オーディオの想像力の欠如が生むもの(その14)
オーディオの想像力の欠如が生むのは、音だけでなく音楽をも所有できるという錯覚だ。
オーディオの想像力の欠如が生むのは、音だけでなく音楽をも所有できるという錯覚だ。
昨日のブログで取り上げたオタイオーディオの取り組み。
この取り組みが、オタイオーディオのブログで公開されたのが12月21日。
私は四日遅れで、facebookを通じて知った。
だから昨日(12月225日)に書いた。
今日(12月26日)、
ステレオサウンドのウェブサイトでも、オタイオーディオの,この取り組みが取り上げられている。
Stereo Sound ONLINE 編集部・佐藤めぐみ氏が記事を書かれている。
「ホームパーティーにピュアオーディオを。名古屋のオタイオーディオが、日本ホームパーティー協会とコラボ」
というタイトルがついている。
一日遅れで、ステレオサウンドのウェブサイトが記事にしている。
きっと、偶然なのだろう。
私のブログを読んで、オタイオーディオの取り組みを知ったわけでもないだろう。
この項は、(その3)ぐらいで終るつもりで書き始めた。
なのに(その10)まで来てしまっているし、もう少し書くつもりでいる。
書きながら、なぜ長くなっていくのか、と考えてもいる。
*
昭和三十三年ごろ、つまりレコードがステレオ化した頃を境に、私はインダストリアルデザインを職業とするための勉強を始めたので、アンプを作る時間もなくなってしまったが、ちょうどその頃から、ラックスもまた、有名なSQ5Bをきっかけに完成品のアンプを作るようになった。SQ5Bのデザインは、型破りというよりもそれまでの型に全くとらわれない新奇な発想で、しかも♯5423やXシリーズのトランスのデザインとは全く別種の流れに見えた。
途中の印象を飛ばすと次に記憶に残っているのはSQ38である。本誌第三号(日本で最初の大がかりなアンプ総合テストを実施した)にSQ38DSが登場している。いま再びページを開いてみても当時の印象と変りはなく、写真で見るかぎりはプロポーションも非常に良く、ツマミのレイアウトも当時私が自分なりに人間工学的に整理を考えていた手法に一脈通じる面があってこのデザインには親近感さえ感じたのに、しかし実物をひと目見たとき、まず、その大づくりなこと、レタリングやマーキングの入れ方にいたるまですべてが大らかで、よく言えば天真らんまん。しかしそれにしては少々しまりがたりないのじゃないか、と言いたいような、あっけらかんとした処理にびっくりした。戦前の話は別として♯5423以来の、パーツメーカーとしてのラックスには、とてつもなくセンスの良いデザイナーがいると思っていたのに、SQ5BやSQ38を見ると、デザイナー不在というか、デザインに多少は趣味のあるエンジニア、いわばデザイン面ではしろうとがやった仕事、というふうにしか思えなかった。
少なくともSQ505以前のラックスのアンプデザインは、素人っぽさが拭いきれず、しかも一機種ごとに全く違った意匠で、ひとつのファミリーとして統一を欠いていた。一機種ごとに暗中模索していた時期なのかもしれない。その一作ごとに生まれる新しい顔を見るたびに、どういうわけか、畜生、オレならこうするのになア、というような、何となく歯がゆい感じをおぼえていた。
ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザインがあったわけではないのに、ラックスにかぎって、一見自分と全く異質のようなデザインを見たときでさえ、おせっかいにも手を出したくなる気持を味わったということは、いまになって考えてみると、このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
*
瀬川先生によ「私のラックス観」からの引用だ。
(ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ラックス号より)
現在のラックスの一部のアンプのデザインについて書いている。
いいことを書いているわけではない。
ラックスのアンプのデザインだけがだめだというわけではない。
瀬川先生が書かれているように「ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザイン」ではない。
