Archive for category 書く

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(バッハ 無伴奏チェロ組曲)

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲)」で、誰の演奏だったのだろう……、について書いた。

そのことを書きながら、同時に考えていたのは、なぜ瀬川先生は書かれなかったのか、だ。
誰の演奏なのかについて書くだけの文字数的余裕は十分にある。
にも関わらず、誰の演奏なのかについての記述はないということは、
あえて書かれなかったのか……、とも考えていた。

だとしたら、それはなぜなのか、を考える。
そうやって考えていくのがおもしろい。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(ドキッとさせられたこと)

7月2日の川崎先生のブログには、ドキッとさせられた。
タイトルには、こうあった『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』。

ブログ本文を読み終えて真っ先にやったことは、
このブログ内の検索である。
「とは何か」で検索をした。

検索結果はすぐに表示されるけれど、
川崎先生のブログを読んでいるときから、どきどきしていた。
結果は、本文中では使っていたけれど、タイトルには使っていなかった。
とりあえずだけれど、ほっとした。

毎日ブログを書くということは、毎日タイトルをつけることである。
同じテーマで書いているものであれば、
同じタイトルで(その1)、(その2)……、とつけていけばいいが、
テーマを変えたりすれば、新たにタイトルをつけなければならない。
同じテーマであっても、多少脱線するときは括弧内を(その1)とかではなく、
何か考えることもある。

面倒に感じることがないわけではない。
ぴったりくるタイトルが考えつけばいいのだが、そうでないときもある。
安易につけようと思えば、そうできる。

ブログの日々のタイトルを気にしている人がどれだけいるのかははっきりしない。
書き手ほど読み手は気にしていないのかもしれない、と思う反面、
読み手の方がしっかりと読んでいるはず、とも思う。

気を抜くわけにはいかない。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(How High The Moon)

1992年に公開された映画「スニーカーズ」。
ロバート・レッドフォードが主演している。
公開当時、映画館で観たきり、いままでもう一度観ることはなかった。

でも、なぜか気になっていた。
数年ごとに、ふっと気になる映画。
でも、なぜ気になるのかが自分でもよくわかっていない映画だった。

それでもDVDを買ったり借りたりしてまで観よう、という気にはならなかった。
その程度の気にかかりではあるともいえる。

ほっといてもよかったのだが、改めて「スニーカーズ」を観た。
あるシーンで、ここかも、と思っていた。
これが気になっていたのかも……。

なぜなのかが自分でもわかっていないのだから、
これだったのか、という確信は持てないのだが、
そのシーンで登場した四脚の「How High The Moon」に気づいて、納得できた。

毎日書くということにも、同じところがある。
なんとなくき気になっているところ、
ややもするとどこかに置き忘れてしまいそうな、そんな些細と、その時は思えることを、
どこかで確認して、はっきりとさせるからだ。

Date: 6月 1st, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その2)

毎日書いている。
六千本以上書いている。
そのうちのかなりの数、これまでのことを振り返ってのことである。

だから、あいつは過去のことしか書かない、過去にとらわれ過ぎている、
そんなふうに感じている(読んでいる)方がいるのも知っている。

そう思いたい人はそう思ってくれていい。
つい先日の瀬川先生のことを書いた。
これまでにかなりの数、書いてきている。
まだまだこれから先も書いていくし、書きたいことはまだまだある。

瀬川先生のことだけではない。
そうやって書いていくのは、私にとって大切なことをきちんとしまっていく行為のような気がする。

誰にでも大切なことはある。
長く生きていれば、それだけ増えていくはずである。

けれど、その大切なことを、
もう使わないから、とか、古くなったから、
でも捨てるのはしのびない、と理由でダンボールに詰め込んでしまう。

そういうことをいつのまにしてはないないだろうか。
しまうにしても、きちんとしまっておく。
そのために書いている。
そう感じることがある。

Date: 12月 31st, 2015
Cate: 1年の終りに……, デザイン, 書く

2015年の最後に

これが6000本目になる。
予定では、早ければ11月中に、遅くても12月上旬には6000本目を書いているはずだったが、
ここまでずれ込んでしまった。

四年後の2020年の暮れには10000本目を書き終えて、
このブログにも大きな区切りが来る。

あと4000本。
どれだけのことを書いていけるだろうか……、
そんなことは実は考えていない。

考えているのは、デザインとデコレーションの違いと文章との関係について、である。
音について語る際に、気をつけなければならないのは、
ややもするとデコレーションな文章に傾くことだ。

