Archive for category 情景

Date: 3月 6th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その6)

(その1)でも書いているように、
私が、ことさら情景、それも日本語の歌に関して情景を求めたくなるのは、
中学生のときにグラシェラ・スサーナの歌を聴きすぎたためかもしれない。

ラジカセで、スサーナのミュージックテープを聴いていた。
私が中学生のころ、ステレオのラジカセは珍しかったはずだ。
ラジカセ・イコール・モノーラルの時代だった。

私が小遣いを貯めて買ったラジカセも、だからモノーラルだった。
スピーカーユニットもフルレンジだけだった。
トゥイーターを加えた2ウェイ仕様のラジカセが出たのは、もう少しあとのことだ。

そんな環境で、ほぼ毎日、グラシェラ・スサーナの歌を聴いていた。
日本語の歌である。

そこまでグラシェラ・スサーナの歌にのめり込んでいたのは、
スサーナの歌を聴いていると、その情景が浮んでくることが多かったからである。

中学生が買えるラジカセで、カセットテープが音源なのだから、
出てくる音はたかが知れている。

これがステレオになったら──、
カセットテープではなくLPだったら──、
そんなことを思わなかったわけではない。

もっと情景がリアルに浮ぶものだと、中学生の私は思っていた(信じていた)。

Date: 3月 4th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その5)

実演に接して、その音を「鮮度が高い」という人は、まずいない。
少なくとも、私の周りにはそういう人はいないし、
いままでそう言った人もいない。

なのに再生音に関しては、鮮度の高い(低い)という。
音の鮮度をことさら気にする人、主張する人は、
このことに気づいていないのだろうか。

気づいていないということはないと思うのだけれども、
なのにすっぽり抜け落ちているかのように、鮮度の高さを気にしているようでもある。

昨晩、「再生音に存在しないもの(その2)」を書いたのは、
そのためである。

(その1)は、2008年9月に書いている。
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をみてきたから、ということもあるのだが、
同じくらいに、鮮度の高い(低い)について書いてきていることもあって、だ。

再生音に存在しないものがあるからこそ、
鮮度を気にするのではないのか。

では、いったい再生音には何がないのか。

Date: 2月 25th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その4)

鮮度の高い音。
もっともらしくて、わかりやすく思える。

しかも鮮度の高い音は、ある意味たやすく聴ける、ともいえる。
昔のプリメインアンプにはトーンコントロールがついていた。
このトーンコントロールをバイパスするスイッチもけっこうついていた。

トーンコントロール回路を経由しないわけだから、
余分な回路を信号が通らない、その音は鮮度が高い、といえなくもない。

CDプレーヤーが登場して、パッシヴ型フェーダーを使うことで、
コントロールアンプを経由せずにパワーアンプにダイレクトに接続する。
その音を、鮮度が高い、といえなくもない。

でも、これらの音は、本当の意味で客観的に鮮度の高い音なのだろうか。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
瀬川先生が書かれている。
1979年においても、「いまでも」と書かれている。
ここからすでに四十三年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《客観的な原音というものなどしょせん存在しない》とある。
そうである。
あるのは、主観的な原音である。

鮮度の高い音も、じつのところそうではないのか。
客観的な鮮度の高い音がある──、
ほんとうにそういえるのか。

Date: 2月 5th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その3)

ハイ・リアリティな音ということは、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から私の頭にずっとある。

ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思っていた時期もある。

では、ハイ・リアリティな音とは、どういう音なのか。
鮮度の高い音ならば、その結果として、ハイ・リアリティな音となるのか。

プログラムソースに含まれている音(信号)を、
できるかぎりそのままに増幅して、音に変化する。
そうすることで、究極の鮮度の高い音を実現したとしよう。

私には、それがハイ・リアリティな音とは、どうしても思えない。

鮮度の高い音──、
一時期の私にとって、これは魅力的な表現でもあった。

鮮度を損う要素を、オーディオの再生系から徹底して排除していく。
鮮度の高い音の実現とは、鮮度を損う要素を排除することでもある。

けれど、そういう音が、
別項「いま、空気が無形のピアノを……(その4)」で書いている音を聴かせてくれるのか。

そこで聴いた音は、いわゆる鮮度の高い音ではない。
けれど、サックスのソロになった瞬間に、
スピーカーに背を向けながら写真撮影の助手をやっていた私は、
サックス奏者が背後にいる、という気配を感じとってしまい、
そこに誰もいないのはわかっても振り返ってしまった。

