Archive for category plain sounding high thinking

Date: 5月 29th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その12)

精度の高い音。
それを実現するのは悪いことではない。
いいことではある。

でも、それだけでは満足できないのを、
精度の高い音のスピーカーシステムを聴くたびに、感じてしまう。

精度の高い音を聴いていると、論語の巧言令色鮮矣仁が自然と浮んでくる。
まさしく巧言令色鮮矣仁といえる音が、意外にも多い。

こんなことを思っていたら、黒田先生が書かれていたこともおもいだす。
「音楽の礼状」で、こう書かれている。
     *
 ぼくらは、この頃、「論語」でいうところの、あの巧言令色鮮矣仁の教えを忘れすぎているように思われてなりません。
 みんながみんな、巧言の刃を研ぐことに専心して、そういえば仁などという野暮なものもあったっけな、といった感じです。たかができの悪い駄洒落としか思えないようなものを考えだしただけの広告文案家が時代の寵児になり、女優と浮名をながし、まんざらでもなさそうな様子で小鼻をひくつかせているのなどは、笑止千万です。しかし、それが、残念ながら、現代です。口八丁は、いつの頃からか、恥ずべきことではなくなったようです。ぼくの中学の校章は桃の花をあしらったものでした。当時、校長は、ことあるたびごとに、生徒たちを集めては、桃の木は美しい花を咲かせるので、その木の下にはおのずと道ができます、みなさんも、そういう、桃の木のようなひとになって下さい、というようなことをいっていました。生意気ざかりのニキビ面が校長のたれる、およそ新鮮とはいいがたい教訓に耳をすますはずもなく、横の列の女生徒のうなじでもつれている髪の毛など、ぽんやりながめていました。それでも、校長が口をすっぱくしてはなしたのは無駄ではなかったようで、ほんとうにすぐれているものは、自分からあれこれけたたましくいいたてたりしない、という程度の世間をみる場合の知恵となって、ニキビ面の頭脳にしみつきました。
 ニキビ面にもあれこれあって、それなりに生活などというものをはじめてしばらくたち、ふと、あたりをみまわしてみると、巧言が仁を圧倒し、あるはずの桃の木は、切り倒されたのか焼きはらわれたのか、影も形もありませんでした。なにからなにまで、真偽のほどはともかく、それなりに氏素性を誇り、しかるべき能書きで武装していました。高級料理屋でだされる料理では、彩りのために皿にそえられた笹の葉にまでそれなりのいわくがあったりして、よせばいいのに、それをまた、恩着せがましく口にするお節介な仲居がいたりします。冗談じゃない、俺は、パンダではないんだから、笹には興味ない!
 音楽家だけ、そのような時代の風潮から無関係でいられるはずもありませんから、硬・軟いずれの音楽界でも、まず、レコード会社なりコンサート・エージェントの考えだしたキャッチフレーズが、呼び込みの役割をはたします。音楽の世界にあっても、桃の木はみあたらず、巧言の輩ばかり跋扈するのか、とあやうく絶望しかかったりしますが、そこで絶望するのは粗忽者です。
(中略)
 この時代はスターの時代なのだそうです。そういう時代の要請をうけてと考えるべきでしょうか、ジャーナリズムとコマーシャリズムが結託して、似非スターや疑似スターを量産しつづけています。クラシック音楽の世界も例外ではないようです。似非スターも擬似スターは、いずれ無残にもメッキがはげ、忘れられていきますが、それでも、しばらくは時代の波にのって浮遊します。クラシック音楽の世界でもまた、似非スターや擬似スターのための、それなり効果的なキャッチフレーズを考えだし、「商売にする」時代です。かくして、ここでもまた桃の木をみつけるのが難しくなっています。
 鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています。そのときのぼくの気持は、なにか困ったことにぶちあたって、遠い日に教えをうけた恩師の門をたたく落第坊主の気持に似ています。
 いい音楽には独特の静けさがある、と思います。おそらく、いい音楽には、巧言令色がないためです。ぼくは、あなたがたの独特の静けさをたたえた演奏が、大好きです。
     *
ボザール・トリオについて書かれたものだ。
音楽について語られているわけだが、そのままスピーカーについてもあてはまるし
オーディオ業界についてもそうである。

Date: 3月 17th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その11)

別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。

218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。

音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。

その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。

私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。

Date: 9月 25th, 2019
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その9)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
卒意の音が鳴らせての裸の音楽なのだろう、と思う。

Date: 4月 22nd, 2019
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その10)

オーディオで音色といった場合、
楽器の音色のこともあれば、オーディオ機器固有の音色を指す場合とがある。

そしてオーディオにおける音色の魅力となると、
オーディオ機器固有の音色を指す場合が多い。

このオーディオ機器固有の音色は、実に、というか、時として魅力的である。
しかもオーディオというシステムが、一つのオーディオ機器だけで成り立つわけではなく、
最低でもプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが必要となり、
それぞれに固有の音色を持っている。

そこに実際の使用ではケーブルが加わる。
いうまでもなくケーブルにも固有の音色がある。

固有の音色を持つモノをいくつも組み合わせてのシステムとしてトータルの音色、
つまりそれぞれの色が混じりあっての音色を、われわれはスピーカーから聴いている。

私がBBCモニターの音に惹かれるのも、この固有の音色ゆえといえるところが大きい。
そればかりではないけれど、
オーディオ機器固有の音色の魅力から逃れられる人は、オーディオマニアではないのだろう。

