Archive for category ディスク/ブック

Date: 3月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その3)

オーディオマニアといっても、
世代によって聴きふけった音は違う。

世代が同じであっても、人によっても、
聴きふけった音は、また違っている。

それぞれに聴きふけった音があるはずだ。
そんなものない、というオーディオマニアもいるかもしれないが、
そういう人はオーディオマニアなのだろうか、と思う。

聴きふけった音に、その時その時で美を感じていたはずである。
少なくとも私はそうである。

多くのオーディオマニアでそうである、と信じたい。

その時その時に感じた美を、すっかり忘れてしまっている人もいれば、
そうでない人もいる。

どちらがいいなどとはいいたくない。
ただ、オーディオマニアとはいい音で音楽を聴く人のことではない、
と最近強く思うようになった。

その時その時に感じた音の美を、いまも忘れずに、
それだけでなく守っていける人がオーディオマニアなのだ、と思うようになったからだ。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その2)

“ECHOES”を聴いていて思い出すのは、五味先生の文章だ。
「日本のベートーヴェン」を思い出す。
     *
カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。
 溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断っておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやプダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。
 ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。
 では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。
 弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。
 このことから、これはワグナーが言っていることだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さで音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。
 ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのではあるまいか。アダージョがフォルテが鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。
 むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。
     *
“ECHOES”を聴いていると、
まずサクソフォンが木管楽器だということを思い出す。

そのことを思い出したからこそ、「日本のベートーヴェン」のことを思い出した。
思い出しただけではない。
最近考えていることにも関係している。

オーディオマニアは、美を守っていくべき、ということに、だ。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その1)

“ECHOES”。
TIDALで知った一枚だ(一枚といっていいのかと思うけれど、つい一枚と書いてしまう)。

シグナム・サクソフォン四重奏団(Signum Saxophone Quartet)も、
今日はじめて知った。

サクソフォンによる四重奏。
ちょっとだけキワモノ的かな、と思ってしまった。

収録曲をながめていたら、
フォーレのレクィエムの第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)があった。
興味半分だった。

それで聴き始めたら、最後まで聴いてしまっただけでなく、
もう一度聴いていた。

それから“ECHOES”を一曲目から聴いていた。
なぜだかTIDALでは全曲の再生ができなかったけれど、いいアルバムだ。

サクソフォンの四重奏が、こんなにも心に沁みてくるとは予想してなかった。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piano Lessons(その1)

クリストフ・エッシェンバッハが「バイエル」を録音したことは知っていた。
知っていたけれど、買いはしなかった。
買っていないから、聴いてもいなかった。

エッシェンバッハは、「バイエル」だけでなく、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」を録音している。
どれも聴いてこなかった。

TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)のすべてが聴けるようになった。
まだすべては聴いていない。
「バイエル」のいくつかと「ツェルニー」のいくつかを聴いただけである。

聴いていて、黒田先生の文章を思い出した。
     *
 周囲の人たちにどう思われたか、などということは、さしあたって、どうでもいい。できることであれば、父か母に、「よくやったね」、といわれたかった、と思うことが、この歳になってもまだ、ときおりある。別に誰かにほめられたくてしたわけではなかった。しかし、ぼくはぼくなりに、ほんのすこし頑張った。そこで、もし、「よくやったね」のひとことがきければ、「いやあ、それほどのことでもないけれどね」などといいつつ、一応は苦笑いで照れ臭さを誤魔化し、そのために味わった辛さもなにもかも吹き飛ばすことができる。
 親孝行といえるほどのこともできないうちに、父も母も他界してしまった。今となっては、「よくやったね」のひとことは、いかに頑張っても、きけない。やはり、ちょっと寂しい。残念である。くやしい気もする。叱れる人にほめられたときが一番嬉しいということに、生まれながらの呑気者は、両親を失って初めて気づいた。
 しかし、彼のことを考えた途端に、そんな感傷もたちどころに消えた。少なくともぼくは、これといった親孝行はできなかったものの、ほとぼとのところまでは自分の成長を親に見てもらえた。そのうえ、甘えたことを考え、愚痴をいったりしたら、罰があたる。
     *
もっとながく引用したい、
すべてを書き写しておきたくなる。

