Archive for category 書く

Date: 11月 14th, 2017
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その7)

人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる過った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。
     *
瀬川先生がステレオサウンド 31号の特集で書かれている文章からの引用だ。
31号は1974年夏号。

31号は、ステレオサウンド時代に読んでいる。
その時(ハタチぐらい)には、ここに出てくる「人間のこころの機能」の重さに気づかなかった。

いまやっと気づく。
「人間のこころの機能」、
このことを無視したところに、オーディオの科学も存在しない。

こうやって毎日書いているから、気づけた「人間のこころの機能」である。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(漢字のこと)

親指シフトキーボードでのかな入力で、ほとんどの文を書いている。
当然、漢字に変換するかどうかを判断しながら、
また迷いながら選択していく。
時に辞書で漢字そのものの成り立ちを調べることもある。

そうやって書いている。
感じるのは、漢字は電子部品でいえば、ひとつのモジュールである。
OPアンプともいえよう。

そこにかな、カタカナ、アルファベットなどが加わる。
さながら、これらは抵抗、コンデンサー、コイルなどの電子部品のようにも感じることもある。

時に、ある種の回路図を考えているのか、と錯覚しそうになる、と書いてしまうと、
ややおおげさかとも思うが、それでもどこかそういう要素があるようになってきつつある。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(モチベーションの維持)

三人くらいだったか、きかれたことがある。
どうやってモチベーションを保っているのか──、と。

毎日書くためのモチベーション。
このことをきいてきた人は、
毎日書くためにはモチベーションが必要と思っているのであろう。

書き始めのころはモチベーションも保てるだろうが、
二、三年と毎日書いていけばモチベーションの維持は難しい。
そう考えるのは当り前と思う。

個人サイト、ブログなどでオーディオのことを書き始めた人は、どのくらいいるのだろうか。
かなりの数のはずだ。

私が目にしたのは、おそらくその一割くらいかもしれない。
書き始めたころは毎日、もしくはかなり頻繁に更新していた人であっても、
三年ほど経つと更新頻度ががくっと落ちる、というのを目にしている。

もっと短い人だって少なくない。
頻繁にオーディオ機器を購入している人であれば、
書くためのネタに困ることはていが、
そうそうオーディオ機器をポンポンと買える(替える)わけでもてい。

中には、頻繁に更新するためにオーディオ機器を購入しているのか、と思える人がいる。
その人を滑稽とはいわない。
私にはマネできないことだから。

毎日、こうやって書いている。
何も特別なこととは思っていない。
だから書くためのモチベーションは必要ない、といえるし、
書き続けるためにはモチベーションから切り離す必要があるとも考える。

日々の営みとして、書いている。
そこまでもっていくのにもモチベーションは要らない。

Date: 8月 19th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(続・引用することの意味)

音の聴き方には、微分的な聴き方と積分的な聴き方とがあり、
女性はどちらかというと積分的であり、男性、それもオーディオマニアは微分的である──、
けっこう以前からまことしやかにいわれている。

完全同意はしないものの、確かにそういう傾向はあるな、とは感じている。
オーディオマニア全員が微分的な聴き方をしていて、
積分的な聴き方をしていない、とはいわないが、
微分的な聴き方に終始している人が、いるのははっきりとした事実といえよう。

微分的な聴き方と積分的な聴き方。
どちらも求められるわけだが、
美を求めていくのであれば、積分的な聴き方は絶対に求められる。

前回書いたことと、結局は同じことを書いているだけで、表現を変えただけともいえる。
積分的な聴き方の判断を形づくっているものを、こうやって確認している。

くり返し読むだけではなく、こうやって引用し書いていくことで確認している。
インターネットで公開するしないは別として、
書いていくことで、その人にとっての発見が必ずあるはずだ。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(引用することの意味)

