Archive for category テーマ

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: background...

background…(その7)

大辞林には、鑑賞のところに、こうも書いてある。
     *
同音語の「観照」は冷静な心で対象に向かいその本質をとらえようとすること、「観賞」は植物・魚など美しいものを見て心を楽しませることであるが、それに対して「鑑賞」は芸術作品の良さを味わうことをいう
     *
安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、音楽のよき鑑賞者ではないかもしれないが、
少なくとも音楽の観照者として優れている、とはいえる。

冷静な心で対象(音楽)に向かいその本質をとらえようとしているからこそ、
音楽のよき利用者たりえている、といえるのではないか。

さまざまな音楽の本質を見誤っていたら、
音楽のよき利用者とはいえない。

思考を一時中断させようと思うときに思弁的なバルトークを聴いてしまうかもしれないし、
跳躍のバネを与えたいときには、バッハを聴いてしまっては、到底、音楽のよき利用者とはいえない。

「趣味はオンガクカンショウです」と答えていても、
音楽鑑賞のつもりで当人は口にしていても、
彼自身が音楽鑑賞をしているのか、音楽観照なのか、それとも音楽観賞でしかないのか、
「趣味はオンガクカンショウです」といわれた側にはどれなのかわからないし、
「趣味はオンガクカンショウです」と口にした本人でさえ、音楽鑑賞なのか音楽観照か音楽観賞なのかは、
はっきりとはわかっていない可能性だって否定できない。

こう書いている私も、ときには音楽観賞だったりすることがないとはいえない。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その4)

雑誌の理想は、広告なしだ、という意見が昔からある。
私もそう思っていたことがある。
広告に頼らない雑誌をやっていくにはどうしたらいいんだろうか、と考えたこともある。

日本にも広告をいっさい掲載しない雑誌がいくつかある。
有名なところでは「暮しの手帖」がある。

「暮しの手帖」のジャーナリズムのありかたとして、広告なしで始まった。
だから「暮しの手帖」の影響が大きいのだろうと思う、
日本で広告なしの雑誌こそ理想のあり方だ、と受けとめられがちなのは。

けれど雑誌は、時代を反映しているモノである。
それは記事だけでなく、むしろ記事以上に時代を反映しているモノは広告ともいえる。

いい雑誌は、そして「時代を批評する鏡」でもある。
いい広告もまた「時代を批評する鏡」でもある、と思っている。

だから広告のない雑誌は、その心意気は素晴らしいと思うし、
同時代に読む雑誌としては広告なしもいいとは思う。

だが雑誌は振り返って読むモノでもある。
一年前、二年前の雑誌のバックナンバーを読めば、もっと古いバックナンバーを探しだして読む人もいる。

雑誌を読むということは、その雑誌とともに時代を歩むとともに、
その雑誌のバックナンバーを手に入れ読むことで、時代を溯っていくことを同時に体験できる。

ステレオサウンドで働けてよかったことのひとつは、
ステレオサウンドのバックナンバーをどれでもすぐに読めることがある。

編集部にいて最新のステレオサウンドをつくっていくと同時に、
私が読みはじめる前のバックナンバー(40号以前)を溯りながら読んでいけた。

これは他では体験することはできない。
この体験から、私は現在のステレオサウンド編集部の人たちに、
バックナンバーをもっともっとしっかりと読み込むべきだといいたいのである。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その3)

どんな雑誌でもいい、書店に並んでいるさまざまな雑誌の中の一冊。
これを手に取ってページをめくっていく。

本の判型(大きさ)、厚さ(ページ数)、紙の質、
カラーページの量、広告の量と質……、そういった事柄を総合的に判断して、
このくらいの値段かな、というおおよその見当はつく。

記事の内容も大きく関係してくるが、広告も大きな目安である。
どんな広告が入っているのか。
その広告のクォリティはどはの程度なのかも判断材料だけれど、
むしろあまり程度のよくない広告がどれだけ入っているかも判断材料のひとつである。

雑誌の巻頭には見映えのする広告を集めていても、
巻末には、この雑誌にこの広告? といいたくなる類の広告をまとめている雑誌もある。

広告出稿の以来があれば原則としてことわらないという出版社もあれば、
その雑誌にそぐわない広告は拒否するという出版社もある。

そんなことを含めて本好きの人は、手に取った雑誌の値段の見当をつけている。
そして広告は、その雑誌の実情を間接的に語ってもいる。

たとえば中古オーディオを中心に扱っている販売店の場合。
昔はステレオサウンドに広告を毎号出していた。
けれどインターネットの普及、ウェブサイトをもつことで、広告を出さなくなったところもある。

