Archive for category 作曲家

Date: 10月 11th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その1)

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いていておもう。

いまも私は、五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生の文章を読み返す。
オーディオ、音楽について書いている文章は、世の中にあふれかえっている。
書店にいけば、世の中にはどれだけの雑誌が出ているのか、
書籍にしても頻繁に書店に足を運ばなければ存在すら知らずに書店から消えてしまう本も、
きっと少なくないぐらい……。

インターネットにおいては、もっともっとあふれている。

にも関わらず、相変らずくり返し読むのは、なぜか? と自問していた。
いくつかの理由は頭に浮びはするものの、自問していく。

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いて、やっとわかった。

五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生が残してくれたものは、
オーディオへの愛、音楽への愛だ、ということに。
そのことに、「愛だけを残せ」を聴いて、いま気がついた。

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
 愛、愛、愛……それこそが天才の魂である」
モーツァルトの、この言葉を思い出しながら、やっと気がついた。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その2)

Twitterには140文字という制約がある。
だから「モツレク」と表記するんだ、という人もいよう。
でも、私はTwitterでも「モーツァルトのレクィエム」と書く。

「モツレク」と書くのも口にするのも、はっきり嫌いだからである。

以前Twitterで、「モツレク」について書いた。
数日前も書いた。
今回、それに対して「なにがいけないんですか」という返信をもらった。

だから「美しくないからです。オーディオは美を求めるものだと、私は信じているからです。」と返事した。
それに対して「モーツァルトにそんなことを言ったら笑われるんじゃないかなあ。」と。

笑われるであろうか。

「モツレク」という表記には、美がない、と言い切ろう。
そして、「モツレク」を平気で使う人は、「モーツァルトのレクィエム」への愛がないんだ、ともいおう。

またきっと、「モーツァルトに笑われるんじゃないかなあ」と、「モツレク」の人は言うに違いない。

モーツァルトは
「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合せても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の塊である」といった男である。

そういうモーツァルトの音楽を聴く聴き手に求められるのも、愛のはず。
モーツァルトの音楽についての知識ではなく、愛、愛、愛であろう。他に何がいるのか。

思うのは、音楽を愛するということは、そこに美を見出すこと、そして生み出すこと、ということだ。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その1)

ブログに限らずウェブサイトでも、インターネットでは文字数の制限はない、といっていい。
だからできるだけ固有名詞は略することなく書くようにしている。

例えばスピーカーといってしまわずに、スピーカーシステム、スピーカーユニットと分けるようにしているし、
スピーカーと書くときは、あえてそうしている。

インターネットはそうできるわけだが、雑誌だと文字数の制限が厳しいこともある。
写真の説明文などはきっちりと文字数が決っていて、
その制約の中でどれだけの情報を伝えることができるかは書き手の能力によるわけだが、
だからといって安易に固有名詞を、しかも勝手に略することはしない。

だから他の箇所を削って、なんとか文字数を合せていく。
ときには文字の間隔を詰めて、という手段もとることもある。
いまはパソコンの画面上で文字詰めも行えるが、
私がステレオサウンドにいたころは写植の切貼りもやった。
そんなことまでしても、とにかく固有名詞の省略はまずしなかった。
それが当り前のことだったからだ。

不思議なことに、ここ数年、なぜかインターネットで、安易で勝手な、固有名詞の省略を目にすることが増えてきた。
代表的なものが、モーツァルトのレクィエムを「モツレク」と、
ベートーヴェンの交響曲第七番を「ベト7」とかである。

モツレク──、
これを最初目にしたときは、唖然とした。
なぜんこんなふうに省略しなければならないのか。
「モーツァルトのレクィエム」だと12文字、「モツレク」だと4文字。8文字分稼げる。

100文字、200文字の制限であれば8文字分の余裕は、正直助かる。
でも、「モツレク」とは絶対にしない。

Date: 3月 22nd, 2012
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その8)

1989年12月25日に、ベルリンの壁崩壊を記念して、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮していることは、よく知られている。

このニュースをきいたとき、このとき存命中の指揮者で、
この「第九」にふさわしく思えたのは、やはりバーンスタインだった。
ジュリーニも素晴らしい指揮者で、私にとって大事な指揮者のひとりではあっても、
こういう場の「第九」だと、バーンスタイン以外に、誰か適任がいるだろうか、と思える。

ベルリンの壁がどういう存在であったのかは、文字、映画などで知っているだけである。
いつかは無くなる日が来るはず、とは思っていても、それがいつの日なのかはまったく見当がつかなかったし、
漠然とではあったが、それはずっとずっと遠い日のような気がしていたから、
ベルリンの壁崩壊のニュースを聞いたとき、信じられない、という思いが強かった。

