あるスピーカーの述懐(その49)
(その47)で書いている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を、
二人とも、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
いうまでもなく美空ひばりも島倉千代子も日本人の歌手であり、
おそらくどちらも日本語の歌を聴いてのことであろう。
日本人のうたう日本語の歌を、アメリカのスピーカーを通しての音で驚くということ。
日本のスピーカーの音で聴いて驚く、ということではないということ。
このことは見逃してはならない。
(その47)で書いている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を、
二人とも、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
いうまでもなく美空ひばりも島倉千代子も日本人の歌手であり、
おそらくどちらも日本語の歌を聴いてのことであろう。
日本人のうたう日本語の歌を、アメリカのスピーカーを通しての音で驚くということ。
日本のスピーカーの音で聴いて驚く、ということではないということ。
このことは見逃してはならない。
(その11)で、
オーディオの可能性の追求が、ハイエンドオーディオの定義だと書いた。
ここでいう可能性とは、そのままの意味での可能性である。
こんなことを書くのは、
一時期、「可能性のある音ですね」とか「可能性を感じさせる音ですね」、
そんな表現(褒め言葉)がよく使われたことがあったからだ。
ソーシャルメディア登場以前、
個人がウェブサイトを公開するのが流行り出したころ、
掲示板を設ける個人サイトもいくつもあった。
そのなかでは、かなり多くの読者を獲得しているところもあった。
そして、そういうところからオフ会が盛んになっていった。
そこで時々というか、わりと使われていたのが「可能性をある音ですね」だったりする。
掲示板や共通の知人をとおして、初対面の人の音を聴きに行く。
素晴らしい音が聴けることもあれば、そうでもないことも当然あるわけで、
だからといって、初対面の人に面と向かって、ひどい音ですね、とはまずいえない。
そこでよく使われていたのが「可能性のある音」、「可能性を感じさせる音」である。
本音でそう表現していた人もいるだろうが、
とある掲示板では、あからさまに含みを持たせての表現で、
こういうことを言ってきた、と書いていた人もいた。
その掲示板だって、聴かせてくれた人が見ている可能性があるのに、
匿名とはいえ、よくこんなことを書けるな、と思ったことが何度かあった。
そんな厭味めいた「可能性のある」ではない。
可能性とは、ワクワクする(させてくれる)ものだし、
それは何かを変えてくれる(くれそうな)パワー(活力)である。
私がDBシステムズのDB1+DB2もハイエンドオーディオのことを考えるときに、
その存在を思い出すのは、そういう理由からである。
B&OのBeosound 9000といえば、
六連奏のCDチェンジャーである。
登場は、いまから三十年ほど前のことであっても、
初めてBeosound 9000の動いているところを見て、
これが似合う部屋とそれだけの経済力があったらなぁ──、とおもった人は、
私以外にもけっこうおられるはずだ。
そのBeosound 9000も、いまでは完動品はかなり少ないときいている。
故障してしまっても、修理が困難らしい。
B&OがBeosound 9000を完全に復刻して、
スピーカーシステムのBeolab 28と組み合わせて、
Beosystem 9000cとして再構築した。
トータル価格は、7,500,000円。
限定二百台とのこと。
このシステムをどう評価するかは、人によってそうとう違ってくることだろう。
私は、といえば、まず動いているところを見たい。
それからだ。
4月の第三夜では、アポジー Duetta Signatureで、
菅野先生の録音“THE DIALOGUE”をかけた。
audio wednesdayではTIDALのおかげで、
さまざまな曲をかけることができる。
会の最後には、カザルスの無伴奏チェロ組曲をかけることだけは決めていても、
それ以外の曲に関しては、その日の音次第というところが強い。
それでも一曲は前回でかけた曲を鳴らすようにはしている。
音の違い、それもスピーカーのによってどう変っていくのかを感じてもらいたいからだ。
5月1日の会では、“THE DIALOGUE”を、その一曲としてかける。
別項「2017年の最後に」で、こんなことを書いている。
ジャズ喫茶という場での「THE DIALOGUE」、
