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Date: 12月 26th, 2020
Cate: 書く

毎日書くということ(本音を失っているのか・その5)

映画「ワンダーウーマン1984」では、
「猿の手」のことが出てくる。

「猿の手」とは、ジェイコブズの短編小説のことだ。
「猿の手」の内容については、調べればすぐに出てくるので省略する。

願いの成就には、高い代償を伴うわけだ。
「ワンダーウーマン1984」でも、そうである。

観終って、オーディオ評論家(商売屋)も、そうなのかもなぁ、と思った。
オーディオ評論家として喰っていけるようになりたい、
一流のオーディオ評論家と呼ばれるようになりたい、
人気のあるオーディオ評論家になりたい、
そんな願いをもっていた人もいるのではないのか。

その願いはかなった、といえるだろう。
オーディオ評論家として、その名前を広く知られるようになったし、
オーディオ雑誌の年末の賞の選考委員になっている。

傍から見れば、オーディオ評論家として成功した人であろう。
けれど、願いの成就の代償として何かを失っていないだろうか。

本音を失っていないだろうか。

Date: 12月 25th, 2020
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その7)

2020年の大半は、コロナ禍である。
だった、と過去形で書けないのが、現状である。

飲食店は大変だ、と耳にする。
飲食店だけではないはずだが、
飲食店の閉店をきいたりみたりする機会がけっこうあるだけに、
新型コロナのおよぼす影響の深さを実感することになる。

この項で書いている新宿珈琲屋は、私にとってはじめての馴染みの店だった。
二年程しか通えなかったけれど、
それでも新宿珈琲屋は、馴染みの店だった。

東京で暮すようになって、来春で四十年になる。
馴染みの店はいくつかできた。

けれど新宿珈琲屋のように、それらのほとんどがなくなってしまった。
それぞれの理由で終っている。

いま馴染みの店は、いくつもない。
その数少ない飲食店も、どうなるのかはなんともいえない。

馴染みの店ではないものの、よく行く店のいくつかは今年閉店してしまった。
それだから、よけいに新宿珈琲屋のことを思い浮べる。

新宿珈琲屋がなくなり、代りになる店を一時期探した。
都内の主だった珈琲店に行った。
いまほど情報があふれる時代ではなかっただけに、雑誌が頼りだった。

でも代りとなる店、
馴染みの店となる珈琲店はついに見つけられなかった。

いまだったら、どうだろうか……、とは思わない。

あのころステレオサウンドで働いていなかったら、
あれほど新宿珈琲屋に通えなかった。

一杯五百円の珈琲は、当時としては高いほうだった。
ステレオサウンドで働く前から新宿珈琲屋のことは知っていたけれど、
アルバイトもほとんどしてなかった学生にとって、
五百円の珈琲は高いだけでなく、私の住んでいた田舎では、
高校生が一人で喫茶店に入ることが禁じられていた。

いつかは行ってみたい、と思っていた珈琲店に、
週に何度も通えるようになったのは、ステレオサウンドで働いていたからだ。

新宿珈琲屋は、あのときの私にとって《恵まれた青春》のようだった。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンをきく、ということ(その2)

