Archive for category テーマ

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その2)

2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでリンクされていた個人のサイトには、
ステレオサウンドは172号で初めてブラインドフォールドテストを行った、と書いてあった。

172号のアンプの試聴が、ステレオサウンド初めてのブラインドフォールドテストではない。
それ以前にも数回行ってきている。
調べればすぐにわかることなのに、調べもせずに書く。

その1)で書いた、
172号のブラインドフォールドテストに参加しなかったから小野寺弘滋氏は信用できないという人、
この人も調べればすぐに分ることなのに調べもせずに書いている。

このふたりが同じ人なのか違う人なのか、
2ちゃんねるは匿名の掲示板だからわからない。
おそらく違う人だろうが、
ブラインドフォールドテストが絶対で、
ブラインドフォールドテスト以外の試聴は信用できない、と主張する人たちの中に、
このふたりのような人がいるのだろうか、と思ってしまう。

わずかなサンプルだから、
ブラインドフォールドテストを支持する人、もっといえば絶対視している人が、
すべてそうだとはいえないことはわかっている。

けれどブラインドフォールドテストにはブラインドフォールドテストゆえの問題点もあり、
通常の試聴(オープンテスト)よりも、その結果が信頼できるわけではない決してない。

ブラインドフォールドテストは、何をテストしているのか、誰をテストしているのか、
この点が曖昧になってしまう。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その1)

50年を半世紀ともいう。
私も半世紀ちょっと生きている。

ステレオサウンドも来年秋、50年(半世紀)を迎える。
このことはステレオサウンドが創刊されたころ、
すでに世の中に登場していたオーディオ機器も半世紀を迎えるということでもある。

例えばマランツのコントロールアンプ、Model 7も登場して50年以上経っている。
いまもModel 7で聴いている人は少なからずいる。

いまもコンディションのいいModel 7は高値で取り引きされている。
高値で取り引きされているからコンディションがいいわけでは決してないのだが、
そういうコンディションのModel 7も高値がついていたりする。

50年(半世紀)経っているわけだから、
新品を購入し、どれだけ大事に使ってきたとしても、メンテナンスは必要である。
どんなメンテナンスを施されてきたのかでも、コンディションは変ってくる。

いま現在、どれだけきちんとしたコンディションのModel 7があるのか、
はっきりとしたことはわからないけれど、
そういう状態にあるModel 7が、その語、登場した数多くのコントロールアンプよりも、
優れているところを持っているからこそ、いまも愛用する人がいるわけだ。

つまりModel 7は50年生き残っている。
Model 7だけではない、他にも50年生き残っているオーディオ機器がある。

Date: 7月 2nd, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その6)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1で、
女性ヴォーカルを聴いたとする。
どちらのKT88プッシュプルアンプが、情感をこめて鳴るだろうか。

この項の(その1)で引用した上杉先生の発言のように鳴ってくれるだろうか。

私は、この対照的なふたつのKT88プッシュプルアンプを最初に聴いたときは、
TVA1の方が、より情感のこもった歌が、そこで鳴ってくれる、聴けると感じていた。

だから疑問のようなものを感じていた。

上杉先生は、ステレオサウンド 60号で、
《恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ》
といわれているのは、
おそらく自宅でマッキントッシュのXRT20をご自身のアンプ、
つまりウエスギ・アンプで鳴らされた場合の音について語られているのだから、
上杉先生にとっては、ウエスギ・アンプは、つまりはそういう音で鳴ってくれるわけだ。

だが、私にはTVA1の方がそういう音で鳴ってくれるように感じていた。
いま思うと、そのときの私は若かった。
恋愛の、男女関係のくさぐさな経験があったわけではなかった。

そんな「若い」聴き手の耳にはTVA1の方が、よりそう聴こえた面もあることに、
いまは気づいている。

そのことに気づかさせてくれたのは、
グラシェラ・スサーナの歌う「抱きしめて」だった。

Date: 7月 1st, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その5)

ウエスギのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1は、
KT88のプッシュプルアンプということで比較しがちだが、
確かにこのふたつのKT88のプッシュプルアンプは比較してみることが興味深い。