なぜ出さなくなったからといえば、広告を出すことのメリットがなくなったからである。

中古オーディオの場合、広告を見て問合せの電話がある。
ステレオサウンドの○○号の広告に掲載されていたか○○はまだありますか、といったふうにである。

私も昔はよく広告を丹念に見ては問合せの電話をかけていたから、よくわかる。

こういう電話は、必ず、どの広告を見たのかを電話の主は販売店に伝える。
ところがある時期から、こういう電話の問合せがパタッとなくなった。
電話の問合せは、インターネットを見て、とか、ウェザサイトに掲載されている……、といったものに変っていった。

これは何も私の作り話ではない。
実際に以前は出していたけれど、いまはもう広告を止めてしまったオーディオ店の方から聞いた。
もっとも聞かなくとも、その販売店が広告を出さなくなった理由はわかっていたけれども。

そうやって広告の常連だったところが消えていく。
同時に新しいところの広告も入ってくる。
その入れ替りによって、その雑誌の印象もまた変ってしまう。

Date: 8月 21st, 2015
Cate: background...

background…(その6)

安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、音楽の利用法について語っている。
     *
その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。
     *
〈ぼく〉は音楽のよき鑑賞者ではないことを自覚している。
だからこそ、音楽のよき利用者なのかもしれない。

趣味はなにか? と問われ、音楽鑑賞と答える人は少なくない。
音楽鑑賞と答えているわけだから、当人の意識としては、音楽を聴くという行為は、鑑賞であるわけだ。

鑑賞とは、大辞林には、芸術のよさを味わい楽しみ理解すること、とある。
つまり音楽鑑賞とは、音楽のよさを味わい楽しみ理解すること、である。

趣味として、だから音楽鑑賞は、どことなく高尚なところがある。

利用とは、物の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、とある。

つまり音楽利用とは、音楽の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、となる。

音楽のよき利用者であるためには、音楽のよき理解者でなければならない。
好き勝手な聴き方をしていては、《はかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだす》ことはできない。

音楽の聴き手として、音楽のよき鑑賞者はやや受動的といえるのかもしれないし、
音楽のよき利用者は能動的ともいえよう。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その2)

「考える人」をはじめて買ったのは、2005年春号だった。
特集は「クラシック音楽と本さえあれば」だった。

表紙にはそれだけでなく、「内田光子ロングインタビュー」の文字もあった。
これは買うしかない、と思い、レジに持っていった。

帰宅後、中を開けばすぐに気づいた。
広告が非常に少ないこと、それもユニクロの広告だけだったことに。

「考える人」2005年春号のページ数は256ページで、価格は1333円(税込み1400円)だった。
広告が極端に少ないから、256ページのうちほとんどが記事である。
カラーページもある。
新潮社が出していることもあって、執筆陣も多彩である。

広告がまったくない雑誌というのもないわけではない。
広告を載せない(とらない)ことで、理想の雑誌づくりを目指す──、
そういったことはほんとうに可能だろうか。

「考える人」をまったくの広告なしで、となったら、定価はいったいいくらになるのか。
定価が高くなれば買う人も少なくなる。
売れる部数が少なくなれば定価はさらに高くなる……。

ここが本・雑誌とレコードとの違いである。
レコードは、どんなに録音制作費がかかったものでも、
一枚のレコードの価格はほぼ決っている。レコードには広告がはいらない。

本はそうではない。
本好きの人ならば、書店でその本を手に取りパラパラめくれば、
その本のおおよその定価は見当がつくはずだ。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(夢の中で……・その1)

数年前にある人からいわれたことがある。
ステレオサウンドから去ったことについて、「負け組だね」と。

その人に悪気があったとは感じなかったし、
オーディオマニアにとって、
ステレオサウンド編集部という仕事場、いい環境といえる(そうでないともいえるけれど)。

オーディオ好きにとって、ステレオサウンドという仕事場は、おもしろくおかしくやっていけるところである。
そういうところから去って、生活的にもしんどくなった時期があるわけだから、
その人が「負け組だね」というのも、私が反対の立場だったら……、と考えると、腹も立たない。

