Archive for category きく

Date: 8月 13th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その1)

ゲオルギー・グルジェフがいっていた。

人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。

人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。

眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。

グルジェフは作曲家でもある。
ECMからグルジェフ作曲のCDが出ている。
思想家でもある。舞踏作家でも、神秘主義者ととらえる人もいる。

グルジェフには賛否両論がある。
信じるも信じないも、その人の自由である。

1990年に「ベルゼバブの孫への話」の日本語訳が出た。
ほんとうに分厚い本だった。安くはなかった。

仕事をしていない時期だったから買うのを見合わせた。
買っても読破するのに、そうとうてこずりそうだった。

「ベルゼバブの孫への話」も読んでいない私も、
グルジェフがいうところの、眠っている人形のような存在かもしれない。

だからといっていいのか、音楽を、その意味で聴くことの難しさは感じている。

睡眠から目覚めるために聴いているのか、
目覚めた状態で聴いているのか、
それとも眠った状態で機械的に聴いているだけなのか。

Date: 7月 11th, 2017
Cate: きく

試聴と視聴と……(その1)

試聴と視聴。
どちらも(しちょう)である。

オーディオ機器を聴くことを試聴する、という。
けれど最近、オーディオ機器にも視聴する、視聴した、というのが目立つようになってきた。

パソコン、スマートフォンの変換候補として、
試聴よりも視聴のほうが先に出てくるためであろう。

視聴とは、見ることときくこと、と辞書にはある。
オーディオ機器を聴く場合も、
ブラインドフォールドテストでなければ、
目の前にオーディオ機器があるわけで、たしかに見てきいている、といえる。
その意味では、視聴でもおかしくないといえばそうかもしれない、と思いつつも、
やはり違和感が、視聴にはあるし、私は試聴を使っている。

試聴とは、文字通り、ためしにきくこと、である。
試飲、試食と同じことといえるが、
ここでまた考えてしまう。

なにかそこには真剣味が足りない、もしくは欠けている感じがしないでもない。
試し聴きという試聴には、どこかちょい聴き的なニュアンスがないわけではないからだ。

試聴、試飲、試食以外に、試から始まるのに試合がある。
試合は仕合と書く場合もある。

ならば仕聴(しちょう)も……、と思うわけだが、
よくよく辞書をひいてみると、試合にしても仕合、どちらも当て字とある。
本来は為合(しあい)の意、とあった。

そうなると試聴は、為聴なのか。

Date: 2月 22nd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その6)

これも十年前だったか、菅野先生が
「自分が惚けてしまったら、どういう音を出すのか、それを聴いてみたい」といわれたことがあった。

認知症と「音は人なり」。
その時、オーディオマニアはどういう音を鳴らすのか。

もちろん認知症になってしまっているのだから、
冷静にその時の音を聴くことはできないわけだが、
それでも知的好奇心として、その音を聴いてみたいといわれる菅野先生、
いわれてみれば聴けるのであれば、私も自分が惚けてしまった音を聴いてみたい、と思った。

バイアスを取り除いて聴く、ということを考えていて、
このことを思い出した。
バイアスを完全に取り除くとは、惚けてしまった状態なのかもしれない。

バイアスを取り除いて聴く。
身も蓋もない話だが、無理なことなのかもしれない。

オーディオでいくつもの体験をしていく。
それらが経験値として、その人の中でバイアスを形成していく、ともいえる。

オーディオに関する知識を身につける。
これもまたバイアスといえよう。

オーディオマニア、人それぞれ使いこなしのノウハウ的なことを持っているだろう。
それもまたバイアスではないだろうか。

オーディオのシステムは複雑で多岐にわたる。
だからこそバイアスもさまざまな種類がたまっていくのではないか。

オーディオ歴が長いほど、バイアスは溜っていくのだとしたら、
惚けてしまわない限り、バイアスを完全に取り除くことは無理なのかもしれない。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その5)

バイアスを取り除いて聴く、ということは、
虚心坦懐に聴く、ということでもあろう。

ではどうすればバイアスを取り除けるのか。
「頭で聴くな、耳で聴け」はたやすいことではない。

わかりやすそうに思えても、そうでもない。
すぐにそういう聴き方ができる人もいるだろうが、
「頭で聴くな、耳で聴け」を間違った解釈で受けとめたとしか思えない人を知っている。

その結果の音も知っている(聴いている)。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その4)

井上先生が何度もいわれていたことを思い出している。
「頭で聴くな、耳で聴け」
そういわれていた。

そして頭で聴くとだまされてしまう、ともいわれていた。
また「頭で聴く人ほど音でだましやすい」とも。

耳は確かに空気の疎密波を受けとめる。
けれど音を「聴いて」いるのは頭である。

そんなことは井上先生はわかったうえで「頭で聴くな」といわれていた。

頭で聴く、ということについて、それ以上は語られなかったけれど、
いまならばバイアスを取り除け、ということだと理解できる。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その3)