(その1)には数人の方からのコメントが、facebookにあった。
読みながら思い出したことがいくつかある。

一つが、五味先生の文章である。
     *
 右の二例とも、死の恐怖に発している。恐怖が生み出した賢明さというべきかも知れぬが、私のように交通事故で人を死に至らしめ、死の恐怖を与える怖ろしさを味わった人間には、こんどの航空事故はよそごととは思えない。わけて機長のそのときの心底をおもう。乗客は恐怖を知らずに死んでいたかも知れないが機長だけは断じて知っていたはずだ。そうなら、一番残酷な死に方だろう。操縦ミスをあげつらう前に、彼はもうその恐怖で贖われていたのではないのか、そう思えてならなかった。
 私の場合は、こちらは死ななかったから贖いようはない。私が死ぬまで、これは変るまい。と今はこんなふうに書いていられるが、当座は、いても立ってもおれず辛うじてレコードを聴くことで騒ぎ立つものを鎮めていた。私に音楽を聴く習慣がなかったら、事故の直後から現在にかけて、けっして、いまあるような状態にはなれていなかったろう。これだけは確実な、体験者の述懐と申してもそう不遜な言いざまになるまいと思う。
 では何を聴いたか。音楽さえ聴いておれば胸の騒ぎは鎮まるわけのものではない。聴く習慣には、同時に選択のそれが含まれていたはずで、習慣が六百枚にあまるレコード・コレクションの中から限られた数枚を、私に抜き取らせたと思う。モーツァルトの『レクィエム』を聴いたのも、名曲、好きな曲であるからに相違はないが、それだけでああは聴けなかったろう。ほんとうに、何度、何十度私は聴いたろう。はじめは涙を流して聴いたが、ということは、茫然と、ただ事故の瞬間の光景や、私の車に飛ばされていった少年研治君の毬のようなあの軽さや、凝視、絶望感、悔い、血、そんなものが脳裏に甦って、かんじんの音楽は、何も聴いていなかったといっていい。レコードが終ると針をとめに立って行ったが、これこそ単なる習慣にすぎなかったろう。
(中略)
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
 こんどの連続した航空事故は、私の痛みを甦らせた。私は自分のためではなく、はじめて死者のためのレクィエムというものを聴いた。私の轢いてしまった二人と同様、あのジェット機の乗客たちは、まったく、何ひとつミスのない状態で死に追いやられてしまった。なんとも腹立たしい仕儀だと、生きていれば口走ることもできよう。今となってはかえらない。一切がかえらない。私は、知っているから、乗客の死をとむらう『レクィエム』をかけずにいられなかった。毎晩それで、きまった時間になると書斎に入ってモーツァルトの『レクィエム』を鳴らした。カール・リヒターの指揮したテレフンケン盤である。もう一枚、カラヤンのドイツ・グラモフォンがあるが、この演奏はひどい。『レクィエム』を純粋に音楽として鑑賞する人にはどうか知らぬが、私の耳には、腹立たしいくらい穢ない『レクィエム』だった。カラヤンという指揮者の近ごろのつまらなさは、『レクィエム』一枚に限らぬが、もう少し別な心境で私は今度の『レクィエム』をかけたつもりでいる。
 もちろん、こうは誹っても、カラヤンの振る棒にうっとりする聴衆が世界にゴマンといるのだから、この事実をそしることはできない。カラヤンがわるいのではなく私の聴き方のせいだろう。が、ほかに、私にどんな『レクィエム』の聴きようがあるだろう。
     *
「死と音楽」からの引用だ。
五味先生は、誰かに許してもらいたかったわけではないはずだ。

いかなる名曲であろうと、空前絶後の名演奏であろうと、
その行いを許してくれるわけではない。

五味先生が《轢いてしまった二人の霊》を弔うためのモーツァルトであり、
モーツァルトの『レクィエム』とともに、マーラーの交響曲、
そしてビバルディを聴いた──、と続けられている。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(余談)

映画「ワンダーウーマン」の主演女優のガル・ガドットは、
映画のなかで、眉間に皺をよせている。
かなり頻繁によせている。

監督が同じでも、皺の似合わない女優がワンダーウーマンを演じていたら、
こんなに夢中になっただろうか。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その23)

その22)を書いたのは3月だった。
そのころは三ヵ月後にコーネッタを手に入れることになろうとは、まったく思っていなかった。

でも、皺のことを書いていた。
皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーがあるような気がする、
と書いている。

このとき、私の頭になかにあったのは、間違いなくタンノイも含まれていたはずだ。
特定のスピーカーを思い浮べていたわけではなかったけれど、
私のなかでは、ヴァイタヴォックスとともにタンノイも、皺の似合うスピーカーである。

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
井上先生が菅野先生との対談で、こんなことを語られている。
     *
井上 ただ、いまのHPDはだいぶ柔和になりましたけれども、それだけに妥協を許さないラティチュードの狭さがありますから、安直に使ってすぐに鳴るようなものではない。現実に今日鳴らす場合でも、JBLとかアルテックなどとは全然逆のアプローチをしています。つまり、JBLとかアルテックの場合、いかに増幅段数を減らしクリアーにひずみのないものを出していくかという方向で、不要なものはできるだけカットしてゆく方向です。ところが、今日の試聴ではLNP2Lのトーンコントロールを付け加えましたからね。いろいろなものをどんどん付けて、それである音に近づけていく。
     *
コーネッタを鳴らしていて、そういったところがあるのを感じていた。
なぜそうなるのか、その理由を特定しようとは思っていないけれど、
皺の似合うスピーカーだからなのだろう、と思うところもある。

