Author Archive

Date: 7月 16th, 2018
Cate: 名器

名器、その解釈(マッキントッシュ MC75の復刻・その5)

ステレオサウンドが以前出していた「世界のオーディオ」シリーズの一冊、
マッキントッシュ号で、各オーディオ評論家の「私のマッキントッシュ観」がある。

瀬川先生が書かれている。
     *
 昭和41年の終りごろ、季刊『ステレオサウンド』誌が発刊になり、本誌編集長とのつきあいが始まった。そしてその第三号、《内外アンプ65機種—総試聴》の特集号のヒアリング・テスターのひとりとして、恥ずかしながら、はじめてマッキントッシュ(C—22、MC—275)の音を聴いたのだった。
 テストは私の家で行った。六畳と四畳半をつないだ小さなリスニングルームで、岡俊雄、山中敬三の両氏と私の三人が、おもなテストを担当した。65機種のアンプの置き場所が無く、庭に新聞紙をいっぱいに敷いて、編集部の若い人たちが交替で部屋に運び込み、接続替えをした。テストの数日間、雨が降らなかったのが本当に不思議な幸運だったと、今でも私たちの間で懐かしい語り草になっている。
 すでにマランツ(モデル7)とJBL(SA600、SG520、SE400S)の音は知っていた。しかしテストの最終日、原田編集長がMC—275を、どこから借り出したのか抱きかかえるようにして庭先に入ってきたあのときの顔つきを、私は今でも忘れない。おそろしく重いそのパワーアンプを、落すまいと大切そうに、そして身体に力が入っているにもかかわらずその顔つきときたら、まるで恋人を抱いてスイートホームに運び込む新郎のように、満身に満足感がみなぎっていた。彼はマッキントッシュに惚れていたのだった。マッキントッシュのすばらしさを少しも知らない我々テスターどもを、今日こそ思い知らせることができる、と思ったのだろう。そして、当時までマッキントッシュを買えなかった彼が、今日こそ心ゆくまでマッキンの音を聴いてやろう、と期待に満ちていたのだろう。そうした彼の全身からにじみ出るマッキンへの愛情は、もう音を聴く前から私に伝染してしまっていた。音がどうだったのかは第三号に書いた通り。テスター三人は揃って兜を脱いだ。
     *
このシーンをイメージしていただきたい。
《おそろしく重いそのパワーアンプを、落すまいと大切そうに、そして身体に力が入っているにもかかわらずその顔つきときたら、まるで恋人を抱いてスイートホームに運び込む新郎のように、満身に満足感がみなぎっていた》、
ここをイメージしてほしいのだ。

これはMC275だからこそ、このシーンが映える。
もしMC75だったら……。

音はMC275よりも良くなった可能性がある。
けれど、MC75を二台抱えてくることは先ず無理。
一台ずつであっても、
MC275は30.4kg、MC75は19.8kgで、
両者のアンプとしての見た目の量感は、実際の重量差以上に感じる。

MC275だから、原田編集長のその姿が様になっているわけだし、
実際に鳴った音と相俟って、瀬川先生のこころに強く焼きついたのだろう。

MC75では、そうはいかなかった(と私は思っている)。

Date: 7月 15th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その45)

ステレオサウンドの編集長である染谷一氏は、どちらなのだろうか。

無駄なことなどひとつもない、と考える人なのか、
それとも、その逆なのか。

つまり自分の失敗、間違いに対して目をつむってしまって、なかったことにしてしまう人なのか。

2009年3月8日の練馬区役所主催の「五味康祐氏遺愛のオーディオとレコード試聴会」、
この時に染谷一氏を初めてみた。
まだ編集長ではなかったころである。

この日の「五味康祐氏遺愛のオーディオとレコード試聴会」のナビゲーターが染谷一氏だった。

ステレオサウンドを手にとっても、どの記事がどの編集者担当なのかはわからない。
染谷一氏が、どの記事を担当していたのか、
私が知っているのは一本だけであり、それ以外は知らない。

