オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その9)
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
卒意の音が鳴らせての裸の音楽なのだろう、と思う。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
卒意の音が鳴らせての裸の音楽なのだろう、と思う。
オーディオで音色といった場合、
楽器の音色のこともあれば、オーディオ機器固有の音色を指す場合とがある。
そしてオーディオにおける音色の魅力となると、
オーディオ機器固有の音色を指す場合が多い。
このオーディオ機器固有の音色は、実に、というか、時として魅力的である。
しかもオーディオというシステムが、一つのオーディオ機器だけで成り立つわけではなく、
最低でもプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが必要となり、
それぞれに固有の音色を持っている。
そこに実際の使用ではケーブルが加わる。
いうまでもなくケーブルにも固有の音色がある。
固有の音色を持つモノをいくつも組み合わせてのシステムとしてトータルの音色、
つまりそれぞれの色が混じりあっての音色を、われわれはスピーカーから聴いている。
私がBBCモニターの音に惹かれるのも、この固有の音色ゆえといえるところが大きい。
そればかりではないけれど、
オーディオ機器固有の音色の魅力から逃れられる人は、オーディオマニアではないのだろう。
音楽が好きで、好きな音楽が少しでもいい音で聴きたいと思っていても、
オーディオ機器固有の音色に惹かれる人とそうでない人とがいる。
後者は、その意味ではオーディオマニアではないのかもしれない。
その意味で、私ははっきりとオーディオマニアである。
BBCモニターもそうだし、
ここに関係してくることとして、
セレッションのHF1300というトゥイーターが搭載されているスピーカーの音色も好きである。
そういう固有の音色がうまく混じり合って、
しかも好きな音楽の音色をうまく際立ててくれる瞬間が、オーディオにはある。
その瞬間、オーディオマニアは背中に電気が走ったりするわけだ。
けれど、audio wednesdayでの音出しでは、意図的にそういう音色は避けるようにしている。
そういうことを含めての(その7)でもある。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。
ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。
仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているのは私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。
ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜ぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。
そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。
12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。
そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。
私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。
そんな楽しみもあるようだ。
Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。
それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。
そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。
喫茶茶会記のスピーカーを、毎月第一水曜日に鳴らすようになって、
今年の12月で丸三年になる。
ずいぶん音は変ってきた。
喫茶茶会記の店主、福地さんは、私が鳴らすアルテックの音を、
以前からモニター的といってくれる。
そうか、そういうふうな受け止め方もあるのか、と思って、
福地さんの感想を聞いていた。
先日も、やはり同じ感想をいわれた。
福地さんの中にあるアルテックの鳴り方の印象からすると、
私が鳴らしている音は、そう聴こえるのかもしれない、と思いつつも、
私自身がおもうモニター的な音には、まだまだ遠い、と思っているし、
またモニター的に鳴らそう、とはまったく考えていない。
だから、なぜ、そんなふうに受け止め方もあるのか、と、ここでも考える。
こんなところかもしれない、と思い出すのは、やはり五味先生の文章だったりする。
*
「絵かきは、自分の絵の機嫌をとって描いてることがわかるようでないと、腕の達者な職人だけでは、画家とは言えない。ヴァン・ゴッホに欠けているのはそういう処で、彼の絵をすばらしいという人がいるが、彼の絵には、恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない、それが私には不満である」
とルノアールはゴッホを評したことがあるが、オーディオ愛好家にも同じことは言えるように思う。
たえずアンプやスピーカーの機嫌をとりながら、ぼくらはレコードを聴く。相手は器械だから、いつも同じ音で鳴ると割り切れる人はおそらく、ハイ・ファイ・マニアではないだろう。時に、スピーカーは、ずいぶん機嫌のわるい鳴り方をする日が現実に、あるものだ。湿気の加減や、電圧のせいであったり、こちらの耳の状態(睡眠不足など)でそう聴こえるのだと他人は言うが、断じて違う。やはり機嫌のわるい日がある。そんな時、われわれは再生装置の機嫌をとって鳴らさねばならない。さもないと結局は自分の経済的貧しさに突き当らねばならない。
