Archive for category オーディオ評論

Date: 7月 17th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その1)

ある人から、十年以上前にきいた話である。
オーディオ業界の人たちが集まっての、とある飲み会で、その評論家の方は言った、という。
「私は二流のオーディオ評論家ですから」と。

詳しく話をきくと、自分を卑下しての言い方ではなかったようである。
飲み会だから、酔った上での発言ではあろう。

それでも「私は二流のオーディオ評論家ですから」と、そう公言できる人はどのくらいいるだろうか。
いないのではないだろうか。

私は、いま生きているオーディオ評論家に一流はいない、と思っている。
そう断言してもいい。

それでも、いま生きているオーディオ評論家の人たちのなかで、
多くの業界関係者がいる場で、そういえる人がいるだろうか。

二流どまりと自覚している人(そんな人がいるのだろうか)であっても、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」とはなかなかいえない、と思う。

なのに、この人は卑下することなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったという。
二流の人ほど一流ぶるところがある。
オーディオの世界だけでなく、ほかの分野でもそんな人は大勢いる。

なのに、この人は「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったのはなぜなのか。
この人が誰なのかは、書くつもりはない。

私は、この人が書くものを、その時までほとんど読んでいなかった。
名前はよく知っていた。顔も知っている。
まったく読まない、ということはなかった。

ステレオサウンドで仕事をしていると、オーディオ雑誌には目を通していた。
仕事としては読んでいたが、個人的に読んでいたわけではなかった。

私は、この人のことを二流のオーディオ評論家だ、と思っていたし、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」をきいたあとでも、そう思っている。

それでも、ここで書いているのは、
この人は自分の役割をきちんと自覚している人だから、と思うからである。

決して一流ぶることのない二流のオーディオ評論家だからだ。

日本のオーディオ、これから(コロナ禍ではっきりすること・その1)

サプリーム No.144(瀬川冬樹追悼号)の巻末に、
弔詞が載っている。

ジャーナリズム代表としては原田勲氏、
友人代表として柳沢功力氏、
メーカー代表として中野雄氏、
三氏の弔詞が載っている。

柳沢功力氏の弔詞の最後に、こうある。
     *
君にしても志半ば その無念さを想う時 言葉がありません しかし音楽とオーディオに托した君の志は津々浦々に根付き 萠芽は幹となり花を付けて実を結びつつあります
残された私達は必ずこれを大樹に育み 大地に大きな根をはらせます 疲れた者はその木陰に休み 渇いた者はその果実で潤い 繁茂する枝に小鳥達が宿る日も遠からずおとずれるでしょう
     *
瀬川先生の志は大樹になったといえるだろうか。
そういう人も、オーディオ業界には大勢いるような気がする。

見た目は大樹かもしれない。
でも、何度か書いているように、一見すると大樹のような、その木は、
実のところ「陽だまりの樹」なのではないか。

「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。

真に大樹であるならば、コロナ禍の影響ははね返せるだろう。
「陽だまりの樹」だったならば……。

Date: 5月 1st, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その9)

長岡鉄男氏のファンは多かった、といっていいだろう。
こんなふうに書くのは、私の周りに、長岡鉄男氏のファンがいなかったからだ。

ステレオサウンドを辞めて十年ぐらい経ったぐらいのときに知りあった人が、
10代からハタチにかけてのころは長岡ファンでした、といっていたくらいである。

長岡鉄男氏のファンのことはよく知らないわけだが、
長岡鉄男氏の文章が載っていれば、そのオーディオ雑誌を買うのだろう。

私が中学、高校のころはFM誌全盛時代だった。
週刊FM、FMfan、FMレコパルがあった。

同級生にオーディオマニアはいなくても、FM誌を読んでいる者は何人かいた。
彼らはオーディオマニアではないから、長岡鉄男氏への関心もなかったはずだが、
彼らはどういう基準で、FM誌を選んでいたのだろうか。

オーディオマニアであれば、長岡鉄男氏の連載がある、ということが理由だっただろう。

私はFMfanがメインだった。
理由は単純だ。瀬川先生の連載が載っていたからだ。
週刊FMにも、1981年ごろか、巻頭のカラー見開きで瀬川先生の連載が始まった。
この時は週刊FMも買っていた。