私が、ここで引用する文章のほとんどは、昔の文章ばかりといっていい。
最近のオーディオ雑誌に載っている文章を引用することは、ほとんどない。

昔の文章、それもかなり以前の文章を引用することもある。
今日も40年前の、伊藤先生の文章を引用していた。

このブログを読まれている人で、20代、10代の人は少数だろう。
30代の人だって、どのくらいいるのだろうか。

この世代の人たちにとっては、生れる前に書かれた文章ということになる。
どれだけの人が、古い文章に興味をもつのかはわからない。

またか、と思う人もいるのはわかっている。
あいつは、古いことにしか興味がないのか、と思われていることだろう。
それはそれでいい。
人によって受け取り方は違うのだから。

毎日書いていて、最近になって感じているのは、
私にとって、毎日書くという行為は、ひとつの確認作業である、と。
特に、私が影響を強く受けた人の文章を引用するときは、そうである。

私自身の音の判断を形づくっているのは何なのか、
それを確認していることは確かだ。

その確認作業に、古いも新しいもない、と考えている。

音は好き嫌いなのだから、感性だよ、と自信たっぷりにいえる人は、
そういう聴き方をしていればいい。
私はそれがイヤなだけだ。

聴くために、判断のために、こうやって書いている。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(7000本をこえて感じていること)

昨年のうちに7000本目を書いた。
10000本まで書くことを、目標としている。
10000本書いたら、少しは達成感を得られるのだろうか。

ちょうど半分の5000本目は2014年のうちに書いている。
けれど半分まで来た、という実感はなかった。
2015年に6000本目を書いた時も同じだった。

2016年12月に7000本目を書いて、やっと半分まで来た、と感じられた。
数字的には2/3をこえている。
けれど残り1/3を切って、ようやく、あと半分、という感じなのだ。

残り3000本弱で書く内容を、
これまで書いてきた7000本と同じにすること。
つまりそれだけ凝縮した内容にすること。
そのことをどこかで意識しているから、ようやく半分という感じなのだろう。

そうでなければ10000本目に達成感はないのかもしれない。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: 1年の終りに……, デザイン, 書く

2016年の最後に

2015年の最後に書いたのは「2015年の最後に」だった。
「2015年の最後に」が6000本目だった。

ちょうど一年が経ち、「2016年の最後に」を書いている。
7004本目である。
7000本目はベートーヴェンの「第九」について書いたものである。

どうにか一年で1000本を書くことができた。
書いている過程で、「2015年の最後に」で書いたことを何度か思い出していた。

どれだけ書けただろうか、とふり返りたくなるが、
明日になれば7005本目を書く。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(キーボードで書くということ)

このブログは、インターネットに接続して書くわけだから、
キーボードで入力している。
私の場合、親指シフトキーボードだから、
JISキーボードでのカナ入力、ローマ字入力とは違うタイプミスがある。

読み返すことをせずに公開しているから、
後で気づいて、こっそりタイプミスや変換ミスを直している。
それでもすべてを見直しているわけではないから、
まだまだ残っているはずだ。

昨夜公開した「オプティマムレンジ考(その11)」では変換ミスがあった。
音量が音良になっていたのを、facebookでの指摘があった。

そのコメントには、指摘だけでなく、
音良量、音良幅(レンジ)、というコメントもあった。

音量が音良になった変換ミスは偶然なのだが、
音良は、確かにオプティマムレンジにつながっていくところがあるのを、
コメントを読んで感じていた。

手書きでは起らない変換ミスには、
時々ではあるが、どきっとして、考えさせられることがある。

先日も変換ミスをしたわけではないが、
音場(おんじょうと読むかおんばと読むかについては以前書いている)について、
おんじょうの音場は、音の乗算、つまり音乗といえるかもしれない、と思っていた。

Date: 12月 19th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その2)

三年前に「毎日書くということ(たがやす)」を書いた。

三年の間に、どれだけたがやしてきただろうか。
audio sharing例会で音を鳴らしてきたことは、たがやす行為といえるのだろうか。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

三年前に書いたことの一部を、くり返し書いているのは、
わかる、わかっているつもりの違いは、
その人が持っている情報・知識の量ではなく、
たがやしているか、たがやしていないか、と思うからだ。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その6)

