Archive for category 「本」

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その7)

季刊誌ステレオサウンドは、株式会社ステレオサウンドから出ている。
株式会社ステレオサウンドは、来年秋に創立50年を迎える出版社である。

私がステレオサウンドを読みはじめたころ、
株式会社ステレオサウンドは、季刊誌ステレオサウンドのほかは、
隔月刊誌のテープサウンド、それと半年に一度のHI-FI STEREO GUIDEだけが定期刊行物だった。
私が働きはじめたころは、月刊誌サウンドボーイが加わっていた。

現在の株式会社ステレオサウンドはもっと多くの定期刊行物を出している。
サウンドボーイはHiViになり、
テープサウンドはプロサウンドに変り、
管球王国、ビートサウンドなどいくつもの定期刊行物を創刊・発行している。

いまでは季刊誌ステレオサウンドは、
株式会社ステレオサウンドという出版社が発行している雑誌である。

こんなことを書くのは、私が読みはじめたころは違っていた。
少なくとも私の感じ方は違っていたからだ。

ステレオサウンドは、ひとつのブランドという認識だった。
だからテープサウンドもHI-FI STEREO GUIDE、サウンドボーイも、
ステレオサウンドというブランドが発行するオーディオ関係の雑誌・本という受けとめ方をしていた。

もちろん株式会社ステレオサウンドが出版社であることは、いまも昔も変らない。
それでもいまから40年ほど前、ステレオサウンドはブランドといえた。

私が書きたいのは、そのことではない。
もっと以前のこと、ステレオサウンド創刊のころである。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その6)

このブログは2008年9月に始めた。
その約一年後に、”the re:View (in the past)“を始めた。

このブログのために必要だと思い始めた。
川崎先生が書かれているように、《ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録》であり、
それはどんなに速報性が高かろうと、記録する時点で過去である。
ならば、過去の日々の記録も求められるのではないか。

始めたころは、いまのように時系列順に並べていたわけではなかった。
ブログは紙に印刷して読むものではない、
パソコンのディスプレイ、スマートフォンやタブレットで読む。
そのことを考えると、時系列に並べる必要性それほど感じなかったからである。

けれど、広告という日々の記録も”the re:View (in the past)”で公開しようと思い立ち、
時系列順に並び替えることにした。

ブログは日々の記録に向いている。
この「向いている」性質は、過去の日々の記録にもいえることだ。

ブログは公開日時を自由にできる。
10年前、20年前の日付でも簡単に設定できる。

ある程度つくったところで時系列順に並べ替えることはけっこうな手間だったけれど、
やってよかったと思っている。

今日の時点で”the re:View (in the past)”でオーディオの広告を、1600点以上公開している。

昨年から”JAZZ AD!!“で、
スイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告も公開しはじめた。

広告ページをスキャンするために、本をバラす。
そのままスキャンすると、昔の雑誌は紙が薄いこともあって反対側の印刷がすけて一緒にスキャンされる。
これを少しでも防ぐために黒い紙を用意する。
それでも完全に防げるわけではない。そして昔の本は紙が黄ばんでいることが多い。
それから傾いて印刷されているのも少なくない。

これらをレタッチで修整していく。
簡単に処理が終ることもあれば、意外に手間どることもけっこうある。
面倒だな、と感じることもないわけではない。

にも関わらず続けているのは、小さな発見があるからだ。
先日も、この項に関係する、小さな発見があった。

スイングジャーナル1972年2月号の、日本コロムビアの広告である。
ここに「注目のカルダン・レコード第一弾!」とある。

ジャズに詳しい人ならば知っていることなのだろうが、
私はピエール・カルダンがレコード・レーベルをもっていたことを、この広告で知った。

レコードも出版の形態のひとつと考えれば、
(その1)で紹介したWIREDの記事《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》の例といえよう。

この記事は本の出版に関してだが、レコードという種パンに関してもそういえるのではないか。
これについては、いずれ書いていきたい。

ここで書いていくのは、本の出版に関してであり,
ステレオサウンドという本は、出版社から始まったわけではない、ということだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その4)

雑誌の理想は、広告なしだ、という意見が昔からある。
私もそう思っていたことがある。
広告に頼らない雑誌をやっていくにはどうしたらいいんだろうか、と考えたこともある。

