オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたいのか……・その3)
四年前の「続・モーツァルトの言葉(その3)」で、
ネクラ重厚、ネアカ重厚、ネクラ執拗、ネアカ執拗といったことを書いた。
ネアカ重厚、ネアカ執拗で、オーディオ(音)に取り組んでいるつもりだが、
ネクラ重厚ではなく、ネクラ軽薄もあるように、
別項の「時代の軽量化」を書き始めて、思うようになった。
このネクラ軽薄が、(その2)でふれた「深刻ぶっているね」にも関係しているような気がする。
四年前の「続・モーツァルトの言葉(その3)」で、
ネクラ重厚、ネアカ重厚、ネクラ執拗、ネアカ執拗といったことを書いた。
ネアカ重厚、ネアカ執拗で、オーディオ(音)に取り組んでいるつもりだが、
ネクラ重厚ではなく、ネクラ軽薄もあるように、
別項の「時代の軽量化」を書き始めて、思うようになった。
このネクラ軽薄が、(その2)でふれた「深刻ぶっているね」にも関係しているような気がする。
私はそれほど多くのオーディオマニアを知っている(会っている)わけではない。
私より、ずっと多くのオーディオマニアを知っている人は、多い、と思う。
そんな経験のなかでの話だが、
オーディオマニアのなかには、深刻ぶっている人がいる。
「深刻ぶっているね」と、本人に向って言うわけではないが、
そういうオーディオマニアといっしょにいると、
真剣と深刻の違いについて考えたくなる。
私が勝手に「深刻ぶっているね」と感じているだけで、
本人にしてみれば、真剣にやっているんだろうな、とは頭では理解できる。
それでも、やっぱり「深刻ぶっているね」と感じてしまうことがある。
その人が不真面目にオーディオに取り組んでいるから、
「深刻ぶっているね」と感じるわけではない。
真剣と深刻を取り違えている──、
そう感じるのだ。
その人は、真剣と深刻を取り違えるのは、何かが欠けているからなのか。
若いころは、余裕がない人が深刻ぶるのかな、と思ったことがある。
そうかもしれない。
そうだとすると何故余裕がないのか(持てないのか)。
戯れること、戯れ心が欠けているから、のような気がする。
1996年のステレオサウンド別冊に「MY HANDICRAFT」がある。
副題として「マイ・サウンドをつくろう」とある。
オーディオにおける自作の楽しみは、マイ・サウンドをつくれること──、
とは思っていない。
瀬川先生がステレオサウンド 17号(1970年)に書かれている。
*
大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
(「コンポーネントステレオの楽しみ」より)
*
スピーカーを自作した、アンプを自作した、
それでマイ・サウンドがつくれるわけではないし、
既製品を組み合わせたからといって、
マイ・サウンドがつくれないわけではない。
「MY HANDICRAFT」に、わざわざ「マイ・サウンドをつくろう」とつけた人は、
どういう意図があったのだろうか。
本気で、自作しなければ……、と思っている人なのか、
瀬川先生の文章を読んでいなかった、
もしくは読んでいたしとても……ことだけは確かだろう。
3月7日のaudio wednesdayでも、終り近くに松田聖子の「ボン・ボヤージュ」を、
常連のKさんがかけた。
audio wednesdayで、これまで何度聴いたか。
少なくとも、私にとっては、これまでの中で、いちばんうまく鳴ってくれた、と感じた。
松田聖子が口先だけで歌っている印象ではなく、
歌っている松田聖子の表情が伝わってくるような感じでもあったし、
なによりも松田聖子の肉体が感じられるようになった。
それだけに松田聖子の歌の上手さが伝わってきた、とも感じていた。
でもKさんは、この鳴り方は、あまり評価しないだろうな、と思いつつも、
「どうでした?」ときいてみた。
反応は、予想した通りだった。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」の(その8)、(その9)で書いているが、
Kさんと私の聴き方は違う。