シャーシーは、TVA1はクロームメッキ、U·BROS3はアイボリーといったらいいのか、塗装仕上げである。
そのシャーシーの上にトランス、真空管が配置されるわけだが、
その配置もU·BROS3は四本のKT88を前面に横一列に並べている。
KT88の後方に電源トランスと出力トランスが、これまた横一列に並んでいる。
電圧増幅管はトランスの後に控えている。

TVA1は出力トランスと電源トランスをシャーシーの両端に振り分けている。
真空管はシャーシー中央に集められている。
手前から電圧増幅管、出力管と縦二列で並ぶ。

入出力端子も配置も対照的だ。
U·BROS3ではシャーシー後部にある。シャーシー前部にあるのは電源スイッチ。
TVA1ではシャーシー前部に電源スイッチの他に入出力端子を配置している。

U·BROS3は左右対称に整然と主要パーツを配置している。
TVA1は電源トランスを左右独立させ二電源トランスであったならば、ほぼ左右対称のコンストラクションとなるが、
電源トランスはひとつで、そこには電源の平滑コンデンサーが二本立っている。
二列の真空管も、よく見ると出力トランス側にやや寄っている。

出力トランス(二つ)と電源トランス(一つ)、
計三つのトランスが使われているのはU·BROS3もTVA1も同じだが、
U·BROS3はラックス製のケースにおさめられたトランス、
TVA1は巻線のところにクロームメッキのカバーをつけただけで、コアは露出したまま。

こういった外観の違い以上に内部の配線は、もっと対照的といえる。

Date: 6月 30th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること

素晴らしい、という。
素晴らしい音、素晴らしいスピーカー、そんな使い方をする。

これまで素晴らしいに関して、何の疑問も感じていなかった。
けれど別項の「素朴な音、素朴な組合せ」を書き始めて、
素朴、素晴らしいに共通する「素」の原意を辞書でひくと、
素晴らしいがなぜ、素晴らしいと書くのかがわからなくなってくる。

素晴らしいの意味は、どう書いてあるのか。
大辞林には、こう欠いてある。

(1)思わず感嘆するようなさまを表す。
 (ア)(客観的評価として)この上なくすぐれている。際立って立派だ。「—・い眺望」「—・いアイデア」
 (イ)(主観的評価として)きわめて好ましい。心が満たされる。「—・い日曜日」「—・いニュース」
(2)程度がはなはだしいさまをいう。
 (ア)現代語では,多く好ましい状態について用いられる。驚くほどだ。「—・く広い庭園」「—・く青い空」
 (イ)近世江戸語では,多く望ましくないさまをいうのに用いられる。ひどい。「此女故にやあ—・い苦労して/歌舞伎・与話情」

意外だったのは、近世江戸語では、多く望ましくないさまをいうのに用いられる、とあることだ。
それがいつしか誤解され、現在のような好ましい意味で使われるようになったらしい。

とはいえ、素晴らしいと使うのをやめるべきとは思わないけれど、
以前以上に、素晴らしいと使うことに抵抗を感じるようにはなっている。

となると、素晴らしいではなく、なんと表現するのか。
美事(みごと)を使おう。

みごとは見事と書く。
大辞林で「みごと」をひくと、見事・美事の両方が載っているが、
美事は当て字である、と書いてある。

この当て字がいつから使われるようになったのかは知らない。
けれど、オーディオこそ「美」であると考えれば、
私は、いまのところ素晴らしいよりも美事のほうが、オーディオがどういうものかを深く表していると思っている。

Date: 6月 30th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その1)

友人からのメールに、
「2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドが伸びているぞ」とあった。

ステレオサウンドのスレッドがあるのは知っているけれど、
あまり書き込みがなされていないから一ヵ月に一度くらいのアクセスで十分だった。

それが今日は、友人のメールにあるように書き込みが多い。
ステレオサウンドの最新号は約一ヵ月前に出ているから、
そのことが話題になっているのではなく、ブラインドフォールドテストが話題になって伸びていた。

2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでは、ブラインドテストとあるが、
正確にはブラインドフォールドテストと書くべきである。

