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Date: 1月 2nd, 2017
Cate:

オーディオと青の関係(その16)

オーディオにおける青の意味はあるとしても、
それが各メーカーで共通しているわけでもないだろう。

JBLの青とソニーの青とが、同じ意味が込められているわけでもないだろう。
それは承知のうえで、オーディオにおける青には、アンチテーゼの意味が込められているように感じる。

私がそう感じているだけであるにすぎない。
けれど(その1)に書いたステレオサウンドのロゴの青。

1966年にステレオサウンドが創刊されたとき、日本にはどんなオーディオ雑誌があったのかをふり返れば、
私はそこにアンチテーゼの意味を感じてしまう。
そうだとしたら、いまのステレオサウンドのロゴに青はふさわしくない。

JBLのスタジオモニターのバッフルの青にしても同じだ。
それまでスタジオモニターといえばアルテックの604を収めたモノが圧倒的シェアだった。
そこにJBLは切り込んでいった。

4300シリーズは最初からブルーバッフルだったわけではない。
4350、4341といった4ウェイのシステムからの青である。

これらの4ウェイ・モデルは、全帯域にわたる指向特性の改善・均一化を図って、である。
単に周波数特性を広げたかったわけではない。
ユニット構成をみれば、そのことはすぐに気づくはず。
最低域を受け持つウーファーと最高域をうけもつトゥイーターは、
3ウェイの4333と同じなのだから。

だからJBLのスタジオモニターの青は、
アルテック604に代表される従来のスタジオモニターの主流に対しての青として感じる。

JBLのLE15Aの青は、それまでのJBLのウーファーのあり方とは違う設計であり、
ある意味、それまでのウーファー設計へのアンチテーゼと捉えようとすればできなくもない。

もちろん、オーディオにおける青の意味を、私がこじつけてそう捉えているだけといえば、
たしかにそうだ。
それでも、オーディオにおける青は、他の色とは違う意味があるはずだ。

Date: 1月 1st, 2017
Cate:

オーディオと青の関係(その15)

ソニーにも、ウォークマンの他にも青がある。
1999年に登場したSCD1である。

SACDプレーヤーでSCD1のサイドは、青である。
同時に発表されたコントロールアンプTA-E1もサイドは青だし、
パワーアンプTA-N1は両サイドのヒートシンクが青である。

面積的にはTA-N1の広いけれど、私の印象ではSCD1の青がいちばん強い。
SACDプレーヤーの第一号機というイメージが重なってなのだろうか。

ここでも、なぜ? と思う。
ソニーのようなメーカーが、サイドだけとはいえ青を採用している。

SME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)から第一回新譜として発売された13タイトルに、
マイルス・デイヴィスの”Kind of Blue”が含まれていたからなのだろうか。

ステレオサウンド 131号に、ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談が載っている。
表紙はSCD1である。

出井 SACDは在る意味で、いろいろなものにたいするアンチテーゼです。日本の近代産業はずっと〝量〟を追求してきました。〝量〟というのは作れば作るほど〝質〟から離れていきます。「安くて良い」というのは、基本的に「最高級」のものを犠牲にしてしまう傾向がありますね。その意味では〝量〟にたいするアンチテーゼなのです。
ソニーのCDプレーヤー第1号機、CDP101は、横幅が(標準的なコンポーネントサイズの430mmではなく)355mmでしたが、あれは〝量〟を志向したからなのです。小さく作ったのは「たくさん売るぞ」という意思表示だったのです。このSACDプレーヤー第1号機、SCD1(横幅430mm、重さ約27kg)は逆なんですね。

SCD1の青は、アンチテーゼの色なのだろうか。

Date: 1月 1st, 2017
Cate:

オーディオと青の関係(その14)

JBLには、スタジオモニターのフロントバッフルの他に、もうひとつ青がある。
ウーファーのLE15Aのフレームが、初期のころは青だった。

JBLのユニットは美しい。
ドライバーやホーンはエンクロージュアの上に置かれて使われることもあるが、
ウーファーはエンクロージュアに収められるユニットである。

フレームの色が何色であれ、使っている(鳴らしている)人からは、その色は見えない。
にも関わらずLE15Aは、初期のころ青に塗装されていた。

他のJBLのユニットで、フレームが青に塗装されていたのはあるのだろうか。
なぜ青だったのか。
誰が青にしたのか。

わからない。
LE15Aの開発者のバート・ロカンシーが青に決めたのか。
それともアーノルド・ウォルフが決めた青なのか。

LE15Aの青が、のちのスタジオモニターの青に引き継がれたのだろうか。

Date: 1月 1st, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その1)

1月生れだから、一ヵ月もしないうちにひとつ歳を重ねる。

1月には成人式という行事がある。
ハタチになれば酒も煙草も解禁になるわけだが、
ハタチになった日とその前日とでは、何が違うのかといえば、
何も違わないといえる。

24時間でどれだけ人の体が変化するかというと、ほんのわずかだろうし、
それを本人も周りの人も感じとることはできないほどのわずかな差(変化)である。

ということは誕生日ととその前日がそうであるなら、
前日と前々日にも同じことがいえるわけだ。
二日前と三日前とでは……、三日前と四日前とでは……、
こんなふうに考えていくと、何も変っていないと、いえる。
そんな屁理屈めいたことを考える。
けれど一年前とでは、はっきりと違う。