どんな記事をつくってきたかがわかるだけでも、その人の印象は違ってこよう。
私が知っている一本がどれなのかは書かないが、
そのことで決していい印象は持っていない。

私の中にある染谷一氏のイメージとは、そのことが基になったうえでのものだ。
こういう人なんだ……、と思っていた。

そういう染谷一氏が2011年から編集長になっている。

染谷一氏が編集長になってからの二冊目のステレオサウンドで、
オーディスト」が誌面に、大きく登場した。

編集長をつとめる雑誌の読者を、
audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)呼ばわりしたことになる。

audistをGoogleで検索していれば未然に防げたことだが、
おそらくそんな簡単なこともやらなかったのだろう。

知らぬこと(調べなかったこと)とはいえ、オーディスト呼ばわりしたことになる。
その後の染谷一氏の態度はどうだったか。

何もしてなかった。
染谷一氏は、読者をオーディストと呼んでおいて、そのことに何も感じなかったのか。
少なくとも、その後のステレオサウンドの誌面を見る限りは、そうである。
2009年のころとは違って、染谷一氏は編集長である。

誌面から判断できること(われわれ読者は誌面からしか判断できない)は、
染谷一氏は、
自分の失敗、間違いに対して目をつむってしまって、なかったことにしてしまう人のように映る。

これに反論する人は、
avcat氏にはすばやく謝罪しているだろう、違うのではないか、というはず。

このところが、この項で取り上げていることにつながっている、と考えている。

Date: 7月 14th, 2018
Cate: 名器

名器、その解釈(マッキントッシュ MC75の復刻・その4)

MC275に限らないのだが、
マッキントッシュの真空管アンプのステレオ仕様では、
三つのトランスの配置は、
手前から左チャンネルの出力トランス、右チャンネルの出力トランス、電源トランス、
である。

右チャンネルの出力トランスは、左チャンネルの出力トランスと電源トランスにはさまれている。
もうこれだけでも、左右チャンネルの条件は違ってくる。

トランス同士の磁気的、振動的、熱的などの干渉が、
左チャンネルと右チャンネルとでは、かなり違ってくる。

さらに出力管との配線の条件も、これほどではないにしても違ってくる。
ここでも左チャンネルが、右チャンネルよりも重視した配線となる。

これらの違いに加えて、先に述べた初段管と次段管との配線の違いがあるわけだ。
MC275は、左右チャンネルをできるだけ等しくするという観点からみれば、
時代遅れのアンプとみられても仕方ない点が、このようにいくつもある。

左右チャンネルをできるだけ等しくという点だけでも、
ステレオ仕様のMC275(MC240)よりも、モノーラル仕様のMC75(MC40)が、
圧倒的に、誰の目にも有利である。

MC275(MC240)の左右チャンネルのそういう違いが気になる人は、
モノーラル仕様のMC75(MC40)を買いましょう、といっているようにも思える。

実際にはMC275(MC240)はモノーラル使いもできる。
その場合には、出力は二倍になる。
より大出力を必要とする人のためのステレオ仕様であったのかもしれない。

そのへんははっきりとしないが、
少なくともMC275を、左チャンネルと右チャンネルの音を厳密に比較すると、
人によっては無視できないほどの違いは生じている。

くり返すが、それが気になる人は、モノーラル仕様を買えばいいのだ。

この点を井上先生は、ある意味理に適っているんだよ、といわれた。
クラシックのオーケストラの配置は、左にヴァイオリン群、右に低音弦群なのだから、と。

Date: 7月 14th, 2018
Cate: 名器

名器、その解釈(マッキントッシュ MC75の復刻・その3)

マッキントッシュの真空管パワーアンプで、
ステレオ仕様なのはMC225、MC240、MC275であり、
MC240とMC275にはモノーラル仕様のMC40、MC75がある。