私の知る限りでは、FMレコパルには書かれなかったはずだ。
その7)に書いたように、サウンドボーイにも一切書かれなかった。

そのころの私にとって、No.1のオーディオ雑誌はどれかという意識はあまりなかった。
とにかく瀬川先生の書かれたものを読みたかった。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

青雲の志

あまり目にすることも耳にすることもなくなってきている「青雲の志」。

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)をわけるのは、
青雲の志をもっているかどうかだろうし、
オーディオ評論家(商売屋)にしかみえない人も、
以前は青雲の志をもっていたのかもしれない。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その8)

岩崎先生はどうだろうか。
ステレオサウンドがメインだったと思っている人も少なくないようだ。

岩崎先生の著作集「オーディオ彷徨」は、
ステレオサウンドから出ていることが関係してのことだと思うが、
岩崎先生が書かれていたころ、ステレオサウンドを読んでいた人ならば、
決して短くない期間、まったく書かれていないことに気づかれていたはずだ。

私は41号からの読者だから、そのことを知っていたわけではない。
それでもステレオサウンド 50号には、
巻末附録としてあった、創刊号から49号までの総目次があった。

高校生だった私は、読んでいないバックナンバーのほうが何倍もあった。
だから、総目次を創刊号から順に丹念にみていった。
すると、岩崎先生の名前がまったくない号が、けっこう続いていることに気づいた。

どうしてだったのか、いまではなんとなく知っている。
なんとなくこうだったのではないか、とも思っているが、
なんとなくでしかないので書いたりはしないが、そういう時期があったのだけは事実だ。

ジャズをあまり聴かずに、スイングジャーナルもあまり読んでこなかった人にとっては、
だから岩崎先生も、ステレオサウンドがメインだったと想いがちになるが、
どちらがメインかといえば、スイングジャーナルだった、と思う。

Date: 3月 9th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その7)

私がオーディオ雑誌を読み始めた1970年代後半、
そのころ、各オーディオ雑誌の書き手は固定されていた面があった。

たとえば瀬川先生は、ステレオサウンドがメインだった。
その他はFM fanの連載があって、別冊FM fanにも書かれていたし、
スイングジャーナルにも、おもに別冊に登場されていた。

私がオーディオ雑誌を読み始める前は、ステレオでも書かれていた。
それ以前はラジオ技術の編集者であり、メイン筆者でもあった。

でも、私がオーディオ雑誌を読み始めたころは、そんな感じだった。

長岡鉄男氏は、いわゆる売れっ子のオーディオ評論家だったが、
ステレオサウンドには、そのころはまったく書かれていなかった。
それ以前は書かれていた時期がある。

長岡鉄男氏は出版社でいえば、共同通信社と音楽之友社がメインだった。

ようするに筆者(オーディオ評論家)によって、
メインとなる出版社は決っていた、といえる。

とはいえ瀬川先生は、はっきりとステレオサウンド社がメインであったが、
だからといって、サウンドボーイには一度も書かれていない。

サウンドボーイが創刊されたころ、なぜなのか、不思議だったのだし、
サウンドボーイにも書いてほしいと思っていた。
ステレオサウンドで働くようになって、その理由を知ったが書くつもりはない。

そういう瀬川先生だから、もし長生きされていたとして、
ステレオサウンド社から出ている管球王国にも登場されなかったはずだ。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その6)

オーディオ評論は、どうだろうか。
マンガと違い、オーディオ評論用のスマートフォンのアプリはいまのところない。

これから先もまずない、だろう。
なので、掲載誌という概念はまだ残っていくのか、といえば、
どうなのだろうか、と考え込むところもある。

一冊の書籍でも書き下ろしでなければ、巻末に初出誌一覧がある。
岩崎先生の「オーディオ彷徨」、瀬川先生の「虚構世界の狩人」、
菅野先生の「音の素描」などにも、初出一覧がある。

けれど初出一覧をじっくり見ている人はどのくらいいるのか。
意外と少ないようにも感じている。

「オーディオ彷徨」だとステレオサウンドとスウイングジャーナルで大半をしめ、
あとはレコード芸術、オーディオ・ジャーナル、ジャズ、ジャズランド、サプリーム、FMレコパル、
サウンド、レアリテなどがある。

私は「オーディオ彷徨」を最初に読んだ時、
読み終ってから初出一覧を見て、
あの文章はやはりスイングジャーナルに書かれたものなのか、
レアリテって、どういう雑誌? と思い、冒頭を読み返したりもした。

