Archive for category ジャーナリズム

Date: 1月 1st, 2010
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その3)

◎多くの項目を満載するよりも、最小限の記事の一点一点に、十分のスペースと時間をさいて、総ページは少なくとも重量感(読みごたえ)のある本をつくるべきではないか。

◎すべての点で、既刊の専門誌の裏をかくような料理のしかた。簡明でありながら堪能させる味わいの凄さ。

◎毎月、洪水のように生れる製品、アクセサリー類、レコードのすべてを(ほとんど一覧表に近い形で整理しておいて、その中からある主張をもってセレクトしたものについて、十二分の機材と解説を加えて紹介する、という形。

◎つき放した評価ではなく、オーディオファン、音楽ファンが、その製品、そのレコードにのめり込んだ軌跡を、あとからクールにリポートしたというような形。

◎評価、批評したり紹介したりするライターも、それを扱う雑誌社も、製品やレコードの扱いにあまりにも小利巧になりすぎて、一般ユーザーの本当に期待している対象へののめり込みが全くなくなってしまった点が、こんにちのオーディオ、レコード専門誌の弱み。

◎しかし対象にのめり込んだ姿勢が、そのまま評価に出たのでは、ベタついた、客観的評価を欠くかの印象の、あるいはメーカー等からつけ込まれる記事になりやすい。のめり込むというのはあくまでもライターやエディターのバックボーンであって、その表現は、現代流にあくまでも緻密に、クールに、簡潔かつ直截的に……であることが重要。

◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。

◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。

◎気取りのなさ。本ものの大衆料理の味。

Date: 1月 1st, 2010
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その2)

◎目次を必ず表2の次につける。< ◎広告ページを「情報ページ(又はインフォメーションセンター など......)」と呼び、分散させず1ヶ所に集中。索引は目次中に載せる。 ◎新製品の扱いを2本立てにする。 A.今月活躍の製品(S−J選定に相当するような、本誌スタッフが選定した製品)について十分にページをとる。  a.解説(解説)──ライバル機種との対比、又、そのメーカーの製品系列の中での位置づけを十分に解説。製品についても、技術的解説よりもその意味合いに重点。メーカーの意図も紹介。  b.テストリポート(分析)──おもに測定及びコンストラクション、デザイン等からの公正な評価。ライバル製品、及びそのメーカーの中での位置づけ。  c.音質評価(使ってみて)──CPを考慮した場合、しない場合、ライバル機種との、そのメーカーの中での、使いこなしについて十分に解説。組合せ然り。音楽への向き不向き。 ページ数は最低6、ないしは12。 多角的に、その製品の性格を十分に浮彫りにする。 B.新製品紹介欄  いわゆるニュース的扱い、ただし、その記述は、簡明、直裁を心がける。  ライバル機種との比較表など考慮 ◎製品以外の情報欄  催し、メーカー主催又は後援の地方での催し ◎内外の話題 ◎論説、随筆、etc. 読みもの ◎読者との交流をどうするか。訪問(個人、グループ)  読者の夢をきく。 ◎販売店──

Date: 1月 1st, 2010
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その1)

スケッチ」のところで書いたように、瀬川先生が書かれたメモとスケッチが、いま手もとにある。

そのひとつ、オーディオ誌の企画書の下書きといえるメモを公開していく。

はしり書きであること、瀬川先生の書かれた文字を見るのははじめてなので、
何箇所か読み取れないところもあるが、極力、書かれたとおりのまま入力している。
おそらく1977年に書かれたメモであるが、そのままこの時代にあてはまることが書かれている。

Date: 12月 18th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その36)

いま、そしてこれから語るべきこと」のなかで、川崎先生のことば「機能性、性能性、効能性」をかりて、
オーディオの効能性についてすこしばかり書いた。

この「機能性、性能性、効能性」は、オーディオそのものについてもあてはまるし、
個々のオーディオ機器について語る時にも「機能性、性能性、効能性」をどこかで意識していく必要があるだろう。

新製品紹介の記事は、どのオーディオ雑誌にもある。
そこでもっぱら語られるのは、音について、である。

読者がもっとも知りたいことも、新製品のスピーカーなりアンプが、
どういう音を聴かせてくれるのかに興味があることだろうし、
そこに重点がおかれるのも理解できないわけではない。

