「音は人なり」を、いまいちど考える(その25)
自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。
助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。
だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。
誇りは強い。
自尊心とは違う。
自尊心は傷つきやすい。
オーディオマニアの自尊心は、ほんとうにちょっとしたことでも傷つくようだ。
助言や指摘でも傷つく。
批判された、攻撃された、と思うようだ。
だから言う。誇りがないからだ、と。
自尊心だけで、オーディオマニアとしての誇りがどこにもないからだ。
誇りは強い。
自尊心とは違う。
おそらくだが、元のネットワークとJimlansing/AMPEXのN800は、
同じ回路で、コンデンサーやコイルの値もほぼ同じと思われる。
つまり使用部品が違い、配置と配線も違い、
ケーシングされているどうかの違いもある。
実際の音の変化の大きさは、人によって受け止め方は違ってこよう。
大きく変ったと感じる人もいれば、さほどでもない、という人がいてもおかしくない。
ネットワークによる音の変化は、
自作スピーカーに取り組んでこなければ、聴く機会はそうはない。
今回のネットワークによる音の違いについては細かくは書かない。
一つだけ書いておくと、
元のネットワークでは、JBLの2420の上にトゥイーターがどうしても欲しい、
そう感じるのが、N800にすると、このままの2ウェイでもいいかな、
そんなふうに感じながら聴いていた。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
気負いだけが漲った音からは、音楽は聴こえてこない。
自恃なき純度はない、
自恃なき熟度もない。
2017年1月4日に、「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」を聴いている。
この日のaudio wednesdayには、常連のHさん一人だけだった。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」は、Hさんが持参されたCDだった。
この時聴いてなければ、おそらくいまも聴く機会はなかっただろう。
TIDALを使うようになってすぐの頃、
このアルバムがあるか検索したが、ヒットしなかった。
昨晩、ふと再び検索してみたら、あった。
他のアルバムもあった。
8月のaudio wednesdayに来られた方たちには話してあるが、
10月のaudio wednesdayのテーマは、現代音楽である。
現代音楽にうとい私は、Hさんに選曲をまかせるつもりでいる。
たぶん、このアルバムも選ばれるはず。
757Aレプリカのネットワークに使われているフィルムコンデンサーは、
円筒状を押しつぶした形状のモノで、私には、このコンデンサーがどうしてもいい音に寄与するとは、
最初に見た時から思えなかった。
そんな思い込みがあっても音出しであり、ネットワークの交換でもある。
これで、元のネットワークの方が良かった、となれば、
私の思い込み、偏見ということになるが、結果はそうではなかった。
元のネットワークでなんとなく気になっていたところが、かなり改善された、と私の耳には聴こえた。
試しに交換した時に一緒に聴いていた数人も、
Jimlansing/AMPEXのN800の方がいい、という評価。
会が始まって、もう一度、元のネットワークに戻し、
N800に換えた音でも、ほぼ全ての人がN800だった。
なんというか元のネットワークでは、
JBLのユニットをうまく鳴らせなかった時の音像の薄っぺらさが感じられた。
それに個々のユニットが伸び伸びと鳴っていないようにも感じていた。
決して大きな不満ではなかったけれど、聴いていると、
ネットワークが視界に入るたびに、これを交換したら──、
そんな思いが5月の会からしていた。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
2009年に書いていることを、引用した。
ひどい音しか出せない時、どうするのか。
ひたすら聴くしかない。
その場から逃げてはダメだ。
この当たり前のことが通じなくなっている。
四谷三丁目の喫茶茶会記でaudio wednesdayをやっていたとき、
プリメインアンプのマッキントッシュ MA7900の電源が、何度となく勝手に落ちることがあった。
2019年と2020年の寒い時期に起こっている。
なんの前触れもなく突然落ちる。
再び電源を入れれば、音はきちんと出るし、
その音に異常は感じられなかったから、アンプ本体の不具合とは思えなかった。
再現性がほとんどない現象なので、はっきりとした原因は掴めなかった。
でも、どちらも寒い時期で夜遅くなり、冷え込みがきつくなると頻繁に発生することから、
おそらくなんらかの暖房器具からノイズが電源を介して回り込んでのことだろう。
MA7900の電源スイッチが機械式であったなら起こらなかったはずだが、
電子スイッチのため、電源が落ちたのだろう。
今年2月のaudio wednesdayでも、同じようなことが起きた。
アキュフェーズのDP100とDC330間のロックが外れることが起こった。
その日、夕方から音を出し始めて、なんら問題はなかったのが、
夜8時ごろにロックが一瞬外れた。すぐにまたロックして、その時はアレっ、と思う程度だったのが、
しばらくすると頻繁にロックが外れるようになった。
その日は寒かった。
