Archive for category ディスク/ブック

Date: 11月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

音楽を感じろ

ニール・ヤングがPONOを手がけたことは知っている。
うまく起動にのらなかったことも、だ。

PONOに触れたことはない。
優れたモノだったのかどうかは、判断のしようがない。

2020年夏に、そのニール・ヤングとフィル・ベイカーによる「音楽を感じろ」が、
河出書房新社から出たことも知ってはいた。

でも、そこまでで、「音楽を感じろ」を読みたい、とまでは思わなかった。
そうやって一年ちょっと過ぎた昨晩、Mさんからメールが届いた。

メールのタイトルは、「ニールヤングのponoとMQA」である。
どういうこと? と急いで本文を読むと、
「音楽を感じろ」によると、PONOのエンジンはメリディアンが開発していて、
それがMQAのベースになった、とのこと。

メリディアンとの関係はうまくいかなかったようで、PONOは別のエンジンを採用する。

「音楽を感じろ」はまだ手に取っていない。
メリディアンのことにどれだけページが割かれているのかもわからない。
とはいえ、MQAのエヴァンジェリストを自認する者として、
「音楽を感じろ」は必読の一冊といえる。

Date: 11月 23rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

三角帽子

今日(11月23日)は、マヌエル・デ・ファリャの誕生日だ、ということを、
ソーシャルメディアで知った。

ファリャといえば「三角帽子」がよく知られているし、
アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団の録音が、
いまも演奏・録音ともに高く評価されている。

リマスター盤もいくつかあるようだし、
オリジナルのアナログディスクはかなり高価なようである。

私がはじめて聴いた「三角帽子」は、デュトワ盤だった。
アンセルメと同じデッカ録音で、話題になっていた。

そのあとしばらくしてアンセルメ盤を聴いた。
そしてフリューベック・デ・ブルゴス盤を聴いた。

スペインに行ったことはない。
なんとなくのイメージを、スペインに持っているわけなのだが、
そんな私の耳には、フリューベック・デ・ブルゴス盤が、
ファリャはスペインの作曲家だ、ということをはっきりと感じさせてくれた。

フリューベック・デ・ブルゴス盤を聴いてからこれまでのあいだに、
少なくないスペイン出身の演奏家を聴いてきた。
そうやって培われた耳で、つい最近「三角帽子」を聴いていた。

TIDALがあるからだ。
アンセルメもデュトワも、改めて聴いた。
フリューベック・デ・ブルゴスこそ、もっと高く評価されていい。

フリューベック・デ・ブルゴスのあとでは、アンセルメの演奏が色褪る。
スペインの作曲家であるファリャの色が褪せている、と感じてしまう。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その7)

菅野先生のところできいたディスクで、私がいちばんの宿題と感じているのは、
これまで書いてきたように児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲だ。

このディスクが、菅野先生のところできいた最後の一枚だっただけに、
そして、その時の音のすごさが、まさしく別項で書いているように、
動的平衡の音の構築物であっただけに、特別な存在となっている。

このベートーヴェン以前にもいくつかある。
ミハイル・ペレトニョフのシューマンの交響的練習曲、
コリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集、
ユッカ=ペッカ・サラステのシベリウスなどが、すぐに浮んでくる。

ほかにも挙げられるけれど、
ジャーマン・フィジックスのトロヴァドールを導入されてからの菅野先生の音で聴いた、
これらのディスクの存在感は、どうしても大きい。

あと一枚、どうしてもあげておきたいのが、
ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”で、そのなかの「川の流れのように」だ。

2002年7月4日。
菅野先生にお願いしてかけてもらった一曲である。
まだトロヴァドールは導入されていなかった。
マッキントッシュのXRT20で鳴らしてくださった。

この時の音も、上記のディスクとは違った意味での「宿題としての一曲」である。

ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”は、カレーラスの数多くの録音のなかでも、
ラミレスの「ミサ・クリオージャ」とともに、大切な存在だ。

なのに“AROUND THE WORLD”は廃盤のようである。
TIDALでも、いまのところ聴けない。

ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”をMQAで聴ける日が来てほしい。

Date: 11月 20th, 2021
Cate: ディスク/ブック

THE BERLIN CONCERT(その1)

2020年、クラシックのCDで一番の売行きだったのは、
“JOHN WILLIAMS IN VIENNA”のはずだ。

今年(2021年)が、どのディスクだったのかは知らない。
でも来年(2022年)、一番売れるであろうCDは、
“JOHN WILLIAMS BERLINER PHILHARMONIKER”であろう。