なのに、なぜラックスのアンプについてだけ、書きたいことがとまらないのか。
瀬川先生はインダストリアルデザイナーを志されていたから「おせっかいにも手を出したくなる気持」に、
私はデザイナーではないけれど、おせっかいとわかっていても、
何かいいたくなる気持がわいてくる。
これはきっと私だけではないはずだ。
ラックスの歴史は長い。
それだけに多くのユーザーとファンがいる。
昔からのユーザーとファンは、大なり小なり、一種の親密感をおぼえているだろうから、
黙っていられないところがある──、私は少なくともそうである。
人はいつか死ぬ。
死を避けることのできる人なぞいない。
そんなことみなわかっている。
にも関わらず、死ぬということをわすれてしまいがちでもある。
いつでも会える。
そう思っていないだろうか。
たしかにお互いが生きていれば、いつでも会える。
でも人は死ぬのだ。
いつか死ぬ。
こんなことを書いている私だって、いつ死ぬのかはわからない。
20年後かもしれない。もっと後かもしれない。
でも、もしかしたら明日、事故にあって……、ということだって、
可能性としてはあるわけだ。
会って話すことは、互いが生きているからだ。
相手が生きていて、私が生きていてこそ、会って話せる。
このことを忘れないでほしい。
憶えていても、つい先延ばしにすることがある。
そこでの後悔は、どうしようもない。
「岩崎千明氏のこと(その5)」に書いた。
年明けにでも、と思っていたから、急ぐ気持はなかった。
人はある日突然いなくなる。
会えなくなる。
愛知県にオタイオーディオという販売店があることだけは知っていた。
今日まではただそれだけだった。
facebookに、オタイオーディオのブログ(12月21日分)へのリンクがあった。
この日のタイトルは「オーディオショップOTAIAUDIOがてWBS(ワールドビジネスサテライト)で紹介されます。」。
詳しいことはリンク先のブログを読んでいただくとして、
ホームパーティへ、オーディオ機器一式を持ち込んで試聴会を行っている、ということである。
ここに書かれていることは、ある程度は実感としてわかる。
オーディオマニアではない人の集まりに、きちんとしたシステムを持ち込んで試聴。
その意味はあるのか、と疑問に思う人はいるだろうが、
実際に音を鳴らしてみると、かける音楽にもよるけれど、
きちんとした音が鳴っていれば、ホームパーティに集まった人は耳を傾けるものである。
おもしろい試みであるし、オタイオーディオに対しての印象は大きく変化した。
今日までは、多くのオーディオ店と同じように捉えていたからだ。
こんな試みをやったところで、直接的な販売には結びつかない、
すぐに利益にならない、手間がかかる、という点があることはわかる。
だから、やっても無駄、というオーディオ店もあろう。
それで商売になっていれば、それでもいいだろう。
パーティでの音(オーディオ)について、あることを思い出している。
いまはやっているかどうかわからないが、
B&Oは以前、顧客に定期的に本を配付していた。
B&Oブック(ホワイトブックだったかも)といえる内容の本で、白い表紙なのだそうだ。
Beolab 5を鳴らしている友人がいる。
彼から、この本のことを聞いた。
彼が、印象に残った記事を話してくれた。
ヨーロッパでのパーティのことだ。
そこでのパーティは、ホームパーティといったものではなく、
映画やドラマに登場するようなパーティ、城で開かれるようなパーティで、
Beolb 5でBGMが流された、とのこと。
それまでのパーティでも音楽は、そこそこのシステムでBGMとして鳴らされていた。
でも、それまでは誰一人として、オーディオに関心をもつことはなかった。
それがBeolab 5にしたところ、少なからぬ人が、BGMの音に関心をもち、
パーティの主に、スピーカーについて訊いてきた人が何人もいたそうだ。
それまでのシステムがどの程度だったのかははっきりとしない。
でも、Beolab 5になり、音楽の鳴り方、印象がそれまでとずいぶんと違っていたからこそ、
以前のパーティでは聞き流してしまっていた音楽が、耳に入り、意識が捉え、
心になにがしか響いたからこその「訊ね」のはずだ。
ラックスの歴史は長い。
錦水堂ラジオ部として、ラックスは大正14年に発足している。