MA7900での例があったから、電源からのノイズによってロックが外れると思ったものの、
それをはっきり確認することはできなかったし、
対策もできなくてDC330の使用をやめた。
そういうことがあったため、それ以降はDC330はaudio wednesdayでは使わなかった。
半年が過ぎ、いまは夏。
8月の会では、たぶん大丈夫だろうと判断してDC330を使い、
SACDの再生をメインとした。
もし2月の会と同じ症状が出た時のために、メリディアン の218も用意していた。
結果は、なんの不安もなく最後までDC330が使えた。
このことからいえるのは2月の会での不調は、電源からのノイズが原因のはずだ。
とはいえ、この不調(症状)は、メーカーでも再現できない可能性が高い。
音は人なり。
何が違うのか。
センス、才能、キャリアなど、そういうことが絡みあっての「音は人なり」なのか。
上に挙げたことはもちろん関係しているけれど、
結局は、覚悟だと思っている。
ここにおいての「音は人なり」のはずだ。
覚悟が足りない、もしくは最初からないから、
泣き言でしかない言い訳を口にする。
8月のaudio wednesdayでは、バッハの平均律クラヴィーア曲集をかけた。
まずグルダをかけた、
それからグールドをかけた。
そしてリヒテルを。
SACDでの再生だ。
何か意図があっての、この順番ではなかった。
思いついたままの順番だ。
リヒテルの演奏を長くかけた。
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を聴いたのは、
ステレオサウンドの試聴室でだった。
何かの試聴ではなく、サウンドボーイの編集長だったOさんから、
試聴室のレコード棚にあるから、一度聴いてみろ、と言われたからだったことは、(その1)で書いている。
国内盤だった。
まず、その音に戸惑った。
その戸惑いよりも、演奏の素晴らしさに意識は向く。
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集については、これ以上は語らない。
関心を持ったら、ぜひ聴いてみるべきだからだ。
それにしても、この音、もう少しどうにかならないものか──、
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集に感動した人は、
みなそう思うはずだ。
好きか嫌いでいえば、決して嫌いではないけれど、
それにしても……、とは思う。
2012年にSACDで出ている。
なぜか、その発売に気がつかずに、けっこう経ってから、
ヤフオク!で手に入れたことも書いている。
繰り返して書くのは、やはりリヒテルのSACDが素晴らしいことを、
先日の会でも深く感じたからだ。
音は人なり。
時として、残酷である。
酷いとしか言いようのない音、
どこにも音楽の美を感じさせない音、
そういう音が自分のスピーカーから鳴ってきても、
音は人なり、なのだから。
そこで泣き言をいったところで、どうなるというのか。
よけいに惨めになるだけではないのか。
泣き言を言いたければ、
音は人なりとは言わない(思わない)ことだ。
(その2)で書いたことを読んで、
オーディオは趣味なのに、なんて窮屈な……、と思う人もいるだろうし、
趣味なのだから自由にやらせろ、という意見があるのはわかっている。
でも、その自由とは、本当に自由なのか。
好き勝手と自由は違う。
どちらを選ぶかは、その人次第。
自由にやると自由にあやつるとでも、自由の捉え方は違ってくる。
さらに自由自在とした場合──。
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、
self relianceとした、ときいている。
基本を理解してないと基礎は築けないし、基準を持つこともできない。
基準が持てないのだから迷う。
8月18日まで、渋谷のギャラリー・ルデコで、
野上眞宏さんの写真展「METROSCAPE2 New York City 2001-2005」が開催されている。
8×10で撮られた2001年から2005年のニューヨークの風景。
2023年「METROSCAPE」は、ニューヨーク市のマンハッタンの写真、
今年の「METROSCAPE2」はブルックリン、クイーンズ、ブロンクスの写真。
昨日、作品の入れ替えが一部あったとのことで、今日も行ってきた。
一度目(8月1日)のときも今回も、野上さんの作品を見て、瀬川先生のことをおもっていた。
*
二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
*
この楽しさが味わえるからだ。
1970年代のオーディオを、それも若い時に体験してきた者にとって、
狂気は、あの時代のオーディオを語るキーワードになるだろうし、
狂気を感じさせる音というのに、ある種憧れがあってもおかしくない。
もちろん全員がそうだとはいわないが、
何割かは確実にそうであるはず、と私は思っているし、
だからこそ話が合うということも、もちろんある。
狂気を感じさせる音といっても、それは人によって違ってきて当然でもある。
本人はそう思って出している音が、別の人にとってはなんでもない音であったり、
もしかすると反対の場合もあるだろう。
それでも最近聴いた音で感じたことは、
劣情をむき出しにした音は、狂気を感じさせる音とは、
まったく違うということ。
それは恥ずかしい、愚かしい音でしかないと私は思うけれど、
そういう音を恥ずかしげもなく人に聴かせることができるというのは、
どこか頭のネジが外れてしまっているわけで、
その意味では、狂気を感じさせる音といえなくもない──、そんな考え方もできるけど、やはり本質的に違う。