Archive for category 情景

Date: 8月 28th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その6)

その5)から約一ヵ月。

「エマニエル夫人」のポスターは手に入れられるのか、とふと思った。
検索してみると、ヤフオク!が表示される。

ヤフオク!をのぞいてみると、ある。
1974年当時のポスターもある。

五十年近く前のポスターだから新品というわけではない。
それにサイズがA0だから、大きい。

ヤフオク!にはA3サイズの復刻ものも出ている。
私としては、こちらのほうがいい。

アクリルのフレームに入れて、飾っている。
こうやってブログを書いていると、視界に入ってくるところに置いている。

毎日眺めているわけだが、いやらしいポスターとは感じていない。
いま見ると、煽情的とも感じない。

そもそも、このポスターは煽情的だったのか──、
そんなことも思うようになっている。

それで、ふと、なぜ、このポスターを買おう(欲しい)と思ったのかについて、
あれこれ考えてみた。

ただ欲しかったから、それで十分ではないか、といわればそうなのだし、
買った時はそうだったといえる。

でも毎日眺めていると、そんなことを考えてしまう。
何を求めてなのだろうか、と。

官能性なのだろう、きっと。

Date: 7月 13th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その5)

金井克子の「他人の関係」は1973年、
1974年には映画「エマニエル夫人」が公開されている。

公開時、私は十一歳だったから、観たくても観れなかった。
けれど、「エマニエル夫人」のポスターのインパクトは強かった、というより凄かった。

映画のポスターは、映画の数だけ、というよりも、
同じ映画でも国によってポスターが違うこともあるし、
何種類かのポスターが用意されたりもするから、
映画の数の数倍のポスターが世に出ているわけで、そのすべてを見ているわけではない。

映画のポスターとしてのデザイン、
どの映画のポスターが優れたデザインとか、そういうことはいえないが、
少なくともインパクトの強さに関していえば、「エマニエル夫人」のポスターだ。

籐の椅子にシルヴィア・クリステル演じるエマニエル夫人が坐っている。

いまでは、当時の各国の「エマニエル夫人」のポスターが、検索すれば見れる。
日本の「エマニエル夫人」のポスターは、評価が高い、らしい。

いま見ても、そうだろうな、と思う。
「エマニエル夫人」のポスターが、ポスター・デザインとして、どう評価されるのか、
そういうことは関係ないところで、これほど印象深く記憶に残っているものはない。

けれど、このポスターは、あの時代だったから、街中にも貼られていて、
当時小学生だった私の目にも留まったわけだ。

いま「エマニエル夫人」がリメイクされて公開されたとしても、
もう、あのポスターは無理であろう。

Date: 7月 11th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その4)

Amazon Music HDで、金井克子の「他人の関係」を聴いた。
1973年にヒットした歌だから、私は十歳だった。

歌詞の意味を完全にわかっていたわけではなかったけれど、
なんとなくエッチなことを歌っているんだろうな、ぐらいには感じていた。

それに金井克子の振り付けは、学校で流行っていた。
そんな「他人の関係」を久しぶりに聴いた。

1973年当時、聴いていたといっても、
テレビやラジオから流れてくるのを聴いていただけだった。

ディスクを買って聴いていたわけではない。
東京で暮すようになって、テレビもラジオをもたない生活だったから、
「他人の関係」を聴く機会はなかった。

一青窈がカバーした、ということは何かで読んで知っていた。
機会があれば──、というぐらいの関心で、今日まで聴いたことはなかった。

Amazon Music HDには、金井克子、一青窈、どちらの「他人の関係」もある。
金井克子の「他人の関係」に感じられる煽情的な空気感が、
一青窈の「他人の関係」からは、私は感じられなかった。

どちらの「他人の関係」がいいとかわるいとかではなく、
一青窈の「他人の関係」は、
金井克子の「他人の関係」にあった扇情的なところが漂白されてしまっている。

といっても、これは私の感じ方であって、
どちらも、そういうところを感じるという人もいるだろうし、
一青窈の歌に、より強く感じるという人もいるように思う。

それはそれでいいのだが、
金井克子の「他人の関係」と一青窈の「他人の関係」、
どちらに扇情的な空気感を感じるのか。

それによって、音情という言葉の捉え方はそうとうに変ってくるはずだ。

Date: 5月 19th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その3)