タイミングのいい偶然なのか、
Forbes Japanのウェブサイトに、
サラダがもたらす「死の危険」? 健康的な食品が肥満をもたらす2つの理由
という記事が、今日公開されている。

空腹感についての記事である。
それほど長い記事ではないので、ぜひリンク先をお読みいただきたい。

記事の最後には、こう書いてある。
《「食べる」ことに関して最も重要な臓器は、脳だったのである。》

「聴く」ことに関して最も重要な臓器もまた、脳なのだろう……。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その2)

水とみかんだけの一日だったわけだから、空腹だったのは間違いないはずだ。
けれど空腹感はなかった。

いつもなら水とみかんだけで過していたら、強い空腹感が襲ってくる。
でも昨日はそんなことはないまま一日が過ぎていった。

胃が空であることを報せてくれるのが空腹感のはずだ。
なのに空腹感がないということは、どういうことなのだろうか、と考えていた。

空腹と空腹感は、どういう関係なのだろうか。
昨日は食事とはいえない内容だったけれど、ふだんは食べている。
一日くらい、水分とみかんだけでも不足はないということで、空腹感がなかったのだろうか。

だとしたらふだん感じている空腹感とは何なのか。
ほんとうに空腹だから感じていたのか。
もしかすると習慣が感じさせているということも考えられるか。

空腹でなくとも空腹感がある、ということが、
俗に言う別腹なのだろうか。
だとしたら空腹感を生み出しているのは胃ではなくて、別のところなのか。

この分野の専門家ならば、初歩的な疑問を書いているのかもしれない。
空腹と空腹感の違いを考えていると、
音に関しては、どういうことになるのだろうか。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その1)

2月1日はaudio wednesdayは、できれば延期したかった。
明らかに体調不良で、外にでかけたくないほどだった。

とはいえ当日に延期にするわけにもいかない。
それでも始まると、カラ元気が湧いてくるもので、なんとかなった。
でも電車に乗って帰宅するときには、かなり弱っていた。
日付が変るころ最寄りの駅に着き、改札を出て、あまりの寒さにびっくりしていた。

気温は特別に低いわけではなく、
こちらの体調不良のため、いつも以上に寒さを感じていた。
足早に帰り、体をまず暖めた。
眠りについたのは2月2日の1時前である。

起きたのは11時ごろであった。
運良く用事もなかったので、一歩も外に出ずに済んだ。

ここまで体調不良だと、目を閉じて横になるといくらでも眠れる。
14時くらいにはまた横になって眠っていた。
そのままずっと眠っていたかったけれど、
ブログを書くためだけに夕方起きた。

それから入浴を済ませ、21時くらいにはまた横になった。
2月3日の起床時間は6時だから、29時間のあいだ、起きていた時間は七時間程度だった。
ほとんど活動休止状態の一日だった。

この間、摂ったのは水分とみかんだけである。
不思議と空腹感はなかった。

もともと人よりも量は食べる方である。
十数年前までは、夕食にはご飯を三合焚いて食べていた。
いまでは減らして二合にしている。

ここまでの体調不良になっても食べようと思えば、ごくふつうに食べられる。
食べたいという気持もあったけれど、食べなくてもいいという気持もある。

結局食べないという選択をした。
こういうことは過去にも何度かある。
食べない方が、あきらかに恢復が早い。

今回、特に感じたのは、感覚に騙されているのではないか、ということだった。
生命維持に直接関係してくる食においても、騙されているというか、
感覚を正しく認識していない、とでもいおうか、
そんなことを考えていた。

ましてスピーカーから鳴ってくる音に対しての感覚。
感覚は騙そうとはしていないのかもしれないが、
何かが感覚を素直に受け取られないようにしている。
そんな気がしていた体調不良の一日だった。

Date: 1月 3rd, 2017
Cate: きく

音楽をきく(その2)

gleeというアメリカのドラマがある。
2009年にシーズン1が放送され、アメリカでは2015年にシーズン6が放送された。

昨日、シーズン6を見終った。
シーズン6がファイナルシーズンだった。

シーズン6の最終話が、つまりは最終回であり、
そのひとつ前の回(エピソード12)、「あの日あの時あの場所で」では、
いわゆる回想シーンで構成されている。

たんなる回想シーンだけの回ではない。
「あの日あの時あの場所で」の終盤、講堂でのシーンが回想される。
シーズン1での、あのシーンである。
そこで歌われるのはジャーニーの”Don’t Stop Believin'”だ。

gleeの始まりの回を見ている人ならば、
ここでこの歌なのかは、それ以外考えられない選曲である。

シーズン1での”Don’t Stop Believin'”。
歌うのは役者たちであり、ジャーニーではない。

ジャーニーの”Don’t Stop Believin'”は、
クラシックを主に聴いてきた私だって知っている。CDは持っていないけれどきいている。
でも、gleeで歌われる”Don’t Stop Believin'”の方に、私は感動した。

