Author Archive

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その24)

ピラミッド型の音のバランス。

昔からいわれ続けている。
でも、いまはどうなんだろう……。

10年ほど前だったか、
ピラミッド型の音のバランスは、低音のいちばん低いところがピークで、
高域にいくに従ってダラ下がりのレスポンスのことだ──、
そんな理解をしている人がいるのを知って、愕然としたことがある。

フラットレスポンスが理想であって、
それはピラミッド型ではなく、上(高域)にいくに従ってとがっていく形ではなく、
低域から高域まで幅が一定の形でなければならない──、
そんな主張があった。

個人サイトだったし、どんな人が書いているのかははっきりとはわからなかったが、
どうも私よりも少し上の世代の人のようだった。

世代的にピラミッド型の音のバランスは、いわば常識として理解されているものだと、
私などは勝手に思っていたけれど、どうもそうではないようだ。

ピラミッド型の音のバランスを、そんなふうに理解する(される)のか、
表現の難しさを感じる──、とは思っていない。

ピラミッド型の音のバランスがどういうことなのか、わからない人はそのままで、もういい。

瀬川先生の音を考えるうえで、忘れてはならないのは、
絶対に忘れてはならないのが、ピラミッド型の音のバランスである。

この大事なことを、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」と、私にヌケヌケといってきた知人は、
忘れていたのか、それとも気づいてすらいなかったのか。

もしかするとピラミッド型の音のバランスがどういうことなのかを、
誤解した人であったのか。

Date: 11月 28th, 2017
Cate: コントロールアンプ像

パノプティコンとしてのコントロールアンプ像(その6)

マッキントッシュ号の、
青柳圭亮氏による「マッキントッシュ製品の変遷」という記事の中に、
マッキントッシュ・クリニックのことが書かれている。
     *
 末尾ながら、マッキントッシュ社のアフターサービスで、あまり日本人には知られていない、マッキントッシュ・クリニックのことに触れてみたい。原則的にはマッキントッシュ・アンプ類の保証期間は、オーナーズ・マニュアルのポケットに入っている、「3YEARS SERVICE CONTRACT」に署名し、各欄に記入して郵送することによって、始めて三年間の無償補修が受けられることになっている。このコントラクトを発送しない場合は、購入時から90日間の保証のみというわけだ。このカードを受領すると、本社ではそれをファイルし、以後そのアンプがいつ、どういう修理を受けたかすぐに調べられるようになっている。従ってある傾向的な故障が続くとすぐに改良、その他の処置が取れるわけで、人間のカルテのようなものである。しかしマッキントッシュ・クリニックというサービス・システムほど私を驚かせたことはなかった。名目上は三年間の保証となっているけれども、マッキントッシュの人気の秘密は実は、このクリニックにこそあるのである。すなわち、全米各地を一州何都市か定めて、一年に一度このクリニックチームが巡回する。各都市のデポとなるオーディオ・ショップはこのクリニックの開催を前もって自分のコミュニティーの顧客に店頭或はラジオコマーシャル等で知らせる。そして通常クリニック・チームその店頭の一角を借り、自分たちの持って来た、ヒューレット・パッカード、テクトロニクス等の超一流測定器を並べて持ち込まれるアンプを待つわけである。又このサービスは自社製品にだけ適用するのではなく、例えばサイテーション、マランツ等と言った他社製あるいは自作のアンプの特性もこれらの測定器で測りデータを無料で対数グラフに移し取って渡してくれる。そしてマッキントッシュ製品についていえば、それがどんなに古い機種でも、トランス以外の故障であるならば、その場で、見ている前で、ものの20分とかからぬうちに必要部品を取り替え、データを取って返してくれる。しかもこれが一切無料なのだ。
     *
このマッキントッシュ・クリニックの測定のところだけでも、
リスニングルームでできるようにならないのか。
しかも誰にでもできるようにならないのか。

そのために必要なモノはなんのなのか、と考えての、
ここでのタイトルで「パノプティコンとしてのコントロールアンプ像」である。

Date: 11月 28th, 2017
Cate: コントロールアンプ像

パノプティコンとしてのコントロールアンプ像(その5)