これは確かにリアリティのある音だった。
生々しいサックスの音でもあった。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その7)

フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。

真理だ、と私は思っている。
でも、そうではないと思っている人もいることも知っている。

どちらが正しいのかは、私にはどうでもいいことだ。

先日、別項「何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その5)」で、
余韻について書いた。

この余韻もまたフルトヴェングラーのいうところの感動と同じように、
人と人との間にあるもの、もしくは人と人との間に生じるもののはずだ。

一ヵ月ほど前に、ある人と出逢ったのがきっかけで、
余韻についておもう日が続いている。

この、私が感じている「余韻」は、いったいなんなんだろうか、
通常、余韻はデクレッシェンドしていくのに、この「余韻」はクレッシェンドしていっている。
とまどいも感じているわけなのだが、
ここで述べている音情も、人と音との間にあるものであって、
私が音情と感じていても、別の人はまったく感じていないということがあっても、おかしくない。

Date: 8月 28th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その6)

(その5)から約一ヵ月。

「エマニエル夫人」のポスターは手に入れられるのか、とふと思った。
検索してみると、ヤフオク!が表示される。

ヤフオク!をのぞいてみると、ある。
1974年当時のポスターもある。

五十年近く前のポスターだから新品というわけではない。
それにサイズがA0だから、大きい。

ヤフオク!にはA3サイズの復刻ものも出ている。
私としては、こちらのほうがいい。

アクリルのフレームに入れて、飾っている。
こうやってブログを書いていると、視界に入ってくるところに置いている。

毎日眺めているわけだが、いやらしいポスターとは感じていない。
いま見ると、煽情的とも感じない。

そもそも、このポスターは煽情的だったのか──、
そんなことも思うようになっている。

それで、ふと、なぜ、このポスターを買おう(欲しい)と思ったのかについて、
あれこれ考えてみた。

ただ欲しかったから、それで十分ではないか、といわればそうなのだし、
買った時はそうだったといえる。

でも毎日眺めていると、そんなことを考えてしまう。
何を求めてなのだろうか、と。

官能性なのだろう、きっと。

Date: 7月 13th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その5)

金井克子の「他人の関係」は1973年、
1974年には映画「エマニエル夫人」が公開されている。

公開時、私は十一歳だったから、観たくても観れなかった。
けれど、「エマニエル夫人」のポスターのインパクトは強かった、というより凄かった。

映画のポスターは、映画の数だけ、というよりも、
同じ映画でも国によってポスターが違うこともあるし、
何種類かのポスターが用意されたりもするから、
映画の数の数倍のポスターが世に出ているわけで、そのすべてを見ているわけではない。

映画のポスターとしてのデザイン、
どの映画のポスターが優れたデザインとか、そういうことはいえないが、
少なくともインパクトの強さに関していえば、「エマニエル夫人」のポスターだ。

籐の椅子にシルヴィア・クリステル演じるエマニエル夫人が坐っている。

いまでは、当時の各国の「エマニエル夫人」のポスターが、検索すれば見れる。
日本の「エマニエル夫人」のポスターは、評価が高い、らしい。

いま見ても、そうだろうな、と思う。
「エマニエル夫人」のポスターが、ポスター・デザインとして、どう評価されるのか、
そういうことは関係ないところで、これほど印象深く記憶に残っているものはない。

けれど、このポスターは、あの時代だったから、街中にも貼られていて、
当時小学生だった私の目にも留まったわけだ。

いま「エマニエル夫人」がリメイクされて公開されたとしても、
もう、あのポスターは無理であろう。

Date: 7月 11th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その4)