(「シューベルト《幻想曲》作品159」より)
*
ゴッホの絵には《恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない》という指摘は、
音もそのとおりであろう。
audio wednesdayで鳴らしているときに、こちらの意識としては、
恋人を愛撫するような気持は、ほぼない。
アンプやスピーカーの機嫌をとらない、ということではないが、
恋人を愛撫するような鳴らし方は、まずしない。
そこが、聴く人によっては、モニター的と感じられるのかも……、
そんなことをおもっている。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
裸の音楽は、裸の王様のための音楽(衣装)ではない(書くまでもないことだが)。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生は《この音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう》と続けられている。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込む人は、そこに飛び込むことになろう。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んだ人だから、こう書けるのだろう。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったからこそ、なのか。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生が五味先生の「天の聲」の書評で、そう書かれていた。
3月のaudio wednesdayで、075用のネットワークの準備をしていた時に、
常連のTさんにいわれたのは、ここで鳴っている音は宮﨑さんの音と思っている、ということだった。
ことさら自分の音を、喫茶茶会記で鳴らしているつもりは、実はまったくない。
だから、否定してしまったわけだが、
それでも私が鳴らしている音にはかわりないわけで、
私の音といえば、そういうことになる。
私の音ではない、とつい否定してしまったのは、
セッティングし、時には鳴らしながらチューニングしていっていても、
常に、来ている人からのリクエストがあれば、
そちらへとチューニングの方向を変えていけるだけの領域を残しているからなのかもしれない。
むしろ毎回心掛けているのは、
いかに目の前にあるスピーカーを気持良く鳴らせるか、である。
表現を変えれば、そのスピーカーらしく鳴らすか、である。
どんなスピーカーも、そのスピーカー固有の特性(音)を持つ。
それを無視するかのように、強引に自分の音で鳴らす、というアプローチをとる人がいる。
それを自慢する人もいるが、ほんとうに自慢できることだろうか。
そういう鳴らし方(つまりワンパターンな鳴らし方)しかできないからではないのか。
そんな鳴らし方は絶対にしないように心掛けている。
そのために必要なことは、目の前にあるスピーカーから鳴ってくる音を、
きちんと聴くことである。
そうすることで、目の前にあるスピーカーとコミュニケーションが始まる。
(その4)で、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーション、とか、
(その5)で、スピーカーの本能、とか、
読む人によっては、わけのわからないことを書き始めたと思われようが、
コミュニケーションのとれるモノととれないモノは、はっきりとあると思っている。
オーディオのなかでは、特にスピーカー。
コミュニケーションのとれるスピーカーと、
コミュニケーションを拒絶しているかのようなスピーカーがある。
コミュニケーションがとれるとれないは、
スピーカーの性能、価格といったこととはあまり関係がない。
世評の高いスピーカーであっても、
私にはコミュニケーションがとれない、と感じるモノが、いまのところある。
その数は、少しずつ増えていっているようにも感じる。
そういうスピーカーは精度の高い音を出す。
そのことはたいしたことである。
ここまで出る(出せる)ようになったのか、と感心しながら聴きながらも、
欲しい、と感じさせないのは、
価格のことではなく、コミュニケーションの不在があるように感じるからだ。
少しでもいい音で聴きたい、いい音を鳴らしたい、とおもうからこそ、
あれこれこまかなセッティングやチューニングをやっていく。
そうすることで、音は少しずつ良くなっていく。
音は裏切らないからだ。
コミュニケーションがとれると感じるスピーカーでも、
とれないと感じてしまうスピーカーでも、そのことに関しては同じだ。
セッティングやチューニングに応えてくれているからこそ、音は良くなっていくわけだ。
ならば、応えてくれるということこそコミュニケーションではないのか、と考えもするが、
そういうことではない、と即座に否定する。
ここでのテーマについて書いていくと、
スピーカーの本能、そんなことを考えてしまう。
本能とは、辞書には、
生れつき持っている性質や能力。特に、性質や能力のうち、非理性的で感覚的なものをいう
動物のそれぞれの種に固有の生得的行動
そんなことが書いてある。ならば、スピーカーそれぞれに、
固有の本能と呼べる性質や能力はある、と考えることもできる。
スピーカーユニットの方式、
ユニットに使われている材質、
マグネットの種類、ダイアフラムの形状、素材、
ユニットの構造など、
もともとがプリミティヴなモノであるスピーカーだけに、
そういったことの、音に直接・間接的な影響は、生得的ともいえよう。
スピーカーの方式などによって先入観をもって音を聴くのはさけるべきであっても、
スピーカーそれぞれの生得的な性質・能力に関しては、切っても切れない関係にある。
ならばスピーカーにも本能といえるものがある。
そう考えてもよさそうである。
あるとして、その本能のままに鳴らしたときの音が、”plain sounding”なのだろうか。