パノプティコン(Panopticon)は、全展望監視システムのことである。
もっと詳しいことを知りたい方はGoogleで検索していただきたい。

ここでテーマとして考えているのは、
コントロールアンプがオーディオシステム全体を監視・管理・制御できるようになり、
さらにはリスニング環境を含めてのことである。

たとえば、こんな機能があっていいと思うのは、
個々のオーディオ機器の診断である。

どんなオーディオ機器であっても、初期性能をずっと維持できるわけではない。
使っているうちに性能は、少しずつ衰えていく。

音が出なくなるとか、ノイズが出るようなったとか、そういう症状が出れば、
修理に出すけれど、そういう症状が出なくとも、初期性能は劣化している。

神経質な人であれば、定期的にメーカー、輸入元にチェックに出すかもしれない。
けれど、どこといって異状の感じられない機器を、しばらくのあいだとはいえ、
リスニングルームから持ち出すことは、気乗りしない。

移動すれば、それだけで事故に合う可能性が出てくる。
たいていは無事戻ってくるだろうが、万が一ということが絶対にないとはいいきれない。
それに振動や衝撃がオーディオ機器に与える影響もある。

できればリスニングルームにおいて、初期性能がどれだけ維持できているのか、
どれだけ性能が劣化しているのか、故障につながるような劣化が発生していないか、
そういったことを、特別な技術的な知識なしに可能になれば──、とおもう。

以前マッキントッシュは、マッキントッシュ・クリニックというアフターサービスを行っていた。
いまもやっているのどうかは調べていないが、
1970年代のアメリカでは行われていたことが、
ステレオサウンド「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号に載っている。

Date: 11月 28th, 2017
Cate: 広告

広告の変遷(アキュフェーズの場合)

数年前から音元出版のオーディオ雑誌は、
記事はすべてカラーになっている。

広告の一部がモノクロである。

ありえないことだが、
もし音元出版がカラー広告とモノクロの広告の料金を同じにしたら……、と考えてみた。
こんなことを考えたのは、アキュフェーズの広告は、
ずっと昔からモノクロで通してきているからである。

アキュフェーズはカラー広告を出すようになるのだろうか。

2003年に酣燈社から「オーディオ 巧みのこころを求めて」が出た。
アキュフェーズの創業者の春日二郎氏の本である。
非売品だが、少なからぬ数が配られているようだがら、読まれた方もいよう。

1975年の文章に、こうある。
     *
 オーディオ・フェアが10月24日から開かれるが当社は出品しない。これには数百万円の費用がかかり、それだけの効果が期待できないこともあるし、今の当社にはそれだけの経費は負担できない。「出さない話題性」も有効だし、アキュフェーズは別格だというイメージを作り出したい。「そうした費用を製品に造り込んでいるから良いのだ」という見方も生まれる。外部から質問があったら、こんなことを頭に入れておいて答えてほしい。このように一つの理念を貫いて行くことにより、長い年月の間に特別な存在としてのアキュフェーズ像が出来上がってゆくのだ。
     *
1980年の文章にも、同じことが書かれている。
     *
 宣伝は、オーディオ関係の雑誌に白黒の広告を出すだけである。費用のかかるオーディオ・フェアには参加しない。ただし、話題商品を出すことによってオーディオ誌の記事に取り上げられ、自社宣伝の数倍の効果がもたらされている。宣伝費を最小にして、その費用を開発費に当てる方が宣伝になる。販売店にユーザーを集めてシンポジウムを積極的に行ない、販売店のお手伝いをしている。講師は、私をはじめ、社内のメンバーがつとめている。このようなミニコミが高級品の販売には非常に重要である。
     *
カラーの広告ばかり出しているところを批判したいわけではない。
カラーの、優れた広告があれば(オーディオ関係ではあまりないけど)、雑誌が映える。

けれど、そういう会社は一つの理念をもって、カラー広告を出しているとは思えない。
アキュフェーズは、これからも一つの理念を貫いて、モノクロの広告を出し続けてほしい。

Date: 11月 28th, 2017
Cate: ディスク/ブック

喫茶茶会記の本

12月18日ごろに、トランジスタ・プレスという出版社から、
喫茶茶会記の本が出る。

喫茶茶会記、10周年記念の本である。
本が出る(出す)ということは、店主の福地さんから夏ごろに聞いていた。

どんな本に仕上がっているのかは、まだ知らない。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その36)

