜きにしても、シングルアンプは初心者向きとは思えない。

いま五極管シングルアンプが初心者向きというのは、
どのあたりからどう変ってきて、そういわれるようになったのだろうか。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その1)

それは日本古来の短歌という形式にも似ている。三十一文字の中ですべての意味が完了しているという、そのような、ある形の中で最大限の力を発揮するという作業は、まことに日本人に向いているのだ、と思う。
     *
これは瀬川先生がラジオ技術 1961年1月号に書かれた文章である。
瀬川先生は1935年1月生れで、1961年1月号は1960年12月に出ているし、
原稿はその前に書かれているのだから、瀬川先生25歳の時の文章となる。

この文章はコントロールアンプのデザインについて書かれたもの。
短歌は、五・七・五・七・七の五句体からなる和歌であるから、
31文字であれば、六・六・五・五・九や四・五・六・八・八でいいわけではなく、
あくまでも31文字という制約と五・七・五・七・七の五句体という制約の中で、すべての意味が完了する。

正しく、これはコントロールアンプのデザインに求められることといえる。
これだけがコントロールアンプのデザインのあるべき姿とはいわないが、
瀬川先生がこれを書かれてから50年以上経ついま、きちんと考えてみる必要はある。

瀬川先生の、この文章を読んで、まず私が頭に思い浮べたのは、
ヤマハのCIとテクニクスのSU-A2だった。
どちらも非常に多機能なコントロールアンプである。
コントロールアンプの機能として、これ以上何が必要なのか、と考えても、
すぐには答が出ないくらいに充実した機能を備えているだけに、
それまでのコントロールアンプを見馴れた目には、
コントロールアンプという枠からはみ出しているかのようにもうつる。

ツマミの数も多いし、メーターも装備している。
そうなるとフロントパネルの面積は広くなり、それだけの機能を装備するということは、
回路もそれだけのものが必要となり、消費電力も増える。
電源はそれだけ余裕のある設計となり、筐体も大きくなり、
CIは重量17kg、消費電力55W、
SU-A2は重量38.5kg、消費電力は240Wとなっている。

このふたつのコントロールアンプは、だから短歌的デザインとはいえない、といえるだろうか。
私の知る限り、CI、SU-A2に匹敵する多機能のコントロールアンプは他にあっただろうか、
日本以外のメーカーから登場していない。

このふたつのコントロールアンプは、日本だから登場したモノといえる。
ということは、これらふたつのデザインに、短歌的といえるなにかを見いだすことができるのか。
そう考えた。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(続Devialetのケース)

デジタル技術が高度になればなるほど、サポートは、輸入元にとって無視出来ない問題となってくるはず。

いま家電量販店のスマートフォン売場をみていると、
設定サービスの料金表が大きく、目につくように貼り出されているところがほとんどということに気づく。

アドレス帳移行、メール設定、twitter設定、Gmail設定、パソコン同期設定、OSのヴァージョンアップ……、
まだまだこまかくいろいろとある。
それぞれに当然だけれど、価格が設定されている。
大半が1000円で、その上が1500円くらいである。
すべての設定をまかせてしまうと、けっこうな金額になってしまう。

それでもいろんな家電量販店がこれらのサービス(といえるのか)をやっているのは、
それだけの需要があり儲けとなるからなのだろう。

こんなのを見ていると、
これからのオーディオも似たようにものになっていくのであろうか、と想像してしまう。

パソコンとの接続サービス、OSのヴァージョンアップ・サービス、
アプリケーションのヴァージョンアップなどをはじめ、
あらゆることでこまかく料金が設定されていくのだろうか。

そんな輸入元も出てくるであろう。
そうはなってほしくない、と思っている。
けれど、これからますますパソコン、タブレットなどとの連携が深まっていくデジタルオーディオ機器、
それも自社開発ではなく海外製品の輸入であった場合、
輸入元の負担は製品によって違ってくるとはいえ、たいへんになっていくのは間違いない。

それでも輸入元なのだから、すべてをしっかりサポートしなければならない、というのは、
無理を押し通すようなものではないのか。

輸入元が、大手の家電メーカーのように全国にセービスセンターをもてる規模であるならば、
要求もできようが、実際にはそうではないし、
大手の家電メーカーですらサービスセンターを閉鎖して縮小している。

これはオーディオ販売店との密接な協力関係を築いていくしかないのではないか。
特約店の数を絞ってでも、きちんとサポート出来る販売店スタッフを増やしていく。
輸入元がたんなる輸入代理店ではなく輸入商社であるためには、
オーディオ販売店をふくめたシステムをつくっていくことではないのか。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その3)

