Archive for category デザイン

Date: 9月 19th, 2016
Cate: デザイン

TDK MA-Rというデザイン(その9)

TDKのMA-Rには、亜鉛ダイキャストのハーフが使われている。
当時、MA-Rが最初に金属ダイキャストのハーフを採用したカセットテープだと思っていた。

けれどMA-Rの一年前に、テクニクスがダイキャストのハーフを採用している。
テクニクスの広告には材質にはふれていないが、
テープのハーフに磁性体を使うわけはないから、アルミか亜鉛のはずだ。

テクニクスが金属ダイキャストのハーフを採用したのは、三種のテストテープにおいてである。
RT048CFが周波数特性/角度補正用のクロームテープで、25,000円(桁は間違っていない)。
RT048Wがテープ速度/ワウ・フラッター試験用で、17,000円。
RT048NFが周波数特性/角度補正用のノーマルテープで、25,000円。

テストテープということもあって、プラスチック製の一般的なカセットケースではなく、
厚手のハードカバーの書籍を思わせるケースとなっている。

テクニクスのRT048シリーズはあくまでもテストテープであるから、
いわゆる生テープと呼ばれる録音可能なテープとは違うから、
生テープで最初に金属ダイキャストのハーフを採用したのはTDKのMA-Rであり、
RT048シリーズのことを知っている人もいまでは少ない、と思う。

RT048の実物は見たことがない。
カラー写真で見たきりだ。
ダイキャストのハーフの写真がなければ、
RT048の写真を見ただけで、ダイキャストのハーフであることに気づく人は少ないはずだ。

よく見れば、質感が通常とは違うことは気づいて、金属ダイキャストであるとは思わない。
RT048とMA-Rの違いを、写真でもいいからじっくりと比較してほしい。

MA-Rというデザインが、はっきりとしてくるからだ。

Date: 8月 15th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その6)

別項「2405の力量」でのことが、ここに関係してくる。

スピーカーの接続、アンプのセッティングが終り、どんな音が鳴ってくるか。
毎日触れている自分のシステムではなく、セッティングから始めるこういう音出しでは、
緊張とは違うが、少しどきどきに近いものがある。
あまりにもひどい音が鳴ってきたとしたら、残り時間はそうないわけで、
どうするのかを考え行動しなければならないことも関係してくる。

でもいまのところそんなことはない。
「新月に聴くマーラー」では、確認のために最初に鳴らしたのは、
レイ・ブラウンとデューク・エリントンの”This One’s for Blanton!”から、
一曲目の”Do Nothin’ Till You Hear From Me”である。
出だしのピアノが鳴ってきた。

私の中にある、このディスクのピアノのイメージは、
長島先生が鳴らされていた音である。
同じ音が出てきたとはいわないが、
長島先生が、このディスクで出そうとされていた方向と同じではあった、といえる。

つづいてバド・パウエルの”The Scene Changes: The Amazing Bud Powell (Vol. 5)”から、
“Cleopatra’s Dream”を、さらにボリュウムを上げて鳴らした。

扉はもちろん閉めていたけれど、隣の喫茶室にも音は漏れていた。
しばらくしたら店主の福地さんが扉を開けてきいてきた。
「これ、バド・パウエルの演奏とは違いますよね」

きかれた私は、ちょっと考え込んだ。
何をきかれているのかがつかめなかったからだ。

誰が聴いても、バド・パウエルの演奏だから、
ジャズの熱心な聴き手でない私が、仮に喫茶室にいたとしても、
漏れ聴こえてくる音で、バド・パウエルとわかる。

彼がそう訊いてきたのは、バド・パウエルのディスクとは思えない音で鳴ってきたから、だった。
誰か、いまのジャズの演奏者が、バド・パウエルそっくりに演奏して、
それを最新録音で捉えたものだと思った、という。

Date: 8月 13th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その5)

伝言ゲーム,つまりコピー技術としてはアナログよりもデジタルが圧倒的に有利である。
けれど、ここでのタイトルは
「コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ」としている。