オーディオの想像力の欠如を放っていては、音楽の追体験にとどまる。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その18)

編集者は、つねに読者の代弁者であるべき──、とは考えていない。
ただ必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う。
そして書き手に対して、代弁者として伝えることがある、と考えている。

このことは反省を含めて書いている。

オーディオ雑誌の編集は、オーディオ好きの者にとっては、
これ以上ない職場といえよう。

けれど、そのことが錯覚を生み出していないだろうか。

本人たちは熱っぽくやっている、と思っている。
そのことは否定しない。

けれど、その熱っぽさが、誌面から伝わる熱量へと変換されていなければ、
それは編集者の、というより、オーディオ好きの自己満足でしかない。

読み手は、雑誌の作り手の事情なんて知らないし、関係ない。
ただただ誌面からの熱量こそが、雑誌をおもしろく感じさせるものであり、
読み手のオーディオを刺戟していくはずだ。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その17)

誌面から伝わってくる熱量の減少は、
オーディオ雑誌だけの現象ではなく、他の雑誌でも感じることがある。

書き手が高齢化すればするほど、
43号のようなやりかたのベストバイ特集は、ますます無理になってくる。

43号は1977年夏に出ている。
菅野先生、山中先生は44歳、瀬川先生は42歳と、
岡先生以外は40代(上杉先生は30代)だった。

いま、ステレオサウンドのベストバイの筆者の年齢は……、というと、
はっきりと高齢化している。

そのことと熱量の減少は、無関係ではない。
書き手の「少しは楽をさせてくれよ」という声がきこえてきそうである。

しかも昔はベストバイは夏の号だった。
それを12月発売の号に変更したのは、
夏のボーナスよりも冬のボーナス、ということも関係している。

しかも賞も同じ時期に行う。
オーディオショウも同じである。

そんなことが関係しての熱量の減少ともいえる。

こうやって書いていて思うのは、編集者は読者の代弁者なのか、である。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その11)

ヴァイタヴォックスはVitavox。

ラテン語でvitaeは生命、voxは声を意味する。
Vitavoxのブランドが、 vitae voxから来ているかどうかは知らないが、
そうなのかもしれない。

だとすれば、Vitavoxは、生命の声ということになる。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その12)

フィリップスのLHH2000は、確かにプロフェッショナル用CDプレーヤーだった。
その数年後に登場したLHH1000は、型番の上ではプロフェッショナル用ということになるし、
トランスによるバランス出力を備えていた。

一見すればプロフェッショナル用と見えなくもない、このCDプレーヤーは、
音を聴けば、コンシューマー用CDプレーヤーであると断言できる。

LHH2000はフィリップスの開発、
LHH1000はブランド名こそフィリップスであっても、開発はマランツである。
でも、そういうこと抜きにしても、
この項でくり返し書いている音の構図という、この一点だけで、
少なくとも私の耳には、LHH1000はプロフェッショナル用とは聴こえなかった。

ことわっておくが、LHH1000の音がダメだ、といいたいのではなく、
プロフェッショナル用かコンシューマー用かを、
型番やブランドではなく、音で判断するのならば、コンシューマー用ということだけである。

LHH1000だけではない。
その後に登場したLHHの型番がつくCDプレーヤーのすべて、
プロフェッショナル用とは私は思っていない。

プロフェッショナル用が、コンシューマー用より優れている、といいたいわけではない。
このころまでのプロフェッショナル用機器には、
少なくとも優れたプロフェッショナル用機器には、
音の構図の確かさがあった、といいたいだけであるし、
私はそのことによって、
プロフェッショナル用かコンシューマー用かを判断している、ということである。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その11)

同じことはCDプレーヤーに関しても、いえた。

スチューダーのA727を買う時に、気になっているCDプレーヤーがあった。
アキュフェーズのDP70だった。

DP70は430,000円だった。
A727とほぼ同じだった。
どちらもバランス出力を持っている。

片やプロフェッショナル用CDプレーヤー、
もう片方はコンシューマー用CDプレーヤーと、はっきりといえた。

ステレオサウンドで働いていたから、じっくりと試聴室で聴き比べた。
DP70にかなり心は傾いたのは事実だ。

情報量の多さでは、DP70といえた。
けれど、A727に最終的に決めたのは、音のデッサン力、音の構図の確かさである。

瀬川先生がステレオサウンド 59号で、
ルボックスのカセットデッキB710について書かれていることは、ここでも当てはまる。

国産カートリッジと海外製カートリッジ、
国産カセットデッキ、テープと海外製カセットデッキ、テープの音の描き方の根源的な違い、
それはDP70とA727にもあり、
そこにコンシューマー用とプロフェッショナル用の違いが加わる。