ジャーニーの”Don’t Stop Believin'”と比較して、
どちらがいいとかという話ではない。
gleeというドラマの中で”Don’t Stop Believin'”を聴いての話である。

だから当然”Don’t Stop Believin'”を、ひとつの曲としてだけ聴いていたとはいえない。
gleeというドラマの中での位置づけの”Don’t Stop Believin'”を聴いていた。

シーズン6の「あの日あの時あの場所で」でも、そのシーンも胸を打つ。
シーズン1を見ていた時よりも、強く打つのは、
シーズン1、2、3、4、5、6と100話以上を見てきているから、である。

Date: 12月 25th, 2016
Cate: きく

似ていると思う感覚の相違(その1)

誰かを見て、あの人に似ている、と思う感覚がある。

海外ドラマ好きの私は、
このドラマの、この人、あの人に似ている(そっくり)と感じることがまあある。

ここでの、この人とは、ドラマの中で演じられている役柄であり、
あの人とは、私の身近にいる人のことである。

つまり役者と身近にいる人が似ている、と感じるのではなく、
役柄と身近にいる人が似ていると感じることがある、ということだ。

でも、このことを周りの人に話しても同意を得られることは、ほとんどない。
先日の忘年会でも、そんな話をしたけれど同意はゼロだった。

いまはiPhoneがあり、私が似ていると思ったこの人(役柄)をすぐに見てもらうことができる。
確認作業はすぐにできる。

それでもほとんどの場合、同意は得られないから、考える。
私が似ていると感じた要素と、他の人が似ていると感じる要素は同じこともあるだろうが、
違っていることもある(こちらの方が多いようだ)。

私がここで「似ているでしょ」と周りの人に同意を求めているのは、
この人とあの人の印象についてであって、
単に顔形が似ている、といったことではない。

人の印象でも、似ているということに関しては、大きく違う。
まして、それが音の印象となるとどうだろうか。

何(誰)を似ていると思っているのか、という感覚は、
そして、その感覚の相違は曖昧のままに、音について語られている。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その4)

別項「ステレオサウンドについて」で54号のことを書いている。
54号のスピーカー試聴で、瀬川先生はリファレンススピーカーを用意されている。
リファレンスアンプではなく、スピーカーの試聴にリファレンススピーカーを、である。

編集部による「スピーカーシステム最新45機種の試聴テストはこうしておこなわれた」に詳しい。
一部を引用しておく。
     *
 テスト方法で他の二氏と大きく異なるのは、リファレンス・スピーカーを使用したことだ。スピーカーはアンプと違いおそろしく多様な音があるので、たいへん色の濃い音を聴いた直後に、全くキャラクターの異なるスピーカーの音を聴くと、いかにオーディオ機器の音を聴き馴れた耳といえども、音を聴く上でのものさしが狂う恐れがあるので、自分の耳のものさしを整える意味でリファレンス・スピーカーを聴いてから、新しいスピーカーを聴くようにしている。
     *
瀬川先生がリファレンススピーカーとして使われたのは、
自身でも常用されているKEFのModel 105 SeriesIIとJBLの4343の二機種である。

このテスト方法については、菅野先生が巻頭座談会で語られている。
     *
菅野 50機種になんなんとするスピーカーを聴きましたけれど相変らず、一つとして同じ音のするスピーカーがなかった。瀬川さんは、ちょうど利き酒をする時に前に飲んだ酒の味を消すために口の中をすすぐ水の役目にリファレンススピーカーを使ったということですが、お聞きしてたいへんいい方法だと思いました。私はそういう方法をとりませんでしたけれど、たしかに前に聴いたスピーカーが、たとえほんの短い時間であっても、下敷きになってしまい、次のスピーカーを聴くときになにがしかの影響を受けるという傾向がどうしても出てくると思います。そうした問題がありながらもなぜリファレンスを使わなかったかというと、わが家において試聴するなら、私自身の装置をリファレンスとして使えますが、この部屋で自分のリファレンスとなるようなわが家と同じ音を出す自信がなかった。ステレオサウンドに常設されているJBL♯434も、自分にとってはリファレンスになり得ない部分があるので、そういう方法をとらなかったのです。
     *
直前に聴いた音が、その後に聴く音に影響を与えることは、
「五味オーディオ教室」にも書いてあった。