日本にも広告をいっさい掲載しない雑誌がいくつかある。
有名なところでは「暮しの手帖」がある。

「暮しの手帖」のジャーナリズムのありかたとして、広告なしで始まった。
だから「暮しの手帖」の影響が大きいのだろうと思う、
日本で広告なしの雑誌こそ理想のあり方だ、と受けとめられがちなのは。

けれど雑誌は、時代を反映しているモノである。
それは記事だけでなく、むしろ記事以上に時代を反映しているモノは広告ともいえる。

いい雑誌は、そして「時代を批評する鏡」でもある。
いい広告もまた「時代を批評する鏡」でもある、と思っている。

だから広告のない雑誌は、その心意気は素晴らしいと思うし、
同時代に読む雑誌としては広告なしもいいとは思う。

だが雑誌は振り返って読むモノでもある。
一年前、二年前の雑誌のバックナンバーを読めば、もっと古いバックナンバーを探しだして読む人もいる。

雑誌を読むということは、その雑誌とともに時代を歩むとともに、
その雑誌のバックナンバーを手に入れ読むことで、時代を溯っていくことを同時に体験できる。

ステレオサウンドで働けてよかったことのひとつは、
ステレオサウンドのバックナンバーをどれでもすぐに読めることがある。

編集部にいて最新のステレオサウンドをつくっていくと同時に、
私が読みはじめる前のバックナンバー(40号以前)を溯りながら読んでいけた。

これは他では体験することはできない。
この体験から、私は現在のステレオサウンド編集部の人たちに、
バックナンバーをもっともっとしっかりと読み込むべきだといいたいのである。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その3)

どんな雑誌でもいい、書店に並んでいるさまざまな雑誌の中の一冊。
これを手に取ってページをめくっていく。

本の判型(大きさ)、厚さ(ページ数)、紙の質、
カラーページの量、広告の量と質……、そういった事柄を総合的に判断して、
このくらいの値段かな、というおおよその見当はつく。

記事の内容も大きく関係してくるが、広告も大きな目安である。
どんな広告が入っているのか。
その広告のクォリティはどはの程度なのかも判断材料だけれど、
むしろあまり程度のよくない広告がどれだけ入っているかも判断材料のひとつである。

雑誌の巻頭には見映えのする広告を集めていても、
巻末には、この雑誌にこの広告? といいたくなる類の広告をまとめている雑誌もある。

広告出稿の以来があれば原則としてことわらないという出版社もあれば、
その雑誌にそぐわない広告は拒否するという出版社もある。

そんなことを含めて本好きの人は、手に取った雑誌の値段の見当をつけている。
そして広告は、その雑誌の実情を間接的に語ってもいる。

たとえば中古オーディオを中心に扱っている販売店の場合。
昔はステレオサウンドに広告を毎号出していた。
けれどインターネットの普及、ウェブサイトをもつことで、広告を出さなくなったところもある。

なぜ出さなくなったからといえば、広告を出すことのメリットがなくなったからである。

中古オーディオの場合、広告を見て問合せの電話がある。
ステレオサウンドの○○号の広告に掲載されていたか○○はまだありますか、といったふうにである。

私も昔はよく広告を丹念に見ては問合せの電話をかけていたから、よくわかる。

こういう電話は、必ず、どの広告を見たのかを電話の主は販売店に伝える。
ところがある時期から、こういう電話の問合せがパタッとなくなった。
電話の問合せは、インターネットを見て、とか、ウェザサイトに掲載されている……、といったものに変っていった。

これは何も私の作り話ではない。
実際に以前は出していたけれど、いまはもう広告を止めてしまったオーディオ店の方から聞いた。
もっとも聞かなくとも、その販売店が広告を出さなくなった理由はわかっていたけれども。

そうやって広告の常連だったところが消えていく。
同時に新しいところの広告も入ってくる。
その入れ替りによって、その雑誌の印象もまた変ってしまう。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その2)

「考える人」をはじめて買ったのは、2005年春号だった。
特集は「クラシック音楽と本さえあれば」だった。

表紙にはそれだけでなく、「内田光子ロングインタビュー」の文字もあった。
これは買うしかない、と思い、レジに持っていった。

帰宅後、中を開けばすぐに気づいた。
広告が非常に少ないこと、それもユニクロの広告だけだったことに。

「考える人」2005年春号のページ数は256ページで、価格は1333円(税込み1400円)だった。
広告が極端に少ないから、256ページのうちほとんどが記事である。
カラーページもある。
新潮社が出していることもあって、執筆陣も多彩である。