錦水堂ラジオ部とあるくらいだから、本家の錦水堂があり、
こちらは額縁屋である。
ラックスのアンプと木製ケースについて、何かを語ろうとするときに、
このことは忘れてはいけないように思っている。
少なくとも1970年代までのラックスのアンプは、
錦水堂が額縁屋だったことを感じさせてくれる。
それがいまはどうだろか。
まったく感じられなくなっている。
アンプだけではない。
アナログプレーヤーのPD121もそうだ。
額縁という観点から、もう一度PD121を見直していただきたい。
PD121のキャビネットを囲っているローズウッド。
実はプリント材である。
*
例えばラックスの美しいプレイヤーユニットPD121、131の側面には、とても質の良い──北欧製の高
級家具ぐらいでしかお目にかかりにくいような──美事なローズウッドが張ってある……と思いきや、これが実はプリント材なのだ。ラックスの話によると、あの狭い面積であれだけ美しく見えるローズウッドは、もはや天然材の中からは探し出すの容易でない。一品もののような家具なら別だが、量産用としてほ、もう日本に輸入されるローズウッドからは、不可能に近い。そこで、できるだけ質の良いプリント板を探してみた結果、ああなったのだ、という。
木目の美しさを見せるなら、絶対に天然材を使うべきで、プリント板などというゴマ化しは絶対に認めたくない、という主義の菅野沖彦氏でさえ、これがプリントだとは見破れなかった。
ある日この話を彼にしたところ、うーん! とうなって、数十秒間絶句していたが、やがて口を開いてのひと言が、またいかにも菅野氏らしかった。
「うーん……信じていた女の過去を突然聞かされたみたいなショックだよ!」
*
瀬川先生が、以前FM fan連載の「オーディオあとらんだむ」で書かれていた。
知った上で見ても、プリントとは見破り難い。
これは、やはり錦水堂本家が額縁屋だったからなのだろう。
誰かを見て、あの人に似ている、と思う感覚がある。
海外ドラマ好きの私は、
このドラマの、この人、あの人に似ている(そっくり)と感じることがまあある。
ここでの、この人とは、ドラマの中で演じられている役柄であり、
あの人とは、私の身近にいる人のことである。
つまり役者と身近にいる人が似ている、と感じるのではなく、
役柄と身近にいる人が似ていると感じることがある、ということだ。
でも、このことを周りの人に話しても同意を得られることは、ほとんどない。
先日の忘年会でも、そんな話をしたけれど同意はゼロだった。
いまはiPhoneがあり、私が似ていると思ったこの人(役柄)をすぐに見てもらうことができる。
確認作業はすぐにできる。
それでもほとんどの場合、同意は得られないから、考える。
私が似ていると感じた要素と、他の人が似ていると感じる要素は同じこともあるだろうが、
違っていることもある(こちらの方が多いようだ)。
私がここで「似ているでしょ」と周りの人に同意を求めているのは、
この人とあの人の印象についてであって、
単に顔形が似ている、といったことではない。
人の印象でも、似ているということに関しては、大きく違う。
まして、それが音の印象となるとどうだろうか。
何(誰)を似ていると思っているのか、という感覚は、
そして、その感覚の相違は曖昧のままに、音について語られている。
昨晩は忘年会だった。
明るいうちからひとつ目の忘年会があり、夜は次の忘年会に移動していた。
20数年ぶりだろうか、始発電車で帰ってきた。
この時期、ブログを書くペースを増しているのは、
大晦日までに7000本目(年に千本)を書くためである。
なので早めに帰宅してブログを書きたい、という気持は強い。
それでもひょこひょこ出掛けていた。
昨晩のブログは、忘年会の最中にiPhoneで書いていた。
昨晩の忘年会は、どちらも、どこかの飲食店に出掛けて、というものではなかった。
最初の忘年会は、
毎月第一水曜日にお世話になっている四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記での、
常連の人たちを集めてものだった。
次に行った忘年会は、とある事務所でのものだった。
そこにはホワイトボードがあり、
途中からホワイトボードにそれぞれがテーマについて書きながらの忘年会になっていた。