それでも、「音のよさ」とは、いわゆるそのオーディオ機器の「性能性」の部分でしかないともいえる。

性能性は、物理特性のことのみではない。音のよさも、ここには含まれるとすべきである。

Date: 12月 15th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その35)

オーディオの「現場」として、意見を率直に語り合う討論の場が、なぜ設けられないのか。

オーディオ雑誌の企画として、
オーディオ評論家(なかには、そう呼ばれているだけのひともいるが)が集まっての座談会ではなく、
メーカーの開発者、営業の人たち、輸入代理店の人たち、オーディオ販売店の人たち、
そしてユーザーの人たち、をも含めての討論の場の必要性を感じはじめている人はいるはずだ。

同軸型ユニットの選択(その5)

おそらく杉井氏は、604-8Gと604-8Hのネットワークを混同されていたのだろう。
勘違いの発言だったのだろう。

604-8Hはマンタレーホーンを採用している関係上、ある帯域での周波数補正が必要となる。
それに2ウェイにも関わらず、3ウェイ同様に中域のレベルコントロールも可能としたネットワークであるため、
構成は複雑になり、使用部品も増えている。

だから、杉井氏の発言は、604-8Hのネットワークのことだろう。
勘違いを批判したいわけではない。

この記事の問題は、その勘違いに誰も気がつかず、活字となって、事実であるかのように語られていることである。

この試聴記事に参加されている篠田氏は、エレクトリでアルテックの担当だった人だ。
アルテックについて、詳しいひとのはずだ。
604-8Gと604-8Hのネットワークについて、何も知らないというのはないはずだ。

本来なら、篠田氏は、杉井氏の勘違いを指摘する立場にあるべきだろうに、
むしろ「アルテックの〝あがき〟みたいなものがこの音に出ている」と、肯定ぎみの発言をされている。

Date: 12月 3rd, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その34)

いまや、オーディオ評論よりもオーディオ概論ばかりになりつつある。
しかも、こんな当て字をしたくなる──、オーディオ骸論……。

Date: 11月 29th, 2009
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(補足)

リーダーとヒーローについて考える。

ヒーローとは、「希望」をあたえてくれる人のことだ。

Date: 11月 25th, 2009
Cate: ジャーナリズム

「言いたいこと」を書く

昨年の9月3日から書きはじめた、このブログも、ひとつ前の記事が1000本目。
気持の上では、1クールが終って、この記事から2クールがはじまるといったところ。

ブログをはじめた理由は、ひとつだけ言いたいことがあったからで、それが最初の記事「言いたいこと」だ。

この1本だけを書きたいがために始めて、この1本だけでは誰も見にこないだろうから、
この1本をできるだけ多くの人によんでもらいたいから、
ブログの性質上、できるだけ毎日1本、なにかを書き続けるのが、多くの人の目にとまるのだから、
できるだけ毎日書くようにしよう、というぐらいの心構えだった。

それから日記的な内容は、できるだけ書かないようには決めていた。
これに関連することとしては、どんなシステムを使って、なにを調整して、今日は何を聴いた、
といったことがらも極力書かないようにしている。

他の人はともかくとして、すくなくとも編集経験ありの私が、
自分の生活をネタにしなければ書き続けることができない、というのでは恥ずかしいことであり、
己の無能さをさらけ出すものだと考えているからだ。

書くことに無能であれば、書かなければいいのだから。私はそう考える人間だ。

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。

Date: 11月 9th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その33)

「小悪魔 ageha」という、
当ブログをお読みの方のほとんどはご存じないだろうが、
いま売行きを伸ばしている、勢いのある雑誌がある。

編集長は、中條氏という30代の女性。
ある雑誌のインタビューによると、週の大半は、夜の歌舞伎町をひとりで歩きまわっている、とのこと。
編集者が、一日会社の中にだけいては「会社の人」になってしまうから、と、
「小悪魔 ageha」にとっての現場である歌舞伎町の空気を感じとるためらしい。

では、オーディオにおける「現場」とは、どこなのだろうか。
すぐに明快な答を返せる人がいるだろうか。
自分で問いかけながら、私も即答はできない。考えているところだ。