ウィーンの次はベルリンである。
“JOHN WILLIAMS IN VIENNA”がそうとうに売れたのだから、
二匹目のドジョウということで企画なのかどうかはなんともいえないが、
来年1月に発売予定である。

先行して、“Superman March”が聴ける。
e-onkyoでも、この一曲のみ先行発売しているし、
TIDALでもMQA(192kHz)で聴ける。

昨晩、寝る直前に聴いていた。
楽しくて二回聴いていた。

オーケストラもスピーカーも同じだな、と改めて感じていた。

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭で書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
オーケストラでもまったくそうなのだ。
瀬川先生の例では、スピーカーの格が違いすぎてもそうなのだが、
オーケストラは格においてもアメリカのオーケストラよりも同等、もしくは上なわけで、
そうなると、どうしてアメリカのオーケストラからは、こういう響きが出ないのだろうか──、
と思うことになる。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 11月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen(その2)

私にとって、マーラーの「さすらう若人の歌」といえば、
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムが真っ先に浮ぶわけだが、
新しい録音の「さすらう若人の歌」をひさしく聴いていない。

いまは、誰の録音が評価が高いのか。

Kindle Unlimitedで、レコード芸術のバックナンバーが一年分読める。
いまちょうど名曲名盤500をやっているところだ。
マーラーは2021年5月号で取り上げられていて、Kindle Unlimitedで読める。

「さすらう若人の歌」は、
クリスティアン・ゲルハーヘルとケント・ナガノ/モントリオール交響楽団による
ソニー・クラシカルから出ているアルバムが一位である。

二位には、クーベリックとのフィッシャー=ディスカウの二回目の録音が入っている。
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラー盤は、
ハンプソンとバーンスタイン盤と同じ三位である。

けっこう変ってきているのだな、と思って、コメントを読むと、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤は不動の一位だったことがわかる。

前回三位だったゲルハーヘル/ナガノ盤が、今回初の一位とのことだ。
そうなると「さすらう若人の歌」に関しては、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤を聴かずして、
何を聴くのか──、そう思っている私でも、
ゲルハーヘル/ナガノ盤を聴きたくなる。

TIDALにある。
ソニー・クラシカルだから、このアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で聴ける。

Date: 11月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen(その1)

マーラーの「さすらう若人の歌」。

1980年代後半のレコード芸術での「名曲名盤300」で、
このマーラーの「さすらう若人の歌」は、
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムが、
ダントツの一位だったことをはっきりと憶えている。

二位、三位のアルバムもフィッシャー=ディスカウで、
二位はクーベリックの指揮で、三位はフルトヴェングラーだがライヴ録音である。

手元に本がないので確認のしようがないが、
選者全員が、一位のディスクを選んでいた。

しかも黒田先生は、フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムだけを選ばれていた。

一生に一度しか歌えない歌が、いかなる名歌手にもあるようだ──、
そんなことを書かれていた。

フィッシャー=ディスカウほどの名歌手でも、一生に一度の歌唱はあるのだろう。

この「さすらう若人の歌」も、MQA Studio(192kHz、24ビット)で、
e-onkyoで購入できる。

TIDALでも、MQA Studioで聴ける。

Date: 11月 7th, 2021
Cate: ディスク/ブック

サンソン・フランソワのショパン

昨年11月のaudio wednesdayで、サンソン・フランソワのショパンをかけた。
そのことがあって、今年は例年になくショパンを聴いている。

といっても、それまであまり聴いてこなかったショパンだから、
それまでよりも聴いている、というぐらいで、そんなに多く、というわけではない。

20代のころ、ショパンを聴くとお尻のあたりがムズムズしてしまうことが多かった。
つまり嫌いな作曲家なのではなく、苦手な作曲家だった。
それが消えていったのは、40ぐらいのころ。

なのでショパンは、40すぎてから、少しずつ聴くようになっていったが、
ショパンのCDを積極的に買うようになったとは言い難かった。

それまで購入していたCDで、
ショパンの曲がおさめられているディスクを聴くようになった、といったほうがいい。
新しいショパンの録音を聴くようになったのは、TIDALを使うようになってからだ。

かなりの数のショパンのアルバムがTIDALで聴ける。
比較試聴もすぐにできる。

クラシックを聴くようになって四十年以上経って、
これまでになくショパンを聴いていた。

そんな一年を過ごして、サンソン・フランソワのショパンに惹かれる。

Date: 11月 2nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

BACH UNLIMITED(その2)