ほんのわずかな差(変化)が積み重なって、歳をとる。

どういうことで自分の齢を実感するかといえば、
いろんなことがある。

私にとって意外なことといえば、
カルロス・クライバーの実演を聴いたことがある、と話すと、
若い人から驚かれることである。

人によっては、幻のコンサートを聴いたんですか、とまでいわれる。
こちらとしては、それほど大層なことをいっているつもりはない。

チケットを取るのも、そんなに苦労したわけでもなかった。
1986年のバイエルン国立歌劇場管弦楽団の公演を二回、
1988年のスカラ座の引越公演で、「ボエーム」を聴いている。

私としては三回しか聴けなかった、という感じなのだが、
羨望の眼差とはこういうものなのか、と思えるくらいに、
羨ましがられたこともあった。

そうか、と思った。
カルロス・クライバーを聴いたことがある、ということは、私にとっては、
フルトヴェングラーをきいたことがある、という人が目の前にあらわれるのと同じことなのだ。

世代が違うから、若い人にとってはカルロス・クライバーが、
私にとってはフルトヴェングラーが、というだけのことなのだろう。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: 1年の終りに……, デザイン, 書く

2016年の最後に

2015年の最後に書いたのは「2015年の最後に」だった。
「2015年の最後に」が6000本目だった。

ちょうど一年が経ち、「2016年の最後に」を書いている。
7004本目である。
7000本目はベートーヴェンの「第九」について書いたものである。

どうにか一年で1000本を書くことができた。
書いている過程で、「2015年の最後に」で書いたことを何度か思い出していた。

どれだけ書けただろうか、とふり返りたくなるが、
明日になれば7005本目を書く。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: ラック

ラックのこと(その14)

20年ほど前に、増永眼鏡からanti gravityのメガネが登場した。
川崎先生のデザインである。

anti gravityを見た時から、ずっと考えていた。
この発想はオーディオに応用できるはずだ、と。

ただ漠然と考えていた。
どこに応用できるのかも、最初は思いつかなかった。
四六時中考えていたわけではないが、
ときおり思い出して考えていた。

数年経ったころ、あっ、そうだ、と思いついた。
ラックに使えることに気づいた。

それから10数年が経っているが、
どこからもanti gravityといえる構造のラックは登場していない。

実際にどういう構造にしていくのかを考えていくと、
汎用性をどう実現するかという点で難しい面がある。

とはいえ解決できないわけでもない。
(実際に試作してみないとはっきりとはいえないけれども)

anti gravityといえるラック。
そろそろどこかから登場するのか、
それとも自分でつくるしかないのか。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: 型番

ヤマハの型番(続々・Cの意味)

もうひとつのブログ用に、
レタッチ作業をしていて気づいた。

ヤマハの1972年当時の広告の左上には、YAMAHAのロゴがある。
その右横に、NATURAL SOUND COMPONENTとある。
プリメインアンプCA700の広告である。

やはりプリメインアンプのCA、チューナーのCT、レシーバーのCRのCは、
コンポーネント(component)のCなのだろう。

Date: 12月 31st, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その18)

オーディオの想像力の欠如から生れる浅陋、
浅陋のままつくられる商業誌は、誌面を彩っても賎陋でしかない。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その18)

《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」に出てくる。

「歓喜の歌」の歓喜とは、そういうことなのか、とも思う。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その7)

今日は12月30日。
今年もあとわずかだというのに、今日一日何をしていたかというと、
3月のライオン」を一話から見ていた。
11話すべて見た。

さらに前半総集編も見ていた。

音楽はくり返し聴いても、映画やドラマはあまりくり返しはしない。
短期間でのくり返しはほとんどない。
にも関わらず「3月のライオン」は短期間でのくり返しで見た。

一本あたり約25分。
総集編をふくめて12本だから約六時間費やした。

オープニングもエンディングも飛ばさずに見た。
無駄な見方であり、無駄な時間の過ごし方ということになる。

この六時間をブログ書きに費やせば、けっこう本数書ける。
でも見ていた。
ほぼ続けて見ていた。

誰とも話すことなく独りで見た。
寂しい年末の過ごし方といえば、そうだ。

そんなことはわかったうえで見たのだ。
2016年の終りに、この作品と出あえて良かった、と思っている。

50もすぎれば時間が過ぎ去っていくのを早く感じるものとはいえ、
短いようでいて一年はやはり長い。

あれこれあるものだ。
そして感じることがある。
オーディオに限っても、いろいろあった。

だから「3月のライオン」をもう一度一気に見た。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その6)

聴く機会はないが、
サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤の登場は、
私にとっては、今年イチバンのニュースである。