いまや連絡ツールはいくつもある。
しかも手軽になっている。
話すこともできれば、文書で、絵文字、写真などで伝えることも手軽にできる。
それでも移動して会って話す。
面倒だな、と思う気持がまったくないわけではない。
上に書いているように、この時期はブログを書く時間を優先したい気持もある。
それに出不精なところもある私であっても、
やっぱり会って話すことは、楽しいと感じる。
会って話してわかることもある。
2017年のaudio wednesdayも、できるかぎり音を出していきたい。
昨日いわれたのは、ぜひアナログディスク再生をやってほしい、ということだった。
アナログディスク再生、アナログプレーヤーの調整については、やりたいと考えている。
けれど器材あっての音出しであり、最低でもある条件を整えての音出しにしたい──、
とCD以上に考えるのは、アナログディスクには思い入れがあるからだろう。
100%満足できる環境での音出し以外はやらない、なんてことは考えていない。
あくまでも最低限の環境が整えることでできれば、やる予定である。
でも、それが意外とたいへんである。
でも、とにかく、まずアナログディスクで音を出しましょうよ。
と昨晩いわれた。
いいわけがましいことをいいながらの音出しはやりたくないが、
そういう声がつよくあったのだから、
早いうちに一度、アナログディスク再生をやるつもりでいる。
先日のKK適塾の二回目、澄川伸一氏の話に比率の美しさがあった。
私がここ数年のラックスのアンプに感じているのは、その逆、
比率の醜さである。
ラックスのいうところの伝統のデザインを継承している機種に、
特にいえることであり、それは最新機種のLX380だけでなく、
それ以前に出ている、昔ながらのラックス・デザインのアンプにもいえる。
ひとつひとつ機種名は挙げない。
昔からのラックスのアンプを知っている人ならば、
どれらのアンプのことを言っているのかはすぐにわかってもらえよう。
だから、ここでは代表してLX380について書いていく。
LX380は管球式プリメインアンプである。
LX380を構成する部品で背の高いものといえば、出力管とトランスになる。
出力管に何を採用するかで、アンプの高さはある程度決ってくる。
出力管を水平配置にしないかぎり、管球式プリメインアンプは厚みのあるものになってしまう。
けれどLX380を見て感じるのは、プロポーションの圧倒的な悪さである。
比率の醜さといってもいい。
なぜ、ここまでずんぐりむっくりにしたのだろうか。
あえて、こういう比率にしているのか。
ラックスのウェブサイトでLX380のページには、
「伝統的なノブのレイアウトと木箱ケース」とある。
揚げ足取りみたいになるが、伝統的なデザイン、とは書いてない。
あくまでも伝統的なノブのレイアウトである。
LX380のプロポーションの悪さは、ラックスも認識しているのか、と思いたくなる。
認識しているからこそ、伝統的デザインではなく、伝統的なノブのレイアウトにしているのか。
ヘッドフォン、イヤフォン市場は活況のように見える。
ヘッドフォン祭に行くけば、若い人たちが多い。
家電量販店でもヘッドフォン、イヤフォンのコーナーは広かったりする。
このことについてよくいわれるのが、
ヘッドフォン、イヤフォンで音楽を聴いている人たちの一部でもいいから、
スピーカーで音を聴くことに目覚めてくれれば……、といったようなこと。
若い人たちは、スピーカーではなくヘッドフォン、イヤフォンで聴く、とはいわれている。
スピーカーは置き場所を必要とするし、住宅状況からいってもスピーカーを買う人は少なくなっている。
──そんなふうにいわれているけれど、そうなのだろうか。
私が若かったころも、住宅状況はよくなかった。
若者の独り暮しで、広い部屋に住んでいるのは、私のまわりにはいなかった。
さほど、この点に関しては変わらないのではないだろうか。
なのになぜ、いまはスピーカーで音楽を聴く人が減っているのか。
いくつかの理由があるはずだが、そのひとつに、
スピーカーの音が嫌いな人たちが増えてきたためではないか、と思っている。
好きな音楽をいい音で聴きたい。
そういう人は今も昔もいる。
けれどいまはスピーカーの音が嫌い、という人たちの割合が増えてきたのかもしれない。
