Archive for category ジャーナリズム

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(続50年)

私が雑誌に期待していることのひとつに、
読み手である私に何かを気づかせたり思い出させてくれることがある。

情報の新しさ、多さよりも、日々の生活でつい忘れてしまいがちになることに、はっと気づかせてくれる。
定期刊行物として出版される雑誌に求めているところがある。

いまでは情報はあふれている。
だからこそ雑誌は、そんな情報の波に埋もれてしまいそうになることをすくい上げていくことが大事だと思う。

けれど雑誌編集者のほうが、情報を追うことに汲々としているふうに感じられることもある。
編集部というのはひとりではない。複数の人がいる。
新情報を追う人もいれば、私が雑誌に期待していることを提供してくれる人もいての編集部でなければならない。

「ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で」というタイトルをつけている。
この後に何が続くのかは、人によって違ってくる。

雑誌編集者こそ、
「ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で」本をつくっていかなければならないのではないか。

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(50年)

今年(2014年)は、グレン・グールドのコンサート・ドロップアウトから50年目になる。
グレン・グールドは、オーディオマニアにとっては特別な存在である。

どこかのオーディオ雑誌が、だからドロップアウト50年の記事をつくるかな、と少しばかり期待していた。
今年も後一ヵ月と数日で終るが、いまのところどのオーディオ雑誌もやっていない。
12月に出るオーディオ雑誌にも載っていないであろう。

Date: 11月 15th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その4)

別項でふれているMAC POWERというMac関係の月刊誌。
MAC POWERはあるときから編集者が誌面に積極的に登場するようになっていった。
ステレオサウンドの、編集者は黒子であれ、とはまさに正反対の編集方針であり、
そのこともMAC POWERを面白く感じる理由になっていたように思う。

MAC POWERでは筆者の記事よりも、編集者の記事の方が興味深いことも少なくなかった。
そのことは編集部も感じていたのかもしれない。
おそらく筆者も感じていたことだろう。
そうやって本が面白くなっていく。
けっこうなことだと思うし、そういう編集方針をオーディオ雑誌に取り入れたら、とも想像していた。

MAC POWERと似たようなことはステレオが以前からやってはいた。
編集部による実験的な試聴記事が毎号数ページ掲載されていた。

だが、それはどうしても内輪ネタといった印象から抜け出ることはなかった。
少なくとも私はそんなふうに感じていた。
MAC POWERにはそういうところが皆無だったとはいわないけれど、内輪ネタには留まっていなかった。
だから面白く読めた。

ステレオサウンドでMAC POWERのように編集者が積極的に誌面に登場するようにはできないか、
それになぜ編集者は黒子でなければならないのか、について考えてもいた。

ある時、ある人から聞いた。
ステレオサウンドがオーディオ評論家を前面に推し出し、編集者を黒子とするのか、
その理由についてである。

ある人は、原田勲氏から直接聞いたこととして、私に話してくれた。
「そういう理由もあったのか……」と思った。

いまここで、その理由については書かない。
いつか書くことになるかもしれないが、いまは書かない。

ある人から聞いたことだけが黒子の理由の全てではないにしても、
こういう考えがあるのなら、編集者にオーディオ・ジャーナリズムは芽生えない、とだけはいっておく。

Date: 11月 15th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その3)

私が在籍していたころのステレオサウンドの編集長は原田勲氏だった。
いまオーディオ評論家になられている黛さんが編集次長だった。
とはいえ、実質的に黛さんが編集長であった。

この時代、原田編集長からいわれていたことは「編集者は黒子だ」ということだった。
これはステレオサウンドという専門雑誌を創刊して20年近く、
つねにオーディオ雑誌としてトップにいつづけてきたことから得たことなのだろう。

あの時代は黒子でよかった、というよりも、黒子であったから、ステレオサウンドはうまくいった。
けれど編集者が黒子でいては、編集者にジャーナリズムは芽生えるのだろうか、といまは思う。

別項「オーディオにおけるジャーナリズム」でも引用している瀬川先生の、ステレオサウンド 50号での発言。
     *
新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級機の新製品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の新製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわけですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。
     *
ここでのオーディオ・ジャーナリズムにはオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者も含まれて、のはずである。
だが実際にはどうだったのか。