何を優先するのかは人によって違う。
だから、DP70とA727を比較して、DP70を選ぶ人もいてこそのオーディオの世界である。

A727に感じた音の構図の確かさは、フィリップスのLHH2000にもあったし、
A727の後に登場したA730も、まったくそうだ。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その33)

物事にはすべて反動があって、
静止しているターンテーブルが動きはじめる時にも、反動がある。
ターンテーブルの重量が重いほどに、反動は大きくなる。

リンのLP12の加工精度が悪いと勘違いした人は、
その反動によるサスペンションの揺れのことが頭になかったのではないか。

リジッドなプレーヤーベースであれば、動きはじめの反動が目に見えることはないが、
フローティング型であれば、その反動をサスペンションが受け止めることになる。

サスペンションの調整がうまく行われていれば、
さほど揺れないし、揺れてもすぐに収束する。

けれどサスペンションの調整がひどければ、
つまりバランスがとれていない状態では、揺れは大きくなるし、
その揺れもなかなか収束しない。

フローティングベースが揺れていては、ターンテーブルの回転もブレているように見える。
フローティング型プレーヤーへの正しい理解があれば、
LP12のターンテーブルの加工精度が悪い、という勘違いはしない。

けれど、一知半解の人ならば、加工精度が悪いと判断してしまう。
この手のことは、オーディオにはけっこうあるような気がする。

やっかいなのは、一知半解の人は、自分の理解がいいかげんなことに気づいていない。
だから「LP12のターンテーブルの加工精度は悪い」と言いふらしていく。

それを耳にした(目にした)人の中には、
素直に信じる人もいるだろうし、疑問をもつ人もいるし、
バカなことをいっている、と思う人もいる。

素直に信じる人がどのくらいいるのかはわからないが、
その人たちが、また誰かに伝えたりする。
そうやって誤解が拡まることがある。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その23)

「’81世界のセパレートアンプ総テスト」は、
ステレオサウンド 59号の少し前に発売になっている別冊だ。

59号の新製品紹介で、瀬川先生はルボックスのカセットデッキB710について書かれている。
     *
 たとえば、カートリッジを比較の例にあげてみると、一方にオルトフォンMC30又はMC20MKII、他方にデンオンDL303又はテクニクス100CMK3を対比させてみると、オルトフォンをしばらく聴いたあとで国産に切換えると、肉食が菜食になったような、油絵が水彩になったような、そういう何か根元的な違いを誰もが感じる。もう少し具体的にいえば、同じ一枚のレコードの音が、オルトフォンではこってりと肉付きあるいは厚みを感じさせる。色彩があざやかになる。音が立体的になる。あるいは西欧人の身体つきのように、起伏がはっきりしていて、一見やせているようにみえても厚みがある、というような。
 反面、西欧人の肌が日本人のキメ細かい肌にかなわないように、滑らかな肌ざわり、キメの細かさ、という点では絶対に国産が強い。日本人の細やかな神経を反映して、音がどこまでも細かく分解されてゆく。歪が少ない。一旦それを聴くと、オルトフォンはいかにも大掴みに聴こえる。しかし大掴みに全体のバランスを整える。国産品は、概して部分の細やかさに気をとられて、全体としてみると、どうも細い。弱々しい。本当のエネルギーが弱い。
     *
ここでも西欧人と日本人の身体つき、肌ざわりについて触れられている。
《そういう何か根元的な違いを誰もが感じる》と書かれている。

この根源的な違いを理解しないままに、細身の音を自分勝手に描いていったのが、
知人の「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」だった。

