Author Archive

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その7)

私と同世代、近い世代のオーディオマニアで、
若いころJBLに憧れていた──、そしてJBLのスピーカーを鳴らしている。

けれど、アルテックのスピーカーを、四十代、五十代になって聴いて、
JBLに憧れてはいたけれど、自分が求めていた音は、
JBLよりもアルテックだったのではないか──、
そういう人を、いまのところ三人知っている。

三人が多いのか少ないのかは、なんともいえないが、
この三人のオーディオマニアの気持はわかる、というか、
わかるところがある。

JBLがほんとうに輝いていた時代がある。
その時代を十代のころ、もしくはハタチ前後のころに体験していた人にとって、
アルテックはライバルなのはわかっていても、
輝きは乏しかっただけでなく、輝きを失い始めているような感じさえしていた。

だからこそ、いつかはJBL、と思っていたはずだ。
私もそうだった。

それに、そのころ、少なくとも私が住んでいた熊本では、
JBLを聴く機会は当り前のようにあったけれど、
アルテックのスピーカーとなると、熊本で聴いたことは一度だけだった。

三人のうちの一人は、私よりも少し上だが、
若いころアルテックを聴く機会はなかった、といっていた。
そして、JBLを鳴らしている。

JBLの輝きが強すぎた時代には、
アルテックはくすんでしまったように見えてしまっていた。

聴く機会がなかった、少なかった、ということは、
オーディオ業界全体も、そんなふうに見ていたのかもしれない。

けれど四十代、五十代になって、何かの機会でアルテックの音を聴く。
そこで、もしかすると……、と思ってしまった人を、三人知っているわけだ。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その6)

私と同世代のオーディオマニアにとって、
JBLというスピーカーは、輝いて見えていた。

もちろんアンチJBLの人が少なからずいるのは、
アンチ・カラヤンの人が少なからずいるのと同じかもしれない。

1970年代後半、中学生、高校生だった私の目には、
JBLのスタジオモニターだけでなく、
パラゴンも、過去のモデルとはなっていたがハーツフィールドも、
なにか特別な存在のように映っていた。

JBLのライバル的スピーカーメーカーといえるのが、
アルテックとタンノイだった。

同じアメリカのスピーカーメーカー、それも西海岸のメーカーであり、
その成り立ちをたどっていくと、どちらも同じウェスターン・エレクトリックにたどりつく。

JBLとアルテックは、確かに、あの当時ライバル同士だった。
JBLが4343、4350などのスタジオモニターを出していたころ、
アルテックはどうだったかというと、プロ用としてはA5、A7が現役モデルであったし、
604-8Gを搭載した620、612などだった。

輝いて見える、という点では、
JBLがアルテックよりもはるかに上だった。

私と同じようにそう見ていた人は少なくない、はずだ。

アルテックは、4343の成功に刺激されてだろう、
604-8Hを中心とした4ウェイのスタジオモニター6041を出してきた。

アルテックらしい、といえるし、おもしろい製品ではあったが、
4343ほどの完成度というか、洗練されていたスピーカーではなかった。

4343には4341というモデルがその前にあったし、
上級機として4350があったのだから、6041とはベースが違う。

6041はII型になったが、
4341が4343になったような変更ではなかった。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その22)

誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。

エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。

エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。

どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。

これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。

アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。

そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。

どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その4)

越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。

中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。

ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。

そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。

もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。

映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。

映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。

最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。

映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。

なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。

そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。

しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。

これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: audio wednesday

第111回audio wednesdayのお知らせ(218+α)

4月1日のaudio wednesdayは、
メリディアンの218に、いくつかのオーディオ用アクセサリーを、
あれこれ試しながらの試聴になる。

オーディオ用アクセサリーと書いてしまったが、
オーディオ用アクセサリーとして市販されているモノは、一つだけ持っていく。

あとはオーディオ用と謳っているモノではない。

ただ、メインとなるモノが、まだ海外から届いていない。
予定ではそろそろ届くはずなのだが、
もしかすると今回は間に合わないかもしれない。

テーマがテーマだけに、しっかりと試聴してもらいたい、と考えている。
そのため、最初の二時間(19時から21時まで)は、ディスクに一枚に絞る。

どれにしようかと迷っていたが、
別項で触れているアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲にするつもりでいる。

おもに四楽章と五楽章を鳴らし、
あいだに一楽章をはさんでいく予定でいる。

とにかく開始からほぼ二時間は、このディスク以外はかけない。
218+αのテーマを一段落してからの21時以降、
さまざまなディスクをかけていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 3月 17th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その11)

別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。

218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。

音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。

その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。

私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その10)

iPhone(スマートフォン)でインターネットに接続していると、
さまざまな広告が表示される。

それらの広告で知ったのが、リコーフォトアカデミーだった。

ゼミナール、教養講座、ワークショップ、基礎講座が組まれている。
詳しいことは、リコーフォトアカデミーのサイトをご覧いただきたい。

カメラーメーカーの、こういう取り組みを知ると、
オーディオメーカーは? とやはり思ってしまう。

オーディオメーカーは、各地で試聴会を行っている。
東京では、今年は6月にOTOTEN、11月にはインターナショナルオーディオショウがある。

とにかく音は、そういう場で聴ける。
けれど、リコーフォトアカデミーのような取り組みを行っているメーカーはあるのだろうか。

リコーフォトアカデミーのページには、こうある。
     *
「カメラの使い方については一通り理解しているが思うような写真が撮れない」「自分のテーマが見つけられない」「なかなか写真が上達しない」写真を趣味として真剣に取り組んでいくと、このような悩みにぶつかる方も多いのではないでしょうか。

リコーフォトアカデミーでは、様々な被写体に対する撮影テクニックだけでなく、何をテーマとして何を表現するのか、という写真の本質を学べるカリキュラムを中心に、写真を生涯の趣味として楽しんでいくためのヒントとなる講座を幅広く開講いたします。
     *
このことは、オーディオにそっくりあてはまる。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その3)

先週、二日ほどアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲を、
それこそくり返し聴いていた。

モバイルバッテリーでいろいろ試すためのディスクとして、
このディスクを選んだからである。

アバドの幻想は、ステレオサウンドで、当時試聴ディスクだったから、
試聴室ではCDでよく聴いていたし、
自宅ではLPで、飽きずに聴いていたものだ。

幻想交響曲に、特に思い入れはないから、
くり返し聴くのがわかっていたからの選曲である。

とはいっても、アバドの幻想交響曲を聴くのは、そのころ以来である。
三十年は優に経っている。

それだけの長いあいだ聴いていなくても、
第一楽章が鳴ってくると、おもしろいもので、そうだった、と思い出す。

試聴でよく聴いていたのは、いうまでもなく第四楽章であり、
第五楽章もけっこう聴いていた。

第一楽章から最後まで通して聴いたのは、数えるくらいしかない。
アバドの幻想を愛聴盤としている人からすれば、ひどい聴き方と誹られよう。

そんな聴き方ではあったが、
モバイルバッテリーのあれこれを試したあとは、通しで聴いた。

聴き終って、
アバドとウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの三番を無性に聴きたくなった。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その8)

入魂の音、
それも全神経を傾注したの結果による音ではなく、
魂のこめられた音という意味での、入魂の音というのはあるのだろうか。

ありますよ、といってくる人がいる。
入魂の意味を説明したうえでも、ありますよ、といってくる人がいる。

音に魂が込められるのか──、
そのことを問いたいのではない。
その前の段階のことを問いたい。

音に魂を込める。
その魂は、どこから持ってくるのか。

そう問えば、自分の中からだ、という答が返ってくるはずだ。

人は生きているから、どこかに魂はあるといえる。
けれど、問いたいのは、あなたの魂は目覚めているのか、だ。

睡ったままの魂を、どうやって音に込めるのか。

なぜオーディオをやってきたのか。
ここまで情熱を注いできたのか。

結局、自分の魂を目覚めさせよう、としてきたのだと、
ここにきておもうようになった。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その7)

マカラはメカニズムを専門とするメーカーがつくりあげたプレーヤーシステムである。
マカラの人たちは、片持ちが音にどういう影響を与えるのか、
そのことを知っていたのかどうかはわからない。

