「オーディオのデザイン論」を語るために(その4)
黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
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今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
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クラシックの演奏だけでなく、多くのものが、
よくもわるくも,スマートになっていっているように感じる。
フルトヴェングラーの演奏によって、
《きくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
とある。
だからこそ、若い人であっても、あらゆる世代の人がフルトヴェングラーの演奏を、
いま聴く。
時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
だけではないはずだ。
だけであったら、寂しすぎる。
時代の忘れ物に気づかさせてくれる音(オーディオ)、
時代の忘れ物に気づかさせてくれるデザインがある、と信じている。
それは古いモノに限らない。