オーディオに興味を持ち始めたころ、
オーディオ雑誌を読みはじめたころは、
そこに登場するオーディオ評論家の中から、自分と合いそうな人を探そうとするものだ。

時として、というより、読み手によっては、
そのオーディオ評論家は憧れとなったり、目標となったりすることもある。

知人にとっては、それは瀬川先生だった。
私もそうだった。

知人や私と同じ、という人は、この時代のオーディオを体験してきた人の中には多いはずだ。
それでも、瀬川先生とまったく同じという人は、おそらく一人もいない。

瀬川先生の指向される音と基本的に同じであっても、
重なり合うところはあっても、それでも一人ひとりみな違う。

読み手はそのことに気づく。
同じところ、似ているところもあれば、違うところもある。

同じになりたい、と仮に願っても決してそうはなれない。
けれど、知人はそこが違っていたように思う。

知人は、自分自身に瀬川先生を重ね合わせていたのではないだろうか。
多くの読み手は、瀬川先生に、自分自身を重ね合わせていたはずだ。

Date: 11月 26th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その22)

こう書かれている。
     *
 どこまでも細かく切れ込んでゆく解像力の高さ、いわばピントの鋭さ。澄み切った秋空のような一点の曇りもない透明感。そして、一音一音をゆるがせにしない厳格さ。それでありながら、音のひと粒ひと粒が、生き生きと躍動するような,血の通った生命感……。そうした音が、かつてのJBLの持っていた魅力であり、個性でもあった。一聴すると細い感じの音でありながら、低音の音域は十分に低いところまで──当時の管球の高級機の鳴らす低音よりもさらに1オクターヴも低い音まで鳴らし切るかのように──聴こえる。そのためか、音の支えがいかにも確としてゆるぎがない。細いかと思っていると案外に肉づきがしっかりしている。それは恰も、欧米人の女性が、一見細いようなのに、意外に肉づきが豊かでびっくりさせられるというのに似ている。要するにJBLの音は、欧米人の体格という枠の中で比較的に細い、のである。
     *
日本人の女性でも、スタイルのいい人はいる。
けれど、欧米人の女性のスタイルのいい人と違うのは、体の厚みである。

正面から見るとウエストが細く見えても、欧米人の女性は厚みがある。
日本人の女性は、正面からは同じように細くて、横からみると薄い。

ウエストのサイズを測れば、当然欧米人の女性の方が数値としては大きくなる。
何もウエストまわりのことだけではない。

全体として日本人の体格は薄い。
同じように細身であっても、ここが違う。

JBLのアンプの音。
SA600、SG520、SE400Sの音は、細身の音である。
けれど、その細身の音は《欧米人の体格という枠の中で比較的に細い》のであって、
それはボディの厚みをもった細さである。

この大事なことを知人の頭からはまるごと抜け落ちていた。
知人は、細身の女性が好きだった。

その細身の女性とは《欧米人の体格という枠の中》での細いではなく、
日本人の体格という枠の中での細いであった。

知人の好みだから、それでいいのだが、
それをそのまま瀬川先生の音に当てはめてしまっていた。

Date: 11月 26th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その21)

その20)を書いたのが、2011年11月。
さすがに間を空けすぎた。

(その20)の続きとして書こうと思ったが、
別項「音を表現するということ(間違っている音)」で、
そこで、「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」といった知人のことを書いているから、
瀬川先生の音について、書きたい。

私も瀬川先生のリスニングルームでの音は聴いていない。
熊本のオーディオ店に来られたときに鳴らされていた音を、何度か聴いているだけである。
あとは、ほとんどの人と同じで、瀬川先生の書かれた文章を読んでの想像である。

よく瀬川先生音は、細身で柳腰、
そんなふうに語られることがある。

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」といって、間違った音を出していた知人も、
そう思っていた。

けれど、彼の場合、瀬川先生の文章をほんとうに読んでいたのか、
甚だ疑問である。

知人は「読んでいた」という。
けれど、彼の頭の中には、何が残っていたのか。

たとえば細身の音にしても、知人の認識は、
ただ一般的な意味での細身の音でしかない。

瀬川先生の書かれたものを丹念に読んでいれば、そうでないことはわかっているはすである。
何も瀬川先生が、ずっと以前に書かれていたことを持ち出そうとするわけではない。

知人も、何度も読み返した、といっていて、
その原稿のコピーを、彼はリスニングルームに飾っていた。

そこに書かれていることですら、彼の頭の中にはなかった。

ステレオサウンド別冊「’81世界のセパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」に書いてあることだ。