「音楽談義」には小林秀雄氏と五味先生の「対談」(あえて対談としたい)だけでなく、
五曲のSP盤復刻による音楽もふくまれている。

R.シュトラウス指揮ベルリン・フィルハーモニーによるモーツァルトの交響曲第40番の第一楽章の一部、
エルマンによるフンメルのワルツ イ長調、
ハイフェッツ、チョツィノフによるサラサーテのチゴイネルワイゼン、
クライスラー、ブレッヒ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団とによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、
フーベルマンとシュルツェによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ピアノ伴奏、第三楽章縮小版)、
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニーによるワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、
これらが聴ける。

最初にかかるのはモーツァルトのト短調である。
「音楽談義」を最初に聴いた1987年では確信がもてなかったことがある。
あまり気にもしていなかったということもある。
けれど、ステレオサウンド 100号の特集「究極のオーディオを語る」、
ここで岡先生の文章を読んで、やっと気がついた。

《僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。》
小林秀雄氏の「モオツァルト」である。

このとき小林秀雄氏が聴いていたレコードが、
リヒャルト・シュトラウスがベルリン・フィルハーモニーを振ったものである。

岡先生は、なぜかという理由について、こう書かれている。
     *
「道頓堀を歩いていたら、突然『ト短調のシンフォニー』の終楽章の出だしのテーマが頭の中で鳴った……」という、あの有名な書出しで、彼の聴いたレコードはリヒャルト・シュトラウスがベルリンフィルを振ったものらしいことがわかる。なぜかといえば、昭和22年に入手出来たこの曲のレコードはシュトラウス盤とワルター盤で、ワルターとベルリンシュターツカペレによる日本コロムビア盤は出だしの1小節めで始まるヴァイオリンのテーマが全然聴こえない。2小節めから、まずチェロとコントラバスが2分音符を、1拍遅れて第2ヴァイオリンとヴィオラが3連4分音符を奏するが、2小節目後半でいきなりヴァイオリンが聴こえてくる。
 もし、小林がワルターの演奏で聴いていたら、『ト短調シンフォニー』終楽章の出だしのテーマの冒頭は聴くこともできなかったし、頭の中で鳴ることもなかっただろう。
     *
小林秀雄氏は「終楽章の出だしのテーマ」とは書かれていない。
「有名なテエマ」とだけあるが、新潮文庫の「モオツァルト・無情という事」を開けば、
終楽章であることがすぐにわかる。

小林秀雄氏の頭の中で鳴っていたのは、シュトラウスの演奏だったのか……、
とステレオサウンド 100号を気づかされた。

だからちょっと残念なのは、「音楽談義」では終楽章はおさめられていないことだ。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(Devialetのケース)

フランスのDevialet(デビアレ)の輸入元は現在ステラだが、六月いっぱいで契約終了となる。

このニュースを見て、驚く人もいれば、私のように「またか、やっぱりな」と思う人もいよう。
なぜ「またか、やっぱりな」と思った理由についてはまだ書かないけれど、
デビアレは注目していたブランドだけに次の輸入元が早く決ってほしい、と思う一方で、
もしかするとなかなか決らないのではないか……、そうも思っている。

オーディオにデジタル技術が採り入れられるようになってきて、
輸入元の仕事は、アナログ技術だけだった時代よりも大変になってきていると想像できる。

まだCDプレーヤーだけだった時代はよかった。
いまはオーディオ機器以外との接続を要求するモノが登場してきている。
そのため輸入元の負担は確実に増えているはずである。

これまではその製品についてのサービスだけで済んでいたのが、
どういう機器とどういう接続なのか、
その機器のOSの種類、ヴァージョンなど、ユーザーによってひどく違ってくる要素が入りこんでいる。

しかもそれらを使う人の技倆も、またひとそれぞれであるから、
最新の機器を使っているから技倆が高いとはいえない。

しかも使っている人の性格もまた人それぞれである。
こんなことをこまかく書いていったらキリがない。

とにかくパソコンやタブレット、スマートフォン、および周辺機器との接続が求められるオーディオ機器の場合、
そのサポートは大変なことは明白である。
しかも以前のオーディオ機器はハードウェアだけだった。
いまは違う、ソフトウェアの問題もそこに絡んでくる。

オーディオ機器もソフトウェアのヴァージョンアップが当り前になりつつある。
そういう時代に、手のかかるブランド(オーディオ機器)を取り扱うところがすぐにあらわれるだろうか。
そう思ってしまうのだ。

早く次の輸入元が決ってほしい、と思いつつも、
もしかすると……、という不安もまたある。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その3)

