plain sounding, high thinking(その8)
喫茶茶会記のスピーカーを、毎月第一水曜日に鳴らすようになって、
今年の12月で丸三年になる。
ずいぶん音は変ってきた。
喫茶茶会記の店主、福地さんは、私が鳴らすアルテックの音を、
以前からモニター的といってくれる。
そうか、そういうふうな受け止め方もあるのか、と思って、
福地さんの感想を聞いていた。
先日も、やはり同じ感想をいわれた。
福地さんの中にあるアルテックの鳴り方の印象からすると、
私が鳴らしている音は、そう聴こえるのかもしれない、と思いつつも、
私自身がおもうモニター的な音には、まだまだ遠い、と思っているし、
またモニター的に鳴らそう、とはまったく考えていない。
だから、なぜ、そんなふうに受け止め方もあるのか、と、ここでも考える。
こんなところかもしれない、と思い出すのは、やはり五味先生の文章だったりする。
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「絵かきは、自分の絵の機嫌をとって描いてることがわかるようでないと、腕の達者な職人だけでは、画家とは言えない。ヴァン・ゴッホに欠けているのはそういう処で、彼の絵をすばらしいという人がいるが、彼の絵には、恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない、それが私には不満である」
とルノアールはゴッホを評したことがあるが、オーディオ愛好家にも同じことは言えるように思う。
たえずアンプやスピーカーの機嫌をとりながら、ぼくらはレコードを聴く。相手は器械だから、いつも同じ音で鳴ると割り切れる人はおそらく、ハイ・ファイ・マニアではないだろう。時に、スピーカーは、ずいぶん機嫌のわるい鳴り方をする日が現実に、あるものだ。湿気の加減や、電圧のせいであったり、こちらの耳の状態(睡眠不足など)でそう聴こえるのだと他人は言うが、断じて違う。やはり機嫌のわるい日がある。そんな時、われわれは再生装置の機嫌をとって鳴らさねばならない。さもないと結局は自分の経済的貧しさに突き当らねばならない。
(「シューベルト《幻想曲》作品159」より)
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ゴッホの絵には《恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない》という指摘は、
音もそのとおりであろう。
audio wednesdayで鳴らしているときに、こちらの意識としては、
恋人を愛撫するような気持は、ほぼない。
アンプやスピーカーの機嫌をとらない、ということではないが、
恋人を愛撫するような鳴らし方は、まずしない。
そこが、聴く人によっては、モニター的と感じられるのかも……、
そんなことをおもっている。