「彼」は、クリストフ・エッシェンバッハのことである。
エッシェンバッハは第二次世界大戦で両親を失っている。
戦争孤児である。

そのエッシェンバッハが「バイエル」、「ツェルニー」などを録音している、
そのことについて黒田先生が書かれた文章は、思い出した。

黒田先生のエッシェンバッハについての文章は、こう結ばれている。
     *
 幼い頃に両親をなくしたエッシェンバッハは、「バイエル」や「ブルグミュラー」、それに「ツェルニー」とか「ソナチネ・アルバム」をレコーディングすることによって、彼がききたくともきけなかった、「よくやったね」のひとことを、小さなピアニストたちに伝えたかったのである。おそらく、このレコードは、あちこちの家庭で、ピアノを習い始めたばかりの子供たちによって、手本としてきかれているはずであるが、彼らが、もし、ピアノの響きにそっとこめられているエッシェンバッハの思いを感じとったら、「よくやったね」のひとことをきかずに育ったエッシェンバッハの寂しさをも理解するのかもしれない。
     *
エッシェンバッハのこれらの録音がTIDALで聴ける。
素晴らしいことだ。

Date: 2月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100(黒田恭一氏の文章)

音楽が好き、という人は大勢いる。
音楽が大好き、という人もけっこういる。

本人が、好きといっているのをこちらが疑うことはしたくないのだけれど、
ほんとうに音楽が好きなの? とおもうこともままあったりする。

だから、別項ではあえて「ほんとうの音楽好き」と書いている。

黒田先生が、「音楽への礼状」でピアソラのところで、こう書かれていた。
     *
 それからしばらくして、あなたは、ゲーリー・バートンと共演して、東京で一度だけコンサートをなさったことがありました。あのときのことを思い出すと、どうしても気持が萎えてきます。決して大きい演奏会場ではなかったにもかかわらず、客席のほぼ半分はうまらないままでした。もったいないな、こんなにいいコンサートが満員にならないなんて、と空席のままの座席をみて思いました。
 あのコンサートが満員にならなかった理由としては、宣伝不足とか、時期がよくなかったとか、あれこれいろいろあったようでしたが、事情通から、不入りの理由のひとつとして、「タンゴ」のピアソラと「ジャズ」のゲーリー・バートンの共演ということで、純潔をたっとぶ「ジャズ」ファンと「タンゴ」ファンがそれぞれそっぽをむいたこともあると説明されて、ぼくは、一瞬、ことばにつまりました。今どき、そんな、馬鹿なことが、と事情通にくってかかりそうになりました。驚き、同時に、呆れないではいられませんでした。
 その事情通の説明が正しかったのかどうかは、今もってわかりません。しかし、残念ながら、彼のいうような状況がまったくないとはいえないかもしれないな、と思わざるをえないような状況にぶつかることが、ままあります。そのことから判断すると、多くのひとが、この時代にあってもなお、自分が不自由にしか音楽がきけていないのも気づかず、レッテルによりかかって音楽をきいているようです。
     *
ほんとうの音楽好きを、言葉で表わすことはできないのかもしれない。
そんなに簡単に書けることではない、とわかっている。

それでも、ほんとうの音楽好きな人は、
純潔をたっとぶようなことはしないはずだ。

Date: 2月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (PIAZZOLA REFLECTIONS)

クセーニャ・シドロワの名前だけは知っていた。
四年ほど前に、ドイツ・グラモフォンからアルバムが出たからだ。

Bizet: Carmen(ヨアヒム・シュマイサーによるアコーディオンのための編曲版)である。
興味はあったけれどディスクを買って聴くまでにはいたらなかった。

2月26日に、シドロワの新譜“PIAZZOLA REFLECTIONS”が出る。
TIDALでは少し前から聴ける。
カルメンの編曲版も聴ける。

カルメンの編曲版を買わなかったくらいなので、
それほど期待していたわけではなかった。

1990年代ごろ、クラシックの演奏家がピアソラを積極的に録音していた時期がある。
いいアルバムもあったし、これがピアソラの音楽? といいたくなるのもあった。

私が、これがピアソラの音楽? と感じた演奏を、
まさにピアソラの音楽! と感じる人もいるとは思う。

シドロワの“PIAZZOLA REFLECTIONS”は、ピアソラの音楽だと感じている。

Date: 2月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Balada para un Loco)