クラシックに興味を持ち始めたばかりのころ、
バッハの作品に、イギリス組曲、フランス組曲、
そしてイタリア協奏曲があるのを知った。

いずれも鍵盤楽器の曲なのに、イギリスとフランスは組曲で、
イタリアだけが、なぜ協奏曲? と思った。

いまならばすぐにインターネットで検索して、その理由を知ることができるが、
当時はそんなものはなかったし、まわりにクラシックに詳しい人もおらず、
イタリア協奏曲が、協奏曲の理由がすぐにはわからなかった。

しばらくして二段鍵盤楽器のための曲ということを知り納得したわけだが、
だからといって、イタリア協奏曲とおもえる演奏は、そう多くはない。

私が聴いたイタリア協奏曲は、グールドの演奏が最初だった。
グールドは右手と左手の音色を変えている。
グールドの演奏で聴けば、協奏曲だと理解できるし、納得できる。

では、市販されているイタリア協奏曲の録音がすべてそうなわけではない。
達者に弾いていても、協奏曲とは感じられない演奏もある。

リーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の“BACH UNLIMITED”、
ここにおさめられているイタリア協奏曲は、たしかに協奏曲である。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ROOTS: MY LIFE, MY SONG

バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”をきいた私は、
そういえばジェシー・ノーマンも黒人霊歌集を録音していたはず、とTIDALを検索していた。

あった。
その他にキャスリーン・バトルとのライヴ盤もあった。

もう一枚、気になるジャケットがあった。
それが“ROOTS: MY LIFE, MY SONG”である。

こちらもライヴ録音で、二枚組。
どんな歌が謳われているか(収録されているか)は、検索してほしい。

ジェシー・ノーマンは好きになれない歌手の一人だった。
嫌いなわけではない。
でも、のめり込んで聴くことのなかった歌手だった。

それでもカラヤンとのワーグナーの一枚は、いまでもときおり聴いている。
なのでソニー・クラシカルから、こんなディスクが出ていたことを、昨晩まで知らなかった。

私は、ジェシー・ノーマンという歌い手を少し誤解していたようだ。
そのことに気づかせてくれた一枚である。

出逢うべくディスクとは、いつか必ず出逢えるものなのだろう。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Negro Spirituals

ずいぶん昔、一度聴いただけでそれっきりというディスクは少なくない。
最初に聴いた時に、なにか感じるものがなかったりしたのか、
心に響かなかったのか、聴き手として未熟だったのか、
理由は他にもあるだろうし、その時その場合によって違っていようが、
とにかく、そういうディスクがある。

昨晩は、そういうディスクの一枚を、たまたまTIDALで見かけたので聴いていた。
バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”である。

1983年の録音、当時、評判にもなっていたので一度だけ聴いている。
自分で買って聴いたわけではない。
どこで聴いたのかも、もうおぼろげだ。

そんな“Negro Spirituals”を聴いていた。
ほんとうにいいアルバムだ。
いまごろになってそのことに気づいた。

私の知人に、理想の女性は待っていてもダメだ、という男がいる。
とにかく女性との出逢いに関しては、かなりというよりも、おそろしく積極的である。
具体的にどんなことをやっていたのかは、
いまの時代、同じ行動をすれば、間違いなくストーカー扱いされるはずだ。

昭和という時代だったから、
そんなやり方もストーカー呼ばわりされることなく、くり返せたのだろう。

知人がいわんとするところはわからないでもない。
でも、私はほんとうにそうだろうか、と思う男だ。

実は、すでに出逢っているのかもしれない──、
ただそのことに、こちらが気づかないだけである。

彼は音楽に関しても、ものすごい量のCDを買って聴いている。
おそらく音楽に関しても、女性に対する考えと同じなのだろう。

理想の音楽を求めて、ただ待っているだけではダメ、
こちらから積極的に行動しなければ、ということなのだろう。

完全に受身では、生涯をともにできる音楽とは出逢えないだろう。
ある程度の積極性はむろん必要である。
けれどそれも限度というものがあるはずだ。

理想の女性、理想の音楽を求めて、
それまで出逢っていない女性、音楽を追い求める。

彼はおそらく、これまで聴いてきた音楽に、
すでにあったことに気づかないかもしれない。

“Negro Spirituals”に気づいた私は、よけいにそうおもっている。
さいわいなことに録音された音楽とは、再会できる。

Date: 10月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

カラヤンのマタイ受難曲(その6)