一般的な試聴、つまり目の前に試聴機種を置くやり方は先入観がはいるため信用できない。
信用できる試聴はブラインドフォールドテストだけである、というのは、かなり以前からいわれていることだ。

今日、2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドを読んでいて気づいたことがある。
ステレオサウンドは2009年9月発売の172号で、ひさしぶりにアンプのブラインドフォールドテストを行っている。
これについての書き込みもいくつかあった。

このブラインドフォールドテストに参加したのは柳沢功力氏と和田博巳氏。
ブラインドフォールドテストのみを信用できると信じきっている人は、
だから、ステレオサウンドの筆者でこのふたりだけが信用でき、
ブラインドフォールドテストから逃げた小野寺弘滋氏は信用できない、とある。

それにしても……、と思ってしまう。
172号の編集長は小野寺弘滋氏である。
小野寺氏がオーディオ評論の活動を始めたのは2011年からである。

小野寺氏は逃げたわけではない。
編集者だったのだから。

こんな簡単なことを確認すらしない人が、
ブラインドフォールドテストこそが……、と主張することのおかしさを感じてしまう。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その5)

オーディオの想像力の欠如が硬直化を生むのは、
それぞれの役割を正しく認識していないせいで、化学変化がおこらないからだろう。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その4)

CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を取り外すのは可逆的ではあるが、
これも誰がやっても必ず可逆的であるかというと、決してそうとはいえない。

ヘッドフォン端子への配線を取り外すことで音が変化するのは、
CDプレーヤーの筐体内には、さまざまな高周波ノイズが飛び交っている。

井上先生はデジタル機器では、ひとつひとつのIC(LSI)が小さな放送局だといわれていた。
消費電力の大きいLSIは、出力の大きな放送局ともいえるわけで、
それだけ不要輻射も大きくなると考えていい。

つまりCDプレーヤーは自家中毒を起しているとも考えられる。
自分が輻射しているノイズに影響を受けているわけだから。

そんな不要輻射を、ヘッドフォン端子への配線がアンテナとなって拾ってしまう。
ヘッドフォン端子への配線を取り外すことは、CDプレーヤー内部のアンテナ、
それももっとも長いアンテナをなくすことにつながる。

ヘッドフォン端子への配線が最少限の長さであれば、
取り外した後無造作に元に戻したとしても、
元の状態と配線の引き回しの仕方が大きく変化することはない。

けれどある程度余裕のある長さであれば、
元と同じ引き回しの状態に戻さなければ(戻せなければ)、可逆的とはいえなくなる。

可逆的な非可逆的かは、既製品に手を加える人によって、その境界が変動するものであり、
絶対的な可逆的な、既製品への手の加えるという行為はそう多くはない。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その4)

オーディオの想像力の欠如も、
タキトゥスの言葉がいまも通用する理由のひとつになっている。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(タキトゥスの時代から……)

《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》

タキトゥスの言葉だ。
タキトゥスが生きていた時代からずっとそうだったのか、と思ってしまう。

《新たな情報を得たときには、確認という聖なる儀式が済むまで鵜呑みにしてはならない。》
ヴォルテールも同じことを言っている。

いつの時代も、どの国でも変っていない。

タキトゥスの時代よりもヴォルテールの時代の方が情報の伝達は速かった。
ヴォルテールの時代よりも現代はもっともっと速くなっている。

速くなればなるほど比例して量も増えていく。

現代はヴォルテールの時代よりも、タキトゥスの時代よりも、
鵜呑みにしてしまう時代ともいえる。

オーディオ雑誌、つまり出版物は、
どんなにがんばってもインターネットのレスポンスには到底かなわない。
だからこそ、時間をかけ正しさを確認していくことが、その役目といえるのだが……。

Date: 6月 24th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(マクソニックの同軸型ユニット)

同軸型ユニットは古くから存在している。
けれどウーファーとトゥイーターのボイスコイルの位置を揃えたユニットとなると、
KEFのUni-Qの登場を待たなければならなかった──、
そうだとずっと思っていた。