音だけで比較するなら、モノーラル仕様のMC40、MC75が、
MC240、MC275よりもいいであろう。

それでも、私の場合、欲しいと思うのは、
ステレオ仕様のMC275である。
MC75を特に欲しい、と思ったことはない。

それは多分に五味先生の影響が大きいのだが、
そのことを念頭において両機を眺めても、MC75のスタイルに魅力を感じないわけで、
やっぱりMC275なのだと、あらためて思うわけだ。

MC275とMC75は、回路はほぼ同じである。
ただ電源部の整流回路が、MC275とMC75では違う点があるくらい。

けれど一つのシャーシーにまとめなければならないステレオ仕様では、
トランスの向きも90度違うし、外観だけでなく内部にも違うはある。

これはMC275の回路図をみれば記載してあるので気づいている人は多いことなのだが、
初段の12AX7から次段の12AU7への配線は、
左チャンネルは通常の配線材なのに、右チャンネルはシールド線が使われている。

回路図にも右チャンネルの、この部分にはシールド線のマークがついている。
これはMC275だけでなく、MC225、MC240でも同じになっている。

初段の12AX7は、どのモデルも入力端子のすぐそばにある。
この隣に左チャンネルの12AU7、12BH7、12AZ7と並び、
12AZ7の隣に、右チャンネルの12AU7が来て、12BH7、12AZ7となっている。

つまり初段の12AZ7は、内部の2ユニットを左右チャンネルに振り分けていて、
そこから左チャンネルの次段(12AU7)までは最短距離で結線されているのに対し、
右チャンネルは間に三本の真空管の分だけ配線距離が長い。

それゆえに右チャンネルはシールド線を使っているわけだ。

Date: 7月 14th, 2018
Cate: デザイン

「オーディオのデザイン論」を語るために(その4)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏だけでなく、多くのものが、
よくもわるくも,スマートになっていっているように感じる。

フルトヴェングラーの演奏によって、
《きくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
とある。
だからこそ、若い人であっても、あらゆる世代の人がフルトヴェングラーの演奏を、
いま聴く。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
だけではないはずだ。
だけであったら、寂しすぎる。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる音(オーディオ)、
時代の忘れ物に気づかさせてくれるデザインがある、と信じている。

それは古いモノに限らない。

Date: 7月 13th, 2018
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ

ハイレゾリューションの方式のひとつであるMQA
まだ聴く機会はないが、すでに聴いている友人の話では、そうとうに期待がもてそうである。

ユニバーサルミュージックからMQAを採用したハイレゾCD名盤シリーズが出ている。
9月19日から邦楽30タイトルが新たに発売になる。

ラインナップを見ていた。
そこに期待していなかった名前があった。
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」が30タイトルの中に入っている。

おぉっ、と声が出そうになった。
まったく期待していなかっただけに、よけいに嬉しい。

すぐに聴ける環境はないし、すぐに整えられるわけでもないが、
ディスクだけは購入しておきたい。

それにしても、私にとっては微妙な時期に出してくれるな、というところ。
なぜ微妙な時期なのかは、いまのところまだ書けない。
一ヵ月後くらいには、はっきりしてくるし、書けるようになるはずだ。

二週間ほど、グラシェラ・スサーナの一枚だけでも発売を早めてほしいところ。

Date: 7月 13th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その7)

無人島に流されることになったら、何をもっていくのか。
ここではレコード(録音物)について書いている。

そのレコードがLPであれ、CDであれ、他のメディアであれ、
それを再生するためのシステムが絶対に必要になる。

そのシステムをどうするのか。
ここから始めなければ、答は出るようで出ない、ところもある。

それに、その無人島にどのくらいの期間いるのか。
死ぬまでなのか、それとも期限付きなのか。

その期限は一年、二年、もっと長くて五年、十年なのか。
その長さによっても、答は微妙に変ってこよう。

それにその無人島の環境はどうなのか。
暖かいのか、それとも寒い地域にある無人島なのか。

つねにどんよりした雲が覆っている日ばかりが続くのか。
それともからっとさわやかな風が吹き、青空の下で音楽を聴くような環境なのか。

そんなことをひとつひとつ考えていったら、きりがない。
「無人島に……」と聞いて、真っ先に浮ぶレコード。
上記したこまかなことなどは関係なく真っ先に浮ぶレコードはなんなのか。