だからデジタルとアナログの関係について考えていく必要がある。

デジタル(digital)とアナログ(analog)の関係性は、
デザイン(design)とアート(art)の関係性に近い、似ているのではないか、と、
この項を書き始めたころから思いはじめていた。

そう思うようになったきっかけはたいしたことではない。
どちらもDとAだからである。
偶然の一致ととらえることもできるし、そう考える人の方が多数であろう。

でもデジタル(digital)とアナログ(analog)もDとA、
デザイン(design)とアート(art)もDとA、
単なる偶然だといいきかせようとしても、無関係とは思えなかった。

8月13日の川崎先生のブログ『アッサンブラージュの進化を原点・コラージュから』を読んで、
単なる偶然とは、ますます思えなくなってきた。

Date: 8月 13th, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その4)

デジタルの伝言ゲームであれば、
途中にあるメディアの種類がなんであれ、そこで使う機器がなんであれ、
オリジナルのデータと最終的にコピーされるデータは一致する。
それぞれのメディア、ハードウェアに不具合がなければ、データの欠落は生じない。

ハードディスクにオリジナルのデータがあったとする。
それを別のハードディスクにコピーする。次はDVD-Rにコピーする。
その次はSSDに、さらには昔懐しい光磁気ディスクに、そしてまたハードディスク……。
そんなふうにさまざまなメディアを使ったとしても、処理にかかる時間に変化は生じても、
データそのものに欠落は生じない。

つまりコピーに使われる介在する機械の特有の特性・特徴によって、
データが欠落するということはない。

もちろん再生する段階になれば、
それぞれの機械、メディア特有の特性・特徴によって音は変ってくるけれど、
ここではあくまでもコピーしていくことだけに話を絞っている。

アナログの場合はどうだろうか。
100回の、コピーに使用する機械をすべて同じモノを用意したとする。
たとえばカセットテープだとしよう。
同じカセットテープ、カセットデッキを用意する。交互に使って100回のコピーをする。

その場合、テープ、デッキに固有する特性・特徴がそれだけ最終的なコピーに大きく影響する。
苦手とするところが同じになるわけだから、そうなってしまう。

ではカセットテープ(デッキ)、オープンリールテープ(デッキ)、アナログディスク(プレーヤー)、
これらを複数台用意してのコピーはどうだろうか。
アナログディスクに関してはカッターレーサー(ヘッド)も用意することになる。
しかもそれぞれに違う機種を用意する。

そうなるとそれぞれの機器に固有する特性・特徴は一致するわけではないから、
コピーの順序を変えたりすることによっても、最終的な結果に違いが生じてくる。

それぞれの録音・再生の方式に固有する特性・特徴が違うためである。
もっといえば一台のテープデッキの中でも、録音した時点でなんらかの変質が生じ、
それを再生する時点でもなんらかの変質がまた生じている。

デジタルの伝言ゲームでは、途中で再生というプロセスはない。
録音は記録というプロセスであり、
記録したデータを読みだしてそのまま次の機器(メディア)へ伝送していく。

アナログの伝言ゲームでは録音し再生するというプロセスを経る。

こう考えていくと、
ますます無機物(デジタル、客観)であり、有機物(アナログ、主観)と思えてくる。

Date: 1月 1st, 2016
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その3)

デジタルはどうだろうか。
パソコンの中にあるデータをコピーし続けたとする。

外付けのハードディスクにコピーしたとする。
そのハードディスクから別のハードディスクにコピーする。
これを何度もくり返す。

アナログと同じように百回行ったとする。
百回目のコピーとなったハードディスクに記録されているデータと、
パソコンの中のデータ(つまりオリジナル)とを比較して、
データとして違っているところがあるだろうか。

