Archive for category オーディオマニア

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その6)

レコード演奏とは、レコード(録音物)を再生することである。
LPにしろCDにしろ、その他のメディアにしても、
演奏する、といっても、ただ再生しているだけではないか、という反論は以前からある。

レコード演奏、レコード演奏家という表現は菅野先生が提案されているが、
実はそれ以前にも「レコードを演奏する」という表現は瀬川先生によって使われていた。

瀬川先生にとっては、レコードをかける、という行為は、演奏する、ということだったわけだ。

瀬川先生、菅野先生のようにはっきりと言葉にしなくとも、
そういう意識でレコードをかけている人はいるはずだ。

こんな経験をしたことがある。
ある人のリスニングルームで、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。
グールドのディスクをかける、ということは音が鳴ってくる前からわかっていた。
それでも、鳴ってきた音は、まるでおそまつなテクニックのピアニストのようだった。

ゆったりしたテンポの変奏の場合がそうだった。
音がとぎれとぎれに聴こえてくる。
速いテンポで弾けないから、遅いテンポで弾いている。
そんな感じのする演奏になってしまっていた。

そこには深遠さは、すっかり霧散していた。
どうしてこういう演奏に堕してしまうのか、と思わず言ってしまいたくなるほどだった。

その人のシステムは、かなりのモノを組み合わせていた。
調整も熱心にやられていたように思われた。
オーディオへの思い入れも強いようだった。

それでも……、だった。
そこにグレン・グールドによるゴールドベルグ変奏曲の音楽的感銘はなかった。

オーディオは時として、こういうふうに音楽的感銘を著しくそこなうことがある。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その5)

「五味オーディオ教室」でオーディオにのめり込んでいった私にとって、
五味先生がリスニングルームに来て下さる日を夢見ていた。

その日が何年後かもっと先のことになるのか、
まったく見当つかなかったけれど、その日を夢見てオーディオに精進していこう──、
そう思い始めていたころ、1980年に五味先生が亡くなられた。

五味先生に会えなかった……、
そのショックも大きかった。
五味先生にききたいことは山ほどあった。
いまもある。

けれどもうきくことはできない。何もきけなかった。
だから自分で考えていくしかない。
このブログを書いているのも、だからである。

これでよかったのかもしれない。
と思うとともに、この行為は極めようとしているのか、
修めようとしているのか、どちらなのか。
両方なのだろうか。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その4)

わたしは、自分が録音したものを、完了したあとでは、それこそめったに聴きませんね。わたしの耳はまずい点を拾いあげようとして、やっきになるだけでしょうから。わたしが、自分で過去においてやったものを、全面的に肯定したとするならば、それまでの間に、わたしは何にも学んだものがないということになります。音楽の生活には、〝良い〟という単語は存在しないのです。
(ステレオサウンド 57号「続・レコードのある部屋」より)

ここでの「わたし」とはカルロ・マリア・ジュリーニである。
これを読んで、カルロ・マリア・ジュリーニも極道だと思った。
いうまでもなく、いい意味での極道であり、
この「極道」のあとには、どの字をもってくるか。

極道者ではなく、極道家としたい。
カルロ・マリア・ジュリーニは、静かなる極道家であり、
演奏する側の音楽家は、そうでない演奏者もいるように感じることもあるが、
その意味では音楽を極めようとするはずだ。

では音楽の聴き手側もまた、聴き方を極めようとしているのかもしれない。
そうであれば、音楽の演奏家だけでなく、聴き手側も極道者といえるのか、となると、
やはり音楽の聴き手側は修道である、と思う。

だが、ここで聴き手側であっても、
オーディオマニアという、より積極的に音楽を聴こうとしている者はどうなのか。

レコード演奏家ということばがある。
オーディオマニアみながレコード演奏家とはいわない。

オーディオマニアであってもレコード演奏という考えかたに否定的な人もいる。
けれどレコード演奏という考えかたに肯定的であり、
レコード演奏家たらんとしているオーディオマニア、
音を良くしていくという行為は、そのためのものという意識をもっている聴き手は、
そこで極めようとしている、と断言できる。

そうなると「オーディオは極道、音楽は修道」ということになり、
facebookにもらった川崎先生のコメントのままに行き着く。

ここまで来て、演奏家もまた極道であり修道であることに気づく。
修道が感じられない演奏があるように思うのだ。
そして五味先生がポリーニのベートーヴェンに激怒された理由は、
ここにあるような気もしている。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その4)

気(き)は「け」とも読む。
ならば気(き)→気(け)→化(け)、
つまり気が化けて鬼(き)となる。

その3)を書いたあとで、そう気づいた。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その3)

別項で、気が違うからこその「気違い」と書いた。
わかったつもりで留まらず、わかろうと進んでいくのが、結局はマニアということだ。

気が違うからこそマニアであり、
その「気」は、いつしか「鬼(き)」となっていくのではないだろうか。

Date: 6月 7th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(おとこだから)

音の子(音子)、と書いて、おとこ。
だから男はオーディオマニア!!