カラヤンのバッハを積極的に聴きたいかというと、そうではない。
カラヤンのマタイ受難曲(ドイツ・グラモフォン盤)も一度聴いたきりである。

一ヵ月ほど前、TIDALであれこれ検索していて、カラヤンのフーガの技法を偶然見つけた。
1944年の録音である。

こんな録音があったのかと、Googleで検索すると、
五年ほど前に録音が発見されてCDが発売になっていることを知る。

気づいていなかった。
気づいていたら、おそらくCDを買って聴いていただろう。

TIDALで聴いた。

カラヤン指揮によるバッハのマタイ受難曲は、
ドイツ・グラモフォンによる1972-73年にかけてのステレオ録音のほかに、
1950年のモノーラルのライヴ録音がある。

1950年録音は、カスリーン・フェリアーが歌っているので、
アナログディスクでももっていた(ただし音はひどかった)。
CDになってからも購入した(まだこちらの方が音はまともになっていた)が、
くり返し聴くことはほとんどしていない。

1944年のフーガの技法は、これから先、何度か聴いていくように感じている。

Date: 10月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

This One’s for Blanton

デューク・エリントンとレイ・ブラウンによる“This One’s for Blanton”。

私が、このディスクの存在を知った(聴いた)のは、ステレオサウンドの試聴室。
ここまで書けば、昔からの読者、
記憶力のいい方だと、長島先生の試聴だな、と気づかれるだろう。

長島先生の試聴、
それも確か組合せの試聴だったはずだ。

アナログディスクだった。
A面一曲目の“Do Nothin’ Till You Hear from Me”。
出だしの強烈なピアノの音。

長島先生による組合せからの音だったことも、その強烈さを一層増して聴こえた。
それからというもの、私にとって、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”がどういう音で鳴るべきなのか、は、
この瞬間に決ったといっていい。

頻繁に聴いているわけではない。
でも、スメタナの「わが祖国」のように、無性に聴きたくなるときがふいに訪れる。
そういう時は、できるだけ大きな音で聴く。

それだけでなく、音の判断で少し迷ったとき、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を聴くと、よくわかる。

数日前、ChordのMojoをいじった。
基本的にはメリディアンの218に施したことと同じなのだが、
スペースの都合上、やれなかったことも少なくない。

それでも満足できる音になった。
この音ならば──、とおもい、“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を鳴らした。

ヘッドフォンで聴いた。
ヘッドフォンから、あの時、聴いた音が出てきた。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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シフのベートーヴェン(その11)

五味先生が、「日本のベートーヴェン」でこう書かれているのを、
私は20代のころ、何度も読み返している。
     *
 ピアノ・ソナタのほかに、たとえば『ディアベリの主題による変奏曲』を音楽史上に比類ない名曲という人がある。私には分らない。比類ないのはやはり『ハンマークラヴィーア』と作品一一一だと私は思う。『ハンマークラヴィーア』といえば、いつか友人の令嬢(高校二年生)が温習会で弾くのに招待され、唖然とした。十代の小娘に、こともあろうに『ハンマークラヴィーア』が弾けるとおもう、そんなピアノ教師が日本にはいるのだ。技術の問題ではない。ベートーヴェンのソナタの中でも最も深遠なこの曲を、本当に、弾けるピアニストが日本に何人いると教師は思っているのだろう。だいたい日本の専門家には、レコードなど、ろくにきかない人が多いが、だからオーボエが何本ふえたなどと言っていられるのだろうが、そういうピアノ教師たちに教育ママは子供を習わせ、音楽的教養が身につくと思っている。あわれと言うも愚かで、済む問題ではない。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない。晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう。そういう曲である。恐らく当の教師にだって満足に弾けはすまい。それが、こともあろうに発表会で少女に演奏させる。どういう神経なのか。こんな教師たちで日本の楽壇は構成され、ベートーヴェンが語られる。日本はその程度のまだ、水準でしかないのだろうか。
     *
《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》とある。
《晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう》
ともある。

そうだ、と私も思っている。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

極端な意見だ、という人がいてもいい。
私だって、少しはそう思うところもあるが、
それでもくり返すが、作品一一一の第二楽章だけでもいいから聴いてほしい。

聴けばわかるはずだ。
お前は、五味先生の文章に洗脳されすぎだ、といわれるだろう。

でもアニー・フィッシャーのベートーヴェンを聴いていると、
五味先生は、どういわれただろうか、と思ってしまう。

作品一一一の第二楽章。
ベートーヴェンの心境を描ききったと思えるピアニストは、
私にとっては、ほんとうに少ない。

そのなかの一人にアニー・フィッシャーは入っている、
アンドラーシュ・シフは入っていない。