同軸型ユニットにはメリットもあればデメリットもある。
トゥイーターにホーン型を採用した場合、メリットとデメリットが表裏一体となる。
構造上、どうしてもトゥイーターのダイアフラムは、ウーファーのコーン紙よりも奥まった位置にくる。

タンノイもアルテックもジェンセンもRCAも、
ホーン型とコーン型の同軸型ユニットいずれもそうだった。

この構造上のデメリットを排除するためにUREIは内蔵ネットワークに工夫をこらしている。
これも解決方法のひとつであるが、
スピーカーユニットを開発するエンジニアであれば、構造そのもので解決する方法を選ぶだろう。

いまごろ気づいたのか、遅すぎるという指摘を受けそうだが、
マクソニックの同軸型ユニット、DS405は、
トゥイーターがホーン型であるにもかかわらず、
ウーファーとトゥイーターのボイスコイル位置が揃っている。

DS405は1978年5月に登場している。KEFのUni-Qよりも約10年も早い。
なぜ、このことにいままで気づかなかったのだろうか、と自分でも不思議に思う。

DS405の広告はステレオサウンド 46号に載っている。
そこに《同位相を実現した同軸型超デュアルスピーカ。》とある。
構造図もある。

確かにウーファーとトゥイーターのボイスコイルの位置は揃っている。
この広告は見た記憶はある。
けれど、当時はよく理解していなかったわけだ。

DS405は割と長く販売されていたように記憶している。
いまは製造中止になっているが、マクソニックには同軸型ユニットがふたつラインナップされている。
そのうちのひとつ、DS701はDS405を受け継ぐモノで、同位相同軸型ユニットであることを謳っている。

それにしても……、と反省している。
見ていたにも関わらず気づいていなかった。
おそらく他にも気づいていなかったことはあるだろう。

それでも、まだ気づいているだけ、いいのかもしれない。
そして気づくことで、日本のオーディオが過小評価されていたことをあらためて感じている。

いまこそ、日本のオーディオを再検証すべきだと思う。

Date: 6月 23rd, 2015
Cate:

音を生み育てるもの(その1)

別項「BBCモニター、復権か(音の品位)」の中で、
ステレオサウンド 60号での瀬川先生の発言を書き写しながら、
そういえばオルトフォンのSPUとEMTのTSD15の音の違いにも、同じことがあてはまる、と思っていた。

EMTのプレーヤーにはずっと以前はオルトフォンのトーンアームがついていた。
カートリッジはオルトフォンだった。
EMTのカートリッジの初期はオルトフォンが製造していた。

そんなこともあってEMTのカートリッジはSPUと共通しているところが多い。
もちろん細部を比較していくと違う点もいくつもある。

音も共通しているところもあるし、そうでないところもある。
EMTのカートリッジとのつきあいが長い私には、
SPUの音は、特にSPU-Goldが登場する以前のSPUの音は、
地味ともいえるし渋いともいえる。

SPUにはEMTのカートリッジで同じレコードをかけた時に感じとれる艶が、あまりないように感じてしまう。
私はEMTのカートリッジの音になじんでいるからそう感じるのであって、
SPUを選びSPUの音になじんでいる人からすれば、EMTのカートリッジは派手とか過剰気味ということになる。

瀬川先生が語られていた
《そのシャープさから生まれてくる一種の輝き、それがJBLをキラッと魅力的に鳴らす部分》、
これと近い性質がEMTのカートリッジにある。

なぜこんなことを書いているからというと、
今日twitterでデンマークの風土について書かれたものを読んだからだ。

北緯55度、そういうところにあるデンマークでは真昼でも太陽は地を這うようだ、とあった。
年によって快晴の日が一日もないこともある、とデンマークに住んだ経験のある人が書いていた。

これを読んで私はSPUの音のことを思い出していた。
デンマークはそういう風土の国だからこそ、SPUの音が生れてきたのだ、とひとり合点した。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その2)

UREIの813の音を、瀬川先生は《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と表現されているが、
これが岡先生となるとどうなるのか。