音情は、九年前に作った私の造語なのだが、
ここにきて、音場ではなく音情が、問いを展いていくように感じている。

情報、情景、情操、それに情緒、
そういったものをふくめての音情があってこその問いであり、
音情をもたない(感じない)人は、問いを展いていくことができないのではないのか。

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 情景

変らないからこそ(その後・その1)

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」というグラシェラ・スサーナのCDがある。
2016年に出ている。

初来日から50年。
50周年コンサートをやっていたのは知っていた。
東京では、日本橋・三越のホールで行われた。
平日の昼だったこともあって、都合がつけられず行けなかった。

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」は、コンサート会場で売られていたようだ。
出ていたのは知っていたけれど、これも手に入れていなかった。
昨年末にやっと手に入れたにもかかわらず、聴かずにそのままだった。

グラシェラ・スサーナのコンサートは2007年に行ったのが最後だ。
この時のことは、「変らないからこそ」に書いている。

そのコンサートからほぼ十年。
この十年の変化は、大きい。

2007年の時は二十年ぶりぐらいだった。
グラシェラ・スサーナの容姿も変っていた。

それでも、ほとんど変らぬ歌が聴けたことに驚いたし、新鮮にも感じた。

50周年コンサートに無理してでも……、と思わなかった理由でもある。
2007年のコンサートとほとんど同じだろうな、と勝手に思っていた。

けれど、実際は大きく違っていた。
聴きなじんだ曲ばかりなのに、ずいぶん違う。

黙って聴かされたら、グラシェラ・スサーナとわかっただろうか……、と思うほどに、
声も変っていた。歌い方もそうだった。

もちろん聴いていくうちに、グラシェラ・スサーナらしいところに気づく。
それでも……、と思いながら聴いていた。

Date: 11月 2nd, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その3)

高層ビルをいっぱい描く。
どこかの大都市の絵を描いた、とする。

絵のうまいへたは関係ない。
実際の景色を見て、とか、写真を見て、とかではなく、
何も見ずに、高層ビルが立ち並ぶ絵を描く。

その絵を見て、どこの都市だと思うのか。
東京、大阪、それともニューヨーク、どこか外国の大都市か。

でも、その絵の背景に富士山が描かれていれば、
誰がみても、その絵は東京を描いたものだと、すぐにわかる。

ビルの絵がへたでも、
富士山の描写も拙くても、
なんとなくの富士山の形をしていれば、
それは東京であって、大阪でも、ニューヨークでもないことははっきりする。

富士山は東京にあるわけではない。
けれど、熊本で生まれ育ってきた私にとって、
富士山は、東京の高層ビルのずっーと後に、
堂々としている、そして神々しく存在している山である。

もちろん山梨に行ったことはある。
そこからの富士山を見ている。
静岡にも行っている。
そこでの富士山も何回も見ている。

それでも私にとっての富士山は、
高層ビルとともに描かれることで東京を象徴する存在である。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その2)

夏がようやく終って、富士山が見える日が増えてきた。
今日は神奈川県の寒川町のあたりに夕方いた。

クルマの中から見えた富士山が、
いままでに見たことのない富士山だった。

夕方は曇り空だった。
富士山の中腹ほどには雲も多かった。

風の強い晴天の日に見ることの出来る富士山とは、
正反対の趣の富士山であった。

おそらく東京からでは見なかったであろう。

なんといったらいいのだろうか、
藍色を主とした水墨画のようでもあったし、
使う色を極力抑えた日本画のようでもあった。

高解像度の写真のようにディテールがはっきりしているわけではない。
むしろぼやけている。

それは写真のようではなく、絵画的だった。
こういう富士山の表情があったのか、と思った。
初めて見た(感じた)富士山の美しさがあった。

今日の富士山はもう二度と見れないかもしれない。
それにしても、富士山は見飽きないのか。

Date: 7月 14th, 2019
Cate: 情景

「春宵十話」と「数学する人生」

情報・情景・情操」というタイトルの別項で書いていることがある。
そこで書こうとしていることを、
7月のaudio wednesdayで、ひさしぶりにカセットテープ(デッキ)の音で音楽を聴いて、
あらためて考えているところである。