もし日本が東西に壁によって分離されていたら……、そしてその壁がやっと崩壊したとしたら、
そのとき日本では、何が演奏されるだろうか、と考えたりもした。
自国の作曲家の作品でなにかあるだろうか。
やはり、ベートーヴェンの「第九」が演奏されるだろう、としか思えなかった。

ベルリンの壁の存在がどれほどの存在であったのかを実感している人間でないから、
こんなことを言えるのかもしれないが、
ベートーヴェンの「第九」をもつドイツ人は、倖せかもしれない、と。

ベルリンの壁はカラヤンが生きているときに建築され、
カラヤンが生きているあいだは存在していた。壁崩壊の4ヵ月前にカラヤンは亡くなっている。

別項の「プロフェッショナルの姿におもう」を書いているせいだろうが、
カラヤンがもしあと数ヵ月ながく生きていたら、もしかすると壁崩壊を記念しての「第九」を、
カラヤンもまた振ったことだろう。
ウィーン・フィルハーモニーとではなく、やはりベルリン・フィルハーモニーを指揮しての「第九」だったはず。

フルトヴェングラーは壁が建設される前にこの世を去っている。
カラヤンは壁があった時代に、クラシック界の頂点に昇りつめた。

ベルリンの壁はカラヤンの演奏に、なんらかの影響を与えていたのだろうか……。
カラヤンの最晩年の演奏は、壁の崩壊を予感していたのだろうか……。

こんなことは私の勝手な妄想にすぎないけれど、
なにかどこかカラヤンの演奏の変化はベルリンの壁の存在とリンクしているところがあるような気もする。
でも、これは私のこじつけでしかないはず。

それでも、カラヤンがもし生きていたら、
そのときの「第九」は永く語り継がれるものになっていた──、と、
なぜかそう信じられる。

Date: 2月 21st, 2012
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その6)

断わるまでもなく私はオーディオ・マニアである。気ちがい沙汰で好い再生音を希求してきた人間である。大出力アンプが大型エンクロージュアを駆動したときの、たっぷり、余裕を有って重低音を鳴らしてくれる快感はこれはもう、我が家でそういう音を聴いた者にしかわかるまい。こたえられんものである。75ワット×2の真空管アンプで〝オートグラフ〟を鳴らしてきこえる第四楽章アレグロは、8ワットのテレフンケンが風速三〇メートルの台風なら五〇メートル級の大暴風雨だ。物量的にはそうだ。だがベートーヴェンが苦悩した嵐にはならない。物量的に単にffを論じるならフルトヴェングラーの名言を聴くがいい。「ベートーヴェンが交響曲に意図したところのフォルテッシモは、現在、大編成のオーケストラ全員が渾身の力で吹奏して、はるかに及ばぬものでしょう。」さすがにフルトヴェングラーは知っていたのである。
     *
上に引用した文章は五味先生の書かれたものだ。
「人間の死にざま」に収められている「ベートーヴェンと雷」の中に出てくる。
だから第四楽章アレグロとは、交響曲第六番のそれである。
75ワット×2の真空管アンプは、説明する必要はないだろうが、マッキントッシュのMC275のこと。
テレフンケンとは、テレフンケン製のS8のスピーカーシステム部のことで、
8ワットは、300Bシングルのカンノ・アンプのことだ。

この項の(その4)で引用した中野英男氏の文章の中に、
「シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである」と。
あのレコードとは、若林駿介氏の録音による、
岩城宏之氏指揮のベートーヴェンの交響曲第五番とシューベルトの未完成のカップリングのレコードのこと。
中野氏は、「日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴らしいレコード」と書かれている。
そのレコードを、シャルランは全く認めなかったのは、
結局のところ、引用した五味先生の文章が語っていることと根っこは同じではなかろうか。

どんなに素晴らしい音で鳴ろうが、交響曲第六番の四楽章をかけたとき、
それが「ベートーヴェンが苦悩した嵐」にならなければ、それはベートーヴェンの音楽ではない。

シャルランが言いたかったことは、そういうことではないのだろうか。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その2)

ほんとうに、この曲は傑作だ、と思えた瞬間だった。
アバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏によって、心からそう感じることができた。

それからはそれまで買って聴いていたディスクをひっぱり出して、ふたたび聴きはじめていた。
フルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーの演奏に圧倒された。
五味先生が「フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を知ったようにおもうのだ」
と書かれたことが実感できたのは、私にとってはアバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏があったからである。

アバド/ウィーンフィルハーモニーのディスクがもし登場していなかったら、
登場していたとしても、アバドのベートーヴェンなんて、という思い込みから手にとることさえしなかったら、
ベートーヴェンの交響曲第三番の素晴らしさに気づかずに20代を終えていたかもしれないと思うと、
なんといったらいいのか、或る意味、ぞっとする。

アバド/ウィーンフィルハーモニーの交響曲第三番は、これだけでは終っていない。
このディスクを聴いてしばらくしたったときの朝。
ステレオサウンドに通うために、このころは西荻窪に住んでいたので荻窪駅で下車して丸ノ内線に乗り換えていた。
電車が荻窪駅に停車する寸前、ドアの前に立っていた私の頭の中に、
ベートーヴェンの交響曲第三番の第一楽章が鳴り響いた。

こんな経験ははじめてだった。
いきなり、わっ、という感動におそわれた。もうすこしで涙がこぼれそうになるくらいに。
なぜか、その演奏がアバド/ウィーンフィルハーモニーのものだ、とわかった。

だからというわけでもないが、私はアバド/ウィーンフィルハーモニーの第三番には恩に近いものを感じている。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その1)

ベートーヴェンの交響曲第三番は、ベートーヴェン自身のそれ以前の交響曲、第一番と第二番だけでなく、
他の作曲家によるそれ以前の交響曲とも、なにか別ものの交響曲としての違いがあるのは、
頭では理解できていても、実を言うと、なかなか第三番に感激・感動というところまではいけなかった時期があった。

世評の高いフルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーによるレコードは、もちろん買って聴いた。
他にもカラヤン/ベルリンフィルハーモニー、トスカニーニ/NBC交響楽団、
ワルター/コロンビア交響楽団なども買って聴いた。

五味先生は「オーディオ巡礼」の所収の「ベートーヴェン《第九交響曲》」の冒頭に書かれている。
     *
ベートーヴェンでなければ夜も日も明けぬ時期が私にはあった。交響曲第三番〝英雄〟にもっとも感激した中学四年生時分で、〝英雄〟は、ベートーヴェン自身でも言っているが、〝第九〟が出るまでは、彼の最高のシンフォニーだったので、〝田園〟や〝第七〟、更には〝運命〟より作品としては素晴しいと中学生でおもっていたとは、わりあい、まっとうな鑑賞の仕方をしていたなと今はおもう。それでも、好きだったその〝英雄〟の第二楽章アダージォを、戦後、フルトヴェングラーのLHMV盤で聴くまでこの〝葬送行進曲〟が湛えている悲劇性に私は気づかなかった。フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を私は知ったようにおもうのだ。
     *
そのフルトヴェングラーの演奏でも、〝英雄〟の素晴らしさをうまく感じとれない、ということは、
ベートーヴェンの聴き手として、なにか決定的に足りないところが私にあるんだろうか、
このまま、この先ずっと交響曲第三番に感動することはないまま生きていくのだろうか、
と不安にちかいものを感じていたことが、20代前半にあった。

それでも交響曲第三番の新譜が出れば、買っていた。
1985年録音のアバド/ウィーンフィルハーモニーのCDも、そうやって購入した一枚だった。
クリムトのベートーヴェン・フリーズがジャケットに使われたディスクだ。
アバド/シカゴ交響楽団のマーラーは聴いていたけれど、正直、アバドのベートーヴェンにはさほど期待はなかった。

CDプレーヤーのトレイにディスクを置いて鳴らしはじめたときも、
ながら聴きに近いような聴き方をしていたように記憶している。
なのに鳴り始めたとほぼ同時に、
いきなり胸ぐらをつかまれて、ぐっとスピーカーに耳を近づけられたような感じがした。
目の前がいきなり拓(展)けた感じもした。
このとき、ベートーヴェンの交響曲第三番に目覚めた感じだった。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 挑発

挑発するディスク(余談・その4)

「ベートーヴェン(動的平衡)」の項で書いたように、
ベートーヴェンの音楽、それも交響曲を音の構築物、それも動的平衡の音の構築物であるからこそ、
それに気がついたからこそ、できればモノーラルではなくステレオの、
それも動的平衡の音の構築物であることをとらえている録音で聴きたい、と変ってきたわけだ。

この心境の変化のつよいきっかけとなったのは、
菅野先生のリスニングルームで聴いたケント・ナガノ/児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番である。

このケント・ナガノ/児玉麻里のディスクを買ってきたから、といって、
すぐに誰にでも、動的平衡による音の構築物としてのベートーヴェンの音楽を再現できるわけではないものの、
このディスクが、そういえる領域で鳴ってくれることは確かななことである。
そういうことを考え、感じさせる音で録音・再生できる時代に──それはたやすいことではないにしても──、
いまわれわれはいる。