まず浮んだのは、グレン・グールドのレコード(録音物)である。
バッハでもない、モーツァルトでもない、ブラームスでもない、
ハイドンである。

Date: 7月 13th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その15)

(その14)へのfacebookでのコメントに、
オリジナルでなければ、それほど後ろ髪をひかれることもないのでは……、とあった。

オリジナルでないから、グッドマンのAXIOM 301や401を見つけてこようとは、
さほど強く思わなかった。

いまになって後悔しているのは、
現行製品の30cmダブルコーンのフルレンジをあれこれ試していくのに、
なかなか都合のいいエンクロージュアだったかも……、と思っているからである。

SICAのダブルコーンもいいし、
友人のOさんが購入したBeymaのそれもいい。

特にBeymaのスペックを見ると、
いまどき、よくこんな性格のユニットを製造しているな、と感心するくらいのモノ。
インピーダンスカーヴだけでも、そのことはわかる。
かといって、古いまま造っているわけでもない。

コイズミ無線で購入できるモノには、ドイツ製のユニットもある。
コイズミ無線が取り扱っていないメーカーのなかにも、
30cmダブルコーンのフルレンジは、そんなに多くはないだろうが、あるような気がする。

中古にまで目を向ければ、使いたい(鳴らしてみたい)ユニットは、いくつかある。
それらのユニットを、どれか手に入れたとして、
じゃ、箱はどうするのか? となる。

平面バッフルもいいけれど、箱もいい。

いま同じ箱(シャーウッド型のエンクロージュア)で、
同程度のしっかりとした造りのモノを、当時と同じ価格で手に入れられるとはあまり思えない。

それに現実問題として、いまの部屋では、スペース的にちょっと無理がある。
そんなことがわかっていての、少々の後悔なのである。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その14)

十年以上前になるが、グッドマンのシャーウッド型と呼ばれるエンクロージュアを手に入れた。
立方体に近い形状で、リアバッフルにグッドマンならではのARUがついていて、
フロントバッフルは傾斜しているエンクロージュアである。

オリジナルではなかった。
国産箱だったけれど、そうとうにしっかりと作られたモノだった。

ユニットは30cm口径が取り付けられるようになっていた。
古いモノだから、くたびれていると感じるところもあったが、
そのころ、こんなエンクロージュアをほしがる人もいないようで、格安だった。
とりあえず買っておこうかな、そんな気持だった。

30cm口径のウーファーを入れて、マルチウェイにしようか、とも考えたし、
30cm口径のフルレンジを入れてのシステムもいいなぁ、と考えていた。

グッドマンのユニットが、中古で出たらそれにしようか、とか、
現行製品の30cm口径のフルレンジを取り付けようか、とか、
そんなことを考えるのが楽しいことは、オーディオマニアならば分ってくれよう。

引っ越しのときも捨てずにいた。
けれど、スピーカーが増えて、どうにもならなくなり、粗大ごみとして処分した。
そのときはそれほどもったいない、とは感じなかった。
もちろんまだ持っていたかったけれども。

いまごろになって急に、やっぱり捨てなければよかった、と後悔している。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その7)

