Archive for category 「オーディオ」考

Date: 2月 5th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その7)

別項「快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)で、
その店は、オーディオ店ではなくトロフィー屋だと書いた。

オーディオがオーディオでなくなった実例だ、と私は思っている。

Date: 1月 30th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その2)

指先オーディオ。
ここでは、どちらかといえばネガティヴなな意味で使っている。
でも、指先オーディオのすべてがネガティヴなものではない。

指先オーディオだからこそコントロール(調整)できるパラメータがあるわけだし、
最新のデジタル信号処理技術の進歩は、指先オーディオの未来でもある。

なのに、こんなことを書いているのは、
指先オーディオは感覚の逸脱のアクセルになることもありうるからだ。

dbxの20/20から始まった自動補正の技術は、
感覚の逸脱のブレーキとなる。
別項で書いているフルレンジのスピーカーも、感覚の逸脱のブレーキとなる。
優れたヘッドフォンもそうである。

自動補正(自動イコライゼーション)も、指先オーディオの機器のひとつといえる。
いまではスピーカープロセッサーと呼ばれる機器も登場している。

本来スピーカープロセッサーは、スピーカーシステムの最適化のために開発されたモノ。
けれど使い方によっては、スピーカープロセッサーは、感覚の逸脱のアクセルとなる。
簡単になってしまう。

実にさまざまなパラメータを、指先でいじれてしまう。
アナログ信号処理ではいじれなかった領域まで、指先ひとつでいじれる。

人によっては、ハマってしまう。
ハマってしまうことで、感覚の逸脱のアクセル化へと向うのは、
使い手に欠如しているものがあり、それを自覚していないからだ。

Date: 1月 21st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その1)

アナログでもっぽら信号処理をしていた時代から、
ツマミを動かすことで、さまざまなことができるようになってきた。

そこにデジタルが登場して、さらに範囲は拡がり、より細かな調整が可能になってきている。

なんらかのプロセッサーが目の前に一台あれば、
以前では簡単に変更できなかったパラメータをもいとも簡単にいじれるようになっている。

技術の進歩が、ツマミを動かすだけでなんでもできるようにしてくれる。
けっこうなことである。

けれど懸念もある。
その懸念が、指先オーディオである。

指先だけでかなりのことが可能になってきた。
便利な時代になってきた、とは思っている。

なのに指先オーディオなんて、ついいいたくなるのは、
何かを見失ってしまった人を知っているからだ。

彼は昔からパラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーが好きだった。
そのころは彼もまだ若かった。
それらのイコライザーに積極的であっても、指先オーディオではなかった。

けれどデジタル信号処理による、プロ用機器ではさまざまなプロセッサーが出てくるようになった。
それらを手にしたころから、彼は指先オーディオへと突き進んでいった。

歳をとったということもあるのだろう。
体を動かすよりも、指先だけで済むのだから(必ずしもそうではないが)、
そういうプロセッサーへの依存は強くなっていくのか。

高度なことをやっていると思い込んでしまっている彼は、
何も生み出せなくなってしまった──、
私はそう感じている。

彼ひとりではない、とも感じている。
指先オーディオは拡がりつつある、と感じている。

Date: 1月 16th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(人が集まるところでは……)

不特定多数の人が集まるところでは、気持よく帰れることの方が稀だとおもう。
特にオーディオ関係の、そういう場では、げんなりしたり、イヤな気持になったり、
そういうことは必ずつき物だと思っていた方がいい。

昨年のインターナショナルオーディオショウでは、
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で書いている人がいたわけだ。

こういう人の他にも、音を聴きに来ているのか、自慢話を披露したくて来ているのか、
何が目的なのかわからない人もいる。

同好の士が集まる場だからといって、気持よく帰れるわけではい。
先日の「菅野録音の神髄」でも、残念なことに、そういう人たちがいた。

そういう人たちの方が圧倒的に少数であっても、
そういう人たちは目障り、耳障りであるために目立つ。

そういう人たち(そういう大人)に幻滅したくない、という人もいよう。
それで「菅野録音の神髄」に来なかった人もいる。

その人の気持がわからないわけではない。
それでも、やはり来るべきだった、といおう。

今年の最初に「オーディオマニアの覚悟(その7)」を書いた。
そこには、こう書いた。

オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。

そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。

繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。

音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。

それでいいのであれば、幻滅したくない、イヤな気持になりたくない、
傷つきたくないということで、そういう場に出かけなければいい。それで済む話だ。

あとは本人次第だ。

Date: 10月 26th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その6)

SACDは、Super Audio Compact Discの略称であるのは、いうまでもない。
なぜSuperとCompactのあいだにAudioを加えたのだろうか。