「虚構世界の狩人」でも同じことをやったし、
黒田先生の「レコード・トライアングル」、菅野先生の「音の素描」のときもそうだった。

おもしろいと感じた文章ほど、どこに書かれたなのなのかが気になる。
自分がそうだから、ほかの人も同じ、と思い込まない方がいいのはこの件でも同じで、
初出一覧なんて、まったく気にしない、という人がいるのも知っている。

そこに書かれた内容をしっかりと読んでいさえすれば、
初出がどの雑誌なのか、なんてことは気にする必要はない、
といいきれないところが私にはある。

この感覚は、性格的なものでもあろうし、マンガを読んできていたからなのか、とも思う。

Date: 2月 19th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その5)

スマートフォンでマンガを読む人がけっこう多くなったように感じている。
電車に乗っていると、男の人だけでなく、女の人もスマートフォンで読んでいる。

女の人だから、女性向けのマンガを必ずしも読んでいるわけでもなく、
男性向けのマンガを読んでいる人も増えているようだ。

私もマンガ好きなので、iPhoneにはいくつかのマンガ用アプリを入れている。
一時期は、新しいマンガ用アプリが出ればインストールしていた。
けっこうな数使って、いまは四つだけに絞っている。

マンガ用アプリで読んでいて気づくことは、
人気の高いマンガは、一つのアプリだけでなく、
複数のアプリで読むことができる、ということだ。

このことは紙の本では絶対に、といっていいくらいありえないことである。
どんなに人気があるマンガであっても、
掲載誌が複数ということはこれまでなかった(はずだ)。

だからこそ、このマンガを読みたいから、このマンガ誌(掲載誌)を買っていたわけだ。
つまりマンガという作品は、掲載誌とつねに関連づけられていた。

けれど、いまはどうだろうか。
スマートフォンでマンガを読む人が増えれば増えるほど、
掲載誌という概念はなくなりつつあるわけだ。

そうだから、女の人でも、いまでは男性向けのマンガを読む機会、接する機会が、
紙の本だけの時代よりもずっとずっと多くなっている。

おそらくマンガ雑誌の編集者の人たちは、
掲載誌という概念が希薄になっている、
すでに失われつつある──、ということを以前から感じとっていた、と思う。

Date: 12月 17th, 2019
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その19)

ステレオサウンド 50号といえば、1979年春号。
もう40年前のステレオサウンドということになる。

50号を記念しての巻頭座談会、
この最後に出てくる瀬川先生の発言は、別項でも引用している。
     *
瀬川 「ステレオサウンド」のこの十三年の歩みの、いわば評価ということで、プラス面ではいまお二方がおっしゃったことに、ぼくはほとんどつけたすことはないと思うんです。ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
 オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
41号から読みはじめた私にとって、50号はちょうど10冊目のステレオサウンドにあたる。
二年半読んできて、熱っぽく読んでいた時期でもある。

だから瀬川先生の《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには》に、
完全に同意できなかったことを憶えている。

《熱っぽく読んでもらう》とは、どういうことなのか。
なぜ、それまでのステレオサウンドを、読者は《熱っぽく読んで》いたのか。

いくつかの理由らしきことが考えられる。
その一つとして、不器用ゆえの熱があったからだ、と、いまは思っている。

Date: 11月 5th, 2019
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その3)

昨晩はAさんと秋葉原にいた。
万世橋の肉の万世の五階で食事をしていた。

窓際の席だったから、秋葉原がよく見える。
Aさんはハタチ前後のころ、秋葉原の光陽電気でアルバイトしていた人だから、
そのころの秋葉原をよく知っている。

私もそのころは秋葉原に足繁く通っていた。

いま秋葉原は街全体の雰囲気が、
ラジオの街からオーディオの街に変り、
そこからパソコンの街、いまではすっかり様変りしている。

それだけでなく、ビルも建て替えられている。
ヤマギワ本店もとっくになくなり、新しいビルが建っている。
石丸電気本店のところもそうだ。

Aさんと二人で、あのころは石丸電気のレコード専門店があって……、
という話をしていた。

ポイントカードなんてなかった時代だ。
石丸電気はポイント券を配っていた。

肉の万世を出て、交叉点のあたりで、また石丸電気のレコード店の話になった。
1981年の12月、この石丸電気の雑誌コーナーで、レコード芸術の1月号を手にした。

石丸電気は、一般の書店よりも音楽、オーディオ関係の雑誌は早く発売されていた。
レコード芸術を手にとって、衝撃を受けたことは、以前に書いている。

瀬川先生が亡くなったことを、当時、新聞をとっていなかった私は、
レコード芸術の記事で知った。
石丸電気で知った。

そのことを思い出しながら話していた。
11月7日が、今年もやってくる。

その2)で、瀬川冬樹賞があるべきではないか、と書いた。
いまもそう思っている。

Date: 9月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その4)