“Balada para un Loco”で、アストル・ピアソラを知った。
もう四十年以上も前のことだ。

グラシェラ・スサーナのアルバム「気違い男へのバラード」で聴いて、知った。
グラシェラ・スサーナのアルバムではめずらしくイラストのジャケットだった。

「気違い男へのバラード」というタイトルにも惹かれていた。
このころは、まだ「気違い男へのバラード」と訳されていた“Balada para un Loco”も、
1980年代には「ロコヘのバラード」と変っていった。

これまでにいくつかの“Balada para un Loco”を聴いてきた。
最近ではTIDALで“Balada para un Loco”と検索して表示されたのを片っ端から聴いていた。

“Balada para un Loco”はグラシェラ・スサーナで初めて聴いた。
そのこともあって、グラシェラ・スサーナによる歌唱が一方の端にあり、
もう一方の端にミルバによる歌唱がある。

今回“Balada para un Loco”を聴いて、それでいい、と思っている。

Date: 2月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その1)

Piazzolla 100(ピアソラ生誕100年)。

“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”。
タイトルそのままの内容を収録したCD(二枚組)だ。

あれこれ書きたいことはかなりある。
でも、とにかく聴いて欲しい、だけいっておく。

いまでも入手可能である。

Date: 2月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

今日(2月9日)は手塚治虫の命日。
1989年2月9日こそ、昭和が終った、と感じた日だった。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」という本がある。
このタイトルは、なかなかだと思う。

昭和のマンガを読んできた人ならば、
どんな内容の本なのか、おおよそ想像がつくからだ。

ゲゲゲの娘は、水木悦子氏、
レレレの娘は、赤塚りえ子氏、
らららの娘は、手塚るみ子氏。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」は、鼎談をまとめたものだ。
文藝春秋から出ている。
いまも入手可能なはすだ。

Date: 2月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100

昨年は、Beethoven 250とBird 100だった。
今年はPiazzolla 100だ。

アストル・ピアソラの生誕100年である。
1921年3月11日生れである。

誕生日にあわせて、ユニバーサルミュージックから3月3日に、
七枚のCDが発売になる。
数年前に輸入盤でボックスで発売になっている音源だが、
今回はすべて単独CD化・発売であり、
オリジナル・ジャケットでの復刻である。

ここでも私が期待しているのは、MQAでの配信が行われるかどうかである。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その6)

JBLの4343は1976年に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」は1978年に出ているから、
同時代のスピーカーとディスク(録音)である。

誰が言い出したのかははっきりとしないが、
この時代、マサカリ低音という表現があった。

4343で鳴らす「サンチェスの子供たち」のドラムスの音は、
まさにマサカリ低音であった。

切れ味のよい低音というだけではない。
かみそりのような切れ味もあれば、
包丁のような切れ味もある。

さらには日本刀、鉞(マサカリ)のような切れ味もある。
鉞を持ったことはないが、重量がしっかりとあることはわかる。

そんな重量物による切れ味の低音と、
軽量級のモノによる切れ味の低音とは、同じではない。

こういう低音は、当時でもJBLのスタジオモニターの独壇場といえた。
「サンチェスの子供たち」のCDは、以前喫茶茶会記でのaudio wednesdayでも鳴らした。
悪くはなかったのだが、
私のなかには、4343でのマサカリ低音が残ってしまっているから、
あと少し、あと少し、とどうしても思ってしまっていた。

「サンチェスの子供たち序曲」に関しては、
二枚組のCDだけでなく、ベスト盤「The Best of Chuck Mangione」でも聴ける。

二枚組のCDの音に大きな不満はなかったけれど、されど満足もしていなかったから、
ベスト盤の音(リマスタリングされている)には期待した。

こちらも悪くはなかった。
でも私にとってのリファレンスがそういうことだから、
この程度止りか、と思ってしまった。

だからこそMQAで聴きたい、と思い続けてきた。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その4・追補)