広告がまったくない雑誌というのもないわけではない。
広告を載せない(とらない)ことで、理想の雑誌づくりを目指す──、
そういったことはほんとうに可能だろうか。

「考える人」をまったくの広告なしで、となったら、定価はいったいいくらになるのか。
定価が高くなれば買う人も少なくなる。
売れる部数が少なくなれば定価はさらに高くなる……。

ここが本・雑誌とレコードとの違いである。
レコードは、どんなに録音制作費がかかったものでも、
一枚のレコードの価格はほぼ決っている。レコードには広告がはいらない。

本はそうではない。
本好きの人ならば、書店でその本を手に取りパラパラめくれば、
その本のおおよその定価は見当がつくはずだ。

Date: 8月 19th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その1)

WIREDの先月の記事に《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》があった。

今月、川崎先生のブログに《広報誌がまだジャーナリズムである》があった。

このふたつを読んで共通して思い浮べたのは、「考える人」という、
新潮社が出している季刊誌のことだった。

「考える人」を手にしたことのある人は、気づいているかもしれない。
でも、私の周りで「考える人」を買ったことのある人で気づいていた人はいなかった。

「考える人」の広告は、すべてユニクロのものだけである。
そのことを指摘すると、ほんとだ! とびっくりされる。

数多くの雑誌が出版されているけれど、
「考える人」のような出版形態は他に例があるのだろうか。
少なくとも、私が書店で手にする雑誌に、こんな例はなかった。

「考える人」は新潮社が出している。
新潮社は出版社である。
けれど、これは《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》のひとつのカタチともいえる。

「考える人」に載る広告がユニクロだけということは、
ユニクロが新潮社につくらせている雑誌という見方もできなくはない。
この見方をあてはめれば、「考える人」はユニクロの広報誌でもある、といえるのか。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その1)

古書店に、きれいなステレオサウンドのバックナンバーが並んでいるのを見つける。
きれいであることは嬉しい。
けれど、きれいであるということは、そのステレオサウンドはほとんど読まれていないということでもある。

これは、元とはいえ編集者だった者には悲しくみじめな気持になる。

そういえば、定期購読しているけれど、ここ十年くらいほとんど読んでいない、という声もきく。
別にステレオサウンドに限ったことではない。
他の雑誌・書籍についても同じことがあり、同じことがいえる。

私のところには、ステレオサウンド 38号が二冊ある。
一冊は岩崎先生が読まれていた38号である。
かなりボロボロになっている。

この38号は39号、40号などといっしょに私のところにある。
38号だけがボロボロになっている。

岩崎先生にしっかりと読まれたことで、38号は「本」としての役目を果したといえる。
岩崎先生によって「本」になったといえる。

書店に並んでいるのは、たしかに本である。雑誌であり書籍である。
けれど購入されても、禄に読まれなければ、紙の束でしかない。
しかも何も書かれていない紙の束は他の用途に使えるが、
印刷されている紙の束は、あまり他のことには使えない。

出版社にとっては、読まれようが読まれまいが、売れればそれでいい、ともいえる。
発行部数が多ければ広告は多くはいってくるし、広告料も強気でいられる。
それでもいいのが資本主義(商業主義)なのかもしれない。

どれだけの人が読み、どれだけの人が読まないのかはわからないが、
読んでいない人がいることは事実である。
そういう「本」になりそこね紙の束のままで終えてしまうものに、
文章を書いていくことに、まったく疑問を持たずにいられるのだろうか。

疑問を持っている人、いない人がいると思う。
疑問をもたずに書いている人は、商業主義的書き手といえるのか。

そして編集者は……、とおもう。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その3)

小学館はFMレコパルだけでなくサウンドレコパルも出版していた。
サウンドレコパルは月刊誌。略してサンレコと呼ばれていた。

この10年、いやもっと以前からサンレコといえばサウンドレコパルではなく、
サウンド&レコーディング・マガジンの略称として一般的には通じるようになっていた。

今回のFMレコパルの一号限定の復刊はDIME編集部によるものである。
なぜDIME編集部はサウンドレコパルではなく、FMレコパルにしたのか。

今回のFMレコパルの復刊号に「懐かしい」という気持を抱いた人たちは、
FMレコパルではなくサウンドレコパルの一号限定の復刊だったとしたら、
やはり懐かしいということになるのだろうか。

