オーディオの想像力の欠如が生むもの(その40)
オーディオの想像力の欠如は、「音で遊ぶ」と「音と遊ぶ」の違いが理解できない。
オーディオの想像力の欠如は、「音で遊ぶ」と「音と遊ぶ」の違いが理解できない。
オーディオの想像力の欠如とは、甘えそのものだ。
オーディオの想像力の欠如は、聴かなければならない音を聴くために、
聴く音楽があることにも気づかない。
オーディオの想像力の欠如は、聴かなければならない音があることに気づかない。
オーディオの想像力の欠如を放っていては、音楽の追体験にとどまる。
編集者は、つねに読者の代弁者であるべき──、とは考えていない。
ただ必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う。
そして書き手に対して、代弁者として伝えることがある、と考えている。
このことは反省を含めて書いている。
オーディオ雑誌の編集は、オーディオ好きの者にとっては、
これ以上ない職場といえよう。
けれど、そのことが錯覚を生み出していないだろうか。
本人たちは熱っぽくやっている、と思っている。
そのことは否定しない。
けれど、その熱っぽさが、誌面から伝わる熱量へと変換されていなければ、
それは編集者の、というより、オーディオ好きの自己満足でしかない。
読み手は、雑誌の作り手の事情なんて知らないし、関係ない。
ただただ誌面からの熱量こそが、雑誌をおもしろく感じさせるものであり、
読み手のオーディオを刺戟していくはずだ。
誌面から伝わってくる熱量の減少は、
オーディオ雑誌だけの現象ではなく、他の雑誌でも感じることがある。
書き手が高齢化すればするほど、
43号のようなやりかたのベストバイ特集は、ますます無理になってくる。
43号は1977年夏に出ている。
菅野先生、山中先生は44歳、瀬川先生は42歳と、
岡先生以外は40代(上杉先生は30代)だった。
いま、ステレオサウンドのベストバイの筆者の年齢は……、というと、
はっきりと高齢化している。
そのことと熱量の減少は、無関係ではない。
書き手の「少しは楽をさせてくれよ」という声がきこえてきそうである。
しかも昔はベストバイは夏の号だった。
それを12月発売の号に変更したのは、
夏のボーナスよりも冬のボーナス、ということも関係している。
しかも賞も同じ時期に行う。
オーディオショウも同じである。
そんなことが関係しての熱量の減少ともいえる。
こうやって書いていて思うのは、編集者は読者の代弁者なのか、である。
前々から感じていたこと。
オーディオ雑誌の編集部には、
編集長という名のマネージャー(管理者)はいても、
編集長たるリーダー(統率者、指揮者)はいない。
こんなことを書くと、
また昔は良かった的なことを書いている、と思う人が絶対いる。
けれど昔は編集部にリーダーがいたのかというと、なんともいえない。
私がステレオサウンドの編集に携わるようになったのは、
62号の途中からである。
それ以前の号に関しては、直接見てきたわけではない。
断言はできないが、なんともいえない、というのが本音である。
ある時期までは原田勲氏はリーダー的だったはずだ。
だが本当のリーダーは編集部にいなかった。
これどういうことか、これ以上書かなくともわかってくれる人は少ないけれどいる(はずだ)。
オーディオの想像力の欠如した人は、「変る」は時として「留まる」と同義語であることに気づかない。
オーディオの想像力の欠如した人は、前に進めない。
貫けないからだ。
オーディオの想像力の欠如した人は、貫くことができない。
オーディオの想像力の欠如した人ほど、変ろうとする。
オーディオの想像力の欠如した耳には、スピーカーの音は聞こえても、
スピーカーの「声」は聴こえないのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如のままでは、空洞ゆえの重さを感じることはないのだろう。
オーディオの想像力の欠如がしているから、「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」から
「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」へと移行したときに生じた空洞を感じないのだろう。