これまでにデザインとデコレーションの違いについて、私なりに書いてきた。
これからも書いていく。

書きながら、デザインとデコレーションの違いについて考えている。
そして、それについて書く文集が、デコレーションなものになっていては……、と思う。

オーディオ雑誌を開けば、安っぽいデコレーションな文章がそこかしこにある。
デザインとデコレーションの違い・区別がわかっていない文章が溢れている。

デコレーションの技だけに長けた文章を、高く評価する人も少なくない。
そういう書く技だけを磨いてきた人を、私はどうしてもオーディオ評論家とは呼べない。

評論とは何か、論とは何か。
文章そのものがデザインともっともっと結びつかなくて、どうしてオーディオ評論といえるだろうか。

2016年から2020年までの四年間の4000本のうち、
何本、デザインといえるものを書けるだろうか。

Date: 8月 18th, 2015
Cate: 書く, 瀬川冬樹

毎日書くということ(夢の中で……)

年に二、三回、目が覚めてあせることがある。
ぱっと時計をみると、夜中の二時とか三時である。

いつもだったら、そのまま眠りにつくわけだが、
たまにあせってしまうのは、
「今日はブログを書いていなかったのに、なぜ寝てしまったのか……」と思ってしまうからだ。

うたたねのつもりが、なぜか布団のなかで寝ている。
その状況にまずあせる。

いますぐ起きて書かなきゃ……、とかなりあせりながらも、
あっ、書いていたんだ、とほっとする。

ブログを書かずに布団の中にはいることはないのに、
なぜこんな思いを何度も味わうのだろうか。

今年もすでに二回、そんなことがあった。
おそらく来年も、そんなふうに真夜中にひとりあせり(ほんとうに心臓に悪い)、
ほっとして眠りにつくことをくり返していると思う。
一万本までは書くと決めているから、
いまのペースでいけばあと四年と数ヵ月は続く。
ブログを書くのをやめないかぎり、あと何度、あせりながら目を覚ますのだろうか。

今日も未明に目が覚めた。
ただ今日のは、違っていた。
夢を見ていた。生々しい夢ではなく、現実そのものと思えるリアルさだった。

今朝の夢では、瀬川先生に会えた。
元気だったころの瀬川先生だった。こちらはいまの私である。

夢の中で、瀬川先生の音を聴ければよかったのだが、そうではなかった。
でも、嬉しかった。
それは、audio sharingを公開していること、
それにこのブログを書き続けていることを、瀬川先生に報告できたからだ。

頭がおかしいのではないか、と思われてもいい。
それが夢にすぎないことはわかっていても、それでも瀬川先生に報告できたことが、
とにかく嬉しかった。

Date: 5月 5th, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・最近考えていること)

《創刊以来、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」との想いはただの一度も変ったことがありません。そして、これからもこの想いはけっして変ることがありません。》

《「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」。これが創刊以来続く、ステレオサウンド誌の理念です。》

最初の文章は、ステレオサウンド編集長による2013年新年の挨拶からの引用、
二番目の文章は、ステレオサウンド・メディアガイドからの、
やはりステレオサウンド編集長の文章からの引用である。

このふたつを読み、2011年春号以降のステレオサウンドに目を通していると、
この点において、大きなズレのようなものを強く感じてしまう。

現編集長の染谷氏が、創刊以来変らぬと思っているものと、
私が変らないでほしいと思っているものとの、大きなズレというか、認識の違いとでもいおうか。
そういうものが浮び上ってくる。

私にとって、ずっと以前のステレオサウンドが、他のオーディオ雑誌とはっきりと違っていたのは、
オーディオの面白さ、オーディオの素晴らしさを伝えようとしていた点にある。
もちろん個々の製品の素晴らしさも伝えようとしていたけれど、
それ以上にオーディオの素晴らしさを、私はステレオサウンドから読みとっていた。

けれどいまのステレオサウンドには、そういうところがまったくといっていいほどなくなっている。
これから先、もっとなくなっていくような気が、染谷編集長の文章を読んでいると、強くなっていく。

結局のところ、染谷編集長は「オーディオの素晴らしさ」ではなく、
「オーディオ製品の素晴らしさ」を伝えていくことにご熱心のようだ。
オーディオ機器ではなく、オーディオ製品とある。
ここにも、染谷編集長のオーディオへの認識が顕れているような気さえする。

「オーディオの素晴らしさ」を伝えられないオーディオ雑誌しかないないこと。
これがオーディオに興味を持つ人がずっと以前よりも減ってきたことへつながっている。
そう思えてならない。

Date: 5月 2nd, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(続・最近考えていること)

そんなことを考えていたところに、ステレオサウンド・メディアガイド(PDF)を読んだ。
ここにも「オーディオの素晴らしさ」とある。

編集長の染谷氏の文章の冒頭に、「オーディオの素晴らしさ」とある。
《オーディオの素晴らしさを読者に向けて発信し続けます。》

ほんとうだろうか、と問い正しくなる。
いまのステレオサウンドの誌面から「オーディオの素晴らしさ」が伝わってくるだろうか。
まったくないとはいわないけれど、その多くはオーディオの素晴らしさというよりも、
そこに登場するオーディオ機器の素晴らしさではないのか。