情操について考えている。
昨日、駅からの帰り道にある書店に寄ったところ、
文庫本のところに岡潔氏の文庫本が二冊平積みされていた。

春宵十話」(光文社文庫)と「数学する人生」(新潮文庫)である。

岡潔氏について、多くを知っているわけではない、というか、
ほとんど知らない、といっていいかもしれない。
もちろん数学者ということぐらいは知っている。

そのぐらいでしかなかった。
昨晩、書店に寄らなければ、ふだんあまり見ない文庫本のコーナーに寄らなければ、
この二冊を買わないまま、読まないままだったろう。

どちらにも情緒、情操が、ページをめくると、どこかにある。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その2)

七年前に「情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情)」を書いている。

ステレオサウンド 210号の「オーディオファイル訪問記」を読んでいたら、
そこに「音情」とあった(212ページに載っている)。

それを見て、そういえば以前書いていたなぁ、と思い出した。
自分で書いておきながら、もう七年前なのか……、と思っていた。

210号の「オーディオファイル訪問記」に登場されている桑原光孝氏は、
おそらく私と同世代の方だろう。
あと数年で定年とあるし、
大学に入って初めて買ったステレオサウンドが63号ともあるからだ。

そして歌謡曲をよく聴かれる、とある。
そうかそうか、と思う。

私が先に「音情」を使ったと主張したいわけではなく、
瀬川先生の文章を読み感銘し、歌謡曲をよく聴いて、という人だから、
音情が思い浮ぶのだろう、と思ったからだ。

Date: 2月 13th, 2018
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その1)

最寄りの駅が国立だから中央線によく乗る。
夕方早い時間でも、空気の澄んだ日は、富士山が見える。

見えるたびに「あっ、富士山だ」と心でつぶやく。
年に一度か二度ほど、後方でも、「富士山が見える」という声がすることがある。

今年になってよく行っているところも、窓から富士山が見える。
見えない日もある。
見える日は、「今日も富士山、きれいだな」とか思う。
なにか得した気持になる。

東京に住んで30年以上。
いったい何回富士山を見てきただろうか。
なのにいまでも「あっ、富士山だ」と思う。

富士山は見飽きないのか。

Date: 1月 5th, 2018
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その7)

2014年の音展のNHKのブースで観た8K。
昨年12月、シャープが8Kの液晶テレビを発売していたことは知っていた。

今日、秋葉原に行ってきた。
たいていひとりで行くことの多い秋葉原だが、今日はふたり。

コイズミ無線に最初に行き、それからオヤイデ、そしてヨドバシというコースだった。
ヨドバシの四階にはオーディオコーナーとテレビのコーナーがある。

オーディオコーナーからの移動の途中で、8Kテレビの展示が目に入ってきた。
近くのコーナーには、有機ELディスプレイの4Kテレビが展示してある。

サイズはほぼ同じでも、価格は片方のほぼ二倍。
8Kの方が高いのかと思いがちだが、有機ELの4Kの方が高価だ。

シャープの8Kテレビが約百万円なのに対し、有機ELの4Kテレビは約二百万だった。
テレビに百万、高いと思いがちだが、シャープの百万円が安いかも……、と思われるほどに、
8Kと4K(それが有機ELであっても)は歴然とした差があった。

やはり8Kはすごい、と思った。
一緒に秋葉原に行っていた人は、プロの写真家だ。
「8×10(エイトバイテン)を見ているかのようだ」
そういう感想がきこえてきた。

8×10(エイトバイテン)。
瀬川先生も、そのことについて書かれている。
     *
 8×10(エイトバイテン)のカラー密着印画の実物を見るという機会は、なかなか体験しにくいかもしれないが、8×10とは、プロ写真家の使う8インチ×10インチ(約20×25センチ)という大サイズのフィルムで、大型カメラでそれに映像を直接結ばせたものを、密着で印画にする。キリキリと絞り込んで、隅から隅までキッカリとピントの合った印画を、手にとって眺めてみる。見えるものすべてにピントの合った映像というものが、全く新しい世界として目の前に姿を現わしてくる。それをさらに、ルーペで部分拡大して見る。それはまさに、双眼鏡で眺めた風景に似て、超現実の別世界である。
(「いま、いい音のアンプがほしい」より)
     *
いうまでもなく8×10は写真である。
静止画だ。
8Kテレビは、8×10に匹敵するクォリティで画が動く。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その4)