Super Compact Discでもよかったはずだ。
そうすれば略称はSCDとなる。

SACDの名称は、ソニーが決めたのだろうか。
ソニーとフィリップスが話し合って決めたことなのか。

SACDが登場した頃は思いもしなかったが、
いまはAudioが入っていてよかった、と思う。

Date: 10月 19th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その3)

「五味オーディオ教室」がオーディオのスタートだった私にとって、
「五味オーディオ教室」は、五味先生の耳の記憶が綴られていた、とつくづくおもうとともに、
それ以外のスタートでなくてよかった、ともつくづくおもう。

「五味オーディオ教室」をくり返しくり返し読んできたのは、
「五味オーディオ教室」という五味先生の耳の記憶を継承しようとしていた──、
ここにきて、やっとそういえる。

Date: 10月 17th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その2)

自分の耳に自信があれば、人の意見、
特にオーディオ評論など必要ではない──、という意見が以前からある。

耳の記憶の集積こそが、オーディオである、と考える私にとって、
真にオーディオ評論といえるものを読むことは、耳の記憶の集積につながる行為である。

Date: 10月 15th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その1)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう。

Date: 10月 12th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その9)

トロフィーワイフという言葉を、数ヵ月前に知った。
数年前からあったらしい。

トロフィーワイフ。
すぐには意味がわからなかった。
そこにはトロフィーワイフについての説明もあった。

すごい世の中になっているのだ、と思ってしまった。
これが資本主義というものなのか、とも思ってしまう。

トロフィーワイフ。
ならばトロフィースピーカー、トロフィーアンプ……、
といったモノも存在しても不思議ではない。

いまオソロシイ価格のオーディオ機器が存在している。
そういったモノは、トロフィースピーカーであったり、トロフィーアンプであったりするのか。

確かにそういう買い方をする人たちがいる、という話は、
十数年前ぐらいから、ぽちぽちあった。

ずっとオーディオをやってきた人たちが買うわけではない、と聞いている。
ポンと即金で、システム一式(そうとうな価格である)を買っていく人たちが、
日本にもいる(いても不思議ではない)。

トロフィーオーディオ。
豊かさの象徴といえるのか。

Date: 10月 8th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その1)

約7700本ほど書いているなかで、
「オーディオの罠」と書いたのは三本。
2009年12月、2010年3月、2011年8月に書いている。

ここに来て、結局、オーディオの罠は存在しない、と思うように変った。
オーディオの罠と思ってしまうだけで、
それは自分自身の未熟さゆえに、そう思ってしまうだけであろう,と。

また数年したら、やっぱりオーディオの罠はある、と言い出すかもしれない。

Date: 8月 13th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

コンポーネントの経済考(その1)

瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」には、
「コンポーネントステレオの経済学」という文章がある。

そこには「標準的な価格をしらべる」という見出しがあり、
ブックシェルフ型に限定したスピーカーシステムの標準的な価格、
フロアー型まで含めた標準的な価格、プリメインアンプ、チューナー、レコードプレーヤー、
セパレートアンプについての標準的な価格が挙げられている。

この標準的な価格とは、
たとえばスピーカーなら市場にある最低価格と最高価格の籍の平方根(√)である。

これを、瀬川先生は瀬川平方根理論といわれていた。
もっとも瀬川先生自身、《多分に遊びと冗談がまじっている》と書かれているが、
《意外にこれが役に立つ》ともいわれている。

この瀬川平方根理論は、
熊本のオーディオ店の招きが定期的に来られていた時にも話されていた。
そしてそれぞれのジャンルの標準的な価格あたりが、製品が揃っている価格帯でもある、と。

当時(1970年代後半からの数年)は、瀬川平方根理論は当てはまっていた、といえる。
でも、いまはどうだろうか。
価格差のダイナミックレンジは、当時よりもいまのほうが大きくなっている。

この価格で、よく作れるな、とへんな感心のしかたができる低価格帯のモノが増えている。
一方で、一千万円を超えるモノも珍しくなくなってきている。

それに当時は各価格帯に製品がうまいこと揃っていた、ともいえる。
でも、いまはどうだろうか。
歯抜けのような印象を受ける。

それがいいとか悪いとかではなく、価格というレンジにおける製品の分布のありように、
小さからぬ変化が見られる、ということだ。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(音楽に在る死)

《神をもたぬものに、死が問われるわけがない。その音楽には〝死〟がない》

その音楽には〝死〟がない──、
ということは、その音楽には〝美〟がない、ということだ、と、
いま改めて「音楽に在る死」を読み終って、そうおもう。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

以前書いたことを、またくり返し書いている。
くり返し書くことで思い出すこともある。

バブル期に多くの企業が美術品を世界中から買いあさっていた、と報じられていたことをおもいだす。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(Jörg Demus)