オーディオ機器の素晴らしさは、オーディオの素晴らしさを語ることもある。
けれど、オーディオの素晴らしさを必ずしも語っているとはいえない。

「そんなこまかいこと、どうでもいいじゃないか、気にしすぎだ」といわれようと、
これはとても大事なことだと私は思っている。

Date: 5月 2nd, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(最近考えていること)

書くためには、問いかけが必要となってくる。
いまこんな問いかけをしている。

誰かに「オーディオっておもしろいですか」ときかれたとする。
「面白い」と即答する。
その答をきいて質問者は「オーディオの面白さってなんですか」と質問してくるであろう。

オーディオの面白さとはなんだろう……、とここで考え込む。

同じような質問で「オーディオって素晴らしいですか」もある。
もちろん「素晴らしい」と即答する。
すると、ここでも「どう素晴らしいのですか」とまたたずねられる。

ここでも考え込まざるを得ない。

答えようと思えば、言葉は出てくる。
でも、その言葉が、オーディオの面白さ、素晴らしさを的確に表現できるかということに自信がもてない。

毎日、ブログを書いていても、いざそんな質問を投げかけられたら考え込む。

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その1)

毎日書くことで、何かが目覚めていくような感覚がある。

これまで読んできたこと、みてきたこと、きいてきたこと、
それらを脳のどこかに記憶されているのだろうけど、思い出せないことは無数にある、ともいえる。

思い出せないことは、つまりは眠っているのかもしれない。
そういった眠っている部分が、書くことによって目覚めていく、
そんな感じがある(つねにとは限らないけれど)。

そして書いたことにコメントをいただくこともある。
ブログではあまりコメントをいただくことはないけれど、
facebookのaudio sharingでは、コメントがある。

コメントを読んで、また別の、眠っていた一部が目覚める。
昨夜もそうだった。
ふたつのコメントを読んで、そうだった、そうだったのか、と思いながら、
何かが目覚めているような感覚があった。

目覚めている感覚とは、つまりは「戻っていく感覚」でもある。

Date: 3月 5th, 2015
Cate: 書く

オーディオにおけるスケッチとは(その3)

ならば「耳」の想像力とは、いったいなんなのか。

以前、組合せはオーディオの想像力、と書いた。
これはいまもそう思っている。

オーディオの想像力が、「耳」の想像力でもあるのだろうか。

Date: 3月 4th, 2015
Cate: 書く

オーディオにおけるスケッチとは(その2)

川崎先生の3月4日のブログ『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』にある、
《それはスケッチがアナログであろうがデジタルであろうが、
「手」の想像力を訓練する一番の方法だと思っているからです。》と。

オーディオにおけるスケッチとは、「耳」の想像力を訓練する一番の方法ということになる。

Date: 2月 26th, 2015
Cate: 書く

オーディオにおけるスケッチとは(その1)

このブログを書こうと思い立ったのにはいくつかの理由・きっかけがある。
そのひとつは、川崎先生が毎日スケッチをされているからである。

ならば私はオーディオについての文章を毎日書いていこう、と思ったから、
audio identity (designing)を始めた。

スケッチ(sketch)には、写生(図)、下絵、素描、見取り図、略図といった意味であり、
素描をそこに見つけると、菅野先生の著書「音の素描」のことも考えたりする。

「音の素描」は、いいタイトルだと思う。
だからといって、ここでのタイトルに「音の素描」とつけるほど、ずうずうしくはない。
でも「オーディオの素描」とするのも、「音の素描」がある以上、ためらってしまう。

そうやって書き始めると、
オーディオのスケッチといえるものは、どういうものであるのか。
どういう行為を指すのだろうか、ということを考えるようになってきている。

毎日書いている。
けれど、まだオーディオにおけるスケッチがどういうものなのか、
まだ言葉にできるほどはっきりと見えてこない。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(反省と皮肉をこめて)

毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。

いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。

私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。

ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。

そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。

そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。

読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その3)

原稿用紙に手書きする。
それを見ながら、キーボードで入力する。
二度手間といえることを何度かやってみた。

面倒くさいと感じていた。
手書きがすでに面倒なことに感じた。

何かを書く、ということは、今の私には親指シフトキーボードを打つことになってしまっている。
試しにローマ字入力をしてみる。
手書よりも面倒だと感じる。

数えたわけではないが、すでに手書きで書いた量よりも、親指シフトキーボードで書いた量の方が多い。
間違いなく多い。

ステレオサウンドの原稿用紙にステッドラーの芯ホルダーで書いていた時期はそう長くはない。
まとまった量の文章で、この組合せで最後に書いたのは、
ステレオサウンド 72号の「幻のEMT管球式イコライザーアンプを現代につくる」での読者からの手紙である。

栗栖さんという930stユーザーからの手紙から、この企画は始まったことになっている。
この栗栖さんという読者の手紙は私が書いた。

肩に力がはいりすぎたような原稿を書いた。
自分でもそう感じていたから、ダメ出しをもらった。
それで書き直した。

それでOKをもらい、自分の手書きの原稿を、
導入されたばかりの富士通のOASYSで入力していった。