どんなに大きなデータであっても、どれだけコピーをくり返そうと、
データは同じである。そっくりにコピーされている。
だからコピーといえる。

アナログの場合はコピーしていけば、確実に何かが劣化していく。
そうなるとコピーとはいわずに、ダビングといったほうがいい。

デジタルであるなら、伝言ゲームであいだにどれだけ多くの人が介在していても、
最初の人が発した情報は、最後の人にまで正確に伝わっていく。

この伝言ゲームで考えたいのは、
アナログの場合、介在する機械の特有の特性・特徴によって、
インプットとアウトプットにおける変質の具合が影響を受けることである。

Date: 12月 31st, 2015
Cate: 1年の終りに……, デザイン, 書く

2015年の最後に

これが6000本目になる。
予定では、早ければ11月中に、遅くても12月上旬には6000本目を書いているはずだったが、
ここまでずれ込んでしまった。

四年後の2020年の暮れには10000本目を書き終えて、
このブログにも大きな区切りが来る。

あと4000本。
どれだけのことを書いていけるだろうか……、
そんなことは実は考えていない。

考えているのは、デザインとデコレーションの違いと文章との関係について、である。
音について語る際に、気をつけなければならないのは、
ややもするとデコレーションな文章に傾くことだ。

これまでにデザインとデコレーションの違いについて、私なりに書いてきた。
これからも書いていく。

書きながら、デザインとデコレーションの違いについて考えている。
そして、それについて書く文集が、デコレーションなものになっていては……、と思う。

オーディオ雑誌を開けば、安っぽいデコレーションな文章がそこかしこにある。
デザインとデコレーションの違い・区別がわかっていない文章が溢れている。

デコレーションの技だけに長けた文章を、高く評価する人も少なくない。
そういう書く技だけを磨いてきた人を、私はどうしてもオーディオ評論家とは呼べない。

評論とは何か、論とは何か。
文章そのものがデザインともっともっと結びつかなくて、どうしてオーディオ評論といえるだろうか。

2016年から2020年までの四年間の4000本のうち、
何本、デザインといえるものを書けるだろうか。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その2)

別項で、無機物(デジタル、客観)であり、有機物(アナログ、主観)である、と書いた。

何を書いているのだろうか、と思われたかもしれない。

無機物(デジタル)であり、有機物(アナログ)である、なら、わかるけれど、
なぜ、無機物のところに客観、有機物のところに主観が加わっているのか、と。

コピーについて考えてみる。
アナログの場合、テープを例にとってみる。
録音テープ、録画テープ、どちらでもいい。

オリジナルのテープがある。
それをダビングする(コピーする)。
コピーしたものをさらにコピーする。
これを何度もくり返す。

オリジナルのテープの音質、画質よりも、
一回目のコピーの音質、画質は誰の目(耳)にもはっきりと違いがわかる。

コピーを二回、三回……と何回も続けていった音質、画質を、
オリジナルと比較してみるとどうだろうか。

ダビングに使用する器材のクォリティ、テープのクォリティによって多少結果は違ってきても、
オリジナルからは大きな劣化であり、
仮に百回もコピーをくり返したものならば、何が映っているのかわからないくらいになっても不思議ではない。

これは多くの人を集めての伝言ゲームに似ている、というか、そっくりではないか、と思う。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その4)

ステレオサウンド 45号のヤマハ(日本楽器製造)の広告は、
44号での広告とはがらりと変ってしまった印象がある。

見た感じはどちらもヤマハの広告とわかるものに仕上っている。
けれど45号では見開き二ページで一機種を紹介している。

プリメインアンプのA1、チューナーのT1、パワーアンプのB3、アナログプレーヤーのYP-D10、
これら四機種が、いわば通常のスタイルで紹介されている。
もうここには、44号でのGlobal&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupの文字はない。

ヤマハは45号、46号……と、
Global&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupでの広告展開をやっていくのだと思っていた。
44号の広告には、
《この秋、ヤマハは、GL groupとEF groupとに分けて、あらゆるジャンルに20機種に近い新製品を登場させます。それらは──それぞれが魅力的な個性を鮮やかにして、大方の期待をはるかに裏切る高次元に登場することになるでしょう。そこに──ヤマハオーティオのエレクトロニクス・エンジニアリングの限りない情熱と鹿知れぬ未来性を垣間見ていただけることでしょう。》
とあったからだ。