試聴という取材の場に立ち会ってはいても取材をしているとはいえない編集者。
黒子でいいのであれば、これでもいい。
むしろ、好都合といえるのか。

だがオーディオ・ジャーナリズムを芽生えさせ育てていくうえで、黒子のままでよかったとはいえない。

Date: 11月 12th, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その3)

垂れ流しという言葉がある。穢い言葉である。
あえて意味を書く必要はないだろうが、いちおう書いておく。

大小便をたれ流すこと。
未処理の廃棄物などをたれ流すこと。
と辞書には書いてある。

この垂れ流しは、別項の「background…」でもふれることになるだろう。
BGM(Background Music)も、BGMとしてかける曲を選び、かける音量も設定した場合と、
ただ鳴っていればいい、鳴っていないといらいらする、とにかく常時音楽(音)が鳴っていなければ気がすまない、
そんな人が一日中鳴らしているのも、またBGMであり、
同じBGMという言葉でも、後者はあきらかに垂れ流し的なBGMがあるのではないか。

そんなBGMの垂れ流し(レコードはかけるものだから、かけ流しかもしれない)をしている人も、
最初のころはかける曲も音量も選んでいたであろう。
それがいつしか鳴っていればいい、ということになっていく。

そんなことを考えている。

ずっと以前、街中のBGMが煩いと話題(問題)になったことがある。
そのころからすれば、いまはよくなったといえるだろうか。
それでもBGMは、いろんなところで流れている。

なぜBGMは流されるのか。
なんらかの目的があってのことなのか。
そして、いま情報がBGM化しつつある、といえないだろうか。
情報の垂れ流しといえることが起りつつあるのではないか。

Date: 11月 9th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その2)

試聴は、試聴と呼ばれる取材である。
つまり試聴室は、取材の現場といえる。

そこにいるのは試聴者と試聴のための準備をする者である。
一般的に、試聴者はオーディオ評論家と呼ばれている人たちである。
まれに読者参加ということで、オーディオ評論家以外の人が加わることもあるが、
この人たちはあくまでもアマチュア代表ということだから、
ここでのオーディオ・ジャーナリズムからは除外しておく。

オーディオ評論家は、試聴室で鳴っている音を聴き、メモを取る。
辞書には、記事・制作などの材料となることを,人の話や物事の中から集めること、とあるから、
試聴はまさに取材でもある。

このとき編集者は何をしているのか。
まず試聴のための準備をする。
必要となる器材を集め、アンプやCDプレーヤーといった電子機器であれば、
あらかじめ電源をいれておきウォームアップをさせておく。

試聴が始まれば、試聴対象となるオーディオ機器を試聴室にいれて設置・接続。
それまで聴いていたオーディオ機器を試聴室の外に運び出す。
これを何度もくり返し行う。

場合によっては試聴ディスクのかけかえ、レベルコントロール操作といったオペレーションを行う。
試聴という取材が滞りなく運ぶためである。

ここでの編集者の働きは、どうみても取材とはいえない。
試聴室という現場に編集者もいるわけだが、取材をしているとはいい難い。

Date: 11月 8th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その1)

オーディオにおけるジャーナリズム」という項を立てて、書いてきている。
書きながら、オーディオ雑誌の編集者に対して、ジャーナリズムを求めるのはおかしいのかもしれない。
そうも思うようになっている。

ジャーナリズム(journalism)は
新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど時事的な問題の報道・解説を行う組織や人の総体。
また,それを通じて行われる活動。
と辞書には書いてある。

ジャーナリスト(journalist)は、記者のことである。
編集者はeditorだ。

記者は自ら現場に赴き取材をし言語化する。
例えばオーディオショウに取材に行き、編集部が原稿を書き記事とすれば、
この場合の編集者は記者でもあったことになる。

だがオーディオショウに行ったけれど、写真を撮ってきただけ。
もしくは専属のカメラマンに写真撮影の指示をしてきただけ。
記事を書くのはオーディオ評論家であれば、この時の編集者は記者といえるのだろうか。

写真に関してはそうとはいえるし、
記事では写真のネームは編集者が書くであろうから、記者ではない、とは言い切れないが、
それでも記者とはとても呼べない。

ではオーディオ雑誌のメインといえる試聴ではどうか。

Date: 11月 1st, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その2)

ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」は、目につく本だったからすぐに購入して読んだ。
「メディア・レイプ」も読んでいるけれど、どちらも手元にない。
誰かに貸したままになっている。

こういう時代になっているから、もう一度読んでおこうかな、と思いながらも、
二冊とも書かれている内容をほとんど憶えていない。
内容よりも、「メディア・セックス」、「メディア・レイプ」というタイトルの方が印象が強く、
タイトルだけをいまでもふいに思い出すことがある。

だから、この項で書くことは本の内容とは関係のないことになるだろう。
あくまでも「メディア・セックス」、「メディア・レイプ」に対してのことになると思う。

私が上京した1981年ごろの電車では、文庫本か新聞を読んでいる人が目についた。
そこにいつのころからかマンガ週刊誌が加わった。
少年ジャンプの発行部数が600万部を超えたころの月曜日の電車は、
男性に限ってではあったが、学生も社会人も少年ジャンプを熱心に読んでいた。

これが発行部数600万部による現象なのか、と思っていた。
ステレオサウンドで働きはじめたころ、電車でステレオサウンドを読んでいる人をみかけると、うれしかった。
でもそのころでもあまり見かけることはなかった。
いまでは電車でステレオサウンドを読んでいる人をまったくみかけなくなった。

少年ジャンプとステレオサウンドの発行部数を比較する方が無理というもので、
いまでは300万部くらいらしいが、それでも少年ジャンプの発行部数はすごいと思う。

部数の減った少年ジャンプ(に限らずマンガ週刊誌)にとってかわったのが携帯ゲーム機であり、携帯電話だった。
それもいまではスマートフォンに取って代られている。

文庫本は文字だけ、といっていい。新聞には写真もあるが文字が圧倒的に占めている。
マンガは絵と文字で、巻頭の数ページはカラーだが、これらは基本的にモノクロである。

スマートフォンが表示できるのは文字だけではない。絵も写真も動画もフルカラーで表示でき、音楽も聴ける。
しかも音楽を聴きながら、画面では何かを読むこと(表示すること)もできる。

スマートフォンを触ってなくとも、東京の電車(山手線、中央線など)では、
ドアの上に液晶画面がついていて、ニュースやコマーシャルなどを常に流している。

Date: 10月 31st, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その48)

ステレオサウンド 50号を手にした時(まだ高校生だった)、
前号の企画をそのまま旧製品を対象にしただけの、すこし安易な企画だな、と思ってしまった。

安易ではあるけれど、面白いと思いながら読んでいた。そして読み返していた。
本づくりを経験したことのない、しかも学生の私に、こう受けとめていた。

けれどいまは、むしろ50号の旧製品のState of the Art賞が先にあり、
この企画をやりたいがために49号での現行製品のState of the Art賞をやった──、
そうとも考えられるくらいに見方が変っている。

旧製品のState of the Art賞は、それまでのステレオサウンドがやってきたことを総括する企画だった。
ただ記事で旧製品をとりあげるのではなく、State of the Art賞を与える。

用意周到だったのか、それともたまたまやったことがそう見えるだけなのか、
ほんとうのところはわからないが、State of the Art賞を始める時期、49号と50号、
用意周到な企画のように思う。

“State of the Art”というセンテンスが定着しなかったこと以外は、State of the Art賞はうまくいった。
けれど”State of the Art”というセンテンスが読者に定着しなかったこと、
さらにはオーディオ業界の人たちのあいだでも定着しなかったことが、
State of the Art賞から始まった「賞」のいくつものところを変質させていくことになる。

現在のStereo Sound Grand Prixになって、変質は決定的となった、と私は感じている。
State of the ArtからStereo Sound Grand Prixへ。
あまりにも変り果てた。

でも、嘆きたくなるのは、State of the Art賞を知っているからであって、
State of the Art賞(49号、50号)を知らない世代にとっては、
なんとおおげさな……、ということになろう。

State of the ArtとStereo Sound Grand Prix、
賞の名称からして、志がまるで違う。

Date: 10月 30th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その47・余談)