Amazon Music HDで、金井克子の「他人の関係」を聴いた。
1973年にヒットした歌だから、私は十歳だった。

歌詞の意味を完全にわかっていたわけではなかったけれど、
なんとなくエッチなことを歌っているんだろうな、ぐらいには感じていた。

それに金井克子の振り付けは、学校で流行っていた。
そんな「他人の関係」を久しぶりに聴いた。

1973年当時、聴いていたといっても、
テレビやラジオから流れてくるのを聴いていただけだった。

ディスクを買って聴いていたわけではない。
東京で暮すようになって、テレビもラジオをもたない生活だったから、
「他人の関係」を聴く機会はなかった。

一青窈がカバーした、ということは何かで読んで知っていた。
機会があれば──、というぐらいの関心で、今日まで聴いたことはなかった。

Amazon Music HDには、金井克子、一青窈、どちらの「他人の関係」もある。
金井克子の「他人の関係」に感じられる煽情的な空気感が、
一青窈の「他人の関係」からは、私は感じられなかった。

どちらの「他人の関係」がいいとかわるいとかではなく、
一青窈の「他人の関係」は、
金井克子の「他人の関係」にあった扇情的なところが漂白されてしまっている。

といっても、これは私の感じ方であって、
どちらも、そういうところを感じるという人もいるだろうし、
一青窈の歌に、より強く感じるという人もいるように思う。

それはそれでいいのだが、
金井克子の「他人の関係」と一青窈の「他人の関係」、
どちらに扇情的な空気感を感じるのか。

それによって、音情という言葉の捉え方はそうとうに変ってくるはずだ。

Date: 5月 19th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その3)

音情は、九年前に作った私の造語なのだが、
ここにきて、音場ではなく音情が、問いを展いていくように感じている。

情報、情景、情操、それに情緒、
そういったものをふくめての音情があってこその問いであり、
音情をもたない(感じない)人は、問いを展いていくことができないのではないのか。

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 情景

変らないからこそ(その後・その1)

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」というグラシェラ・スサーナのCDがある。
2016年に出ている。

初来日から50年。
50周年コンサートをやっていたのは知っていた。
東京では、日本橋・三越のホールで行われた。
平日の昼だったこともあって、都合がつけられず行けなかった。

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」は、コンサート会場で売られていたようだ。
出ていたのは知っていたけれど、これも手に入れていなかった。
昨年末にやっと手に入れたにもかかわらず、聴かずにそのままだった。

グラシェラ・スサーナのコンサートは2007年に行ったのが最後だ。
この時のことは、「変らないからこそ」に書いている。

そのコンサートからほぼ十年。
この十年の変化は、大きい。

2007年の時は二十年ぶりぐらいだった。
グラシェラ・スサーナの容姿も変っていた。

それでも、ほとんど変らぬ歌が聴けたことに驚いたし、新鮮にも感じた。

50周年コンサートに無理してでも……、と思わなかった理由でもある。
2007年のコンサートとほとんど同じだろうな、と勝手に思っていた。

けれど、実際は大きく違っていた。
聴きなじんだ曲ばかりなのに、ずいぶん違う。

黙って聴かされたら、グラシェラ・スサーナとわかっただろうか……、と思うほどに、
声も変っていた。歌い方もそうだった。

もちろん聴いていくうちに、グラシェラ・スサーナらしいところに気づく。
それでも……、と思いながら聴いていた。

Date: 11月 2nd, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その3)

高層ビルをいっぱい描く。
どこかの大都市の絵を描いた、とする。

絵のうまいへたは関係ない。
実際の景色を見て、とか、写真を見て、とかではなく、
何も見ずに、高層ビルが立ち並ぶ絵を描く。

その絵を見て、どこの都市だと思うのか。
東京、大阪、それともニューヨーク、どこか外国の大都市か。

でも、その絵の背景に富士山が描かれていれば、
誰がみても、その絵は東京を描いたものだと、すぐにわかる。

ビルの絵がへたでも、
富士山の描写も拙くても、
なんとなくの富士山の形をしていれば、
それは東京であって、大阪でも、ニューヨークでもないことははっきりする。

富士山は東京にあるわけではない。
けれど、熊本で生まれ育ってきた私にとって、
富士山は、東京の高層ビルのずっーと後に、
堂々としている、そして神々しく存在している山である。