広告の展開が期待したものではなくなったけれど、A1への期待が薄れていったわけではなかった。
ステレオサウンド 45号の新製品紹介の記事にA1が登場した。

45号では案譜の新製品としてマークレビンソンのML2、マッキントッシュのコントロールアンプC32、
テクニクスのSE-A1とSU-A2のペア、ビクターのEQ7070とM7070、
これらの他にも話題となりそうな製品が多かった。

そのためかA1は新製品紹介のページをめくってもなかなか登場してこない。
話題性の大きなモノほど先に登場する。
後になるのはさほど話題性のないモノということがあるのは、すでにわかっていた。

ヤマハのA1は最後の方でやっと出て来た。
井上先生が書かれていた。
     *
 A−1は、他のヤマハのプリメインアンプとは異なるフレッシュで伸びやかな明るい音が大変に印象的である。音のクォリティが高く、十分な表現力があり、セパレート型アンプの魅力をインテグレート化したといえるユニークな製品である。
     *
この部分を何度くり返し読んだことだろう。

Date: 12月 6th, 2015
Cate: デザイン

TDK MA-Rというデザイン(その8)

TDKのメタルテープMA-Rのデザインをじっくり見ていると、
オープンリールテープを反転したようにも思えてくる。

オープンリールテープは、アルミ製のリールに巻かれている。
リールには、テープの残量が視覚的に捉えられるようにスリットがいくつか開けられている。
カセットテープにも中央に小窓があって、テープの残量がある程度は視覚的につかめるようになっている。

けれどMA-Rはテープ全体が見えている。
小窓やスリットはない、透明なプラスチックがハーフになっているからだ。

テープを囲うように亜鉛ダイキャストのフレームはデザインされている。
ちょうどオープンリールのハーフを反転させたようなデザインの中で、
精巧なオープンリールテープのミニチュアがまわっているような印象がある。

ミニチュアなのに、
というよりも、ミニチュアだからこそオープンリールテープよりも精巧につくられているような気がする。
だからこそ、MA-Rを手にすると、どこかナグラSNNを思わせる。
少なくとも私は、MA-Rを当時手にしたときにそう感じていた。

SNNは外形寸法W14.7×H2.6×D10.0cm、重量0.574kg(テープ、電池込みの重量である)の、
手のひらにのる超小型のオープンリールデッキである。
1970年代後半SNNは69万円していた。

録音時間は9.5cm/secで27分、4.75cm/secで1時間48分である。
4.75cmといえば、カセットテープのテープ速度(4.8cm/secもしくは4.76cm/sec)と同じである。

当時SNNに憧れていたオーディオマニアは少なからずいたはずだ。
私もそのひとりだった。

69万円も出して、何を録音するのか。
そんなことを冷静に考えると、バカらしい買物ということになるのはわかっていても、
憧れとはそんな冷静に考えることとは無関係のところにあるものだ。

TDKのMA-Rを開発・デザインした東芝のスタッフの人の中に、
ナグラのSNNに憧れていた人がいたのではないのか──、そんなことも思ったりする。

Date: 11月 23rd, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その5)

CX10000、MX10000が登場するまで、
ヤマハのアンプのフロントパネルは、セパレートアンプが黒、プリメインアンプはシルバーだった。
(プリメインアンプでは、普及モデルで若者向けを謳っていたCA-V1は例外的にブラックパネルだった)

CI、BI、C2、B2をはじめ、その後のB3、C4、B4、C6、B6、C70、B70などすべて黒だった。
それが100周年記念モデルということもあってか、
CX10000、MX10000は黒ではなく、かといってもシルバーでもなく、
ガンメタリックのヘアーライン仕上げとなっている。

CX10000登場時は、単に100周年記念だからなのだろうな、というぐらいにしか捉えていなかった。
おそらくそうであろうとは思う。
でもそれだけでもないのでは、といまは思っている。

CIはアナログ時代の多機能コントロールアンプである。
CX10000はデジタル時代を迎えての多機能コントロールアンプだ。

CIにはフォノイコライザーが搭載されていた。
CX10000にはフォノイコライザーは搭載されていない。
HX10000という単体のフォノイコライザーアンプが、少し遅れて登場した。

