Archive for category 基本

Date: 9月 24th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その8)

「発端への旅」(基本へ立ち返ること)と前に進むことは、メビウスの環における表と裏のようにも思えてくる。
どちらが表(陽の当るほう)で、どちらが裏(陰になるほう)とつねにはっきりとしているのではなく、
メビウスの環のとおり、いつのまにか表立ったのが裏になり、裏にいたものが表になる、というぐあいに。

Date: 9月 23rd, 2010
Cate: 基本

「基本」(その7)

オーディオの世界に入ってくるきっかけは、人それぞれだから、
必ずしも「基本」から入ってくるわけではないないだろう。
オーディオに対する関心が強まってきてから、そして向上のために基本・基礎をしっかりさせておくべき必要性から、
「基本」をきちんと学ぶ人も少なくないはずだ。

「基本」をしっかりと身につければ、あとはもう前に進んでいくだけ、であろうか。
前に進んでいくことで、新しい発見があろう。

けれど新しい発見は前に進むことだけにあるものではない。
オーディオとながいことつきあってきた人ほど、身につけたものが多い人ほど、
いまいちど「基本」に立ち返ってみると、以前に学んだときには見つけ出すことのできなかった発見が、
いくつも見つけ出すことができるはずだ。

「基本」はすべての人に共通しているものはあるし、人それぞれの「基本」ある。
私にとっての、人それぞれの「基本」になるのは、やはり五味先生と瀬川先生の文章ということになる。

だからこれまでにも幾度となく、その「基本」に戻る。
そのたびに、かならずなにか新しい発見がある。だから戻っていくのだが。

コリン・ウィルソンの著書に「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)がある。
「発端への旅」、いいタイトルだと、いまごろ思っている。
この本を手にいれたのは20年近く前のことなのに。

「発端への旅」だけがすべてではないし、前に進んでいくことも大事だ。
それに「基本」も、こういった性質のものだけではなく、オーディオを構成する技術の「基本」──、
つまりすべての人に共通する「基本」にも立ち返ってみることも、
新しい発見、あえていえば、新しい再発見のためにも必要なことだと認識しておきたい。

Date: 6月 13th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その6)

オーディオの「基本」とは、いったいどういうことがあるのだろうか。

オーディオは科学技術の産物であるから、そういった基本はある。
基本は、でもそれだけではない。

つくり手側の基本もあれば、つかい手側の基本もある。

最近、なんとなくではあるが感じているのが、つかい手側の基本が、ないがしろにされがちなこと。
このことを、いま強く感じるのが、いわゆるPCオーディオと呼ばれているものに対して、である。
オーディオとコンピューターの融合については、積極的でありたい。
でも、以前書いているように、PCオーディオという呼称は、はっきりいって気に喰わない。
だから、基本がないがしろにされている、といいたいのではない。

オーディオの基本は、やはり「美」を求めることであるはず。

このことを意図的に無視しているのか、それとも、もともと考えていないのか、
「美」のまったくといっていいほど存在しないOSを使い音楽を聴くという行為が、
私にはまったく理解できない。オーディオの大事な「基本」を、どこかに追いやったまま、
音を語るのはただ虚しいだけではないのか。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その5)

ヤルヴィのベートーヴェンを聴いたあとに、
フルトヴェングラー、バーンスタイン、ジュリーニのベートーヴェンを聴く。

ヤルヴィの演奏をきいた耳で聴くと、聴きなれていたディスクに、再発見がある。
己の、聴き手としての未熟さに気づかされるわけだが、それもまたいい。
未熟さに気づかずに、これから先ずっと聴いていってたとしたら、
なにかとりかえしのつかないことをしでかした気持になるというものだろう。

だから、ヤルヴィのベートーヴェンは、ちょっとしたひとつの事件だった。

そして、私にとっての基本は、正三角形の頂点で聴くことだけではない。
わずか数人だが、信じている人がいる。
その人の言うことならば、とにかく、すべて信じることにしている。
黒田先生がそうだし、川崎先生も、私にとってはそうだ。