たしかにステレオサウンドにいたほうが、おもしろおかしくオーディオをやっていけるのだから、
それは快感である。
快感が持続できる生活を幸福と思える人にとっては、幸福なことなのかもしれない。

けれど、あのままステレオサウンドにいたとして、
瀬川先生に何を報告できただろうか、とおもうのだ。

実際の生活にはなんら影響しない夢の中で瀬川先生に会えたところで、
何になるの? と思う人にとっては、
たとえ夢の中でも、瀬川先生になんら報告することがない生き方をなんとも感じないのだろう。

あのままステレオサウンドにいて、いま瀬川先生が夢の中にあらわれてくれたとして、
胸を張って報告できることがなかったら、それはどんなにオーディオをおもしろくおかしくやっていけてても、
私は幸福だとは思わない。

Date: 8月 19th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その1)

WIREDの先月の記事に《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》があった。

今月、川崎先生のブログに《広報誌がまだジャーナリズムである》があった。

このふたつを読んで共通して思い浮べたのは、「考える人」という、
新潮社が出している季刊誌のことだった。

「考える人」を手にしたことのある人は、気づいているかもしれない。
でも、私の周りで「考える人」を買ったことのある人で気づいていた人はいなかった。

「考える人」の広告は、すべてユニクロのものだけである。
そのことを指摘すると、ほんとだ! とびっくりされる。

数多くの雑誌が出版されているけれど、
「考える人」のような出版形態は他に例があるのだろうか。
少なくとも、私が書店で手にする雑誌に、こんな例はなかった。

「考える人」は新潮社が出している。
新潮社は出版社である。
けれど、これは《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》のひとつのカタチともいえる。

「考える人」に載る広告がユニクロだけということは、
ユニクロが新潮社につくらせている雑誌という見方もできなくはない。
この見方をあてはめれば、「考える人」はユニクロの広報誌でもある、といえるのか。

Date: 8月 18th, 2015
Cate: 書く, 瀬川冬樹

毎日書くということ(夢の中で……)

年に二、三回、目が覚めてあせることがある。
ぱっと時計をみると、夜中の二時とか三時である。

いつもだったら、そのまま眠りにつくわけだが、
たまにあせってしまうのは、
「今日はブログを書いていなかったのに、なぜ寝てしまったのか……」と思ってしまうからだ。

うたたねのつもりが、なぜか布団のなかで寝ている。
その状況にまずあせる。

いますぐ起きて書かなきゃ……、とかなりあせりながらも、
あっ、書いていたんだ、とほっとする。

ブログを書かずに布団の中にはいることはないのに、
なぜこんな思いを何度も味わうのだろうか。

今年もすでに二回、そんなことがあった。
おそらく来年も、そんなふうに真夜中にひとりあせり(ほんとうに心臓に悪い)、
ほっとして眠りにつくことをくり返していると思う。
一万本までは書くと決めているから、
いまのペースでいけばあと四年と数ヵ月は続く。
ブログを書くのをやめないかぎり、あと何度、あせりながら目を覚ますのだろうか。

今日も未明に目が覚めた。
ただ今日のは、違っていた。
夢を見ていた。生々しい夢ではなく、現実そのものと思えるリアルさだった。

今朝の夢では、瀬川先生に会えた。
元気だったころの瀬川先生だった。こちらはいまの私である。

夢の中で、瀬川先生の音を聴ければよかったのだが、そうではなかった。
でも、嬉しかった。
それは、audio sharingを公開していること、
それにこのブログを書き続けていることを、瀬川先生に報告できたからだ。

頭がおかしいのではないか、と思われてもいい。
それが夢にすぎないことはわかっていても、それでも瀬川先生に報告できたことが、
とにかく嬉しかった。

Date: 8月 17th, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その18)