HX10000は、フォノイコライザーアンプとしては、かなり大きい。
HX10000と同じものをCX10000に内蔵するのは、CX10000本体が大きくなりすぎるし、
それにデジタル信号との干渉を考えても、独立した形しかない。

CIとCX10000の間の12年、
コントロールアンプに求められるものがずいぶんと変化しようとしていることを、
CIとCX10000のデザインとともに、フロントパネルの色が表しているように見える。

同時に、CIはなぜ黒なのかという、別項のテーマに関係することも考えてしまう。

ステレオサウンドは81号の新製品紹介のページでCX100000をMX10000、CDX10000とともに取り上げている。
柳沢功力氏が担当されている。

その半年後、83号で長島先生がCX10000だけを、
「エキサイティング・コンポーネントを徹底的に掘り下げる」を取り上げられている。
この記事の写真の撮影は、私の指示で撮影してもらった。
写真の説明文も、私が書いた。

いまごろになって、CIとCX10000を並べての写真を撮影しておくべきだった、と後悔している。

Date: 11月 20th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その4)

ステレオサウンドのバックナンバーを読み返していると、
いまになって気づくことがある。

ヤマハのコントロールアンプCX10000のことを、いま思い出している。
CX10000はヤマハ創業100周年記念モデルとして、1986年に登場した。

CX10000の他に、パワーアンプのMX10000、CDプレーヤーのCDX10000、
スピーカーシステムのNSX10000があった。

100周年を記念しての10000番シリーズの中で、いま注目したいのはCX10000である。
CX10000は、デジタル信号処理を採り入れたコントロールアンプである。

CX10000の登場からいまでは約30年が経過している。
デジタル信号処理の進化はすごいものがあった。
だからCX10000のデジタル信号処理の性能、それと音について語ろうとは思っていない。

ここでのテーマである「コントロールアンプと短歌」ということで、
CX10000を見直すことができないか、と思っている。

CX10000はブロックダイアグラムをみれば、アナログ系は実にシンプルになっている。
そこにデジタル信号処理が加わり、当時としてはかなり複雑(細かな)なことが可能になっていた。

1986年当時はiPadもiPhoneは、それこそ影も形もなかった。
つまりデジタル信号処理に関する操作は、すべてコントロールアンプだけで完結している必要があった。

タブレットのようなタッチディスプレイもなかった。
CX10000にはふたつのディスプレイがついているが、
どちらも数字と文字だけの表示である。表示領域も狭いし、モノクロ表示である。

CX10000はレベルコントロールだけがロータリー型で、
あとはすべてプッシュボタンである。
ただ正確にいえばバランスコントロールもロータリー型であるが、
フロントパネルにはなく、右前脚の隣にひっそりとつけられている。

ボタンを多用したコントロールアンプとしては、
CX10000の前にアキュフェーズの C240があった。
C240はレベルコントロール以外のすべてボタンにはしていなかった。

CX10000の写真をみながら、いまごろ思っているのは、
CX10000のデザインに関する苦労である。

いまならばiPadにインターフェースをすべてもっていって、
コントロールアンプ本体は、いわゆるブラックボックス化していくだろうが、
1986年はそういうわけにはいかない。

少ない情報量のディスプレイといくつものボタンとその操作だけで、
CX10000の多機能を、使い手に直感的に理解してもらう必要がある。

Date: 11月 18th, 2015
Cate: デザイン

Beocord 9000というデッキ(その2)

B&Oの製品の型番は、Beoから始まる。
スピーカーシステムはBeoにvoxがついてBeovoxであり、
アナログプレーヤーはBeogram、レシーバーはBeomasterとなっている。
(カートリッジとヘッドフォンはそのかぎりではないけれど)

テープデッキはBeocordである。
いまでこそインターネットがこれほどまでに普及してさまざまな情報、
それも過去の情報も得られるようになったおかげで、
B&Oがテープデッキに積極的であったことを知ることができたが、
Beocord 9000登場当時、そんな情報はほとんどなかった。