サウンドレコパルだったら、あまり話題にならなかったかもしれない。

今回のFMレコパルを読んだ人たちの懐かしいという気持は、
学生時代の友人、知人と久しぶりに会った時の懐かしいに近いか同じなのだろうか。

人は10年以上会っていなければ人によっては別人のように変っていることもある。
容貌も変る。
それでも10数年ぶりに会えば懐かしいということになるとすれば、
会った瞬間ではなく、なんらかの会話をしてからではないだろうか。
その会話も昔のことをふり返ってではないだろうか。

私も10年ぶりに会った経験がいくつかある。
最初は、懐かしいではなく、久しぶりだった。
そして話をする。それでも懐かしいという気持をもつことはなかった。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その2)

FMレコパルの復刊号は売れているようだ。
すべての書店を廻っているわけではなく、近所の書店や大きめの書店を見た感じでは、好評のように感じる。

facebookでも、懐かしい、面白い、という声があった。
そういう人たちは私と同世代かすこし下の世代の人たちが多いようだ。

私には、懐かしいという気持が湧いてこなかった。
手に取った瞬間は、本の厚み、表紙の感じが、以前のFMレコパルの感触を思い出させてくれたけれど、
そこまで留りである。

内容に懐かしいという気持はなかった。

私はこのブログで、古いことも書いている。
ステレオサウンドのバックナンバーから引用することも少なくない。
だからといって、ステレオサウンドのバックナンバーを手にする時、懐かしいという気持は、
まったくないに近い。

われわれはLP、CDによって、古い録音を聴く。
10年前どころか、もっと以前の、モノーラルの録音も聴くし、
親が生まれる前の録音も聴いている。

それらの録音が行なわれたのと同時代に聴いてきたモノもあるし、
そうでなくレコードを聴きはじめる時代よりずっと前の録音も聴いているわけだ。

懐かしいという気持が湧くのは、あくまでもその録音が世に出た時に聴いてきたものに限られるはずだ。
過ぎ去った時に聴いていたものを、いま聴くことで懐かしいと感じることがある。
どんなに古くても初めて聴くものに、懐かしいという気持を抱くことはありえないことである。

古いからといって、どちらに対しても懐かしい、という気持は湧くことはまずない。
そして、少なくとも愛聴盤に関しては、まったくないといえる。

むしろ自分でLPなりCDを持っていない曲、
それも学生時代に耳にしていた曲が、なにかでふいに流れると懐かしいと思うことがある。

けれど、その懐かしいという気持は、ほんの一瞬であることが多い。
懐かしいと感じた曲が、いい曲であるならば、もう懐かしいということはどこへ行ってしまっている。
懐かしいという気持が最後まで残っているのは、そこまでの場合が多い。

古いと懐かしいは、同じではない。

懐かしいと感じるには、その対象に親近感、親密感をもっているかどうかであるのはわかっている。
だが古い録音を聴く、古いステレオサウンドを読むのと、
今回のFMレコパルの復刊号を読むのと同じことではない。

いまは2014年で、今回のFMレコパルは一号限りとはいえ2014年のFMレコパルとして出版されているからだ。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その1)

手にされている方もおられるだろう、FMレコパルが一号限定で復刊した。
一週間前に書店に並んだ。
近所の書店には、取り扱っている店とそうでない店とがあった。
昼過ぎに行ってのことだから、すでに売れ切れだったとは考えにくい。

取り扱っている店は、平積みではなかったけれど、通常の置き方とは少し変え、目立つように並べてあった。
この書店の店主はFMレコパルを読んできた世代なのかもしれない、と思いながら、手に取った。

まず感じたのは本の厚さである。
当時のFMレコパルを手に取っている感じがよみがえってきた。

私のころはFM誌は三誌あった。
FMfan、週刊FM、それにFMレコパルである。
数年後にはさらに増えていき、いまはすべて消えていった。

三誌はどれも同じくらいの厚さだった。
それぞれに特徴のある編集だった。

復刊FMレコパルをめくっていくと、あのころのFMレコパルのテイストがきちんと再現されていると感じる。
このへんは、小学館という大きな出版社の強みかもしれない。

FM誌には必ずついていたFM番組表はついていなかった。
これにページを割くのであれば、他にやりたい企画もあっただろうし、いま番組表をつける意味、
特に一号限定の復刊ということからも番組表はなくて当然なのだろう。

