Archive for category 川崎和男

Date: 11月 16th, 2008
Cate: サイズ, 川崎和男

サイズ考(その28)

オーディオ誌が、小型スピーカーを取りあげるとき、スモールスピーカーと言ったり、
コンパクトスピーカーといったりするが、小型・イコール・スモールはいいとして、
小型(スモール)・イコール・コンパクトではないと言っておきたい。

コンパクト(compact)は、本来は数学用語のようだが、その定義について書こうとは思っていない。
それよりも、川崎先生が、AXIS誌で連載されている「デザインのことば」で、
コンパクトについて書かれているのを読んでほしい。
「デザインのことば」は、川崎先生のサイト「Kazuo KAWASAKI」で、いつでも読むことができる。
ありがたいことだ。
下部左端の information をクリックすると、「デザインのことば」にアクセスできる。
全文はアクセスして読んでいただくとして、一部引用しておく。
     ※
COM=共に、PACT=堅く締めるという原始的な意味がより明確になってくる。
つまり、より狭く閉塞された空間の中で、密集する要素や、
ぎっしりと詰め込んだ状態を表現する言葉になっていることが理解できる。
そこで、一般的には、体積的により小さく、
その空間に凝縮された中身が詰っていることになる。
     ※
つまり、見た目が小型だから、コンパクトではない。
現行スピーカーの中で、コンパクト・スピーカーは何かといえば、
B&OのBeoLab5であり、JBLのDD66000である。

コンパクトであることが、これからの現代スピーカーの条件だと、私は考えている。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その3)

その日の午後は、草月ホールにいた。

時間が来た。川崎先生がステージが登場され、
スクリーンには、カウントダウンの数字が映し出される。ここからして、カッコいい。

東芝時代の話から始まった。
ずっと心にあったこと」でも書いているが、SZ1000が映し出されたとき、
「この人だったのか」と思っていた。

話は続いていく。途中で、Mac特有のSadMacがスクリーンに出た。
Macを使っている人はすぐにわかると思うが、使用中に爆弾マークは出ても、SadMacが出ることはない。
SadMacが出るのは、起動中のトラブルにおいてのみだから、
すぐに川崎先生のジョークであるとわかった人は多かったはず。

話を聞いていて、「Design Talk」を読んで感じてたよりも、さらにすごい人だ、
でも「遠い、すごい遠い。この人に会える日が来るんだろうか……」と、そんなことを思っていた。

午前中に「プラトンのオルゴール」展のことがあったから、よけいにそうだったのかもしれない。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その2)

ドリームデザイナーと書いてあっても、川崎和男という人がどんな人なのかは、まったく知らなかった。
とにかく読んでいこう、この人の書くものは、すべて読んでいきたい、と思いながら、
毎月18日のMacPowerの発売日には、必ず書店に寄り買っていた。

読んでいくうちに、すこしずつわかってくる。
川崎先生についても、Macのこと、コンピューターのことについても。

連載1回目から読んでいたわけではない。
だから単行本になるのを待っていた。1994年に「デジタルなパサージュ」が出た。

そして、乃木坂にあるギャラリー間で、個展を開催されると、「Design Talk」に書いてあった。
しかも、草月ホールで、講演会も行なわれる。

ギャラリー間と草月ホールのあいだは歩いて移動できるので、
講演会のある日の午前中、「プラトンのオルゴール」展に行った。

ギャラリーのあるビルに着くと、ビルの大きさからしてそれほどスペースは広くないことがわかる。

エレベーターを降りて、ギャラリーの入口の前で、立ち止まってしまったことを、
いまでもはっきりと憶えている。
そのスペースに入るのに、覚悟が要るというのも、変な言い方に聞こえるだろうが、
そう思った。引き返そうかとも思っていた。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その1)

川崎和男の名前を知ったのは、1991年9月ごろだったと記憶している。

当時、MacのClassic IIを使いはじめたばかりの私は、Mac関係の雑誌をすべて買っていた。
MacPower、MacLife、MacJapan、MacWorldである(いまはどれもない)。

Macに関して何の知識もなかったので、手当たり次第、読んでいた。
そして出会ったのが、川崎先生の連載「Design Talk」だった。

正直、書いてあることの半分も理解できなかった。
それでも、「この人はすごい」と直感でわかった。

「Design Talk」というタイトルの下に、ドリームデザイナー/川崎和男、とあった。

他の人が使っていたら、陳腐に感じていただろう。
でも、本文を読み終わると、とてもカッコよく感じたのを思い出す。

Date: 11月 9th, 2008
Cate: 川崎和男, 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その2)