ステレオサウンドの姉妹誌テープサウンドには、
もしかするとB&Oのテープデッキが取り上げられていたかもしれないが、
ステレオサウンドで取り上げられたことはなかったはずだ。

日本市場で市販されているオーディオ機器、アクセサリーなどを網羅したHI-FI STEREO GUIDEをみても、
B&Oのテープデッキは私の知る限りではBeocord 1900が載っていたくらいである。

日本におけるB&0のイメージといえば、
そのころはレシーバーのBeomasterとアナログプレーヤーのBeogramだった。
Beovoxは、そのころはまだフロアー型はなく小型のモノかブックシェルフ型のモノだった。

カセットデッキの型番をすぐにあげられる人は少なかったと思う。
ましてオープンリールデッキも手がけていたことは、私も知らなかった。
インターネットの普及のおかげで知ることができた。

そして驚いたのは、B&Oのカセットデッキのモデル数のおおさであった。
こんなに作っていたのか、と思ったほどである。
HI-FI STEREO GUIDEのバックナンバーをみても、Beocord 1700、2200が載っているくらい。
しかもB&Oのデッキが掲載されていないHI-FI STEREO GUIDEの号もある。

B&Oの輸入元はけっこうかわっている。
昔はゼネラル通商がやっていた。
それからアクステックシステム、イースト・アジアチック……と変っていた。

おそらく、その時々の輸入元の判断で輸入されなかったモデルがあったのだろう。
そういう状況でBeocord 9000があらわれた。
いきなり本格的なカセットデッキを、B&Oは出してきた、という印象に、だからなってしまった。

Date: 11月 16th, 2015
Cate: デザイン

Beocord 9000というデッキ(その1)

以前、カセットデッキをいま手に入れるとしたら、ナカミチの680ZXだと書いた。
理由はそのときも書いているように、半速の録音・再生ができるからである。

私はカセットデッキ、カセットテープにあまり夢中になれなかった。
同世代のオーディオマニアだと、学生時代にはカセットデッキに夢中になっていた人がけっこういる。

彼らがナカミチのデッキに、当時にどれだけ憧れていたか、という話を聞くと、
へんな話なのだが、うらやましく思うこともある。
そんなに夢中になれなかったから、そう思うのであって、
彼らが抱くナカミチのデッキへの憧れは、私にはかけらもない。

その理由は、デザインでいいと思ったことがないからだ。
680ZXも、いいデザインとは思っていない。
ナカミチらしいデザインとは、それでも思っている。
誰がみても、他社製のカセットデッキと間違うことはない。

1980年にフラッグシップモデルとして1000 IIが1000ZXLとなったときも、
その価格(550000円)、機能、性能は、カセットテープでここまでやるのか、と思っても、
そこに熱さを感じることは、残念ながら私はなかった。

1000ZXLよりも680ZXの方が、使って面白そう、楽しそうと思っていた。
このころマランツは680ZXとは反対に倍速の録音・再生可能なデッキを出した。

カセットデッキ(テープ)に音質追求を望む人は、
半速の680ZXへの興味よりも倍速のカセットデッキへの興味があることだとだろう。
私は反対だった。

そんな私でも、ヤマハのTC800GLは、写真を見て、いいな、と思ったことがある。
カタログや広告ではマリオ・ベリーニによるデザインであることを謳っていた。

マリオ・ベリーニがどんな人なのかは、当時はまったく知らなかった。
ただ広告に書いてあることを鵜呑みにしていただけだ。
でも、TC800GLと同じように傾斜したスタイルをもつナカミチの600 IIよりも、
TC800GLは洗練されていて、マリオ・ベリーニは有名な人なんだろうな、と思っていた。

そのTC800GLも、スライド式のレベルコントロールのところにもっと精度感があれば……、
金属製であったらなぁ……、と価格を無視したようなことも思っていた。

カセットデッキに対して、常にどこか醒めていたところがあった私でも、
ひとつだけ、おぉっ、と圧倒されたモデルがある。
Beocord 9000だ。1981年ごろに登場したB&Oのカセットデッキである。