特にこの組合せでの音は、かかってこい、という気持のあらわれでもある。
誰に対しての「かかってこい」かというと、聴いている人たちに対して、である。
このころ、喫茶茶会記ではアルテックを中心としたシステムだった。
今回はJBLのユニットを中心としたシステム。
だから、ここでは「かかってこい」という気持があらわれるかもしれない。
高二の時に手に入れたオルトフォンのMC20MKIIと、
オーディオクラフトのヘッドシェル、AS4PLの組合せは、
私にとっての本格的なアナログディスク再生の一歩目と、
いまふりかえってみても、そういえる。
とはいっても、この時、プレーヤーは国産のダイレクトドライヴの普及クラスのモノだった。
もちろん、その上、つまりグレードアップを考えてたりはしていても、
そうそう簡単に、はっきりとグレードアップというかたちとなると、
高校生のアルバイトとこづかいでどうにかできるわけではなかった。
あれこれ、次のステップは──、そんなことを毎日のように思っていた。
あの頃の、ひとつの目標はマイクロの糸ドライヴだった。
RX5000+RY5500に、トーンアームにはオーディオクラフトのAC3000MC、
この組合せが目標だった。
あくまでも目標であって、現実的には、その下のモデルあたりとなるわけだが、
それだってすぐに手が届くわけではなかった。
マイクロの糸ドライヴ型はたしかに目標であったけれど、
同時に、いつかはEMTというおもいもずっと持っていた。
930stを、いつか手に入れる。
そんなことをおもっている日々が続いていた。
そこに登場したのが、トーレンスの“Reference”だった。
ステレオサウンド 56号の瀬川先生の文章に触れた者、
その時代に読んできた者にとっては、リファレンスは衝撃だったはずだ。
私には、そうとうに大きい衝撃だったし、
別項で触れているように、瀬川先生の熊本に来られた時に、
その音をかなりの時間を聴くことができた。
うちのめされた、とは、この時のことだった。
(その1)を書いたのは2015年だから、九年前。
音の違いがわかる、ということと、音がわかる、ということは決して同じではない、
と九年前はそう思っていた。
いまになって、もう一度考えてみると、同じことだともいえる──、
そうおもうようになってきている。
音の違いがわかる、といっても、それは深い意味での音の違いではなく、
音の差にすぎないからだ。
だから前に聴いた音や聴く順番によって、音の違いがかわってしまう。
そのことをわからずに、音の違いがわかると豪語している人もいる。
つまりは音がわからなければ、本当の意味での音の違いはわからないということだ。
Codex Glúteo。
日本盤には、
「臀上の音楽 〜 スペイン・ルネッサンス時代のシリアスな尻作春歌集」というタイトルがつけられていた。
帯には、黒田先生の「このスペインの音楽家たちの悪戯は女の人にはきかせられない。」
というコピーがあった。
これだけで、おおよその想像がつくと思う。
1978年ごろのアルバムである。
ちょっと聴いてみたい、と思っても、高校生にとって、
ちょっと聴いてみたいアルバムにこづかいを使えはしなかった。
他にも聴きたい(買いたい)レコードが数多くあったからだ。
いつか聴ける日が来るだろう──、と思いつつも、
この手のレコードは積極的に聴こうとしない限り、
いつかそうなるということはほとんどない、といまでは思っている。
どこかで偶然耳にすることはあったとしても、
それが「臀上の音楽」とは知らずに通りすぎてしまうだけだ。
「臀上の音楽」のことはすっかり忘れていた。
それをたまたまTIDALで見つけた。
MQAで聴ける。
TIDALがなかったら、おそらく一生聴く機会はなかっただろう。
《あまりにも大がかりな装置を鳴らしていると、その仕掛けの大きさに空しさを感じる瞬間があるものだ》、
瀬川先生のことばだ。
空しさを感じない人だけがハイエンドオーディオの道を進んでいけるのか。
空しさを感じるからこそ、埋めよう埋めようと、さらに突き進んでいくのか。
ラ・フォル・ジュルネのウェブサイトを見ていたら、
逸品館が5月3日から5日までの三日間、
東京国際フォーラムのガラス棟G404で、
「LFJで体験しよう! ハイエンド・オーディオの世界」というイベントを行うという。
どんな試聴イベントなのかは、
リンク先からさらに逸品館のサイトに行けばPDFでわかる。
応援したくなるような企画だ。
四季豊かな日本といわれていたのは、いつまでなのだろうか。
まだまだそうなのだろうと思うながらも、
四季が二季になりつつある意見も、目にするようになってきて、
そういえるけれど──、といったところもある。
今年も4月に夏日を記録している。
今夏もかなりの猛暑になるのだろうし、その夏が長いのだろう。