もちろん、だからといって、タンノイのスピーカーを鳴らしていくうえで、
井上先生が語られている方向だけが絶対というわけではない。

いままで皺の似合わないスピーカーばかりを鳴らしてきた人が、
皺の似合うスピーカーを鳴らすことになったら、これも手の一つである、ということだ。

Date: 12月 23rd, 2020
Cate: 1年の終りに……

2020年をふりかえって(その16)

今年きいたディスク(配信も含めて)で、
いちばん印象深かったのは何か。
それも新譜について書こうとしたのだが、すぐには何も浮ばなかった。

新譜は買って聴いている。
今年は、別項で書いているように落穂拾い的なディスクの買い方をしてきた。
なので新譜のCDはそれほど買っていないとはいえ、まったく買っていないわけではない。

なのに、浮んでこない。
結局浮んできたのは、カザルスのベートーヴェンとモーツァルトの交響曲だった。
新譜でもなんでもない。
ずいぶん前の録音だし、これまで数えきれないほど聴いてきた。

特にベートーヴェンの七番は、聴いている。
そのカザルスのベートーヴェンとモーツァルトを、今年は無性に聴きたくなったから、
夏以降、何度かくり返し聴いてきた。

11月のaudio wednesdayでは、カザルスのモーツァルトをかけた。
12月のaudio wednesdayでは、カザルスのベートーヴェンをかけた。

どちらもコーネッタで聴いた。
カザルスのモーツァルトとベートーヴェン、
タンノイで聴いたのは今回が初めてだった。

Date: 12月 22nd, 2020
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その10)

コーネッタを鳴らすKT88のプッシュプルのプリメインアンプについて、
具体的に考えてみる。

出力はどれだけ欲しいのか、となると、50Wは欲しい。
コーネッタは、さほど高能率スピーカーではない。
これは、あくまでも昔の基準でのことであって、
いま市販されているスピーカーシステムとの比較では高能率となる。

それでも私の感覚としては、能率はやや低め、ということになる。

アンプの出力は音場の再現と大きく関っている。
オペラを聴くとよくわかる。

歌手がソロで歌っている。
さほど大きくない音量では、出力の低いアンプであっても、
クォリティの高いアンプであれば、気持よく鳴ってくれるのだが、
そこに合唱が加わって、クレッシェンドしていくと、音場がぐしゃっとくずれることがある。

出力に余裕のないアンプに起りがちな現象である。

だからコーネッタに50Wの出力というのは、最低限といってもいい。
私の部屋はさほど音量が出せるわけではない。
それでも50Wは欲しい、と考えている。

もっと音量を出せる環境であれば、出力はもっと欲しいところだ。

75Wの出力といえば、マッキントッシュのMC275がそうである。
規模としては、一つの目安となる。

MC275をベースに、ラインアンプ(これも管球式)で、
トーンコントロールを装備したプリメインアンプとなると、かなり大型になる。

自家用として使いたくない大きさになるはずだ。
そこまでなるならば、セパレート形式のほうが、
パワーアンプを目につかないところに設置すれば、ずっとすっきりする。

Date: 12月 22nd, 2020
Cate: 書く

毎日書くということ(12年書いてきて)

2018年9月に始めた、このブログも干支をひとまわりしたことになる。
始めた時からの目標であった10,000本も、2019年に超えた。

一つの目標をこえてからの一年(2020年)は、書くペースは少し落ちている。
書きたいことは以前と変らぬほどあるけれど、
コロナ禍で出歩かないことが極端に増えたのも関係しているのだろうか。

毎日書く、ということは、それなりの時間に帰宅しなければならない。
これまで親しい人たちと食事や飲んでたりしていても、
ブログを書くために途中で帰ったこともある。

映画を観終ってから、ゆっくり食事をして、と思っても、
ブログを書かなければならないので、さっさと帰る。

そろそろ終りにしようかな、と考えている。
ブログを終りにするのではない。

毎日書くことを終りにしようか、と考えている。
来年からは少し自分のオーディオの時間を確保したい、ということも理由の一つだ。

Date: 12月 21st, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その21)

ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
     *
ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた。
「異相の木」というタイトルで、ヴァンゲリスの音楽について書かれている。

そのとおりだ、と読んだ時も思ったし、
それから四十年が経っても、そう思う。

私は、そう思うわけだが、そう思わない人もまた少なくないことを知っている。
感覚も、精神も、あらゆることから解放されている──、そう思っている人がいる。

あらゆることから、とするのがオーバーなら、
オーディオから解放されている、でもいい。

そう思い込める人、
思い込んだら、なんの疑いも持たない人、
そういう人がいる、という事実。

《ききてとしての完全な自由》、
オーディオを介して音楽を聴くききてとしての完全な自由。

それを自分のものにしているといえる人になりたい、とは思わない。

Date: 12月 21st, 2020
Cate: 1年の終りに……

2020年をふりかえって(その15)

