情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その7)
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。
真理だ、と私は思っている。
でも、そうではないと思っている人もいることも知っている。
どちらが正しいのかは、私にはどうでもいいことだ。
先日、別項「何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その5)」で、
余韻について書いた。
この余韻もまたフルトヴェングラーのいうところの感動と同じように、
人と人との間にあるもの、もしくは人と人との間に生じるもののはずだ。
一ヵ月ほど前に、ある人と出逢ったのがきっかけで、
余韻についておもう日が続いている。
この、私が感じている「余韻」は、いったいなんなんだろうか、
通常、余韻はデクレッシェンドしていくのに、この「余韻」はクレッシェンドしていっている。
とまどいも感じているわけなのだが、
ここで述べている音情も、人と音との間にあるものであって、
私が音情と感じていても、別の人はまったく感じていないということがあっても、おかしくない。