冬が短くなり、夏が長くなる。そんなふうになっていくのか。
そしてそれが加速していくのか、それともどこかで転換する時がくるのか。
しばらくは加速していきそうな感じなのだが、そうなったときにオーディオと四季、
音と四季について考えることも消えていってしまうのか。
別項で何度か書いているように、井上先生は四季の変化によって、
聴きたい音も変化していくことを、よくいわれていた。
真夏に、A級アンプや真空管アンプの音はあまり聴きたいと思わないし、
寒くなれば、そういう音を求めるようになるとも。
このことに同意する人もいれば、そんなこと関係ないという人もいる。
これには人それぞれということもあるけれど、
仕事柄ということも関係していたのかもしれない。
井上先生の仕事、オーディオ評論家として、
メーカーの試聴室やオーディオ雑誌の試聴室に行っては、
さまざまな音を聴く。
それは仕事であり、そこに季節感というものはなかったのかもしれない。
だからこそ、よけいにプライベートな音に、四季を感じさせる、
四季と連動していく音を求められていたのかもしれない。
「「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その6)」で書いたことも、
このことには関係してくるのかも──、とも思うようになってきた。
「味わい」と四季についてである。
音楽は自由だ──、
そんなことを目にしたり耳にしたりする。
ずっと以前から、いわれてることだ。
音楽は、確かに自由なのだろう。
それでも完全に自由なのか──、ともどこかで思ってしまう。
それでも音楽は自由だ、としよう。
では、その音は自由なのか。
そんなことを考えてしまう。
その音といっても、演奏の場での音、つまり楽器から発せられた音と、
再生の場での音、スピーカーから発せられた音とがある。
どちらの音も自由なのか。
ハーベスの輸入元が、
エムプラスコンセプトからサエクコマースに4月1日づけで移管になった。
ハーベスの輸入元がかわる、というウワサは耳にしていたから、
サエクコマースなのか、という程度で驚きはないのだが、
エムプラスコンセプトは、どうなるのか……、とちょっと思ってしまう。
2003年からハーベスだけを取り扱ってきた会社だ。
会社を畳むのだろうか。
そんなことをおもったりするのだが、
サエクコーマスになったことで、OTOTENで聴けるようになるはずだ。
全生新舎の野口晋哉さんの新企画。
アルテックのA5C(マンタレーホーン)をメインスピーカーとする音楽鑑賞会、
“Listening Practice Friday”に行ってきた。
始まるまでの時間、
757Aのエンクロージュアと、そのレプリカのエンクロージュアを叩いてみた。
その音が近いことに、ちょっと驚く。
もちろんまったく同じというわけではないが、けっこう近い。
近いから同じ音、そっくりの音が鳴ってくる──、とは思わないし、
言わないけれど、期待は芽ばえてくる。
レプリカのユニット構成、
ウーファーは不明だが、JBLの2420+2397という中高域からすると、
なんとなくジャズを主に聴くためのシステムかのようにも思えなくもないが、
野口晴哉氏はクラシックが主で、ジャズはほとんど聴かれなかったとも聴いているから、
ジャズのためのシステムではなく、757Aの再現を目指してのシステムなのだろう。
2月、3月、4月のaudio wednesdayでは、
スピーカーシステムがコンデンサー型とリボン型ということで、
部屋を縦長で使っての音出しだったが、
今回は1月と同じように部屋を横長で使う予定でいる。
ウェスターン・エレクトリックの757A。
なぜ757Aが二台(ステレオペア)でないのか。
野口晴哉氏の時代、このスピーカーシステムを二台手に入れるのは、かなり困難だったはず。
1980年代に入ると、ウェスターン・エレクトリックを扱う業者も増え、
アメリカの倉庫や映画館などを捜してまわる人たちも出てきて、
お金さえ積めば二台手に入れることも可能になったことがある。
757Aのペアの音を聴いたことがあるのかときかれれば、一応ある、というふうに答えている。
あるところで聴いてはいる。
でも、757Aの真価をそこで聴いたとはまったく思っていない。
鳴っているのを聴いた、そのレベルであった。
757Aよりも、他のスピーカーユニット、たとえば594A、555を聴く機会のほうが多かった。
野口晴哉氏は、757Aをペアで揃えたかった──、
私は勝手にそう思っている。
でも叶わなかった。
だから757Aのレプリカを作られたのだろう。
野口晴哉氏の真意を知る人は、もう誰もいない。
その音を聴いて探っていくしかない。
探っていきたい。
探っていける音を出していきたい。