豊かになっているのか(その8)
40年以上前の富士フイルムの広告。
モノクロであり、洗練されているとはいえなかったが、
いま改めてみると、考えさせられるヒントとなることがあったりする。
ステレオサウンド 16号の富士フイルムの広告もそうだ。
モノクロ見開き二ページ。
左上に、
オーディオ評論家リスニングルーム深訪シリーズ(2)
瀬川冬樹氏
とある。
右側には、広告のコピーがある。
*
音楽とは、ずっと
蓄音機時代から……。
うーん……〈太公トリオ〉が
ぼくの初恋。
あまりの感激に
床にしゃがみこんじゃったな。
衝撃的なフィーリング
だったんですよ……。
*
瀬川先生(というよりも大村少年)の音楽の初恋は、
ベートーヴェンの大公トリオなのは、すこし意外な気がした。
大公トリオについては「虚構世界の狩人」でもふれられている。
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オーディオとは、しかしいったい何なのだろう。音を良くする努力は、自分の音楽体験に何をもたらしたのだろうと、ときどき考え込むことがある。ずっと以前、いまからみればよほど貧弱な装置で、モノーラルをこつこつと集め、聴いていたころからくらべて、自分の中の「音楽」は果して豊かになっているのだろうか。むかしの方が、よほど音楽は自分にとって身近にあり、もっと切実だったように思われる。むかし小さなラジオで聴いたカザルス・トリオの「大公」や、ヤマハのコンサートで聴いたフルトヴェングラーの「エロイカ」や、M氏のお宅で聴いたカペエの「131」や、そしてブリヂストンの土曜コンサートで聴いた──こればかりは演奏者をどうしても思い出せないシベリウスのヴァイオリン協奏曲の、めくるめくような衝撃が、どこへ逃げて行ってしまったのか──。自分自身の環境や感受性の違いなのかあるいは年齢がそうさせるのか。もしかしたら装置そのもののせいなのか──。
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ここにも《果して豊かになっているのだろうか》とある。