あぁレコパルだな、と思いながらも、それ以上ではなかった。
当時もFMレコパルの読者とはいえなかった。
私が毎号買っていたのはFMfanだったこともある。

でもいま共同通信社がFMfanを一号限定復刊して、FMレコパルと同じレベルでの復刊であったとしても、
同じように感じるような気がする。

facebook、twitterでは今回の復刊を喜んでいる声がいくつもあった。
そういう声があがってくるのはわかるけれど、私はそうなれなかった。

Date: 11月 13th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(池田圭氏の「音の夕映え」)

別項で池田圭氏の年齢を知りたくて、久しぶりに「音の夕映え」を取り出した。
奥付を見た。

そこに初版千五百部、再版千部、とあった。

「音の夕映え」の初版は1979年に出ている。
再版は1981年に出た。

1981年に「音の夕映え」を買った時に、奥付で、この数字は見ていた。
けれど、そのときはオーディオの書籍がどれだけの数が出るのかという知識はまったくなかった。
だから、ただ1500部と1000部、合せて2500部。私が持っている「音の夕映え」は2500分の1冊なのか、
ぐらいのことしか思っていなかった。

1979年はオーディオブームの全盛期は過ぎてはいたものの、
まだまだオーディオには勢いがあったように感じていた。
そのころ出た「音の夕映え」の初版が1500部なのか……、といまはおもう。

池田圭氏は、ステレオサウンドにもときおり書かれてはいても、
メインの筆者のではなかった。
とはいえ「音の夕映え」の初版1500部は少ない、と感じる。

「音の夕映え」は2500円である。
「音の夕映え」を手にとった人ならばわかるはずだが、
この本のつくりは池田圭氏のわがままをかなえている。

「音の夕映え」には、最新のオーディオ機器のことはほとんど出てこない。
そういう本だからこれだけの数しか売れなかったのだとしたら、
──なんだろう、いまのオーディオのある一面と重なってきて、
虚しさみたいなものを感じないではいられない。

Date: 8月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その24)

オーディオ雑誌において、スピーカーの傾向をあらわすのに、
音場型と音像型にわける人がいる。
この分け方はスピーカーだけとは限らなかったりするのだが、
音場(おんじょう)ということを考えていけば、これは奇妙な分け方であることにすぐ気づかなければならない。

音場がきちんと再現されているのであれば、音像も再現されている。
また音像がきちんと再現されているのであれば、音場も再現されている。

にも関わらず音場型・音像型という分け方をする人がいまだにいるし、
そのことに疑問を感じない人がいる。
そういう人が書いたのを読むと、音像に対しての捉え方にひどい異和感を感じてしまう。
この人が感じている音像とは、いったいどういう現象なのだろうか、と。

音場型・音像型という分け方、表現をしている人が聴いてるのは、
もしかすると音場(おんじょう)ではなく、音場(おんば)なのではないだろうか。
こうも感じてしまう。

さらにいえば、音場と音場感は似て非なるものだと私は考えている。
そんな私からみれば、音場型・音像型を使う人のいうところの音場型とは、音場感型なのではないのか。

音場型・音像型は、いっけんわかりやすく感じられる。
だが音場の定義、音像の定義をきちんと、その分け方をしている人は、どこかで書いているのだろうか。
音場と音場感の違いについても、書いているのだろうか。

音場(おんじょう)と音場(おんば)があるように、
音場感(おんじょうかん)と音場感(おんばかん)があるようにも思っている。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その22)

最近ではあまり使われることが少なくなった気もする言葉に、臨場感がある。
1970年代には、この臨場感はよく目にしていた。

臨場感は必ずしも音場感と完全に一致するものではないにも関わらず、
音場感という言葉が誰もが使うようになってきた1980年以降、
音場感と交代するかのように臨場感の登場回数は減ってきたのではなかろうか。

臨場感にも「場」がついている。
臨場感は、りんじょうかんと読む。
音場を、おんじょうではなく、おんばと読む人でも、臨場感はりんじょうかんである。

「場」をじょう、と読むわけだ。
つまり現場(げんじょう)と同じで、そこで何かが起っている「場」に臨む、
臨んでいるかのような感覚を、臨場感というわけだ。

では、いったい何に臨んでいるのか。どういう「場」に臨むのか。
ここで考えるのは、オーディオについてのことだから、
答は、ひとつしかない、といいきっていいだろう。

ステージ(stage)こそが、「場」(じょう)である。

そう考えていくと、オーディオにおける現場(げんじょう)とは、
ステージであり、ステージのあるところ、であるはずだ。