これまでに何度も「ボン・ボヤージュ」を聴いては、その反応をきいているわけだから、
今回の音に関しても、そうだった。
これでいい、と思う。
私もいまより20以上若かったら、
こんなふうに聴きましょうよ、と力説したことだろう。
でも、いまはそんなことをしようとは思わない。
聴き方が違うのだから、オーディオの楽しみ方も違う──、
そう思うし、はたまた逆なのか、
オーディオの楽しみ方が違うから、聴き方も違うのか。
どちらが先ということはないのかもしれない。
それでも同じ場所、同じ時間にいて、毎月第一水曜日に楽しんでいるということは、
それだけの深さと広さが、オーディオの楽しみ方にあるといえる。
うまいなぁー、と感嘆する歌い方は、私の場合、たいてい溜めの巧い歌い方である。
こんなふうに歌えたらなぁー、と思いながら聴いていて、
ちょっとマネしてみても、とうてい及ばないことを思い知らされる。
けれど、溜めの巧い歌い方であっても、
スピーカーによって、そのへんはずいぶんと違って聴こえてくるものだ。
この人、こんな歌い方だっけ……、と思うような鳴り方をするスピーカーがある。
このスピーカーもうまいなぁー、と思ってしまうほど、きちんと溜めを表現するスピーカーもある。
どちらのスピーカーに魅力を感じるかといえば、後者であり、
音楽の表情を豊かに鳴らしてくれるのも、後者である。
溜めのない(乏しい)音は、平板になる。
すました顔が、どんなに整っていてきれいであっても、
すました顔ばかりを眺めているわけではない。
音楽を聴くということは、そういうことではない。
表情があってこそ、その表情が豊かであり、
時には一変するほどの変りようを見せてくれる(聴かせてくれる)からこそ、
飽きることなく、同じレコード(録音)を何度もくり返し聴く。
その溜めが、出てくるようになったのは、やはり嬉しいし、
やっていて楽しいと思える瞬間である。
昨晩、電話をかけてきたKさんは、「楽しそうですね」といってくれた。
何人かの方は気づかれているが、自作スピーカーの持主は写真家の野上眞宏さんである。
野上さんも「オーディオって、楽しいね」といってくれた。
ほんとうに楽しいのだ。
今日も自作スピーカーの日だった。
ユニットは加えていない。2ウェイのままである。
次のステップとして何をやったかというと、デッドマスの装着である。
1980年代のラジオ技術を読んできた人ならば、すぐにわかるだろうし、
他のオーディオ雑誌でもデッドマスについての記事は載っていた、と記憶している。
今回は入手が簡単ということもあって、
70mm径と60mm径の真鍮の円盤を、東急ハンズで購入して、
エポキシ系接着剤で、ユニットの後に接着している。
今日、接着したわけではない。
エポキシ系接着剤は、室温20度で24時間後に強度が最高になるため、
接着してすぐに聴ける状態になるものでなはい。
真鍮の円盤の購入は先週火曜日で、すでに接着は終っている。
この状態から、もう一度セッティングを詰めていったのが、今日やったことである。
70mmの真鍮の円盤はトゥイーターである。
厚みは20mm。
極端に重いわけではないが、トゥイーターのユニットとしての重心は後に下がる。
トータルの重量もかなり増す。
デッドマスなしの状態では、それまでの取付台座でも特に不満は感じなかったが、
今回からはおそらく不満が出てくるであろうと予想し、前日にいくつかのモノを用意していた。
トゥイーターの設置の仕方を変えた。
それからこまかなことをいくつかやって、
最終的に前回の音よりも明らかに手応えのある感じとなった。
デッドマスの効果が、トゥイーターの設置の仕方を変えたことも相俟って、
よく出ていたのではないだろうか。
今回の変化はいくつもあるなかで、
私がいちばん印象的だったのは、溜めの表現がきちんと出てくるようになったことだ。
1981年に初めて秋葉原に行った。
まだそのころの秋葉原は、オーディオの街といえる雰囲気があった。
それ以前はラジオ、アマチュア無線の街だったのだろうと思うし、
オーディオの街から、AV(ホームシアター)の街へと変り、
そのあとはパソコンの街であった。