それでもメカニズムの専門家として、片持ちの製品を世の中に送り出すことはしなかった。
マカラのプレーヤーシステム4842は、いまから四十年前に登場している。

なのに現在のプレーヤーHolboが片持ちのまま製品化している。
片持ちのままのプレーヤーを、製品と呼んでいいのか、という問題はここでは語らないが、
なぜ片持ちのままなのか。

メーカーの開発者に訊くしかないのだが、
おそらくトーンアームの高さ調整との関係ではないのか、と推測できる。

片持のリニアトラッキングアームであれば、
弧を描く通常のトーンアームと同様の機構で、
トーンアームの高さを調整できる。

けれどベアリングシャフトと呼ばれているシルバーの太いパイプを両端で支えたとしよう。
この構造で、高さ調整をすると、調整箇所が二箇所になる。

エアーベアリング型のアームにとって、
ベアリングシャフトの水平がきちんとでていなければ動作に支障がでる。

片持ならば、調整箇所は一箇所で、
基本的にはプレーヤー全体の水平が確保されていれば、
ベアリングシャフトも水平ということになるし、
高さを変更しても水平は維持できている(はずだ)。

ところが高さ調整の箇所が両端二箇所ともなると、
プレーヤー全体の水平は出ていても、
ベアリングシャフトの水平は、二箇所をきちんと調整する必要がある。

いいかげんな調整では水平が微妙に狂ってしまう。
その点を防ぐには片持ち構造が、いちばん楽な方法である。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その6)

ホルボのHolboというアナログプレーヤーを、
片持ちの代表例として取り上げたのには、一つだけ理由がある。

Holboは、プレーヤーシステムであるからだ。
トーンアーム単体ならば、他の例といっしょに取り上げただろうが、
くり返すが、Holboはプレーヤーシステムである。

プレーヤーシステムであるならば、
この手のエアーベアリング方式のリニアトラッキングアームの片持ちは、
メーカーが気付いているのであれば、なんとかできるからだ。

1980年第後半、アメリカからリニアトラッキングアーム単体がいくつか登場した。
それらのなかには、Holboに搭載されたトーンアームとよく似たモノがあった。

でも、それらのリニアトラッキングアームは、
既存のアームレスプレーヤーに取り付けなければならない。

取り付けのためのアームベースは、メーカーによって違ってくるが、
多くのモノは、弧を描く一般的なトーンアーム用のスペースしか想定していない。

その限られたスペースに、リニアトラッキングアームという、
別の動きをするトーンアームを取り付けなければならない。
そのために片持ちにならざるをえなかった面もあるとはいえる。
それでも工夫はできたはずだが。

エアーベアリング方式で、リニアトラッキングアームといえば、
日本のマカラが最初のモデルのはずだ。

余談だが、
1979年のオーディオフェアで発表されていたフィデリティ・リサーチのプレーヤーは、
プロトタイプであったが、このマカラをベースにしていた。

マカラのリニアトラッキングアームも、一見すると片持ちのようにみえるが、
片持ちになっていると思われる側は、下部からの支柱があるのがわかる。

Date: 3月 14th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(長生きする才能・その2)

朝の来ない夜はない、
春が訪れない冬はない、
そんなことが昔からいわれ続けている。

苦境にいる人を励まそうとしてのことなのだろうし、
自分自身に言い聞かせている人もいることだろう。

確かに、朝の来ない夜はないし、
春が訪れない冬はないのも事実だ。

けれど、ここでの「夜」と「冬」は、
いうまでもなく実際の夜と冬ではない。

人によって、その「夜」と「冬」の長さは違う。

何がいいたいかというと、
「朝」を迎えるには、
「春」を歓迎するには、長生きしなければならない、ということだ。

「朝」が来る前に死んでしまえば、それは明けない「夜」、
「春」が訪れる前にくたばってしまえば、「冬」のままだったことになる。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その16)

デジタルの技術の進歩は、そういったことだけでなく、
趣味のオーディオの世界では、ハイレゾ(High Resolution)の方も向いている。
サンプリング周波数は高くなっていく。

別項で書いているように、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、
さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)を目指しているかのようでもある。