瀬川先生と岡先生の音の聴き方はずいぶん違っているところがあるのは、
ステレオサウンドを熱心に読んできた読み手であれば承知のこと。

UREI 813が登場したステレオサウンド 46号の特集記事に岡先生も参加されている。
解説と試聴記を担当されている。

その試聴記には音の色合いに関しては、特に書かれていなかった。
46号は1978年3月に出ている。この年暮に出た「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
岡先生は813を使った組合せをつくられている。

そこでは、こう述べられている。
     *
UREIモデル813というスピーカーは、かなりコントラストのついた音をもっています。たとえていえば、カラー写真のコントラストというよりも、黒と白のシャープなコントラストをもった写真のような、そんな感じの再生音を出してくるんです。
     *
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と《黒と白のシャープなコントラスト》、
瀬川先生の評価と岡先生の評価、
それぞれをどう受けとめるか。

私は、というと、実のところ813は聴く機会がなかった。
ステレオサウンドの試聴室で聴いた813は813Bになっていた。
輸入元も河村電気研究所からオタリテックに変っていた。

メインとなるユニットもアルテックの604-8Gから、
PAS社製ウーファーとJBLの2425Hを組み合わせた同軸型に変っていた。

オリジナルの813の音は聴けなかった。
いまも、ぜひとも聴いてみたいスピーカーのひとつである。

おそらく私の耳には、《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と聴こえるだろう。
だからといって、《黒と白のシャープなコントラスト》と聴こえる人の耳を疑ったりはしない。

ここに音の色の、人によっての感じ方の違いがあるからだ。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 十牛図

十牛図(その3)

オーディオマニアである以上、十牛図の牛を「音」として、
それが無理なことであっても、そうとらえてみる。

「音」であるとすれば、
その音は、それまでの人生で得たものによる「音」なのか、
失ってきたものによる「音」なのか、
得たものと失ってきたものとが均衡している「音」なのか。

どれがしあわせなことなのか、どれがいい音なのかはわからない。
ふりかえり、自分の音が、どの「音」なのかがわかる日はくればいい、と思う。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その1)

ずっと以前は、ハイエンドという言葉の使われ方は違っていた。

ハイエンドまで素直に伸びた音といった使われ方だった。
つまり高域の上限という意味だった。
だからローエンドも使われていた。

いまハイエンドといえば、そういう意味ではなく、
非常に高額な、という意味である。
辞書にも、同種の製品の中で最高の品質や価格のもの、とある。
大辞林には例として「ハイエンドのオーディオ製品」とあるくらいだ。

英語のhigh-endをひくと、高級な、高級顧客向けの〈商品·商店〉とあるから、
いまの使われ方が正しいわけだが、
私は、このハイエンドオーディオという表現がイヤである。

このハイエンドオーディオを頻繁に使う人も嫌いになってしまうほど、
ハイエンドオーディオの使われ方には、この時代のいやらしさを感じとれるからなのだろうか。

ハイエンドオーディオとは、いったいどのくらい高級(高額)であれば、そう呼べるのか。
まだハイエンドが高域の上限として使われていたころは、
スピーカーならば一本100万円をこえるモノであれば、誰もがハイエンドオーディオだと認めていた。

いまは一本100万円の価格が付けられたスピーカーシステムを、
どのくらいの人がハイエンドと認めるのだろうか。

100万円のスピーカーはミドルレンジだよ、という人も少なくないと思う。
そう言う人たちがもっと高価なスピーカーを使っていなくとも、
いまの、一部のオーディオ機器の価格は高くなりすぎている、とはっきりといえる。

以前(ステレオサウンド 56号)で、
トーレンスのリファレンスの記事の最後に、瀬川先生はこう書かれていた。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
考え込むか、唸るか、へらへらと笑うか……。
おそろしいことになったものだ、というしかない。

こんなふうに書いていくと、ハイエンドオーディオそのものを否定するのか、と受けとめられるかもしれない。
けれど、ここで書いていこうと考えているのは、そんなことではない。

おそろしいことになっているオーディオ機器の価格の上昇、
そのことによって失われていったものがあると考えているし、
その失われていったものは、オーディオ雑誌からも見出せなくなっているし、
オーディオ評論家からも感じられなっている──、
そんなふうにおもえてくる。