2020年で、いちばんのこととなると、やはりタンノイのコーネッタである。
「五味オーディオ教室」から四十四年目に、やっとタンノイである。

タンノイを自分のシステムとして鳴らす機会が、まったくなかったわけではないが、
これといった理由はないけれど、どこかタンノイを遠ざけていた。

憧れのスピーカーシステムとして、タンノイのオートグラフは、
私のなかでは、別格中の別格である。

憧れのスピーカーとしても、JBLの4343とオートグラフとでは、同じには語れない。
もうこのままタンノイを自分のシステムとして鳴らすことはないだろう、と思い始めていた。

タンノイの現在のラインナップに、欲しいと思える製品がないことも関係している。
いまのタンノイの方針からいっても、将来、
どうしても欲しいと思うようになるモデルが登場するとは考えにくい。

だからといって、オートグラフの中古をさがそうとは、まったく考えていなかった。
タンノイは憧れのままなのか。

そんなふうにも思い始めたころに、ヤフオク!にコーネッタが表示された。
コーネッタを検索していたわけでもないのに、唐突に表示された。

別項で書いているので省略するが、思わぬ安価で落札できた。
7月から12月までの六回、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayは、コーネッタを鳴らした。

毎回五時間から六時間ほど鳴らしていた。
それが六回だから、三十時間ちょっと鳴らしていたことになる。
半年で、これだけなのだから、短い。

でも、7月に鳴らした音と12月に鳴らした音は、変化も大きい。
毎日鳴らすようになれば、もっと変化していくことだろう。

Date: 12月 20th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(SUPERではなくWONDER)

メリディアンのULTRA DACは、私のなかでの位置づけは、
EMTのアナログプレーヤー930stと同じ、といっていい。

930stの上には927Dstがある。
ULTRA DACも高価だが、世の中にはもっと高価なD/Aコンバーターはいくらでもある。

ULTRA DACを最初にみた時は、大きな、とおもったけれど、
ULTRA DACよりも規模の大きなD/Aコンバーターも、いくつでもある。

ULTRA DACよりもずっと高価で、大規模なD/Aコンバーターを927Dstクラスとすれば、
ULTRA DACはやはり930stクラスであり、
それも930stに専用インシュレーター930-900と組み合わせた状態での完成度の高さ、
そして音の誠実さは、ULTRA DACにも共通して感じるところだ。

では218は、というと、トーレンスのTD125的位置づけである。
TD125は、音のいいプレーヤーである。
後継機のTD126よりも、音は澄んでいるように感じる。

同条件で比較試聴したわけではないので、断言できないけれど、
使い勝手の良さではTD126のほうが上のところはある。
モーターのトルクの弱さは、TD125の欠点といえなくもない。
クリーナーをあてるだけで、回転スピードが遅くなるほどである。

でも、肝心の音となると、また違ってくる。
どちらを重視するかは人によって違う。
私はTD125のほうが、自分で使うのであれは好ましい、と考えている。

そのTD125をベースにEMTがまとめあげたのが、928である。

私が218に手を加えてめざしたのは、928でもあった。
928は聴いたことがない。
それでも瀬川先生の評価を信じるならば、928は930stにはかなわない。
けれど928はトーレンスのTD125ではなく、やっぱりEMTのアナログプレーヤーである。

ここは、とても重要なことだ。少なくとも私にとっては。
218にどれだけを手を加えてもULTRA DACになるわけではない。
いいかえるならば、930st的存在になったりはしない。

でも928的存在にはなる、という予感はあった。
自画自賛ではあるが、928的存在にはなった。

ULTRA DACにはならないけれど、WONDER DACと呼べるレベルには仕上げたかった。
SUPER DACではなく、WONDER DACにしたかったのは、ワンダーウーマンのファンだからだ。

パティ・ジェンキンス監督、
ガル・ガドット主演の「ワンダーウーマン」を観てなければ、
SUPER DACといっていたことだろう。

Date: 12月 19th, 2020
Cate: 楽しみ方

待ち遠しい、という感覚(その3)