小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」についてくる小冊子の最後に但し書きがある。
     *
この小冊子に活字で所載した小林秀雄氏の談話要旨は、あくまでも誌の談話内容を聴き取るうえでの参考資料です。生前、氏は、自らの講演・対談・講義・スピーチ、それらの活字化を求められた際には必ず速記に全面加筆を施し、自らの加筆を経ない速記の公表は厳しく禁じていました。今回ここに所載した要旨は、編集部の手による文字化に留まるもので氏の加筆を経ておりません。したがって、この要旨を論文、エッセイ等に引用することはご遠慮下さるようお願いいたします。
     *
こう書いてあっては、引用もしづらい。
それに「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」は、いまも入手できるものだから、
読みたい方は買えば読めるのだから、ここでは簡単にどの箇所なのかについて簡単にふれるだけにする。

ステレオサウンドの「音楽談義」では「温泉場のショパン」とつけられている箇所、
「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」では二枚目のCDの11トラックである。
ステレオサウンド 2号、「直観を磨くもの」では、
ラジオからショパンのマズルカが流れてきたときのことを語られている箇所である。

ここのところに、関心をもった人は小林秀雄氏の語られているものをきいてほしい、と思う。
私はここをきいていて、「目に遠く、心に近い」を思い出していた。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その2)

正しい音と正確な音の違い。
「音楽談義」をきいていて思い出したことがある。

インドネシアのことわざらしいのだが、「目に遠く、心に近い」、これを思い出していた。
オーディオではさしづめ「耳に遠く、心に近い」となる。

正しい音と正確な音──、
「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音となるのではないのか。

Date: 5月 7th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その2)

「音楽談義」は1967年春、鎌倉で行われた。
当時のことだからオープンリールのポータブルデッキでの録音だと思う。
当然モノーラルである。
それを編集してカセットテープ二巻におさめたのが「音楽談義」である。

そのことからわかるように、音は良くない。悪いといってもいい。
かなり聞き取りづらいところもある。
それでも聞いていると、話の面白さに引き込まれて、
まったく気にならないといえばウソになるけれど、がまんならないというほどではない。

この「音楽談義」から小林秀雄氏の発言だけを抜粋して、
「音楽談義」で語られているレコードを収録したものが、
いまも新潮社から発売されている「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」だ。

こちらはCD二枚組であり、収録されている音楽は「音楽談義」に収録されている数よりも多い。
けれどここでは小林秀雄氏の発言の抜粋であり、「音楽談義」そのものを聞くことができるわけではない。

このことを勘違いされていて、
「音楽談義」そのものが「小林秀雄講演【第六巻】」で聞けると思っている人がいる。

「音楽談義」には、ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」をおさめた冊子ついている。
その冒頭には、
このカセットブックの開設資料として、ステレオサウンド誌2号(昭和42年5月1日発行)に掲載されたものを、著作権者の許可を得て全文掲載いたします。
なお、両氏の加筆訂正を経て文字化された誌面と肉声のテープ内容とでは、表現等で多少の違いがありますことを予めお断りしておきます。
と書いてある。

小林秀雄氏は、話したものに対してかなり加筆訂正をされるときいている。
だからステレオサウンド 2号を読んでいるから「音楽談義」は聞く必要がないわけではないし、
「音楽談義」を聞いたからステレオサウンド 2号掲載の「音楽談義」を読まなくていいわけでもない。

ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」は、
新潮文庫「直観を磨くもの―小林秀雄対話集―」で全文が読める。

Date: 5月 7th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(その4)

もちろんモニタースピーカーでも録音された音を聴く。
その意味では家庭用スピーカーと同じではないか、と思われるかもしれないが、
ここにも違いがある。

マスターテープの音とLPなりCDになった音との違いもあるが、
それ以上に違いがあるのは、
家庭で聴くのは、いわばまとめられた音楽である、ということである。

そのまとめ方のうまいへた(つまり録音の良し悪しに関係してくる)はあるけれど、
2チャンネル・ステレオで再生するための音源として仕上げられている(まとめられている)。

そのまとめられているものを制作するのがスタジオであり、
そこで使われるのがモニタースピーカーである。

完全なワンポイントマイクロフォンによる録音ならば、
このことはいえないけれど、マルチマイクロフォン、さらにマルチトラックでの録音となると、
いわばバラバラに収録したものを編集・構成して、ひとつの音楽をまとめる。

つまりモニタースピーカーに要求される性能とは、
その作業のために必要な十分な性能ということになる。

Date: 5月 6th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(その3)

もし私が録音の仕事をすることになり、
モニタースピーカーとしてセレッションのDitton66しかない、といわれたら、
録音する音楽にもよるが、文句を言わずにDitton66を使うであろう。

コンシューマー用スピーカーとして、
というよりも家庭用スピーカーとしてといいかえたようがいいけれど、
Ditton66は好ましいスピーカーであり、充分な性能を持っている。