友人(オーディオマニアでもある)のAさんと、
先月も今月も、とんかつを食べにいっていた。

とんかつ屋で飲み、あれこれ食べて、最後に定食。
そしてデザート、コーヒーというのが、二人の間で流行っている。

そんなことができるとんかつ屋は、東京でもそう多くはないはずだ。
それに、あまり遠くに出掛けるのも億劫だし。

とんかつ屋も、やはりブームのようである。
つい先日も、二軒のとんかつ屋に行列ができていた。
どちらも予定していた店である。

飲んで食べてデザートまで、という店は、
最高のとんかつの提供を掲げている店ほどではない。

気軽に入れる店で、美味しい店だから繁盛するのもわかる。
最高のとんかつの提供を掲げている店も、行列はすごいのは知っている。

長い行列に並んでまで、という気持は二人ともない。
入ろうとしていたとんかつ屋が行列だったから、違う店に入り少しばかり飲み食いして、
行列がなくなったころをみはからって、ふたたびとんかつ屋に向う二人である。

東京で話題になっている最高級のとんかつ屋にはまだ行っていない。
そこでのとんかつがどういうものなのか、食べてないのだから何も言えないのだが、
先日Aさんと二人で食べたとんかつは、ご飯とよく合うのだ。

これは嬉しい驚きである。
とんかつだけを食べるよりも、ご飯といっしょに食べたくなるとんかつである。

もしかすると、最高級のとんかつ屋のとんかつは、
とんかつだけで食べた方が美味しいのかもしれない……、
そんなことを勝手に思いながら味わっていた。

今回食べたとんかつ屋のとんかつよりも、もっと美味しいとんかつはあるだろうし、
ご飯にしても、もっと美味しいご飯を出すところはあるはずだ。

けれど、とんかつとご飯をいっしょに食べての美味しいは、
個々のとんかつ、ご飯が美味しければ、それで味わえるとはかぎらない。

スピーカーとアンプの組合せは、そこはまったく同じである。

伊藤先生が《ラーメンと共に日本人に好かれる食いもの》とされるとんかつは、
ご飯と合うからこその《日本人に好かれる》わけだろう。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで(さらに追記)

スピーカー技術の100年」を読んでいる。

細部まで熟読まではしておらず、最初から最後までパッと目を通した程度なのだが、
ひとつ気になったことがある。

333ページに《オーディオ研究家の加藤秀夫》とある。
これはそのとおりである。

331ページ《レコード演奏家として著名な高城重躬》とある。
ここがひっかかっている。
些細なことである。

けれど、高城重躬氏は、菅野先生の定義されるところのレコード演奏家だろうか。
オーディオ研究家に、なぜされなかったのか。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その44)

ステレオサウンドに入って、一年くらい経ったころに、
菅野先生からいわれたことは、いまもはっきりと心に刻んでいる。

世の中には無駄なことはひとつもない、といわれた。
続けて、無駄なことと思うのは、そう思う本人が、無駄なことにしているだけだ、と。

そんなの無駄、そのひとことで片付けてしまう人こそ、バカだ、とも、
はっきりといわれた。

ほんとうにそのとおりだ、と思ってきいていた。
このことは、歳を重ねるとともに、深く実感している。

かっこつけているつもりなのか、
オーディオのことに限っても、「そんなの無駄!」と切り捨てるかのようにいう人がいる。
そういう人には、もう何もいわない。
心の中で、「あなただけが無駄にしているだけでしょう」と呟くだけだ。

人は、どんな人であれ、間違いを犯したり、失敗をやってしまう。
間違いも失敗も、完全に拒否するには、何もしないことだ。

問題は、自らの間違いや失敗から、目を背けてしまう人がいる、
目をつむってしまう人がいる──、
つまりなかったかのようにふるまう人がいる、ということだ。

簡単に記憶から消し去ってしまっているのだろうか。
だとしたら、ひとつの特技といえよう。

けれど、そういう人は、無駄をそうやって生み出していることに気づいていない。
無駄なことはひとつもない、とは絶対に思っていない人だ。

ジュニアさん、朝沼予史宏さんは、そういう人ではない、と信じている。
けれど、ステレオサウンドの染谷一編集長は、どうなのか。

そこが知りたいし、そこをはっきりさせたい、と思い書きつづけている。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その5)