Date: 5月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その1)

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、
狭い部屋に大型スピーカーを押し込んで鳴らしている人を揶揄する、
プロフェッショナル用機器を家庭で使う人のことも揶揄する、
ホーンは拡声器でしかない、と揶揄する……、
もっと書いていけるけど、このへんにしておく。

こういうクレバーなオーディオマニアを自称する人からすれば、
たとえばアルテックのA7を六畳間で鳴らしている人は、どう映るであろうか。

ナロウレンジの劇場用スピーカーで、エンクロージュアの仕上げもホーンの仕上げも粗いところが残っている。
家庭で使うことなど全く考慮していないスピーカーであるけれど、
日本にはあえて、この劇場用スピーカーを家庭に持ち込んだ人は、けっこういる。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、そういう人のことを、
古い、の一言で切って捨てるであろう。

クレバーなオーディオマニアを自称する人は、A7を六畳間で鳴らしてみた経験を、
同じといえる経験を持っているのだろうか。

ある、と言える人でも、どこまで真剣に取り組んだのだろうか。

音楽出版からCDジャーナル別冊として1996年、「オーディオ名機読本」が出た。
この本の中に、アルテックのA7について書かれた文章がある。
篠田寛一氏が書かれている。
     *
 また、こんなこともあった。
 米国・アルテック本社の人間を連れて何人かのユーザーを訪問した時のことである。その中にA7を使っている学生さんがいた。木造アパートなのであまり大きな音は出せないが、卒業して故郷に持って帰るまでエージングも兼ねて聴いてるのだという。それでもA7ならではのエネルギー感は楽しめるという彼の部屋に入って驚いた。6畳ほどのスペースにレコードプレーヤーをはじめアンプ、それに机や本箱などがところ狭しと置いてある中にA7が鎮座しているのだ。立錐の余地もないとはこのこと。それにしても、一体どこで寝るのだろう。その答えは、天井とA7との間にある1m弱のスペースにあった。棚のように見える間隙を覆っていたカーテンを開けると、何とそこにベッドが置いてあるではないか。ちょうど、2段ベッドの下段にA7を置き、その上段で寝るというパターンである。ベッドに横になって聴いていると体じゅうに適度な振動が伝わってきてなかなか心地よいと笑いながら話してくれた。
 これにはアルテックの人間も唖然とした様子、最初のうちは声も出なかったようだ、業務用のA7を家庭で聴くことすら信じられないうえこの特異なリスニング環境だから声が出ないのも無理はないが、しばらくたってひと言「ファンタスティック」といっていた。もし、クレージーなんて言ったら叱りつけてよろうと思ったが、自社の製品をこれほどまでに熱烈に愛用してくれるユーザーに心から感激した様子だった。
     *
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、この人のことをなんというであろうか。
こういう経験をしてきたのだろうか、同じような経験をしてきたのだろうか。

こういう経験をしてこなかったこと、
考えもしてこなかった自分のことを、どう思うのだろうか。

このA7のユーザーがいた、
この人だけではない、他にも同じ人たちがいた時代が、日本にはあった。
熱い時代があったのは、確かなことだ。

Date: 4月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その3)

極道は獄道とも書く。
伊藤先生のステレオサウンドの連載は「獄道物語」だった。
「極道物語」ではなかった。

Date: 4月 24th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その2)

オーディオという趣味は、音楽に導かれている、といえる。
音楽の後につづいての行為と考えれば、
その行為が、極道なのか修道なのかが見えてくるのではないだろうか。

Date: 4月 18th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その1)

極道という言葉がある。
辞書には、いい意味のことは書いてない。
日常的に、この言葉が使われるのも、いい意味ではない。

極道(ごくどう)とは、悪事や酒色・ばくちにふけること。品行・素行のおさまらないさま。
人をののしっていう語、とある。

極には、きわめる、きわまる、このうえない、という意味をもつ。
だから極意、極地という言葉がある。

その意味でいえば、道を極めるのが極道ということになり、
この極道を否定的な意味ではなく肯定的な意味としてとらえる人もいる。

オーディオだけに限らずマニアと呼ばれる人は、
そういう意味での極道者と自認している人も少ないはずだ。

何かを極めよう、ということは、そういうことであろう、と思ってきたけれど、
このごろになって極めようとしてきたのだろうか、とも思うようになってきた。

修道という言葉がある。
道を修める、と書く。

極めると修める。
オーディオでやってきたことはどちらなのか、
いまやっていることは、これからやろうとしていることはどちらなのか。

Date: 1月 12th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その2)

その1)を書いて約14ヵ月。

覚悟なきオーディオマニアは、どこまでいっても素人のままである。
つくづくそう感じている。

2016年は、オーディオマニアの覚悟について考えていきたいし、
毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会で、オーディオマニアの覚悟を音で示せれば、と思っている。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その35)

つきあいの長い音がつくり出す音楽美こそ、オーディオマニアの喜びかもしれない。

Date: 1月 1st, 2016
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その34)

つきあいの長い音は、身近な音なのか、それともそうでない音なのか。

Date: 12月 31st, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その33)

つきあいの長い音との関係において、心の痛みを感じなかった、ということはないはずだ。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その32)

つきあいの長い音は、何かを欲しているのだろうか。