ベートーヴェンの音楽が音の構築物であることは、以前から思っていた、感じていた。
けれど「音の構築物」というところでとまっていた。
それが福岡伸一氏の「動的平衡」ということばと菅野先生のところで聴けたピアノ協奏曲第1番があって、
動的平衡の音の構築物という認識にいたることができた、ともいえる。

そうなってしまうと、むしろマーラーの交響曲に求める以上に、優れた録音でベートーヴェンの交響曲を聴きたい、
という欲求が強くなってきている。
それも細部までしっかりととらえた録音ではものたりない、
あくまでも動的平衡の音の構築物としてのベートーヴェンの交響曲をとらえたものであってほしい。

今日、シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェンの第九番を聴いた。
来年早々にはティーレマン/ウィーンフィルハーモニーのベートーヴェンが聴ける。
楽しみである。
そして、これらのディスクを聴いて、フルトヴェングラーのベートーヴェンへ戻りいくことが、
さらなる深い楽しみである。

Date: 11月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その5)

シャルランのことば、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
あくまでも、この本「音楽 オーディオ 人々」の著者、中野氏が書かれたことばである。

つまりシャルランが直接言ったことそのままではない。
シャルランはフランス人だし、とうぜんそこではフランス語で話したであろうし、
中野氏はその現場にはおられず、若林氏から伝え聞かれたことを、中野氏のことばで日本語にされているわけだから、
この「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という表現を、
細部にとりあげて論じることは、逆にシャルランの意図を曲解してしまうことにもなると思う。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」

このことばが伝えたがっていることは、直感で受けとめるしかない、と思う。
そしてこのことばは、ききてにとっても、そのまま投げかけられることだとも思っている。

シャルランが、レコードを再生することをどう捉えていたのかは、はっきりとはわからない。
レコード演奏という観念は、シャルランにあったのかなかったのかは、わからない。
それは、まあどうでもいい。

オーディオを介して音楽を聴く行為を、レコード演奏として捉えている人にとっては、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は
重いことばとなってのしかかってくる。

レコード演奏という観念をもたずに、
オーディオにも関心をもたずにレコードから流れてくる音楽を鑑賞するという立場にとどまっている分には、
シャルランのことばは、関係がない、といえる。

けれど、より積極的に、能動的にレコードにおさめられている音楽を聴く行為を臨むのであれば、
シャルランの真意をはっきりと感じとる必要がある。

Date: 10月 15th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その4)

中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章がある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之──N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
この中野氏の文章を引用したのは、若林氏、それに若林氏の録音についてあれこれ書きたいからではない。
シャルランの「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という言葉に、
若林氏も中野氏も大きな衝撃を受けられている。

なぜシャルランは、若林氏(日本から来た若いミキサー)のことを気に入って、
若林氏が持参したベートーヴェンとシューベルトのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みながらも、
最後に、このレコードの存在価値をまったく認めていないということを、
あえて「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのか。

このレコードを私は聴いたことがない。
でも、おそらく、このレコードには、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されていなかった、のではないだろうか。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として録音することは、
適切な位置にマイクロフォンを設置して、適切なバランスでミキシングし、
録音器材にも良質なものを使い、つねに細部まで注意をはらえば、
それでベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されるわけではない。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として収録するには何が求められるのか。
シャルランが録音を担当したイヴ・ナットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集に答がある。
けれど、まだ私はそこから読み解けて(聴き解けて)いない。
それでも、イヴ・ナットのベートーヴェンの録音には、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として鳴っている。

そんなシャルランだからこそ、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と問えるのである。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その4)

グレン・グールドの、この言葉も、長いスパンでの動的平衡を語っている、と私は感じている。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その3)

ベートーヴェンの音楽を聴いて、そこになにを感じとるかは、誰が聴いても共通しているところがありながらも、
聴く人によって、さまざまに異って受けとめられることもある。
別に、これはベートーヴェンの音楽についていえることではなく、他の音楽についても同じなのだが、
それでもベートーヴェンは、私にとっては特別な作曲家であって、
ベートーヴェンの、それもオーケストラによる音楽(交響曲、協奏曲など)を聴いて、
そのことにまったく無反応、なにも感じられない人とは、ベートーヴェンについて語ろうとは思わない。

これがほかの作曲家だったら、話をしてみようと思うことはあっても、
ことベートーヴェンに関しては、譲れない領域がある。
そのひとつが、ベートーヴェンの音楽は、音による構築物、ということだ。