大ざっぱにいえば、十年単位くらいで変っていっているようにも感じられる。
いまの秋葉原といえば、もうパソコンの街でもなくなっている。
私はいまの秋葉原も嫌いではない、というより、けっこう好きである。
でも、すっかりオーディオの街であった時代から遠ざかったな……、と思っていた。
今年になって、秋葉原にけっこう行っている。
こんなに頻繁に秋葉原へ行くのは、ずいぶんなかった。
パーツを買うためであり、そのパーツは、スピーカーの自作のためである。
すべてが秋葉原で手に入るわけでもないし、
インターネット通販を使えば、秋葉原にわざわざ行く必要は、ほとんどなくなる。
でも秋葉原まで出掛け、直接店で買う。
時間の無駄、という人がいる。
いまならスマートフォンで大半のモノが注文でき、家に届く。
電車に乗って、歩いて店に行って、モノを探す。
そういう時間は無駄なのか。
無駄と思う人と思わない人がいて、
今回の自作スピーカーに関しても、段階を踏んでの作業である。
一度にすべてやってしまえば、
秋葉原に行くにしても、一度で済むし、無駄な時間をかなり省ける──、
そんなふうには私は考えない。
行くのが楽しいのだ。
しかもひとりで行っても楽しいし、
気の合うオーディオ仲間・友人と一緒にいくのもまた楽しい。
私はオーディオマニアだ。
そうやって耳の記憶の集積を考え、高めていく。
この項では、フルレンジユニットから始めて、
トゥイーターをつけていくところまで書いている。
偶然にもフォステクスのショールーム(エクスペリエンス・ストア)で、2月23日(金)、
「フルレンジの活用とフルレンジからの発展」というイベントが行われる。
私がいま書いているのとほぼ同じことの公開試聴である。
フルレンジユニットの良さを聴いてもらって、トゥイーターを、ということらしい。
余裕があればサブウーファーも、とある。
しかも持ち込みもOKとある。
今回のスピーカー作りで、あらためて実感したのは、
オーディオは裏切らないし、音は正直だ、ということ。
やることの順序を間違えずにきちんとやっていけば、
実に、出てくる音は素直に反応する。
今回使ったスピーカーユニットは、特に高価なモノではない。
普及クラス、入門者用ともいえる価格帯のモノであっても、
ツボをおさえたうえで、あれこれやっていくと、その反応の素直さに驚かれる人も出てくるだろう。
今回トゥイーターはインライン配置にしている。
おそらく左右にオフセットするよりも、インライン配置のほうがいい結果が得られるはずだ。
それでも、左右にオフセットした音も聴いてみてください、と伝えている。
音は変化するし、インライン配置よりもいい結果が得られるとは思えないが、
そのことも伝えたうえで、オフセットした音も聴いてほしいのは、
音の変化を理解していくうえで、必要だ、と私は考えているからだ。
トゥイーターの位置を変えることは、
フルレンジ(ウーファー)との音源の位置関係が変るだけではなく、
エンクロージュアの天板への加重も変化し、天板の振動モードもそれに応じて変化する。
天板の振動モードの変化は、エンクロージュアを構成する他の箇所の振動モードへの変化にもつながる。
何かを変化させる。
目に見えるのは、その変化だけだったりするが、
実際にはさまざまなところがわずかとはいえ変化している。
そのトータルとしての音を、われわれは聴いている。
音の変化を理解するとは、そういうことでもある。
わずか5mmだから、そのことで耳に到達する音圧がどれだけ下るかといえば、
ほとんど変化ない、といえるけれど、聴いた感じはそうとうに違ってくる。
これならいける、という感触の得られる音になってきた。
この状態で数曲聴いて、さらにもう5mm下げる。
最初の位置からすれば1cm後に下がっている。
さらにいい感じに鳴ってきた。
こうなってくると、特にアッテネーターの必要性を感じさせない。
SICAのフルレンジユニットの高域をカットすることも、いまのところやる必要性はない。
それから、もうひとつ、どんなことをやったのかは書かないが、
そのことによって、最初に鳴った音とは印象が大きく違ってきた。
まだまだやれることはいくつもあるが、しばらくはこの状態で聴いてもらい、