歌に関することで、菅野先生から聞いた話を思いだす。
同じことを「物理特性と音楽的感動」でも書かれているので、そこから引用しておく。
     *
久しぶりに森進一のLPを買った。これは二枚組みで、いままでのヒットを全部集めたレコードなのだが、歌謡曲のレコードということで、気楽に弟の部屋へ持っていった。私の弟も森進一が好きなものだから、一緒に聴いたのだ。弟の部屋には、値段にすれば大体二〇万円台のコンポーネント・システムがあり、そこで二枚のLPを全部聴いたが、それなりにたいへん楽しく、森進一の歌のあるものには感動さえしたのだが、弟が「これは兄貴の部屋のあの再生装置で聴いてみたいな」と言いだしたのであった。私はそのときには「いや、こういうものはむしろこの再生装置でもよすぎるぐらいで、カセットにでもダビングして、車の中で聴くぐらいがちょうどいいんじゃないか」なんていう悪口をたたいたわけだが、まあ、とにかく一度聴いてみようということで私の部屋へ行き、大きなハイファイ・システムでそのレコードを聴いたところ、驚いた事に、弟の部屋で聴いた時とまったく違った音楽的印象を受けたのである。
 まずどういうふうに違ったか。過去五、六年の間に森進一が録音したほかのヒット集も聴いてみたが、私の装置で聴いてみたら、はっきりと録音の新旧がわかった。弟の部屋では、よくこれだけ音色が、古い録音も新しい録音もそろっているなと、思うくらい音の変化はなかったわけだが、私の装置で聴いたときにはもうこれがガラガラと変化をする。そして録音のいいものはよりよく聴こえて、非常に素晴らしい音楽的な盛り上がりを感じたのだが、もっと重要な発見をしたのである。それは森進一の才能の豊かさを証明することにもなると思うが、彼は声のビブラートを伴奏に合わせて、バックのオーケストラの中にあるリズム・セクションがシャッフルをきざむときにはそのように、ちゃんとリズムに合わせてビブラートを変えているということ。例えば、マラカスのきざむリズムにピタッと合わせたビブラートがつくりだすその感動の素晴らしさ、盛り上がりというのはたいへんなもので、そういうものが装置が違ってより効果的に大きく聴こえたという体験をして、やはり再生装置というものは非常に重要なものなんだなということをあらためて考えさせられたわけだ。
     *
森進一の歌のうまさを、菅野先生は力説されていた。
上の文章にも書かれてあるように、ヴィブラートを伴奏に合せて変えている。
いわゆるシスコンと呼ばれる装置で聴いていたときには気づかなかったことを、
自身のシステムで聴かれて発見されている。

シスコンよりも手軽なラジカセやラジオ、テレビで聴いても森進一の歌のうまさはわかる。
それでも、よりよいシステムで聴けば、さらに森進一の歌のうまさのすごさがわかってくる。

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」といったのは、こういうことなのではないのか。

Date: 8月 17th, 2015
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その2)

人脈とは、姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり、辞書には書いてある。
とうぜんだが、その辞書には、人脈力は載っていない。

人脈に「力」をつけるわけだから、
人々の社会的なつながりのもつ力が、人脈力なのかというと、
ステレオサウンド 193号に登場した人脈力は、そうではなく、人脈をつくっていける力と読める。

人と人のつながりは大事だよ、と諭されれば、そのとおりだと私だって思う。
けれど人脈は大事だよ、といわれると、同じ意味でいわれたとしても、違和感をまったく感じないわけではない。

人脈力は大事だよ、といわれたら、そこにははっきりと気持悪さを感じる。
年老いた人が、人脈力は大事だよ、といったのであれば、
ああ、この人はそういう人生を送ってきたのか……、と思うぐらいだが、
同じ言葉を、私よりも若い世代の人がいうのであれば、受け取り方も違ってくる。

なぜ、こんなにも人脈力という言葉に反応しているのか。
いま、2020年東京オリンピックに関することが騒がれている。
毎日のように、新たなネタがインターネットで見つけ出され、画像の比較が行われている。

問題が発覚してから半月以上が経っても、まだまだ勢いはやむどころか、むしろ増しつつある。
最初のころ、擁護していた人たちがいた。
この人たちの書いたものを読んでいて感じたものも、人脈力を目にして感じたものと同種のものだった。

Date: 8月 16th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その2)

ワディアのD/Aコンバーターの音を聴いたのは、知人宅だった。
聴いて、心底驚いた。
こういう音がCDから出るのか、と驚いた。

CDの音で驚いた経験が、なにもこれが初めてではなかった。
CD発表前夜、ステレオサウンド試聴室で聴いたマランツ(フィリップス)のCD63の音。
このCD63は、その後市販されたCD63と同じではなかった。