一ヵ月ほど前、ラジオから山下達郎の「アトムの子」が流れた。
CDは持っていない。
ラジオから、偶然流れてくるのを何度か聴いている。

聴くたびに、思うことがある。
「アトムの子」という曲そのもののことではない。

ここでのアトムとはいうまでもなく、手塚治虫によるキャラクターであるアトムである。
だからこそおもうことがある。

「アトムの子」よりも「ブラック・ジャックの子」といえるだろうか、と。

「ブラック・ジャック」は連載開始の1973年から読んできた。
まだ小学生だった。
ブラック・ジャックに憧れて医者になろうとは思わなかったけれど、
ブラック・ジャックの生き方に、どこか憧れていた。

アトムのように生きていきたいと思う人もいれば、
私のようにブラック・ジャックのように……、とおもう人もいるだろう。

2008年9月から、このブログを書き始めて、数回「アトムの子」を聴いている。
そのたびに「ブラック・ジャックの子」といえるだけのことを書いているだろうか、と思う。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(エリカ・ケートの言葉)

11月のaudio sharing例会で、エリカ・ケートのモーツァルト歌曲集をかけた。
常連のHさんからのメールが、さきほど届いた。
そこには、読売新聞の2009年8月19日の編集手帳からの引用があった。
     *
ドイツのソプラノ歌手エリカ・ケートさんは言語の響きや匂いに敏感であったらしい。歓談の折に語った比較論を「劇団四季」の浅利慶太さんが自著に書き留めている。◆イタリア語を「歌に向く言葉」、フランス語を「愛を語る言葉」、ドイツ語を「詩を作る言葉」と評した。日本語は──浅利さんの問いに彼女は答えたという。「人を敬う言葉です」
     *
浅利慶太氏の「時の光の中で」(文藝春秋)に載っている、とのこと。

私はイタリア語もドイツ語もフランス語もダメである。
英語も苦手である。
日本語だけである。

日本語が「人を敬う言葉」なのだとしたら、
私がここで書いていることは、そこからそう遠くに外れてはいない、と思った。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(そろそろ考えなければならないこと)

友人たちから「よく毎日書いているね」と言われると、
「三日書かなくなったら孤独死したんだ、と思っていいよ」と答えている。

先月も友人たちとそんな話をしていた。
いまのところ健康に不安はないが、
これから先のことはわからない。
病気にならなくても何かの事故にまきこまれることだってある。

この間も、そんな話が出た。
私がぽっくり逝っても、audio sharingが続いていくようにしておいてほしい、といわれた。

いつそうなってもいいように、
audio sharingを引き継いでくれる人を探しておかなければ──、と考えている。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その4)

オーディオ、音について書かれる文章は、
瀬川先生の時代よりもいまの方が多い、と感じている。

オーディオ雑誌の数は昔の方が多かった。
けれどいまはインターネットがあるからだ。

量は増えているが、
その多くはパッと流し読みして得られる内容(情報)と、
ゆっくりじっくり読んで得られる内容(情報)とに差がなくなっている。

一度読んだだけで得られる内容(情報)と、
くり返し、それも時間を経てのくり返し読んで得られる内容(情報)とにも差がなくなっている──、
そんなふうに感じている。

そういうものをくり返し読むだろうか。
私は読まない。

残念なことに、いまの時代、そういうものだけが溢れ返っている。
だからよけいに「戻っていく感覚」を強く意識するようになっているのかもしれない。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その3)

私が書いているものには、瀬川先生、岩崎先生、五味先生の名前がかなり登場している。
これから先書いていくことにも登場していく。

そのためであろう、
私が瀬川先生、岩崎先生、五味先生を絶対視していると思われる人もいる。
絶対視はしていないが、そう思われてもそれでいい、と思っている。

私としては、以前書いていることのくり返しになるが、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》と
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このふたつの考えが根底にあってのことである。

そのためには検証していかなければならない、と思っている。
それが他人の目にどう映ろうと、ここでのことには関係のないことである。

これも何度も書いているが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。
もう40年経つ。
それでもいまだに新たに気づくことがある。
五味先生の書かれたものだけではない、
岩崎先生、瀬川先生の書かれたものからも、いまでも気づきがある。
いや、むしろいまだからこその気づきなのかもしれない。

それがあるから書いている。
それは、時として私にとっては発見なのである。