次のステップに進もう、ということになった。
AUDAXのトゥイーターは、うまくいった、といえるし、
今回やったことは、いわゆるスピーカーの教科書に書いてあるようなことではない。
でも、誰でも試せることばかりである。
マルチウェイのシステムとして、もっともミニマムな構成てあっても、
やれることはそうとうにある。
それらをどういう順序で試していくか、ということが重要でもある。
この順序を何も考えずに、手あたり次第やっていっても、
それらが無駄になるとはいわないが、
音の変化を理解するには、変化を生み出した状況をまず把握することが重要であり、
把握なしに理解することはできない──、
このことを強調しておきたい。
トゥイーターを含め、追加するのに必要なパーツ、
サブバッフル、台座、コンデンサー、ケーブルなどはすでに用意済み。
あとは結線とサブバッフルの加工である。
男ふたり、ひとりはサブバッフルの加工、私はハンダづけをやる。
特に難しい作業はない。
完成して、SICAの取り付けてあるエンクロージュアの上に置く。
ある程度の目安をつけて、トゥイーターは少し後方にセット。
ネットワークはSICAのフルレンジの上のほうはカットせずに、
AUDAXのトゥイーターだけ、下のほうをコンデンサーだけでカット。
つまり6dB/oct.スロープである。
出力音圧レベルはトゥイーターの方が高い。
通常ならばアッテネーターを挿入するけれど、今回はあえて使用せず。
音を出す。
明らかにトゥイーターが追加された印象の音が鳴ってきた。
悪くはないが、そのままではトゥイーターが、その存在を強調しすぎのように感じられる。
こんなとき、たいていはアッテネーターを挿入しましょう、となる。
確かにアッテネーターの挿入は楽なやり方である。
どんなにいい抵抗を使った固定パッドであっても、
アッテネーターを挿入することで、トゥイーターの音を、若干鈍らせる。
メーカー製のスピーカーシステムでも、
やはりアッテネーターの存在を嫌って、
ウーファーの能率にトゥイーターの能率を合せる、というやり方をとっているモノもある。
こんなことはユニットから開発製造できるメーカーだから可能なことであって、
自作のスピーカーではまず無理である。
そこで私がとったのは、トゥイーターの位置を5mm奥に引っ込めた。
ロジャースのPM510というスピーカーシステムの音は、
いまでもふと聴きたくなる。
聴いてしまうと、ふたたび欲しくなってしまうだろう、ともおもう。
このPM510のトゥイーターはオーダックスのソフトドーム型だった。
オーダックスはフランスのスピーカーユニットメーカーである。
一年ほど前だったか、オーダックス(AUDAX)ブランドのユニットが復活していることを知った。
ソフトドーム型のトゥイーターがある。
規格表には、KEFの104/2のトゥイーターと置き換えられる、とある。
写真を見ると、よさそうに思える。
そこには、オーダックスだから、というバイアスもかかっている。
SICAの10cmダブルコーンのフルレンジにトゥイーターに、
何を選ぶか、は選択肢はけっこう多い。
上を見ればキリがないが、SICAのユニットとの価格的バランスを考えて絞っていくと、
オーダックスのトゥイーターは、ちょうどいいポジションにいる。
もっともそう思うのは、PM510のトゥイーターのメーカーというバイアスがあるからだ。
トゥイーターのおすすめは? と訊かれて、オーダックスと答えていた。
ここまで読んで、なんと無責任なヤツと思う人もいるだろう。
オーダックスのトゥイーターといっても、PM510についていたモノと同じでもないし、
聴いているわけでもないトゥイーターをすすめているのだから。
とにかく、今日、オーダックスのトゥイーターをSICAのフルレンジの上につけてきた。
瀬川先生は
《レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか》
と書かれている。
SICAの10cm口径のダブルコーンのフルレンジがうまく鳴った音を聴いて、
50年前では考えられないほどのローノイズでの再生が、簡単にできるようになっても、