もちろん山梨に行ったことはある。
そこからの富士山を見ている。
静岡にも行っている。
そこでの富士山も何回も見ている。

それでも私にとっての富士山は、
高層ビルとともに描かれることで東京を象徴する存在である。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その2)

夏がようやく終って、富士山が見える日が増えてきた。
今日は神奈川県の寒川町のあたりに夕方いた。

クルマの中から見えた富士山が、
いままでに見たことのない富士山だった。

夕方は曇り空だった。
富士山の中腹ほどには雲も多かった。

風の強い晴天の日に見ることの出来る富士山とは、
正反対の趣の富士山であった。

おそらく東京からでは見なかったであろう。

なんといったらいいのだろうか、
藍色を主とした水墨画のようでもあったし、
使う色を極力抑えた日本画のようでもあった。

高解像度の写真のようにディテールがはっきりしているわけではない。
むしろぼやけている。

それは写真のようではなく、絵画的だった。
こういう富士山の表情があったのか、と思った。
初めて見た(感じた)富士山の美しさがあった。

今日の富士山はもう二度と見れないかもしれない。
それにしても、富士山は見飽きないのか。

Date: 7月 14th, 2019
Cate: 情景

「春宵十話」と「数学する人生」

「情報・情景・情操」というタイトルの別項で書いていることがある。
そこで書こうとしていることを、
7月のaudio wednesdayで、ひさしぶりにカセットテープ(デッキ)の音で音楽を聴いて、
あらためて考えているところである。

情操について考えている。
昨日、駅からの帰り道にある書店に寄ったところ、
文庫本のところに岡潔氏の文庫本が二冊平積みされていた。

「春宵十話」(光文社文庫)と「数学する人生」(新潮文庫)である。

岡潔氏について、多くを知っているわけではない、というか、
ほとんど知らない、といっていいかもしれない。
もちろん数学者ということぐらいは知っている。

そのぐらいでしかなかった。
昨晩、書店に寄らなければ、ふだんあまり見ない文庫本のコーナーに寄らなければ、
この二冊を買わないまま、読まないままだったろう。

どちらにも情緒、情操が、ページをめくると、どこかにある。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その2)

七年前に「情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情)」を書いている。

ステレオサウンド 210号の「オーディオファイル訪問記」を読んでいたら、
そこに「音情」とあった(212ページに載っている)。

それを見て、そういえば以前書いていたなぁ、と思い出した。
自分で書いておきながら、もう七年前なのか……、と思っていた。

210号の「オーディオファイル訪問記」に登場されている桑原光孝氏は、
おそらく私と同世代の方だろう。
あと数年で定年とあるし、
大学に入って初めて買ったステレオサウンドが63号ともあるからだ。

そして歌謡曲をよく聴かれる、とある。
そうかそうか、と思う。

私が先に「音情」を使ったと主張したいわけではなく、
瀬川先生の文章を読み感銘し、歌謡曲をよく聴いて、という人だから、
音情が思い浮ぶのだろう、と思ったからだ。

Date: 2月 13th, 2018
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その1)

最寄りの駅が国立だから中央線によく乗る。
夕方早い時間でも、空気の澄んだ日は、富士山が見える。

見えるたびに「あっ、富士山だ」と心でつぶやく。
年に一度か二度ほど、後方でも、「富士山が見える」という声がすることがある。

今年になってよく行っているところも、窓から富士山が見える。
見えない日もある。
見える日は、「今日も富士山、きれいだな」とか思う。
なにか得した気持になる。

東京に住んで30年以上。
いったい何回富士山を見てきただろうか。
なのにいまでも「あっ、富士山だ」と思う。

富士山は見飽きないのか。