2002年夏、TEPCO銀座館プラスマイナスギャラリーで開催された
「ヒューマン・センター・デザインの視展(ユニバーサルデザインを超えて)」の会場で、
設置されていたモニターでは、デザインの「機能性、性能性、効能性」について、川崎先生が語られていた。

オーディオの「機能性、性能性、効能性」──。
オーディオマニアが音について語るのも、
オーディオ雑誌が、オーディオ機器の評価をするのも、
オーディオの「性能性」のところであろう。
音がどんなふうによいのか、どれだけよいのか、という性能性についてである。

80年代からオーディオは斜陽産業と言われてきた。
なぜそうなったのかは、いろんなことが絡みあってのことだろうが、
そのひとつの理由が、オーディオに関心のある人たち、プロもアマチュアも、
オーディオの性能性ばかりについて語ってきたためだと思う。

オーディオ好きな人に対しては、それで十分だろうが、
音楽が好きだけど、オーディオにはさほど、もしくはまったく関心のない人たちに対して、
オーディオの性能性ばかりを伝えても、大半のひとは振り向いてくれない、と思っていい。

いい音を聴くためだけに、少なくとも数十万円、できれば百万円以上、
さらに上には一千万円以上必要なんて、と思われてしまってもむべなる哉。

エジソンが蝋管によるアコースティック蓄音器を発明したのをオーディオの始点としても、
オーディオの機能性は発展は多岐にわたり、素晴らしいものだと思う。

蝋管が円盤になり、複製が容易になり、取り扱いも楽になったことも、機能性に関することである。
そして蓄音器がアコースティック式から電気式になり、音量の調整が可能になり、モノーラルからステレオになり、
低音、高音だけの増減だけのトーンコントロールから、
パラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーなども登場し、
デジタル技術が、さらなる機能性をもたらしている。

オーディオの機能性の魅力を把握してこそ、
個人個人のオーディオの世界は広がりを増すだろうし、
これまで、音楽は好きだけど、なぜかオーディオに関心をもってくれなかった人たちに、
オーディオの機能性を、正しく伝えること、説明することは重要なことである。

Date: 10月 13th, 2008
Cate: 川崎和男

Kazuo Kawasaki Ph.D.

いまかけているメガネも、その前のメガネも、もうひとつ前のメガネも、
1998年からずっとKazuo Kawasaki Ph.D.ブランドのメガネを愛用している。

川崎先生のデザインのメガネには、心地よい緊張感がある。

2001年に出たアンチテンションのフレームから取扱店が大幅に増え、電車に乗っていると、
ときおり川崎先生デザインのメガネをかけている人を見かける。

でもそれ以前は、東京でも、
取り扱っていたのは日本橋・三越本店の新館の二階にあるメガネサロンだけだった。

最初に買った川崎先生のメガネは、カタログを増永眼鏡から取り寄せてもらって注文したので、
おそらく東京で、このメガネをかけているのは私だけという密かな喜びもあった。
いまかけているメガネも、詳細は書けないが、そういう喜びがある。

川崎先生のメガネにアンチグラビティというモデルがある。
94年ごろに出ている。
パッド(鼻当て)のところに大きな特長がある。

これを見た時、オーディオに応用できるんじゃないか、と直感的に思った。
それから10年、スピーカー・スタンドに応用できることに気がつく。
さらにラックにも応用できる。

2001年には、アンチテンションのモデルが出ている。
これを見た時も、オーディオに使えるはず、と思った。
いまでも、ときどき考えるが、なかなか思い浮ばずにいる。

Date: 9月 10th, 2008
Cate: Mark Levinson, 川崎和男

ずっと心にあったこと

1970年代の後半にオーディオに興味をもち始めた私にとって、 
MLAS(Mark Levinson Audio Systems)を主宰していたマーク・レヴィンソンは、 
ミュージシャンであり、録音エンジニアでもあり、 
そしてひじょうにすぐれたアンプ・エンジニア──、 
憧れであり、スーパースターのような存在でもあり、 
マーク・レヴィンソンに追いつき、追い越せ、が、じつは目標だった。 

LNP2やJC2をこえるアンプを、自分の手でつくり上げる。 
もっと魅力的なアンプをつくりあげる。 
そのために必要なことはすべて自分でやらなければ、 マーク・レヴィンソンは越えられない。 