音楽が好きで、好きな音楽が少しでもいい音で聴きたいと思っていても、
オーディオ機器固有の音色に惹かれる人とそうでない人とがいる。

後者は、その意味ではオーディオマニアではないのかもしれない。
その意味で、私ははっきりとオーディオマニアである。

BBCモニターもそうだし、
ここに関係してくることとして、
セレッションのHF1300というトゥイーターが搭載されているスピーカーの音色も好きである。

そういう固有の音色がうまく混じり合って、
しかも好きな音楽の音色をうまく際立ててくれる瞬間が、オーディオにはある。

その瞬間、オーディオマニアは背中に電気が走ったりするわけだ。

けれど、audio wednesdayでの音出しでは、意図的にそういう音色は避けるようにしている。
そういうことを含めての(その7)でもある。

Date: 11月 2nd, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その8)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。

Date: 10月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その9)

ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。

仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているのは私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。

ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜ぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。

そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。

12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。

そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。

私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。

そんな楽しみもあるようだ。

Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。

それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。

そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。

Date: 10月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その8)

喫茶茶会記のスピーカーを、毎月第一水曜日に鳴らすようになって、
今年の12月で丸三年になる。

ずいぶん音は変ってきた。
喫茶茶会記の店主、福地さんは、私が鳴らすアルテックの音を、
以前からモニター的といってくれる。

そうか、そういうふうな受け止め方もあるのか、と思って、
福地さんの感想を聞いていた。
先日も、やはり同じ感想をいわれた。

福地さんの中にあるアルテックの鳴り方の印象からすると、
私が鳴らしている音は、そう聴こえるのかもしれない、と思いつつも、
私自身がおもうモニター的な音には、まだまだ遠い、と思っているし、
またモニター的に鳴らそう、とはまったく考えていない。

だから、なぜ、そんなふうに受け止め方もあるのか、と、ここでも考える。

こんなところかもしれない、と思い出すのは、やはり五味先生の文章だったりする。
     *
「絵かきは、自分の絵の機嫌をとって描いてることがわかるようでないと、腕の達者な職人だけでは、画家とは言えない。ヴァン・ゴッホに欠けているのはそういう処で、彼の絵をすばらしいという人がいるが、彼の絵には、恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない、それが私には不満である」
 とルノアールはゴッホを評したことがあるが、オーディオ愛好家にも同じことは言えるように思う。
 たえずアンプやスピーカーの機嫌をとりながら、ぼくらはレコードを聴く。相手は器械だから、いつも同じ音で鳴ると割り切れる人はおそらく、ハイ・ファイ・マニアではないだろう。時に、スピーカーは、ずいぶん機嫌のわるい鳴り方をする日が現実に、あるものだ。湿気の加減や、電圧のせいであったり、こちらの耳の状態(睡眠不足など)でそう聴こえるのだと他人は言うが、断じて違う。やはり機嫌のわるい日がある。そんな時、われわれは再生装置の機嫌をとって鳴らさねばならない。さもないと結局は自分の経済的貧しさに突き当らねばならない。
(「シューベルト《幻想曲》作品159」より)
     *
ゴッホの絵には《恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない》という指摘は、
音もそのとおりであろう。

audio wednesdayで鳴らしているときに、こちらの意識としては、
恋人を愛撫するような気持は、ほぼない。

アンプやスピーカーの機嫌をとらない、ということではないが、
恋人を愛撫するような鳴らし方は、まずしない。

そこが、聴く人によっては、モニター的と感じられるのかも……、
そんなことをおもっている。

Date: 9月 14th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その7)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
裸の音楽は、裸の王様のための音楽(衣装)ではない(書くまでもないことだが)。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その6)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。

Date: 6月 24th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その5)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生は《この音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう》と続けられている。

Date: 6月 22nd, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その4)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込む人は、そこに飛び込むことになろう。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その3)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んだ人だから、こう書けるのだろう。

Date: 6月 17th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その2)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったからこそ、なのか。

Date: 6月 13th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その1)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生が五味先生の「天の聲」の書評で、そう書かれていた。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その7)

3月のaudio wednesdayで、075用のネットワークの準備をしていた時に、
常連のTさんにいわれたのは、ここで鳴っている音は宮﨑さんの音と思っている、ということだった。

ことさら自分の音を、喫茶茶会記で鳴らしているつもりは、実はまったくない。
だから、否定してしまったわけだが、
それでも私が鳴らしている音にはかわりないわけで、
私の音といえば、そういうことになる。

私の音ではない、とつい否定してしまったのは、
セッティングし、時には鳴らしながらチューニングしていっていても、
常に、来ている人からのリクエストがあれば、
そちらへとチューニングの方向を変えていけるだけの領域を残しているからなのかもしれない。

むしろ毎回心掛けているのは、
いかに目の前にあるスピーカーを気持良く鳴らせるか、である。

表現を変えれば、そのスピーカーらしく鳴らすか、である。
どんなスピーカーも、そのスピーカー固有の特性(音)を持つ。

それを無視するかのように、強引に自分の音で鳴らす、というアプローチをとる人がいる。
それを自慢する人もいるが、ほんとうに自慢できることだろうか。
そういう鳴らし方(つまりワンパターンな鳴らし方)しかできないからではないのか。

そんな鳴らし方は絶対にしないように心掛けている。
そのために必要なことは、目の前にあるスピーカーから鳴ってくる音を、
きちんと聴くことである。

そうすることで、目の前にあるスピーカーとコミュニケーションが始まる。