アナログディスクのブームにのっかって、安易な製造をしているところもある。
アナログディスクの売行きが伸びているのはニュースで知ってはいる。
だからといって、アナログディスク・ブームとは捉えていない。

そういうところに、ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤である。
どこか気概のあるレーベルが、ダイレクトカッティングに挑戦してくれないか、
と思っていた。でもそれは音楽のジャンルに関係なく小編成のものであって、
この時代にオーケストラものが、ダイレクトカッティングされるとは、まったく予想していなかった。

ダイレクトカッティング盤だから、当然限定である。
日本の割当は500セット(六枚組である)。
価格は89,000円(税抜き)。

すぐに売りきれるものだと思っていた。
欲しい、と思う人だけでなく、転売目的で買う人もいるからだ。

エソテリックが出しているSACDも、転売目的で買う人が少なくないと聞いている。
そういう時代だから、予約だけで売切れだと思っていたら、
意外にもまだ在庫が残っている。

ベルリン・フィルハーモニーのfacebookでも、まだ買えることを伝えている。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その17)

オーディオの想像力の欠如のままで、有機的な体系化をつくり出せるだろうか。
ゆえに浅陋なのか。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その3)

小学生高学年から中学にかけてのころ、スーパーカーブームがあった。
スーパーカーという言葉は、そのころから登場したのだろうか。

いまもスーパーカーと呼ばれている。

一方オーディオは、というと、スーパーオーディオとはあまり使われない。
SACDはSuper Audio Compact Discだから、
ここにはスーパーオーディオがある。

けれどスーパーカーと同じように使われるのは、
オーディオではハイエンドオーディオである。

ハイエンドカーというのだろうかと検索してみると、
上位に表示されるのはハイエンドカーオーディオである。

ハイエンドはオーディオにかかってくる言葉なのだろうか、と苦笑いしてしまった。

私がクルマに詳しくないためだろうか、
ハイエンドカーという言葉が一般に使われているとは感じられない。

価格の高さでいえば、スーパーカーもハイエンドである。
クルマの方が、よりハイエンドであっても、
やはりスーパーカーなのだ。

なぜオーディオはスーパーオーディオではなく、
ハイエンドオーディオなのだろうか。

このことが「オーディオがオーディオになくなるとき」にも、
そして岩崎先生のリスニングルームに憧れても、
どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
と考えてしまうリスニングルームには、憧れを抱くことがないことが多いのにも、
(その1)で書いた、その人はオーディオマニアだろうか、
ということにもつながっていく直感である。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(キーボードで書くということ)

このブログは、インターネットに接続して書くわけだから、
キーボードで入力している。
私の場合、親指シフトキーボードだから、
JISキーボードでのカナ入力、ローマ字入力とは違うタイプミスがある。

読み返すことをせずに公開しているから、
後で気づいて、こっそりタイプミスや変換ミスを直している。
それでもすべてを見直しているわけではないから、
まだまだ残っているはずだ。

昨夜公開した「オプティマムレンジ考(その11)」では変換ミスがあった。
音量が音良になっていたのを、facebookでの指摘があった。

そのコメントには、指摘だけでなく、
音良量、音良幅(レンジ)、というコメントもあった。

音量が音良になった変換ミスは偶然なのだが、
音良は、確かにオプティマムレンジにつながっていくところがあるのを、
コメントを読んで感じていた。

手書きでは起らない変換ミスには、
時々ではあるが、どきっとして、考えさせられることがある。

先日も変換ミスをしたわけではないが、
音場(おんじょうと読むかおんばと読むかについては以前書いている)について、
おんじょうの音場は、音の乗算、つまり音乗といえるかもしれない、と思っていた。

Date: 12月 29th, 2016
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その11)

ダイナミックレンジのひろい録音を家庭で鳴らすことの難しさは、
40年ほど前から指摘されていることである。

周波数レンジもダイナミックレンジも広い方がいいに決っている。
生の演奏そのままを録音できるようになるのは、確かに技術の進歩である。

けれど、それは録音系の話であって、
再生系となると、必ずしもそうとはいえない。

再生系では音量設定の自由がある。
人に迷惑をかけないのであれば、どんな音量にも設定できる。

ダイナミックレンジが広すぎる録音に文句をいうのは、
満足な音量が出せないリスニングルームしかもてない者の言い分でしかない──、
という人もいるかもしれない。

でも、音量設定の自由があるから、家庭で人は音楽を聴く。
実際の演奏そのままの音量で聴ける環境であったとしても、
ひっそりとした音量で聴きたい人もいる。

広く響きの豊かな部屋で、ひっそりとした音量で鳴らすのもオーディオである。
実際の演奏よりもずっと大きな音で鳴らすのも、オーディオではあり、である。

ダイナミックレンジの広すぎる録音は、
その音量設定の自由を聴き手から奪ってしまうことにつながっていく。

その意味で、現在のプログラムソースは、バベルの塔に喩えられる。
ただし、録音と再生はわけて考える必要がある。