スピーカーの音を嫌う人は、昔もいた。
昔からスピーカーではなく、ヘッドフォンだけ、というマニアがいた。
でも少数派のように見えた(実際そうたったと思う)。
このスピーカーの音を嫌う人たちの存在が顕在化したのは、
1980年代にはいり、いわゆるプレナー型スピーカーがいくつか登場したからだろう。
スピーカーの音が嫌いでも、いい音で聴きたい。
スピーカーの音が好きで、いい音で聴きたい。
どちらもいるわけだ。
私ははっきりとスピーカーの音が好きで、である。
ほんとうにスピーカーの音を嫌う人たちが増えているのかどうかは、まだはっきりしたわけではない。
でもそうであったとしたら……。
その人たちはスピーカーで聴くようには、まずならないのではないか。
アメリカの音楽産業を描いたドラマは、もうひとつある。
「Empire 成功の代償」である。
現在のアメリカの音楽産業が描かれている。
ここに登場するレコード会社の社内にも、オーディオ機器はもちろんある。
1970年代ではデモ音源はテープだった。
カセットテープかオープンリールテープ。
レコード会社の社員の机にはカセットデッキがある。
いまはテープによる持ち込みはない。
USBメモリーかCD-R。
レコード会社の社員の机からテープデッキはなくなり、パソコンが置かれている。
1970年代の「VINYL ─ヴァイナル─」と現在の「Empire 成功の代償」のあいだは40年。
この比較をしながら、ふたつのドラマを見ていくのも、オーディオマニアとしては楽しい。
2016年夏あたりから、2020年の東京オリンピック/パラリンピックのエンブレムが、
街中で見かけるようになった。
学校にも、スーパーにも、企業のピルでも、
いろんなところで、ようやく決ったエンブレムが飾られている。
大きなサイズのものである。
オリンピックとパラリンピック、ふたつのエンブレムが飾られているから、
見ていて、最初に選ばれた(といえるのだろうか)佐野研二郎氏のエンブレムでなくてよかった、
と心底思った。
頭の中で、例のエンブレムが飾られているところを想像したからである。
あのエンブレムが、このサイズで街のいろんなところに飾られたとしたら……。
この東京オリンピック/パラリンピックのエンブレムの件では、
デザイナー、デザインに対しての誤解が生れ、広まったといえる。
しかもエンブレム問題に留まらず、
その後も、いわゆるパクリがインターネットで指摘される事態となった。
そして今年11月には、東京デザインウィークでの事故(事件)が起った。
デザイナーと呼ばれる、呼ばれたい、ごく一部の人たちの起したことが、
デザイン、デザイナーをより誤解させ、貶める。
こんなことをやらかしてしまう人たちをデザイナーと呼んでいいのだろうか、という疑問がある。
でも、世の中ではデザイナーと呼ばれている。
ならば本来の意味でのデザイナーと呼ばれるにふさわしい人をなんと呼べばいいのだろうか。
心あるデザイナーの中には、デザイナーという呼称を拒否したいと思う人もいよう。
デザイン(design)に現在進行形のingをつけると、
このブログにも使っているdesigningになり、過去形をつけるとdesignedである。
いまのごく一部のデザイナーと呼ばれていても、
デザイナーとは到底呼んではいけない人たちがやらかしたこと、やらかしていることによって、
designにつくのは、ingでもedでもなく、deadなのかもしれない。
design + dead = designdead
それぞれのインテリジェンス。
そのことを考えるきっかけがあった。
私のインテリジェンスは何かとなると、
音楽の理解であり、
ここでの音楽とは、ベートーヴェンの音楽であり、
バッハであり、ブラームスでもワーグナーの音楽、
つまりはドイツ音楽の理解こそが、そうである。
音における化粧について考えていると、
ミニマルなシステムは、音の化粧を受け入れるのか受け入れないのか、
音の化粧を求めるのか求めないのか──。
ソナス・ファベールのMinima AmatorとCHORDのHUGOのミニマルな組合せ。
スピーカーをロジャースのLS3/5A(15Ω版)にした場合の組合せは、
ミニマルなのかどうかを考えていると、
Minima AmatorとLS3/5Aの違いは、音の化粧にも関係してくることに気づく。