Date: 11月 15th, 2015
Cate: デザイン

世代とオーディオ(ガウスのこと・その13)

デンオンのSC2000は、1986年に登場したスピーカーシステムである。
にもかかわらず、何も知らない人が、このスピーカーを見たら、もっと以前のスピーカーと思ってしまうほど、
垢抜けていないと思わせるところがある。

以前のスピーカーシステムは、フロントバッフルが側板、天板、底板よりも一段奥まっていたのが多かった。
サランネットを装着した状態で、側板などと面が揃うようにすることも関係していた。
いわゆる額縁スタイルのエンクロージュアである。

けれど1980年に入れば、音場の再現性にとってバッフルが奥まっていては不利ということで、
額縁スタイルのスピーカーシステムは登場しなくなっていた。

そこにSC2000は、そのスタイルで登場した。
これは搭載している同軸型ユニット3588のホーンとの兼ね合いからきている。
搭載ユニットを真横からみればすぐにわかるようにホーンが突出しているため、
フロントバッフルが側板などと面が揃うようにすると、
サランネットがホーンの突出分だけさらに厚みを増すようになってしまう。

SC2000のサランネットは側板や天板よりも少し前に出ている。
これがもっと前に出てしまうと、
サランネット装着時のエンクロージュアとサランネットのバランスが崩れてしまうだろう。
SC2000のデザインを担当した人は、それを避けたかったのであろう。

とはいえ、もっと知恵を絞ってほしかった、とも思ってしまう。
SC2000は、井上先生によると二年間の開発期間を経て製品化されている。
これだけの時間があったにも関わらず、なんとも安易な……、と感じてしまう。
それはサランネットだけではない。

バッフル板の色もそうだ。
なぜ、この色を選んだのだろうか、と、SC2000を最初見た時も、そしていまも思っている。
サランネットの布地の色の選択にも、そう思う。
もっといえばサランネットの下の方に銘板がるある。
その位置、大きさも、なんだろうなぁ……、と感じていた。

SC2000が力作なのはわかっている。
けれど、スピーカーシステムとして捉えた時に、ちぐはぐさを感じるし、
安易な部分も感じとれてしまう。

だからだと思うのだが、ステレオサウンド 81号で山中先生は、こういわれている。
《ずいぶん注意深く作ってはいるんだけど、形がね。昔、秋葉原で売っていたのと同じ感じですからね。》
菅野先生は
《この形ではね。よし、いい音で鳴らしてやろうという意欲が起きないですよ》と。

こじつけといわれようと、
この形のまずさが、音のプロポーションのよくないことへ関係しているはずだ、といいたくなる。

Date: 10月 31st, 2015
Cate: デザイン

「デザインするのか、されるのか」(その1)

デザインするのか、されるのか。

かなり前からひっかかっていた。
「デザインするのか、されるのか」、どこかで読んだことがあると思われる人もいよう。
ステレオサウンド 24号掲載の、黒田先生の連載「ぼくは聴餓鬼道に落ちたい」のタイトルが
「デザインするのか、されるのか」だった。

黒田先生の「デザインするのか、されるのか」の本文中には、デザインはどこにも出てこない。
この「デザインするのか、されるのか」は、
黒田先生がつけられたものなのか、それとも編集者の案なのか。
黒田先生がつけられたのだとしても、なぜ「デザインするのか、されるのか」とされたのか。

ステレオサウンド 24号は1972年に出ている。
私が読んだのはこのときではなく、「聴こえるものの彼方へ」におさめられているのを読んでいる。
1978年よりあとのことだ。

このころは川崎先生の書かれたものは読んでいなかった(出ていなかった)。

「デザインするのか、されるのか」から十数年後、川崎先生の文章とであう。
毎月MacPower誌での連載を読んでいくうちに、
この「デザインするのか、されるのか」を思い出していた。

同時に、グレン・グールドのことを考えていた。
グールドはピアノを使ったデザイナーなのではないか、
そう考えるようになってきた。

KK塾第一回の濱口秀司氏の講演をきいて、
グールドはピアノを使ったデザイナーなのだ、と確信した。