ステレオサウンド 50号の表紙、
マッキントッシュのMC275は、おそらく原田勲氏所有のモノだと思う。

51号、五味先生のオーディオ巡礼、
登場しているのはH氏。ヴァイタヴォックスCN191を鳴らされていた。
H氏は原田勲氏だ。

51号のオーディオ巡礼に、パワーアンプをMC275からマランツのModel 9にした、とある。
新しいリスニングルームを増築して一年半の間に、アンプを、プレーヤーを変えた、とある。

いつなのか、正確な時期ははっきりしないが、
それでも50号の表紙のMC275は原田勲氏のモノであったMC275のはず、
私はそう思っている。

Model 9は、「或るアンプの達人に修理・調整してもらった」とある。
或るアンプの達人とは、長島先生のことだろう。

こういうことを知らなくても、気づかなくても、ステレオサウンドは読める。
支障なく読める。
でも気づくかどうかで、趣は違ってくる。

Date: 10月 30th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その47)

ステレオサウンド 50号のころは読者だった。
そのころのステレオサウンドの表紙に何を撮るのか、
おそらく決めていたのは原田編集長だったと思う。

その原田編集長が、3号で表紙を飾ったMC275を、50号という記念号の表紙にふたたびもってくる。
そのころは思いもしなかったけれど、編集経験を経てから思うのは、
50号の企画は前々から考え企画していたのではないか、ということ。

State of the Art賞という企画をいつごろ思いつかれたのかはわからないが、
当時耳慣れない”State of the Art”を根づかせるためにも、
二号続けてやる、ということも考えつかれたのではないか。

State of the Art賞を現行製品と旧製品で行う。
旧製品のState of the Art賞はやるには50号がぴったりである。
ならば現行製品のState of the Art賞は、一号前の49号ということになる。

そうして49号、50号とState of the Art賞が続いた。
これで、ステレオサウンドのState of the Art賞というものが確立した、といってもいい。

ステレオサウンドとステレオサウンドのメイン筆者の人たちが考える”State of the Art”とは、
どういうことなのか、どういうモノなのかが、はっきりと読み手側に伝わってきた。

“State of the Art”のうまい和訳が思いつかなくとも、
“State of the Art”が意味しているところは、
49号と50号で選ばれているオーディオ機器が語ってくれていたからこそ、読み手は理解できた。

賞というのは権威がやはり必要である。
ステレオサウンドは見事にそれをやった。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その1)

新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級機の新製品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の新製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわけですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。
     *
初めて読む人は、つい最近の発言かな、と思われたかもしれない。
これが載っているのはステレオサウンド 50号巻頭の座談会。
1979年の瀬川先生の発言である。
35年前のことが、いまを表している。

35年前よりもオーディオの最新情報はもっと氾濫している。
ここまで氾濫する世の中になるとは、瀬川先生も驚かれるはず。
スマートフォンを一台持っていれば、
いつでもどこからでもオーディオの最新情報(何も最新情報だけではなくうんと古い情報も)が得られる。

最近、頭から離れないのがウィルソン・ブライアン・キイの著書のタイトルだ。
一冊は「メディア・セックス」、もう一冊は「メディア・レイプ」。

本の内容よりも、タイトルが何度も浮んできている。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その46)

ステレオサウンドのState of the Art賞は49号から始まっている。
なぜ49号からだったのか。
それは50号のひとつの前の号だからである。

50号の表紙はマッキントッシュのMC275。
すでに製造中止になっているパワーアンプが表紙になっている。
MC275は、3号の表紙も飾っている。

ひとつの機種が、二回登場することは例がなかった。
33号と34号のプリメインアンプの特集ということで、
プリメインアンプが表紙になっている。

この二冊を見ると、仕上げが違うだけの同じアンプが続けて表紙になっているようにみえる。
どちらもアンプもケンブリッジオーディオの製品で、33号がP140Xで、34号がP70X。
このふたつのプリメインアンプはフロントパネルは仕上げが違うだけで同じである。
そういう例はあったけれど、M275だけが、表紙に二回登場した唯一の例である。