それでもいえることは、「現場」を無視しては、語れないということだ。

Date: 10月 24th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その32)

数年前から、ごく親しい人との会話のなかで口にしていたのだが、
「オーディオ・ジャーナリズムが確立される前に、オーディオ・ブームが訪れたのが、オーディオ界の不幸」であり、
あと5年ほどブームが遅かったら、「いまの状況はずいぶん違っていたものになっていたはず」と思っている。

つまりオーディオ・ジャーナリズムは確立されていない、と考えている。

瀬川先生の思想メモを読むと、同じ想いだったように感じる。
だから、書かれたのだ。私はそう思う。

Date: 10月 17th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その31)

スケッチの項でふれた、瀬川先生のメモは、オーディオ誌の企画書といえるもので、
それも月刊誌を想定したものである。

本のコンセプトだけではなく、1冊のオーディオ誌として、全体と細部について、
かなり具体的に書かれているところもある。

私も、以前、同じようなものを、2回、書いたことがある。
こういうオーディオ誌をつくりたいという想いから書いたもので、誰かに見せることはなかった。
それにもう手元にもない。

だからというわけでもないが、瀬川先生が、これを書かれたときの心境が、
私なりではあるが、わかる(気がする)。

なぜ、書かれたのか──。

それまでのオーディオ誌に、つまりステレオサウンドにも、必ずしも満足されていなかった、
と読んでいるとそう思えてくる。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その30)

仲間内だけで、ステレオサウンドについてあれこれしゃべっていても、
それでは、いつまでもたっても伝わらない。

手紙なり電話をするなり、手段はいろいろある。
良くなってほしいと思っているのなら、伝えてなくてはならない。

いまのステレオサウンドがおもしろいと思っている人たちも、もちろんいる。
そういう人たちは、いまのままでいいから、と黙っていると、時代が変化するにともない、
本のあり方も変っていかざるを得ない。
そんなとき、自分の声を伝えていなければ、望まない方向に変っていくかもしれない。
変ってしまったあとに、あれこれいっても、なかなか元には戻らないものである。

だから、いまのステレオサウンドのあり方に賛同する人はする人で、
きちんと編集部に声を届けるべきだろう。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その29)

「ステレオサウンドを読んでいてもつまらない」、「毎号買ってはいるけど、ほとんど読んでない」という声を、
この1年の間に、よく聞くようになった。

だからといって、そう言っている人たちがオーディオに対する情熱を失いかけているのではなく、
むしろステレオサウンドとは関係なく、オーディオに対して真剣に取りくまれている。

ならば、ステレオサウンドを買うのはやめたら、という声も聞こえてきそうだが、
オーディオを長くつづけてきた人たちならば、
すくなからず、ステレオサウンドへの思い入れは、いまでももっているはずだ。
だから、文句をいいながらでも毎号手にするという人も少なくないだろう。
文句という名の要望を口にしているのだ。

私だって、ステレオサウンドへの思い入れは、人一倍持っているつもりだ。

思い入れは持っていながら、不満を感じている人たちは、ステレオサウンドに対して、
なんらかの方法で、意思表示をすべきである。

私のように、川崎先生の連載がないから買わない、というのも意思表示のひとつであるし、
ステレオサウンド編集部に対して、どう思っているのか、これからどうなってほしいのか、
きちんと伝えるべきであろう。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その28)

ステレオサウンドは、もう購入していない。川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」が、
わずか5回でなくなってしまったからだ。

川崎先生が、ふたたびステレオサウンドに書かれることは、もうないだろう。
だから、ステレオサウンドを買うことも、もう二度とない。

ステレオサウンドは、だから書店に手にとってパラッとめくるぐらいと、
あとは友人宅に遊びに行ったとき、そこにあれば、読むくらい。
それでも、ステレオサウンドを毎号買って読んでいる友人たちと、
ステレオサウンドについて話しても、特に困らないし、会話はきちんと成立する。
(でも、さすがに、今号の「海苔」だけはまったく気がつかなかった……。)

購読をやめたのは、川崎先生の連載がなくなったことに対する、私の意思表示である。