それでもDitton66の銘板に”Studio Monitor”とあることには、少々違和感をおぼえる。
“Studio Monitor”のStudioとは録音スタジオを示す。
レコード会社の録音スタジオ、放送局の録音スタジオということになる。
そこでスピーカーで聴くのは、ほとんどすべて音楽といえよう。

家庭できくのもほとんどが音楽である。
ならば性能が優秀なスピーカーシステムであれば、
モニタースピーカーとしてすべて使えることになるわけではないのか。

なのに、なぜモニタースピーカーという括りがあるのか。

たしかにスタジオでも家庭でも音楽であることに相違ないが、
微妙に違う点もまたある。

まずスタジオではマイクロフォンが拾った音をそのままスピーカーから聴くこともある。
すべてが録音された音楽を聴く家庭とは、ここが大きく違う。

マイクロフォンから直に音が来る──、
そういう音を体験してみると、いかに録音された音と違うのかがわかる。
つまりスタジオモニター、モニタースピーカーとは、
マイクロフォンから直に来る音を聴くためのスピーカーでもあるということだ。

Date: 5月 6th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その1)

正しい音と正確な音の違い。
同じではないか、といわれそうだが、私はこのふたつは似ているようにみえて違うと考えている。
とはいえ、正しい音と正確な音の違いについて、明快で簡潔に述べることができるかといえば、
いまのところまだ無理といわざるをえない。

ここで思い出すのが、ふたりのピアニストのことである。
ひとりはアルフレッド・コルトー、もうひとりはアレクシス・ワイセンベルグ。
コルトーは代りとなる人の名前がすぐに思い浮ばないが、
ワイセンベルグに特に彼である必要性はそれほどなく、他の同じタイプのピアニストであれば、
代りのピアニストでもかまわない。

たまたまワイセンベルグの名前を出したのは、記憶にあっただけである。
それは菅野先生が、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」マッキントッシュ号での発言である。

マランツの管球式アンプとマッキントッシュの管球式アンプ、
それもモノーラル時代のそれらを集めて、
スピーカーもアナログプレーヤーも同時代のJBLのハークネスとトーレンスのTD124、
記事のタイトルは《マランツ対マッキントッシュ》、
さらにサブタイトルとして
《〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、》とついている。

そこに《コルトーのミスタッチは気にならないけど、
ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。》という発言をされている。

なぜそう感じるのか。
確かにコルトーのミスタッチは気にならない。
気になるという人もいるとは思うけれど、私は気にならないし、
このマッキントッシュ号の取材に参加された岡先生、菅野先生、瀬川先生のお三方も、
座談会を読む限りは、そうだと思われる。

ワイセンベルグのミスタッチは、なぜ気になるのか。
それはコルトーの演奏は「正しい演奏」であり、
ワイセンベルグの演奏は「正確な演奏」ということにつきるような気がする。

クラシックを聴かない人からは、よけいにわからないといわれそうだし、
説明不足なのは承知していても、
正しい音と正確な音の違いもまたそうだ、と思う。

Date: 5月 5th, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・最近考えていること)

《創刊以来、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」との想いはただの一度も変ったことがありません。そして、これからもこの想いはけっして変ることがありません。》

《「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」。これが創刊以来続く、ステレオサウンド誌の理念です。》

最初の文章は、ステレオサウンド編集長による2013年新年の挨拶からの引用、
二番目の文章は、ステレオサウンド・メディアガイドからの、
やはりステレオサウンド編集長の文章からの引用である。

このふたつを読み、2011年春号以降のステレオサウンドに目を通していると、
この点において、大きなズレのようなものを強く感じてしまう。

現編集長の染谷氏が、創刊以来変らぬと思っているものと、
私が変らないでほしいと思っているものとの、大きなズレというか、認識の違いとでもいおうか。
そういうものが浮び上ってくる。

私にとって、ずっと以前のステレオサウンドが、他のオーディオ雑誌とはっきりと違っていたのは、
オーディオの面白さ、オーディオの素晴らしさを伝えようとしていた点にある。
もちろん個々の製品の素晴らしさも伝えようとしていたけれど、
それ以上にオーディオの素晴らしさを、私はステレオサウンドから読みとっていた。

けれどいまのステレオサウンドには、そういうところがまったくといっていいほどなくなっている。
これから先、もっとなくなっていくような気が、染谷編集長の文章を読んでいると、強くなっていく。

結局のところ、染谷編集長は「オーディオの素晴らしさ」ではなく、
「オーディオ製品の素晴らしさ」を伝えていくことにご熱心のようだ。
オーディオ機器ではなく、オーディオ製品とある。
ここにも、染谷編集長のオーディオへの認識が顕れているような気さえする。

「オーディオの素晴らしさ」を伝えられないオーディオ雑誌しかないないこと。
これがオーディオに興味を持つ人がずっと以前よりも減ってきたことへつながっている。
そう思えてならない。