なぜ50号はMC275だったのか。
ここで思い出してほしい文章がある。
瀬川先生がステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」マッキントッシュ号に書かれたものだ。
     *
テストの最終日、原田編集長がMC—275を、どこから借り出したのか抱きかかえるようにして庭先に入ってきたあのときの顔つきを、私は今でも忘れない。おそろしく重いそのパワーアンプを、落すまいと大切そうに、そして身体に力が入っているにもかかわらずその顔つきときたら、まるで恋人を抱いてスイートホームに運び込む新郎のように、満身に満足感がみなぎっていた。彼はマッキントッシュに惚れていたのだった。マッキントッシュのすばらしさを少しも知らない我々テスターどもを、今日こそ思い知らせることができる、と思ったのだろう。そして、当時までマッキントッシュを買えなかった彼が、今日こそ心ゆくまでマッキンの音を聴いてやろう、と期待に満ちていたのだろう。そうした彼の全身からにじみ出るマッキンへの愛情は、もう音を聴く前から私に伝染してしまっていた。
     *
50号の表紙をMC275に決めたのは、間違いなく原田編集長(当時)のはずだ。
瀬川先生の文章から、MC275がどういう存在だったのかは伝わってくる。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その45)

格付けが悪いわけではない。
すべてのオーディオ機器、どれも素晴らしいですよ、と横並びで紹介するのは無理なことであり、
そんなことをやって何になるというのだろうか。

だが、こんな項をたてて書こうとしているのは、
賞(格付け)を否定したいからではない。
賞(格付け)が変ってきていると感じているからである。

State of the Art賞もベストバイも、
瀬川冬樹という存在があったころまでは、納得できる格付けであった。
ステレオサウンド 49号での第一回のState of the Art賞のすべての機種が、
State of the Artの名にふさわしいとは思えないまでも、
複数の人の投票による選考なのだから、その結果は理解できる。

このころまではステレオサウンドによる格付け、とはっきりといえた。
ステレオサウンドのメイン筆者による格付け、ともいえた。

ここで私よりも一世代、二世代下の人たちとは違ってくるのかもしれない。
49号でのState of the Art賞の選考委員は、
岡先生を委員長に、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三だったが、
現在のStereo Sound Grand Prixでは柳沢氏だけで、あとは皆入れ代っている。

49号は1978年12月発売だから、30年以上の月日が経っているのだから、入れ代りは当然である。
けれど賞は格付けである以上、どういう人がどういう考え・基準で選ぶかがことさら重要なことである。

はっきりと書こう。
以前はステレオサウンドによる格付けだった。
だが、いまはステレオサウンドのための格付けに変ってきている。
さらに書けば、ステレオサウンドを格付けするための賞になってきている。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その44)

格付けということで、ステレオサウンドのベストバイの変化をみれば、
はっきりと格付けの性格が強くなっていることがわかる。

47号から、星による点数が導入されている。
「’78ベストバイ・コンポーネントを選ぶにあたって」で、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 同じたとえでいえば、購入して鳴らしはじめて数ヵ月を経て、どうやら調子も出てきたし、入手したときの新鮮な感激もそろそろ薄れはじめてなお、毎日灯を入れるたびに、音を聴くたびに、ああ、良い音だ、良い買物をした、という満足感を与えてくれるほどのオーディオパーツこそ、真のベストバイというに値する。今回与えられたテーマのように、選出したパーツにA(☆☆☆)、B(☆☆)、C(☆)の三つのランクをつけよ、といわれたとき、右のようなパーツはまず文句なしにAをつけたくなる。そして私の選んだAランクはすべて、すでに自分で愛用しているかもしくは、設置のためのスペースその他の条件が整いさえすればいますぐにでも購入して身近に置きたいパーツ、に限られる。
     *
ステレオサウンド編集部は、ベストバイの選考者に対して、
星の数によって、「三つのランクをつけよ」と依頼している。

ベストバイという記事も、
ベストバイに選ばれるか選ばれないか、という意味、
点数がどれだけ入るのか、何人の人によって選ばれるのか、
どこにも賞とは書かれていないけれど、いわばベストバイ賞であり、格付けが行なわれている。

49号のState of the Art賞からはじまり、Components of the year賞、現在のStereo Sound Grand Prix賞、
すべて賞を与えることによる格付けである。
Components of the year賞からGolden Soundを、さらに選ぶようになっている。
さらなる格付けである。

いずれも格付けであるからこそ、
読者は自分の使っているオーディオ機器が選ばれれば、嬉しいものであろう。
どんな人であろうと、まったく嬉しくない、ということはないはずだ。

つまりベストバイもState of the Art賞も、
ステレオサウンドのメイン筆者による格付けであった。