そう、中学生の私は思い込んでいた、それもかなり強く。

とにかくアンプを設計するためには電子回路の勉強、 
これもはじめたが、一朝一夕にマスターできるものじゃない。 
(中学生の私にも)いますぐカタチになるのは、パネル・フェイスだな、 
かっこいいパネルだったら、なんとかなるんじゃないかと思って、 
夜な夜なアンプのパネルのスケッチを何枚も書いていた時期がある。 

フリーハンドでスケッチ(というよりも落書きにちかい)を描いたり、 
定規とコンパス使って、2分の1サイズに縮小した図を描いたことも。 
横幅19インチのJC2を原寸で描くための紙がなかったもので、 2分の1サイズで描いていたわけだ。 
(とにかく薄型のかっこいいアンプにしたかった) 

「手本」を用意して、いろいろツマミの形や大きさ、数を変えたりしながら、 
中学生の頭で考えつくことは、とにかくやったつもりになっていた。 

1977〜78年、中学3年の1年間、飽きずにやっていた。 
授業中もノートに片隅に描いてた。
けれども……。 

そんなことをやっていたことは、すっかり忘れていた。 
当時はまじめにやっていたのに、きれいさっぱり忘れていた、このことを、 
ある時、ステージ上のスクリーンに映し出されている写真を見て思い出し、 驚いた。 

このときのことは、ここで、すこしふれている。 

1994年の草月ホールでの川崎先生の講演で、 
スクリーンに映し出されたSZ1000を見た時に、
中学時代の、そのことを思い出した。 

あのころの私が「手本」としたアンプのひとつが、そこに映っていたからだ。 
デザインの勉強なんて何もしたことがない中学生が、 
アンプのデザインをしようと思い立っても、なにか手本がないと無理、 
その手本を元にあれこれやれば、きっとかっこよくなるはず、と信じて、 
落書きの域を出ないスケッチを、それこそ何枚と書いていた。

当時、薄型のコントロールアンプ各社から出ていた。
ヤマハのC2、パイオニアのC21、ラックスのCL32などがあったなかで、 
選んだのはオーレックスのSZ1000、そしてもう一機種、同じくオーレックスのSY77。

SZ1000のパネルの横幅は、比較的小さめだったので、 
まずこれを1U・19インチ・サイズにしたらどうなるか。
ツマミの位置と大きさを広告の写真から計算して、
19インチのパネルサイズだと、どの位置になり、どのくらいの径になるのか。 
そんなことから初めて、ツマミの形を変えてみたり、位置をすこしずつずらしてみたり、 
思いつく限りいろんなことをやっても、手本を越えることができない。 

SY77に関しても、同じようなことをやっていた。 
SY77は、オプションのラックハンドルをつけると、 19インチ・サイズになる。
これを薄くすると、どんな感じになるのか、という具合に。 

1年間やっても、カッコよくならない。 
「なぜ? こんなにやっているのに……」と当時は思っていた。 

その答えが、十数年後の、1994年に判明。 
同時に、われながら、中学生にしてはモノを見る目があったな、と、すこしだけ自惚れるとともに、
敗北に似たものを感じたため、やめたことも思い出していた。 

あらためて言うまでもSZ1000もSY77も、川崎先生の手によるデザインだ。

Date: 9月 10th, 2008
Cate: 「かたち」, 川崎和男, 菅野沖彦

「かたち」

菅野先生がときおり引用される釈迦の言葉、
最近ではステレオサウンド167号の巻頭言で引用されている──
「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」。

デザイナーの川崎先生の言葉、 
「いのち、きもち、かたち」。 

このふたつに共通している「かたち」。
オーディオに限らずいろんなことを考える時に、 
この、ふたりの言葉は、私にとってベースになっているといえる。 
いままでは「いのち、きもち」が「心」で、 
それが「私」だと、なんとなく思ってきた……。

けれど「かたち」が加わって、はじめて「私」なんだということに、 4年ほど前に気がついた。 

川崎先生の「いのち、きもち、かたち」をはじめてきいたのが、 
2002年6月だから、2年半かかって気がついたことになる。 

正直に言うと、いままで、なぜ「心はかたちを求める」のかが、 よくわからなかったけど、 
「いのち、きもち、かたち」こそが「私」だとすると、 
「かたちを求める」のところが、自然と納得できる。

そして、よく口にしておきながら、 
これもなぜそうなのかが、よくわからなかった 
「音は人なり」という言葉も、すーっと納得できる。 

そして「音は『かたち』なり」とも言いたい。