オーディオは男の趣味であるからこそ(おとこだから)
音の子(音子)、と書いて、おとこ。
だから男はオーディオマニア!!
音の子(音子)、と書いて、おとこ。
だから男はオーディオマニア!!
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、
狭い部屋に大型スピーカーを押し込んで鳴らしている人を揶揄する、
プロフェッショナル用機器を家庭で使う人のことも揶揄する、
ホーンは拡声器でしかない、と揶揄する……、
もっと書いていけるけど、このへんにしておく。
こういうクレバーなオーディオマニアを自称する人からすれば、
たとえばアルテックのA7を六畳間で鳴らしている人は、どう映るであろうか。
ナロウレンジの劇場用スピーカーで、エンクロージュアの仕上げもホーンの仕上げも粗いところが残っている。
家庭で使うことなど全く考慮していないスピーカーであるけれど、
日本にはあえて、この劇場用スピーカーを家庭に持ち込んだ人は、けっこういる。
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、そういう人のことを、
古い、の一言で切って捨てるであろう。
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、A7を六畳間で鳴らしてみた経験を、
同じといえる経験を持っているのだろうか。
ある、と言える人でも、どこまで真剣に取り組んだのだろうか。
音楽出版からCDジャーナル別冊として1996年、「オーディオ名機読本」が出た。
この本の中に、アルテックのA7について書かれた文章がある。
篠田寛一氏が書かれている。
*
また、こんなこともあった。
米国・アルテック本社の人間を連れて何人かのユーザーを訪問した時のことである。その中にA7を使っている学生さんがいた。木造アパートなのであまり大きな音は出せないが、卒業して故郷に持って帰るまでエージングも兼ねて聴いてるのだという。それでもA7ならではのエネルギー感は楽しめるという彼の部屋に入って驚いた。6畳ほどのスペースにレコードプレーヤーをはじめアンプ、それに机や本箱などがところ狭しと置いてある中にA7が鎮座しているのだ。立錐の余地もないとはこのこと。それにしても、一体どこで寝るのだろう。その答えは、天井とA7との間にある1m弱のスペースにあった。棚のように見える間隙を覆っていたカーテンを開けると、何とそこにベッドが置いてあるではないか。ちょうど、2段ベッドの下段にA7を置き、その上段で寝るというパターンである。ベッドに横になって聴いていると体じゅうに適度な振動が伝わってきてなかなか心地よいと笑いながら話してくれた。
これにはアルテックの人間も唖然とした様子、最初のうちは声も出なかったようだ、業務用のA7を家庭で聴くことすら信じられないうえこの特異なリスニング環境だから声が出ないのも無理はないが、しばらくたってひと言「ファンタスティック」といっていた。もし、クレージーなんて言ったら叱りつけてよろうと思ったが、自社の製品をこれほどまでに熱烈に愛用してくれるユーザーに心から感激した様子だった。
*
クレバーなオーディオマニアを自称する人は、この人のことをなんというであろうか。
こういう経験をしてきたのだろうか、同じような経験をしてきたのだろうか。
こういう経験をしてこなかったこと、
考えもしてこなかった自分のことを、どう思うのだろうか。
このA7のユーザーがいた、
この人だけではない、他にも同じ人たちがいた時代が、日本にはあった。
熱い時代があったのは、確かなことだ。
極道は獄道とも書く。
伊藤先生のステレオサウンドの連載は「獄道物語」だった。
「極道物語」ではなかった。
オーディオという趣味は、音楽に導かれている、といえる。
音楽の後につづいての行為と考えれば、
その行為が、極道なのか修道なのかが見えてくるのではないだろうか。
極道という言葉がある。
辞書には、いい意味のことは書いてない。
日常的に、この言葉が使われるのも、いい意味ではない。
極道(ごくどう)とは、悪事や酒色・ばくちにふけること。品行・素行のおさまらないさま。
人をののしっていう語、とある。
極には、きわめる、きわまる、このうえない、という意味をもつ。
だから極意、極地という言葉がある。
その意味でいえば、道を極めるのが極道ということになり、
この極道を否定的な意味ではなく肯定的な意味としてとらえる人もいる。
オーディオだけに限らずマニアと呼ばれる人は、
そういう意味での極道者と自認している人も少ないはずだ。
何かを極めよう、ということは、そういうことであろう、と思ってきたけれど、
このごろになって極めようとしてきたのだろうか、とも思うようになってきた。
修道という言葉がある。
道を修める、と書く。
極めると修める。
オーディオでやってきたことはどちらなのか、
いまやっていることは、これからやろうとしていることはどちらなのか。
(その1)を書いて約14ヵ月。
覚悟なきオーディオマニアは、どこまでいっても素人のままである。
つくづくそう感じている。
2016年は、オーディオマニアの覚悟について考えていきたいし、
毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会で、オーディオマニアの覚悟を音で示せれば、と思っている。
つきあいの長い音がつくり出す音楽美こそ、オーディオマニアの喜びかもしれない。
つきあいの長い音は、身近な音なのか、それともそうでない音なのか。
つきあいの長い音との関係において、心の痛みを感じなかった、ということはないはずだ。
つきあいの長い音は、何かを欲しているのだろうか。
つきあいの長い音は、絶対的にlow thinkingではない。
つきあいの長い音も、“plain sounding, high thinking”なのだろう。
つきあいの長い音に官能性を与えるもののひとつが、それも重要なひとつが器ではないのか。
つきあいの長い音に必要なのものの中には、器に対する心遣い、気くばりがあるはずだ。
つきあいの長い音と器の関係を忘れてはならないと思っている。