この項とテーマは、
映画「ワンダーウーマン1984」のことを書きたくて、
というのが理由の半分をしめる。

一年ほど公開が遅れた。
ほんとうに待ち遠しかった。

ワンダーウーマンが、
「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」に登場する、というニュースをきいたとき、
なぜワンダーウーマン? 出さなくてもいいのでは? と思っていた。

それは映画を観て、180度変ってしまった。
それから2017年公開の「ワンダーウーマン」を観て、ワンダーウーマンのファンである。

続編を楽しみにしていた。
けれどコロナ禍などの事情で、延びに延びた。
公開延期になった、というニュースをみるたびに、
予告編を見て過ごしていた。

昨晩(18日)、観てきた。
ひさしぶりに公開初日に、映画を観る。

予告編を何度もみては、不思議に思うシーンがいくつかあった。
予告編で、ワンダーウーマンが疾走するシーンがある。
鬼気迫る疾走のようにもみえたシーンは、そういうことなのか、と、
本編を観れば、胸にぐっとくるシーンになってくるし、
不思議に思えたシーンも、納得できる。

観て感じていたのは、公開延期になって、むしろよかったのではないか、ということだ。
映画会社にとっては、公開延期はマイナス面ばかりなのかもしれないが、
われわれ観る側としては、この時期の公開でよかった、と思う。

一年前に公開され観ていたら、DVDを購入してまた観ていたはずだ。

Date: 12月 18th, 2020
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その9)

その8)でテープ入出力端子のことにちょっと触れたので、
ここでのテーマとは直接関係ない話なのだが、
プリメインアンプの現行製品で、テープ入出力端子を備えているのは、
どれだけあるのだろうか。

しばらく前からアナログディスク・ブームといわれている。
それからしばらくして、カセットテープがブームになってきた、ともいわれた。
オープンリールテープも、静かなブームだ、ときく。

カセットテープにしろオープンリールテープにしても、
アンプにテープ入出力端子がなければ、けっこう扱い難い。

なのにテープ入出力端子をつけてほしい、という声を、
ソーシャルメディアでもみかけたことがない。

私がフォローしている人たちがツイートしていないだけで、
そういう声はあるのかもしれない。

でも、カセットテープ、オープンリールテープの音に惚れ込んでいても、
再生だけで録音はしていない人が、いまでは案外多いのかもしれない。

録音をしなければテープ入出力端子の必要性は、あまり感じないし、
テープデッキの出力を、アンプのライン入力に接続するだけで事足りる。

テープデッキを再生だけに使うのも悪いことではないし、間違っているわけでもない。
それでも、やっぱり録音器であるわけだから。

でも、何を録るのか、といわれるだろう。
音楽を録ることだけにとらわれすぎていないだろうか。

カメラを買ったからいって、誰もがスタジオを借りて撮影するわけではない。
家族の写真を撮ったり、身近な風景や動物を撮ったりする。

なぜオーディオの録音器だけが音楽だけを録ることにこだわるのか。
スマートフォンのカメラ機能で、気軽に撮るように、
身近にある音を録ってみたらいい。

Date: 12月 17th, 2020
Cate: 1年の終りに……

2020年をふりかえって(その14)

シルヴェスター・スタローン主演の映画で、「デモリションマン」というのがある。
日本では1994年に公開されている。
スタローン演じる主人公のスパルタンは、1996年に冷凍睡眠にされて、
2032年に解凍される。

映画公開時のほぼ四十年後を描いている。
けっこう奇妙な未来像だった。

中でも笑ったのが、男女の営みで、
どちらも裸になることなく着衣のまま、ヘッドギアを装着して、
相手にいっさい触れることなく、行為は終ってしまう。

かなり以前に観た映画だから、細部は違っているかもしれないが、
そんな感じで、いくらなんでもそんな時代が来るわけないだろう、と思って観ていた。

けれど2020年、新型コロナの登場で、
もしかするとそんな笑い話のような未来が現実となるのかもしれない、と、
「デモリションマン」のことを思い出した。

4月のaudio wednesdayは、コロナ禍で中止にした。
5月のaudio wednesdayは、緊急事態宣言中だったこともあったし、
告知もそれほどしなかったこともあって、誰も来られなかった。

喫茶茶会記の店主の福地さんと二人だけのaudio wednesdayでもあった。

そんなことは起らない、と思っているようなことが、
これから起っていくのかもしれない。

Date: 12月 17th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その25)

《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》

タキトゥスの言葉だ。
「五味オーディオ教室」と出逢って、四十四年。
ほんとうにそうだ、と感じている。