この驚きから、CDは始まった。
同じフィリップスのLHH2000の音に驚いた。
Lo-Dのセパレート型(SPDIF接続ではないモデル)の音にも驚いた。

LHH2000の音は、こういう音がCDから出るのか、と驚いた。
でも、こういう音がCDから出るのか、は同じでも、ワディアとは意味合いが違う。

LHH2000の初期モデルの音を聴いて、欲しいと思ったけれど、
あのとき、あの値段は出せなかった。それでも欲しい、と思い、帰宅した。

さすがに、この日は自分のシステムでCDの音を聴こうとは思わなかった。
だからアナログディスクをかけた。
プレーヤーはトーレンスの101 Limitedだった。

その音を聴いて、LHH2000と同じ音だと感じた。
はっきりと同じ類の音だった。
だからこそLHH2000を強烈に欲しいと思ったのだと気づいた。

でもアナログディスクであれば、この音を聴けるわけだから、LHH2000の購入計画をたてることはなかった。

Lo-Dのセパレートモデルでの驚きは、LHH2000の驚きとは違う。
CDがここまで良くなった、良くなるのか、という驚きだった。
これと同じ驚きは、国産の、その後登場したいくつかのCDプレーヤーにもあった。

そしてワディアでの驚きである。
この驚きは、どちらの驚きとも違っていた。

聴きながら、瀬川先生がマークレビンソンのLNP2を初めて聴かれた時の驚きは、
こういうものだったのかもしれない……、そんなことを思っていた。

Date: 8月 15th, 2015
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その2)

あらゆる変化のなかで生きているからこそ、
変わらぬことの新鮮さ、変わらないからこそ新鮮、ということを教えてくれるモノ・コトは、
大切にしていかなければならない。

そんなことを2007年、グラシェラ・スサーナのコンサートに20年以上ぶりに行って感じた。
そのことを「変らないからこそ」に書いた。

そこで聴けた歌は、ずっと昔に聴けた歌とほとんど変らぬ歌であった。
とはいえすべてが同じだったわけではない。
細部には違いがあった。

それでも変らぬことの新鮮さを、そこで感じたのは、
グラシェラ・スサーナの歌によって私の心のなかに浮ぶ情景が変らぬからこそだったのかもしれない。

Date: 8月 15th, 2015
Cate: audio wednesday

第56回audio sharing例会のお知らせ

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その7)

ステレオサウンド 43号の特集はベストバイだった。
このころのステレオサウンドには毎号必ずアンケートハガキがついていた。
42号のアンケートハガキは、ベストバイ・コンポーネントの投票用紙だった。

スピーカーシステムから始まって、プリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、
チューナー、アナログプレーヤー、カートリッジ、ターンテーブル、トーンアーム、
カセットデッキ、オープンリールデッキ、
それぞれのベストバイと思う機種のブランドと型番を記入していくものだった。

ずいぶん考えていたことを思いだす。
まだオーディオに興味をもちはじめて数ヵ月だったから、
それほど多くの機種について知っているわけではない。

記入にあたって最も参考にしたのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
スピーカーシステムは何にするか。
まずこれから考えた。

第一候補はJBLの4343だった。
このスピーカーシステムが、もっとも優れていることは感じていた。
ベストバイとはいえ、自分で買える機種を選ぶつもりはなかった。

それでも「JBL 4343」とは記入しなかった。
私が、どちらにするか最後まで迷ったのは、
キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aだった。

なぜこの二機種かといえば、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の影響である。
井上先生の組合せを何度も読み返し、記入した。

43号には「読者の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント」というページがあった。
スピーカーシステムの一位は4343だった。505票集めていた。
発表されていたモノで票数が最も少なかったのは8票で、四機種がそうだった。

私が記入したスピーカーは8票以下だったようで、掲載されていなかった。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その6)

雑誌の編集者であれば、関心・興味のない記事でも、場合によっては担当することもある。
けれど川崎先生の「アナログとデジタルの狭間で」の担当編集者は、そうではなかった。

彼は、金沢21世紀美術館で開催された川崎先生の個展に出かけている。
たしか連載が終ってからだったはずである。

押しつけられて担当していたわけではなかったはずだ。
強い関心・興味は、その時点までは少なくとも持っていたはずだ。

そのことを知っているから、どうしてもいいたくなる。
あれから約十年である。

人は生きていれば取捨選択を迫られるし、意識的無意識的に取捨選択をやっている。
十年のあいだにも、いくつもの取捨選択が、誰にでもある。
そこで何を選ぶのか。

現ステレオサウンド編集長が、十年のあいだに何を選んだのかは私にはまったくわからない。
でも、彼が何を捨て去ったのか……、
そのうちのひとつだけはわかる。

それがいまの間違った編集へとつながっていっているのではないのか。