こういったデジタルの技術の進歩を、歓迎はしている。
けれど一方で、危惧するところもある。

デジタルの技術の進歩は、
鳴らし手に万能感を与えるのではないか、ということだ。

鳴らし手がほんとうに万能になるのではなく、万能感を与えるだけで終ってしまうのではないのか。
そうなってしまっては、完全に誤った道となってしまう。

そんな方向にオーディオが進んでしまった時、
それだけでなくオーディオマニアが、そんな方向に進んでしまった時、
オーディオがオーディオでなくなるとき──、ではないのか。

唐突なように感じる人もいるかもしれないが、
私は、ここでイェーツのよく知られる詩の一節をおもい出す。

“In Dreams Begin Responsibilities”

この短い一節をどう訳すのか、
どう受け止めるのかは人によって、大きく違ってくるかもしれないが、
それでも、“In Dreams Begin Responsibilities”のないオーディオは、
もうオーディオではなくなっている。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その15)

デジタルの技術は、さらにオーディオに深く入りこんできている。
自動補正も、いまやスマートスピーカーにまで搭載されるようになってきている。

(その13)で少し触れているように、
オーディオの世界にも、自動運転的な技術が当り前のようになってきている。

それはオーディオという趣味をつまらなくするとは考えていない。
再生レベルの底上げにつながっていく、という期待を私は持っている。

やみくもにスピーカーをセットして、
各種プロセッサー類を何もわからずに使っても、
いろんな偶然が重なって、いい音が出る可能性がまったくないわけではないが、
オーディオの世界は、そんな甘いものではない。

でもデジタルの技術の進歩は、最初の一歩を確実に変えていく。
レベルを向上させてくれる。

鳴らし手は、そこからスタートできるわけである。
そこまでの苦労こそが、その人の経験(実力)になっていくのは確かだが、
それでも長いことオーディオをやっている人でも、
最初の一歩ふきんで、ずっと堂々巡りしていることだってある。

オーディオは、クルマの運転と違い、教習所がない。
基本をきちんと教えてくれる人が基本的にはいない。
それに免許もいらない。

だからこそデジタルの技術の進歩が、
教習所がわり、教えてくれる人のかわりになってくれることで、
オーディオ全体のレベルは確実に上っていくはずだ。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その14)

オーディオにデジタルの技術が入ってきたことで、
レベルの底上げは確実に起った。

CDが登場する以前、カセットデッキにマイコンが搭載されるようになった。
アジマス調整、バイアス調整などをマイコンが自動的に行ってくれるようになった。

それまで、もしかするといいかげんなバイアスで録音していた人もいたであろうし、
アジマスの狂ったデッキで録音・再生している人も、まちがいなくいたはず。

そういった人たちが、マイコン搭載のカセットデッキを購入するのかはその人次第だが、
少なくともマイコン搭載のカセットデッキを使えば、
上記のようなことはまず起らない。

これだけでもテープ録音・再生のレベルの底上げにはなっていた。

そしてCDとCDプレーヤーが、1982年に登場した。
いまだ、この時、オーディオ評論家がこぞってCDを絶賛したから──、
という論調で批判する人が少なからずいるが、ほんとうにそうだろうか。

アナログディスクと比較して、CDは音が硬いとか冷たいとか、ギスギスしている。
そんなことがいわれたことがある。
いまもっていっている人もいる。

これもステレオサウンドで何度も活字になっていることなのだが、
アナログディスクをよく鳴らしている人のところでは、
CDを持ち込んでも、うまく鳴ることが多かった。

CDがひどい音で鳴る場合、たいていはアナログディスクの音も、
普遍性があまりない音で、かなり独断的な音で鳴っていた。

つまり、鳴らし手の独自の世界、といってしまうときこえはいいが、
実際のところ、独断の世界ができあがっており、
そこにCDという新しいメディアを持ち込めば、拒否反応が起る。

この拒否反応は、システムの音のことでもあり、その鳴らし手のなかで起きることでもある。
その拒否反応をどう受け止めるかで、
その後の、その人のオーディオは大きく変っていくであろうし、
あいかわらず狭い世界でままかもしれない。

そういう意味でも、CDとCDプレーヤーの登場は、
再生のレベルの底上げとなった。