フルレンジ一発の音は、独自の美しさで音楽を鳴らす。
結局は、いまの技術ではレンジを広げるために、
スピーカーユニットの数を増やしていくことで、
雑音まで再生されるのではなく、何らかの雑音を発生させている──、
と考える方が理に適っている、と思う。
その雑音とは、一種類ではない。
電気的な雑音、機械構造的な雑音、音響的な雑音、
さらにいえば時間的な雑音、
それらいくつもの雑音が少しずつ発生してしまうから、
ひとつひとつの雑音はたいしたことはないのかもしれないが、
複雑に影響しあっているような気さえする。
ひとつひとつの雑音が音に与える影響は微々たるものであっても、
それらの雑音が相加・相乗作用によって、
音に与える影響の質、そしてその量が著しく変化するということかもしれない。
以前にも書いているが、有吉佐和子氏の「複合汚染」だ。
実際のところはどうなのかはわからない。
そう想像しているだけである。
けれど、少なくとも音楽の美しさに対しての影響は誰の耳にも明らかなはずだ。
ステレオサウンド 5号は1967年12月に発売されている。
ダイレクトドライヴのアナログプレーヤーは、まだ登場していなかったし、
このころのアナログプレーヤーは、ゴロやハムに悩まされるモノが、
けっこうあった、ときいている。
いまデジタルをプログラムソースとして聴けば、
そんなゴロやハムはまったく出ないし、スクラッチノイズもない。
50年後のいま、ボザークのB4000のスコーカー(B80)だけを、
フルレンジとして鳴らしたら、どういう印象を受けるか。
おそらく瀬川先生が50年前にうけられた印象と同じだろう。
《清々しく美しかった》はずだ。
(その20)で引用した文章に続いて、瀬川先生はこう書かれている。
*
しかしその一方に、音楽から全く離れたオーディオというものが存在することも認めないわけにはゆかない。それは機械をいじるという楽しみである。たとえば3ウェイ、4ウェイの大型スピーカーをマルチ・アンプでドライブするような再生装置は、まさにいじる楽しみの極地であろう。わたくし自身ここに溺れた時期があるだけに、こういう形のオーディオの楽しみかたを否定する気には少しもなれない。精巧なメカニズムを自在にコントロールする行為には、一種の麻薬的快感すら潜んでいる。
音色を、特性を、自由にコントロールできる装置は、たしかに楽しい。だが、そういう装置ほど、実は〈音楽〉をだんだんに遠ざける作用を持つのではないかと、わたくしは考えはじめた。これは、音質の良し悪しとは関係がない。たとえば、レコードを聞いているいま、トゥイーターのレベルをもう少し上げてみようとか、トーンコントロールをいじってみたいとか、いや、単にアンプのボリュームをさえ、調節しようという意識がほんの僅かでも働いたとき、音楽はもうわれわれの手をすり抜けて、どこか遠くへ逃げてしまう。装置をいじり再生音の変化を聴き分けようと意識したとき、身はすでに音楽を聴いてはいない。人間の耳とはそういうものだということに、やっとこのごろ気がつくようになった。しかもなお、わたくし自身はもっと良い音で音楽を聴いてみたいと装置をいじり、いじった結果を耳で確かめようとくりかえしている。五味康祐氏はこれをマニアの業だと述べていたが、言葉を換えればそれは、オーディオマニアとしての自分とレコードファンとしての自分との、自己分裂の戦いともいえるだろう。
*
4ウェイのマルチアンプドライヴは《いじる楽しみの極地》だ。
その《いじる楽しみの極地》の出発点が、フルレンジであるということの意味。
それを忘れなければ、《レコードファンとしての自分》を見失うことはないはずた。
フルレンジの音で確認できる──、
そう書いていて思い出したのは、ステレオサウンド 5号に載っている瀬川先生の文章だ。
「スピーカーシステムの選び方 まとめ方」の冒頭に書かれていることだ。
*
N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
*
ボザークのスピーカーの持主のN氏とは、おそらくトリオの会長であった中野英男氏であろう。
トリオは昔ボザークの輸入元でもあった。