この構築物は、聴き手の目の前に現れる、そしてそれを離れたところから眺めている、というものではなく、
その中に聴き手がはいりこむことが可能な音の構築物であり、
しかも音楽の進行とともにその構築物も大きさを変え形も変っていく。

これをいい変えれば、福岡伸一氏が「動的平衡」について語られた
「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの」となる。

ベートーヴェンの音楽がつくり出す音による構築物は、まさにこの「動的平衡」がある。
静的平衡の構築物ではないからこそ、音による構築物なのだ。

ベートーヴェンの音楽は、いま鳴っている音が、次に鳴る音を生むようなところがある。
世の中には、残念ながら、ベートーヴェンの音楽が鳴らないオーディオが存在する。
そういう音は、意外にもどこかに破綻したところがあるわけではない。
注意深くバランスをとった音でも、それが静的平衡の領域にとどまったバランスであるかぎり、
そのオーディオでは、私はベートーヴェンを聴きたくない。

Date: 3月 21st, 2011
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その1)

待ち遠しい」というタイトルで、
アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集Vol.8についてふれた。
輸入盤が入荷したその日に購入した。

待ち遠しかったCDだけに、帰宅後、すぐに聴いた。
待っている間に、聴き手の勝手な期待はふくらんでいく。
そのふくらんだ期待を、シフの演奏はまったく裏切るところがない。
なんと優秀な演奏だろう、と思って聴いていた。

聴いていて、ほかのベートーヴェンのアルバムとすこし違う気がしてきた。
それがなにかははっきりとそのときはわからなかったが、後日、ある記事を読んでいたら、
このVol.8だけスタジオ録音だということだった。

アンドラーシュ・シフのECMでの録音は、たしかすべてライヴでの録音だ。
もちろんベートーヴェンの最後の3曲のピアノ・ソナタもコンサートで演奏しているはずだし、
それを録音をしているはず。
にもかかわらず、あえてスタジオ録音で入れ直している。

このことを知る前に、実は感じていたことが、もうひとつある。
それを確認したくて、シフのベートーヴェンのあとに、
内田光子の演奏を聴き、グールドのモノーラル盤も聴いた。

ほかのピアニストの演奏も聴くつもりでいたが、このふたりの演奏を聴いてはっきりと気づいた。
シフのベートーヴェンの、それも最後の3曲には、「ないもの」があるということだ。
しかも、その「ないもの」があることによって、ややこしい話だが、ほかの演奏にはないものがある、といえる。

私は、いまのところベートーヴェンの、30番、31番、32番には、
シフの演奏には「ないもの」を求めている。

だからシフによるこの3曲のピアノ・ソナタは、私にとっては優秀な演奏で満足するところはありながらも、
その「ないもの」を意識することになる。

五味先生が、ポリーニのベートーヴェンのソナタを聴かれて、激怒されたのとはまったく違う。

こういうことを書きながらも、シフの演奏は優秀だ。
だが私の勝手な憶測にしかすぎないが、シフも、その「ないもの」を気づいていたのかもしれない。
そうでなければ、なぜ、あの3曲だけ、誰もいないスタジオで録音しなおしたのか。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・補足)

今日(3月18日)の川崎先生のブログを読んだ。

そこに、
〝真に「命がけ」、平成の特攻隊という比喩は不謹慎ではありません〟
と、ある。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを聴いて、
送り出す側の音楽、送り出される側の音楽、と書いたのは、
そういうことである。

Date: 3月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その1)

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。

ベートーヴェンの後期の作品もそのとおりだと思う。

五味先生は戦場に行かれている。
高射砲の音によって耳を悪くされた。
そして焼け野原の日本に戻ってこられた。
レコードもオーディオ機器も焼失していた。

そういう体験は、私にはない。

だからどんなに五味先生の文章をくり返し読もうと、
そこに書こうとされたことを、どの程度理解、というよりも実感できているのかは、
なんとも心もとないところがある。

五味先生が聴かれていたようにはベートーヴェンを聴けない──、
これはどうすることもできない事実であるけれども、
そこになんとしても近づきたい、
近づけなくとも、同じ方向を視ていたい、と気持は決して消えてなくなるものではない。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ(30、31、32番)を聴いた。
2日前のことだ。イヴ・ナットの演奏で聴いた。

これらのピアノ・ソナタを、なまなかな状態で聴いてきたことはなかった、と自分で思っていた。
けれど、「いま」聴いていて、いままでまったく感じとれなかったことにふれることができた。

送り出す側のための音楽でもあり、送り出される側の音楽だと思えた。

五味先生の「日本のベートーヴェン」をお読みになった方、
ベートーヴェンの音楽をなまなか状態では決して聴かない人には、これ以上の、私の拙い説明は不要のはずだ。