五味先生のコレクションをみていて、
イェルク・デムス(Jörg Demus)のレコードの意外と多いことが、
「音楽に在る死」の最後に書かれていたことと結びつく。
     *
 神をもたぬものに、死が問われるわけがない。その音楽には〝死〟がない。シューマンは畢にそれだけの作曲家だ、と私は思っている。もちろんシューマンの育った十九世紀前半の世相——全体としてはロマン主義の時代に属するが、民主思想と自由主義の擡頭にともない、すべての階層が歴史の担当者として登場し、自己の権利を主張できた。又、イギリスに始まった産業革命は、当然、それまでの経済態勢をくつがえすと同時に、産業革命の基底にある自然科学の発達と、唯物的傾向、実証主義思想ともいうべきものをいちじるしく伸張させた。
 神はいなくて当然であり、そういう時代背景を抜きにしてシューマンの音楽は語れないと、諸井三郎氏などは指摘されるが、まったくその通りだろう。それは分る。だが、時代背景なんぞでぼくらは音楽を聴くのではない、少なくとも私は御免だ。私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。シューマンにはそれがない、死がない。それがデムスの弾いたシューマンであっても、だ。
     *
私はこれまでデムスの熱心な聴き手ではなかった、というより、あまり聴いてこなかった。
これから集中して聴いていこう、遅くはないとおもう。

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その11)

五味先生のレコードコレクションの詳細を知りたい、と思っていた。
「五味オーディオ教室」を読んだ時から思い続けてきた。

「五味オーディオ教室」、「西方の音」、「天の聲」、「オーディオ巡礼」、「いい音いい音楽」、
これらの本に出てくるレコードのことを一覧表にしたこともある。

それをやっても全貌が見えたわけではなかった。

五味先生のコレクション、
オーディオ、レコードだけでなく、その他のコレクションも、
練馬区で保管されている。

練馬区石神井公園 ふるさと文化館のウェブサイトで、
五味先生のコレクションが公開されている。
けれどここには、レコードコレクションの詳細はない。

ないものだと思っていた。
昨夜、友人のKさんが教えてくれた。
五味先生のレコードコレクションの詳細をPDFにしたものが公開されている、と。
Kさんはオレフスキー(ヴァイオリニスト)について調べていたら、見つけた、とのことだった。

このPDFには、別のページからリンクされている。
五味康祐資料展示室等 情報というページがあり、
ここの下のほうに、交響曲管弦楽曲協奏曲室内楽器楽曲オペラ声楽
音楽史現代曲追加分と十のPDFへリンクがはられている。

表にまとめられている。
演奏者の表記など、統一されていないところもある。
もうすこし作りようがあった、と思うが、だからといって不満があるわけではない。
よくぞ公開してくれた、と喜んでいる。
上に書いたことはささいなことである。

五味先生のレコードコレクションをみていくと、気づくことがいくつもあるが、
それについて書くことはしない。
それぞれが気づけばいいことだからだ。

Date: 7月 28th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その10)

S氏(新潮社の齋藤十一氏)のやり方を、五味先生は模倣されている。
けれどS氏のように放逐されたわけではないことは、「五味オーディオ教室」を読んでわかる。
     *
 レコードは、聴くこちらのコンディションでよし悪しが左右されることがある。私など、S氏のこの方法を模倣して排除した分も、そのまま残しておき、後日、聴きなおした。結局そうして未練ののこった盤はまたのこしておいた。二年ほど経って、あらためてこの方法で聴いてゆくと、やっぱり前に追放しようとした分は保存に値しないのを思い知るのがほとんどだったから、演奏への鑑賞能力、また曲への好みといったものは、聴くこちらのコンディションでそう左右されはしないこと、いいものは結局いつ聴いてもいいのをあらためて痛感したしだいだが、いずれにせよ、こうしてS氏は厳選のすえ残ったものを愛聴されている。その数はおどろくほど少ないのである。
     *
結局、五味先生は放逐されたのだろうか。
二年ほど経って、あたらめてこの方法で聴いてゆくと──、とある。
少なくとも二年間程度は手元に残されていた。

二年後に聴いても《前に追放しようとした分は保存に値にしないのを思い知ることがほとんどだった》、
ということはそのときに放逐されたのだろうか。
それとも聴かずとも、手元に残されたのだろうか。

「五味オーディオ教室」には、
《S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ》
ともある。

この九十曲以外の盤を、どうされたのかはわからない。
放逐されていたとしよう。
それでも二年間手元に置いていた点が、S氏のやり方の模倣とはいえ、違う。

この違い、いわば未練は、どこから来るのか、といえば、
デッカ・デコラとタンノイ・オートグラフから来るもの、とおもう。

音の違いというよりも、かたちの違いから来るものだろう。
もっといえばレコード収納スペースをもつデコラと、
もともとそういうスペースはない、オートグラフを中心とした五味先生のシステム。

そこだと思うのだけれど、
やはりデコラの音も深く関係してのことだとおもうのは、
五味先生はテレフンケンのS8を所有されていたからだ。