No.1のオーディオ雑誌とは、影響力の大きさで決るのか。
この影響力はわかりやすいようでいて、そうでない面もある。

それに影響力といっても、
それは読者に対しての影響力なのか、
クライアント(広告主)に対しての影響力なのか、ということもある。

もちろん読者に対しての影響力があれば、
それだけクライアントに対しての影響力も大きいはず、ではある。

けれど、それぞれのオーディオ雑誌の読者層は同じなわけではない。

以前、別項「598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その3)」で、
1980年代のオーディオ評論家の、国産メーカーによるランク付け的なことを書いている。

熊本市内のオーディオ店の店主が言っていたことなのだが、
オーディオ評論家でSクラスは長岡鉄男氏ひとり、
Aクラスが菅野沖彦氏と瀬川冬樹氏のふたり、
他の人たちはBクラス、Cクラスにランクされている、ということだった。

このランクづけを行っているのは、そのオーディオ店店主ではなく、
オーディオ業界、もっといえば国内メーカーということだった。
さらにいえば、おそらく営業関係者によるランクづけであろう。

つまり、この時代、国産のオーディオメーカー、
それも598のスピーカーシステムを売っているメーカーにとって、
長岡鉄男氏の存在は大きかったし、
長岡鉄男氏の影響力、
つまり598のスピーカーシステムを買う層に対しての影響力は、
他のオーディオ評論家よりもそうとうに大きかったわけである。

ならば、それだけ影響力のある長岡鉄男氏をメインの書き手として、
必ず毎号、長岡鉄男氏の記事が載っているオーディオ雑誌が、
影響力が大きいといえるかというと、そうとは言い切れない。

Date: 9月 15th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その3)

No.1のオーディオ雑誌とは、いったいどういうものなのか。

発行部数(売上げ)が一番のオーディオ雑誌がNo.1なのか。
収益がNo.1なのが、そうなのか。

広告の量がもっとも多いのがNo.1という見方もできる。

変ったところでは、編集者の学歴(偏差値)の高さというものもできなくはない。
ステレオサウンドにいたころ、
オーディオ専門の広告代理店にKさんがいた。

私より年上だが、ほんとうにオーディオ好きな人で、
なんだかんだいってよくオーディオの話をすることがあった。

Kさんは広告代理店の人だから、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌の会社にも行く。
編集者が、どういう人なのかもわかっている人だった。

そのKさんが、ある日、こんなことを言っていた。
オーディオ雑誌を出版している会社のなかでは、
音楽之友社が学歴は一番だよ、と。

Kさんによると、最低でも○○大(有名私大)だし、
○大(旧帝大)卒もあたりまえのようにいる、とのことだった。

音楽之友社と比べると、ステレオサウンドは……、と二人で笑ったことがある。
現在の音楽之友社がそうなのか、それは知らないが、
1980年代は、そうだ、と聞いている。

こういう尺度でみれば、音楽之友社のステレオがNo.1という見方もできよう。

なにをもってNo.1なのか。
誰もが納得するNo.1とは、どういうものなのか。

そして、腐っても鯛は、オーディオ雑誌にもいえることなのか。

Date: 9月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その2)

ステレオが変ってきた(良くなってきた)ことについては、
前々から書こうと思っていた。

ただ、良くなってきた、と書くだけで終ってしまいそうだったし、
一冊も買わずに、良くなってきた、と書いてもなぁ……、という気持もあった。

今回、こういうタイトルで書こう、と思ったのには、
別のきっかけもある。
昨年のことである。

あるオーディオ関係者からきいた話である。

どの会社なのか、社名を出すべきどうかちょっと迷うところもある。
直接きいたことではない、ということもある。
それでも二人のオーディオ関係者からきいたことなので、事実なのだろう。