まだ別の方からコメントがあり、
香港のMQAでも「サンチェスの子供たち」はMQA(96kHz)とのこと。

1月29日の時点ではMQAは配信されていない、とのコメントがあった。
1月30日には配信されているわけだ。

時間差があるのだろうか。
「サンチェスの子供たち」は、アメリカでも香港でもMQAで聴けるようだが、
この件で検索してわかったのは、
香港ではMQAで配信されていないアルバムがいくつかあることだ。

なぜ、このようなことがあるのか、その理由はよくわかっていない。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その5)

チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」は名盤なのだろうか。
今回、別の方のコメントで知ったのだが、
東欧のある国で、いま大人気だ、ということ。
あるDJがラジオでかけたことで広まったそうである。

嬉しいな、と思うのだが、
「サンチェスの子供たち」のCDを手に入れたとき、
音楽好きの知人に貸したことがある。

音楽のジャンルに特に偏見のない人だったけれど、
「これ、なんですか?」といわれたことがある。

まったくピンとこなかったそうだ。
そうなのかもしれない。

それでもいい。
私にとって「サンチェスの子供たち」は何年か周期でものすごく聴きたくなる存在だ。
時間があれば、二枚組を頭から聴くことは減ったが、どちらかのディスクは聴く。
時間がなければ、とにかく「サンチェスの子供たち序曲」は聴く。

一曲だが、14分ほどある曲だ。
私にとって「サンチェスの子供たち序曲」は、
4343で聴いた音が分ち難く結びついている。

熊本のオーディオ店で瀬川先生が鳴らされた音が、いまもはっきりと耳に残っている。
とにかく、その音が、私にとって「サンチェスの子供たち序曲」のリファレンス(基準)である。

Date: 1月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その4)

「サンチェスの子供たち」のことで、facebookへのコメントがあり、
わかったことがある。

TIDALは、すでに書いているように日本でのサービスは開始されていない。
けれど日本からでも契約することはできる。

日本からのアクセスそのままでは無理なので、
VPNソフトを使ってアクセスすることになる。

その際、どこの国からアクセスすることにするか。
香港からにすると、TIDALの一ヵ月あたりの料金は、
アメリカからにした場合よりも安くなる。

私も最初、香港からにして、と考えていたが、
なぜだか私が使ったVPNでは香港が使えなかった。
それでアメリカにしてわけだが、これが結果的によかった。

「サンチェスの子供たち」は、TIDALでもMQAで聴ける。
けれど香港からにして契約した人によると、
44.1kHz、16ビットでの配信はあるけれど、MQAはない、ということだった。

気になって調べてみると、
44.1kHz、16ビットでのラインナップには違いはなさそうである。
といっても細かくチェックしたわけではない。

けれどMQAになると国によって違うことははっきりとした。
アメリカがMQAのラインナップがいちばん充実しているのかどうかは、
いまのところなんともいえない。

とにかく香港ということで契約していたら、
いまでも「サンチェスの子供たち」のMQAはまだなのか、
と首を長くすることになっていたはず。

Date: 1月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その3)

寝る前に、e-onkyoのサイトにアクセスして、
新譜をチェックするのはすっかり日課になってしまっている。

昨晩というか、正確には1月29日に日付が変ってすぐにアクセスした。
なにかの期待があったわけではなかった。

今年になってからの新譜に、個人的に、おっ、と思うタイトルはまだ出ていなかった。
今日もそうかな、と思っていた。

まずクラシックのニューリリースを見る。
それから邦楽、ロック/ポップス,ジャズの順に見ていくことが多い。

ジャズのところ。
iPhoneで見ることがほとんどで、
iPhoneのディスプレイには3タイトルと4タイトル目の端っこが少しだけ表示される。
横にスクロールさせていくことで、続けて見れる。

そこに見慣れたジャケットであり、
MQAで聴きたいと思っていたジャケットがちらっと見えた。

今年初めての、e-onkyoでの、おっ、であった。
かなり大きなおっ、でもあった。

チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez(サンチェスの子供たち)”である。
MQA(96kHz、24ビット)もある。

やっと出た(来た)。

午前0時すぎに見たときには、リリース日は確かに1月29日になっていた。
私にとって、嬉しい誕生日プレゼントといえる。

なのに今日さきほど確認のためみたら、
なぜか1月24日に変更されていた。

どちらにしてもいい。
とにかく「サンチェスの子供たち」がMQAで聴けるようになったのだから。