瀬川先生がとられた方法も、試聴風景の写真を見る限りはベストとはいえない。
試聴スピーカーの横というか、部屋の隅にリファレンススピーカーか置いたままになっているからだ。
できればあるスピーカーを聴き終ったら、
そのスピーカーのかわりに試聴室にリファレンススピーカーを運び込み音を聴く。
そしてまたリファレンススピーカーを試聴室から運びだして、次に聴くスピーカーの試聴。
またリファレンススピーカーを運び入れ……。

とはいえこれだけのことを45機種のスピーカーを聴くたびに行っていてはたいへんである。
それに54号で実際に聴いた数は50機種近くあり、結果の悪かったモノは除外されている。

ならばリファレンススピーカーのかわりにリファレンスヘッドフォンはどうだろうか。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その3)

ここでのタイトルは「感覚の逸脱のブレーキ」である。
つまり感覚の逸脱をすべて否定しているわけではなく、
むしろ感覚の逸脱を怖れることはないし、
さらにいえば積極的に感覚の逸脱を行う(試みる)ことも必要だと考えている。

そのうえで感覚の逸脱の「ブレーキ」が必要となる──、という考え方である。
ブレーキがあるからこそ、信頼できるブレーキがあれば、
感覚の逸脱も逸脱しすぎるということはない。

逸脱しすぎてしまうことの怖さは、
逸脱していることを意識しなくなる(感じなくなる)ことではないだろうか。

録音・再生の約束事を無視して感覚の逸脱という暴走に、ブレーキをかけることをしない。
どんどんと逸脱していってしまう。
そういう実例を知っているからこそ、この項を書いている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その2)

信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。

音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。

アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。

電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。

感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。

別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。

本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。

Date: 5月 30th, 2016
Cate: きく

ひとりで聴くという行為(その1)

コンサート会場にいけば、まわりに大勢の人がいる。
人気のある演奏家によるコンサートであれば空席はないが、
知名度のあまりない演奏家の場合だと、空席の方が多いことだってある。

私も一度だけ、そういうコンサートに行ったことがある。
両隣の席、前、後の席にも誰もいなかった。
観客の入りは五割を切っていたのかもしれない。

あまり人のいないコンサートは、どこか奇妙な感じすらする。
満員になるコンサートの場合、そのホールに入った瞬間に、
先に入っている観客のざわめきに包まれる。
がらがらのコンサートではそれがなかった。

演奏が始まる前の、こういったバイアスのかかりかたが、
こちらの聴き方になんら影響を与えないとは考えていない。
バイアスの影響から人は完全に逃れることはできないはずだから、
仮にまったく同じ演奏が舞台上でなされたとしても、
満員のコンサートとがらがらのコンサートでは、感じ方も違ってくるはず。

ここまでは昔から思っていたことであり、
そう思っている人もけっこういるであろう。

先日、ある記事を読んだ。
タイトルは「映画のシーンによって、人は異なる化学物質を放出している:研究結果」とついていた。

これから研究は進んでいくのだろうが、
映画のシーン(内容)によって人は異る化学物質を放出している、ということは、
ひとりで音楽を聴く(映画を観る)のと、
大勢で音楽を聴く(映画を観る)のとでは、感じ方が違ってくることになる。

異なる化学物質が放出されているということは、
放出された化学物質を吸っているということでもある。

体の中に取り込んだ化学物質の影響が聴く・観るに影響を与えないわけがない。

Date: 5月 18th, 2016
Cate: きく

習慣となっていくこと、なっていかないこと

facebookでシェアされていた記事のタイトルを見て考えてしまった。
音楽にお金を払う習慣はなくなるのか?  LINEミュージックの評価がヤバい」というタイトルだった。

記事の内容は、タイトルから想像がつく範囲のことであったし、内容についてふれたいわけではない。
あくまでもタイトルであり、「習慣」にあったからだ。

この「習慣」がひっかかってきた。
そうか習慣なのか、と思ってしまった。

習慣とは、辞書にはつぎのようにある。
長い期間繰り返し行われていて、そうすることが決まりのようになっている事柄。また、繰り返し行うこと。

レコード(録音物)を買ってきて、家で音楽を聴く。
この行為を習慣と考えたことがなかっただけに、
オーディオマニア、音楽マニアでない人にとって、
レコード(録音物)にお金を払って聴く、ということは習慣なのか、と意外だった。

もしかすると私だけが習慣ととらえていなかっただけなのかもしれない。
でもオーディオマニアにとって、レコード(録音物)にお金を払うことは習慣といえるのだろうか。

いま動画配信を行う会社がいくつかある。
HuluやNetflixがある。
月々約1000円ほどの料金で映画やドラマなどが見放題なのだが、
このサービスにお金を払うことは、私にとって習慣といえる。

この記事のタイトルは、そこまで考えてのものではないのだろうが、
それでも考えさせられるものがある。