「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(人が集まるところでは……)
不特定多数の人が集まるところでは、気持よく帰れることの方が稀だとおもう。
特にオーディオ関係の、そういう場では、げんなりしたり、イヤな気持になったり、
そういうことは必ずつき物だと思っていた方がいい。
昨年のインターナショナルオーディオショウでは、
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で書いている人がいたわけだ。
こういう人の他にも、音を聴きに来ているのか、自慢話を披露したくて来ているのか、
何が目的なのかわからない人もいる。
同好の士が集まる場だからといって、気持よく帰れるわけではい。
先日の「菅野録音の神髄」でも、残念なことに、そういう人たちがいた。
そういう人たちの方が圧倒的に少数であっても、
そういう人たちは目障り、耳障りであるために目立つ。
そういう人たち(そういう大人)に幻滅したくない、という人もいよう。
それで「菅野録音の神髄」に来なかった人もいる。
その人の気持がわからないわけではない。
それでも、やはり来るべきだった、といおう。
今年の最初に「オーディオマニアの覚悟(その7)」を書いた。
そこには、こう書いた。
オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。
そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。
繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。
繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。
音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。
そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。
それでいいのであれば、幻滅したくない、イヤな気持になりたくない、
傷つきたくないということで、そういう場に出かけなければいい。それで済む話だ。
あとは本人次第だ。