QUADの405の全ヴァージョンを集めて比較試聴できれば、
そうとうな音の変化を確認できるのではないだろうか。

もっともいま全ヴァージョンを集めたところで、
古いヴァージョンにおいては、まったく手が加えられていない405はまずないだろうし、
そんな405があったとしたら、きちんと動作していない405の可能性が高い。

厳密な比較試聴は、まず無理である。
特に、そんな比較試聴をやりたいわけではなく、
405の音が変っていった理由を知りたいだけである。

ひとつ考えられるのは、コントロールアンプの44である。
405が登場した1976年は、44はなかった。
QUADのコントロールアンプは33だった。

33+405という組合せもあった。
実際に、この組合せで当時聴いていた人はいた。

QUADは、製品開発にじっくりと取り組む。
有名なのはESL63である。型番末尾の63は、開発が始まった1963年を表わす。
ESL63が登場したのは、1981年である。

44の場合、そこまで長い開発期間ではないだろうが、
一年よりは長い、と思っている。

405の発売直後あたりから、開発にとりかかっていたのではないか。
最初のプロトタイプが出来、405と組み合わせての試聴。
そして改良、また試聴。
その工程のくり返しにつれて、405の音が変っていった、とはいえないだろうか。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その9)

駅からの帰り道。
すれ違った小学中学年くらいの女の子とそのお母さん、それにお母さんの友だち、
と思われる三人組とすれ違った。

女の子が主張していた。
「映画館って、映画観るだけでしょ。何が楽しいの。観る以外何もないでしょ」と。

お母さんも、その友だちも苦笑いしているように見えた。
映画館は、女の子のいうように映画を観るところであり、
映画を観る以外の何かは、ほとんどない。

パンフレットを買ったり、上映中の映画の関連グッズが少し販売しているくらい。
あとは、おきまりのポップコーンくらいか(私は嫌いなので買わないけれど)。

私が、その女の子と同じくらいのころ、
映画はけっこうな娯楽だった。
近所の歩いて行ける名画座でもそうだったし、
バスに一時間ほど乗って、熊本市内のロードショー館でみる新作映画は、
もっともっと楽しい娯楽であった。

映画を観るだけ、であった。
それが、たまらなく楽しかった。

いまは、どうも違うのか。
それとも、その女の子だけが特別なのか。
その女の子と同世代の子たちも、同じように映画館をつまらない場所だと思っているのか。

この女の子は、映画館を、ディズニーランドとかのテーマパークと比較して、
そんなことを言っていたのか。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その13)

(その12)で、友人のOさんが、秋葉原に行く、ということを書いている。
コイズミ無線で、Beymaの30cm口径のダブルコーンの12GA50を購入。
さっそく今日聴いています、という連絡があった。

ダブルコーンのフルレンジユニットの周波数特性は、
グラフをみると中高域がアバレ気味で、中高域のクセが強いのでは? と、
つい思いがちになる。

そういう傾向のダブルコーンのフルレンジがあるのも確かだ。
けれど30cm口径ともなれば、中低域の量感もきちんとある。
バランス的に、小口径の、同じ傾向のダブルコーンのフルレンジよりも、
案外気にならないのではないか、と思っている。

Beymaの12GA50の音は、懸念されるようなクセはない、とOさんから連絡があった。
そうだろう、と思う。

12GA50は、こんな値段で大丈夫なの? と思いたくなるような価格設定だ。
一本約一万五千円。

ふつう、この価格の、この口径だとフレームはプレス製だと思いがちだが、
アルミダイキャストである。

振動系、磁気回路が同じでも、
フレームが違えば、聴感上のS/N比が違ってくる。
聴感上のS/N比は聴感上のfレンジにも関係してくることは、
以前書いている通りだ。

Oさんは、このブログを読み、12GA50を購入されている。
つまりOさんにとって、このブログは、
別項「黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」に出てくる「口コミ」となったわけだ。