このことが、私にとっての、いちばんの基本である。
すべての人を疑ってかかるのも、その人なりの生き方だろうし、
私が信じている人を信じないのも、人それぞれだろう。

信じられる人がいるということは大事なことだし、
信じられる人がいないということは、哀しいことではないか。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その4)

パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンは、9月に「第九」が発売になり、全集が完成する。

黒田先生の、サライの記事を読むまで、まったくヤルヴィへの関心はなかった。
ベートーヴェンを録音していることも、知らなかった。
今回、サライを読んでなかったら、聴く機会はずっと後になっただろうし、
最悪、聴かずじまいだったかもしれない。

レコード店で、実際手にしてみて、SACDだということに驚いた。
六番、二番のカップリングのディスクだけでなく、他のディスクもSACDである。

RCAレーベルとはいえ、SACDに対して、そっけない態度をとっているソニーに吸収されているのに、
よくぞ出してくれた、とうれしくなる。

しかもベーレンライター版を使っての、演奏でもある。
これらのことが関係しているのか、1980年代の後半に、
フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラによるベートーヴェンを聴いたときの新鮮さを、
もちろん性格の違う新鮮さであるが、ふたたび感じられた。

黒田先生も書かれているように「ベートーヴェンを再発見できる」。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その3)

微調整のあと、もういちどパーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンの「田園」交響曲の第4楽章をかける。
微調整の時にかけていたディスクの音の変化から、こんな感じで鳴ってくれるだろうと予測の範疇を超え、
アグレッシヴで、力に富んだ鳴り方に、黒田先生の言葉をまた引用すれば、
「描写音楽の迫力にあらためて圧倒されないではいられない」。

ただ精緻さにおいては、以前のセッティングにくらべて、やや後退したものの、どちらをとるかといえば、
しばらくは、このセッティングのまま、細部を追い込んでいこうと思う。

不思議なことに、他のディスクでは、正三角形のセッティングのほうが精緻さでもまさる。
優秀録音と云われるものほど、いかに緻密な録音を行なっているかが、はっきりと示される。

もちろん、あらゆる条件において、正三角形のセッティングが最良の結果を得られるわけではない。
それでも、スピーカーのセッティングに迷ってしまったら、いちど試してみる価値はある。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その2)

とは言うものの、それほど大がかりなことをやったわけではなく、スピーカーのセッティングを、
ステレオ再生の基本、というより約束事である正三角形の頂点で聴く、ということを実践しただけである。

左右のスピーカーの間隔を一辺とする正三角形のそれぞれの頂点を、
左右のスピーカーとリスニングポイントとする。
スピーカーの振りも、正三角形だから、ちょうど60度にする。

いままでのセッティングでは、スピーカーとリスニングポイントの距離よりも、
スピーカーの間隔が多少広く、二等辺三角形になっていた。

左右のスピーカーの間隔を、約20cmほど縮め、後に数cm移動する。
そしてスピーカーの振りを、きっちり60度にする。
あとは音を聴きながら、微調整したわけだが、別項で、「使いこなしに定石はない」と書いているし、
たしかにそうなのだが、それでも基本(約束事)をまず最初に実践してみるべきであると、
いまさらながら思ってしまった。

Date: 8月 14th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その1)

春ごろから、ひとつ考えていたことがあっても、「このままでいいかなぁ」という気持もあって、
手つかずのままのことがあった。

数日前、CDを2枚買ってきた。
パーヴォ・ヤルヴィが、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンを指揮したベートーヴェンで、
3番と8番のカップリングと、6番と2番のカップリングの2枚である。

6番「田園」と2番のほうは、サライの7月16日号の、黒田先生の連載「聴く」で紹介されている。
「細部まで精緻でいて、しかもアグレッシヴ(攻撃的とさえいえる積極性)といいたくなるほど、
音楽を前進させようとする力に富んでいる」と書かれている。

聴いてみると、たしかに精緻で、3番、8番では、「音楽を前進させようとする力」感じた。
でも、黒田先生が圧倒された、「田園」交響曲の「嵐」のところが、じつはうまく鳴らなかった。
精緻さは際立っていたけれど、アグレッシヴとはお世辞にも言えない。

だから、やる気になった。