グラシェラ・スサーナの歌で浮ぶ情景に変りがない、ということは、
その情景は、私にとって郷愁なのか。

郷愁ならば、変らぬことに新鮮さを感じたりはしないはずだ──、
と思いつつも、五味先生が書かれていることを思い出している。
     *
 野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
 リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
 装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
 でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
     *
オーディオ巡礼の一回目、野口晴哉氏のリスニングルームを訪問されたときの文章である。

Date: 2月 10th, 2017
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その3)

それにしてもグラシェラ・スサーナの歌によって私の心のなかに浮ぶ情景は、
これほどまでに変らないのだろうか。

最初に聴いたのは13歳だった。
それから四十年が経つ。

あのころはシングル盤でも聴いていた。
ミュージックテープ(カセットテープ)でも聴いていた。
LPでも聴いていた。

いまはCDで聴いている。

再生するシステムも大きく、何度も変っている。
鳴ってくる音はとうぜん、あの頃とは違う。

にも関わらず、グラシェラ・スサーナの歌を聴くと、同じ情景が浮ぶ。

歌を聴けば、必ずそうなるわけではない。
同じ曲を、別の歌手が歌ったのを聴いても、グラシェラ・スサーナとおなじ情景は浮ばない。
違う情景が浮ぶ歌手もいれば、情景が浮ばない歌手もいる。

ここで書いているグラシェラ・スサーナの歌とは、日本語で歌われた歌のことである。
日本語だから──、というのは理由にならないのは、
情景が浮ばない歌手の歌もあるからだ。

Date: 8月 15th, 2015
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その2)

あらゆる変化のなかで生きているからこそ、
変わらぬことの新鮮さ、変わらないからこそ新鮮、ということを教えてくれるモノ・コトは、
大切にしていかなければならない。

そんなことを2007年、グラシェラ・スサーナのコンサートに20年以上ぶりに行って感じた。
そのことを「変らないからこそ」に書いた。

そこで聴けた歌は、ずっと昔に聴けた歌とほとんど変らぬ歌であった。
とはいえすべてが同じだったわけではない。
細部には違いがあった。

それでも変らぬことの新鮮さを、そこで感じたのは、
グラシェラ・スサーナの歌によって私の心のなかに浮ぶ情景が変らぬからこそだったのかもしれない。

Date: 11月 11th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その6)

8Kをみて、今日までに数人に「8Kはすごい」という話をした。
きまって返ってくるのは「4Kで十分でしょう」といったものだった。

私が話をした人の中に、ホームシアターを趣味としている人はいなかった。
そのせいもあるだろうが、立場が反対で、もし私が「8Kはすごいよ」といわれたら、
やっぱり「4Kで十分でしょう」と答えている、と思う。

でも、私は8Kを観ている。
だから4Kを欲しいとは思わないけれど、8Kは本気で欲しい、と思っている。

けれど、それだけでは8Kのすごさを伝えるのは、
とくにホームシアターを趣味としていない人、8Kを観る以前の私のような人に対して、
どう伝えたらいいのか、と考えていた。

まず少し冷静に8Kの何が、4K以前と比べて格段に優れているのかを考えてみた。
とはいうものの、私が8Kを体験したのはオーディオ・ホームシアター展での一回のみで、
すごい、すごい、とやや昂奮気味に観ていたのだから、冷静に考えること自体が無理なのはわかっている。
それに映像に関しての専門知識も乏しい。

それでも、おそらく階調表現が4K以前よりも圧倒的に優れているのではないか、と思っている。
階調表現が8Kのレベルに達して、人はそれまでの映像とはあきらかに違うと認識しているような気がする。