あるオーディオ関係の出版社の社長が、
「ステレオサウンドを追い抜いた」といわれた、ということだ。

ここでのステレオサウンドが、季刊誌ステレオサウンドを指しているのか、
それとも株式会社ステレオサウンドのことなのか、
二つまとめてのことなのか、そこははっきりとはしない。

それでも「ステレオサウンドを追い抜いた」という発言は、
オーディオ雑誌のNo.1はわれわれだ、ということだろうし、
オーディオ関係の出版社のNo.1はわれわれだ、ということでもあろうか。

私がオーディオ雑誌を読みはじめた1976年、
オーディオ雑誌のNo.1はステレオサウンドだった。
はっきりと、そのことはいえた。

発行部数がどれだけとか、そういうことではなくて、
オーディオ雑誌のNo.1はステレオサウンドだった。

それはずっと続いていいくものだと思ってもいた。

Date: 9月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その1)

昨日、ひさしぶりにステレオ 9月号を買って読んでいた。
ステレオを買うのは、高校生以来だから、ほぼ40年ぶりである。

もちろんステレオサウンドにいたころは毎号読んでいたし、
いまも、書店で表紙を眺めて、面白そうな企画をやってそうだな、と感じたら、
手にとってパラパラめくることはあった。

買ってもいいかな、と思うことは何度かあった。
そう思うようになってきたのは、ここ数年のことで、
ステレオは一時期よりもずいぶん変ってきた(よくなってきた)ように感じている。

9月号の特集は、江川三郎発見伝である。
この特集を読みたくて、ステレオ 9月号を買った。

ステレオは一年前の8月号の特集で、長岡鉄男氏をとりあげている。
長岡鉄男氏とステレオの発行元である音楽之友社との関係からすれば、
ステレオが長岡鉄男氏の特集をやるのは、すんなりわかるけれど、
今回は江川三郎氏である。

江川三郎氏も、ステレオの筆者の一人だった。
それでも特集で、江川三郎氏ということは、広告にまったく結びつかなくなる。

「江川三郎発見伝」が特集ということで、広告を出したところはないはずだ。
それでもステレオは、「江川三郎発見伝」を特集として、そこそこのページ数を割いている。

同じことは、ステレオ時代がそうだ。
昨年、中島平太郎氏の特集を二号続けてやっている。

この特集にしても、広告にはまったく結びつかない。
それでも二号続けてやっている。

ステレオ 9月号の広告は、
オーディオメーカー、輸入元が14、オーディオ店が2、
これだけである。

広告があまり入っていないから、そういう特集がやれる、
そんなことをいう人がいるのかどうかはわからないが、
広告があまり入っていないからこそ、広告目当ての記事をつくることだって、
十分考えられる。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その8)

測定データは、どこまでいっても解説だ、と私は考えている。
つまり測定データが解釈になることはない、とも考えているわけだ。

オーディオ評論とは解説ではなく、解釈のはずだ、本来は。
ところが現実には解説どまりの、名ばかりのオーディオ評論が多い。

解説はオーディオ評論家の仕事ではないのか、と問われれば、
仕事の一つではある、と答える。

技術は進歩している。
新しい素材や素子が登場してくる。
回路もそうだ。

メーカーは、今回の新技術は……、と謳ってくる。
それは、いったいどういう新技術なのか、新素材なのか、
また、メーカーの謳い文句ははどの程度事実なのかどうか、
それを解説するのもオーディオ評論家の仕事の一つといえば、そうだ。

けれどオーディオ評論家のすべての人たちが解説者である必要はない、とも思っている。
解説者は別にいたほうがいい。

ここで名前を出すべきか迷うところだが、
無線と実験を中心に執筆されている柴崎功氏のことを、
私はオーディオ解説者として捉えている。

私が無線と実験を読み始めた1977年ごろから、
柴崎功氏はメーカーの技術者から、カタログに載っていないことを聞き出しては、
記事を書かれていた。

よくここまで調べられているな、と感心するだけでなく、勉強にもなった。
生意気なことをいうようだけれど、中学生のころから、
柴崎功氏の音の評価については、まったく関心がなかった。

そのころはあまりオーディオ評論家的活動はあまりされていなかった、と記憶している。
いまは無線と実験ではオーディオ評論家の一人である。

無線と実験の巻頭カラーは新製品紹介のページである。
技術解説のページがあり、二人の筆者による試聴記がある。

技術解説のところを、私はすべて柴崎功氏が担当してくれれば、と思う。
現実にはそうはいかなくて、他の方も担当されている。