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Date: 4月 21st, 2024
Cate: 四季

オーディオと四季

四季豊かな日本といわれていたのは、いつまでなのだろうか。
まだまだそうなのだろうと思うながらも、
四季が二季になりつつある意見も、目にするようになってきて、
そういえるけれど──、といったところもある。

今年も4月に夏日を記録している。
今夏もかなりの猛暑になるのだろうし、その夏が長いのだろう。
冬が短くなり、夏が長くなる。そんなふうになっていくのか。

そしてそれが加速していくのか、それともどこかで転換する時がくるのか。
しばらくは加速していきそうな感じなのだが、そうなったときにオーディオと四季、
音と四季について考えることも消えていってしまうのか。

別項で何度か書いているように、井上先生は四季の変化によって、
聴きたい音も変化していくことを、よくいわれていた。

真夏に、A級アンプや真空管アンプの音はあまり聴きたいと思わないし、
寒くなれば、そういう音を求めるようになるとも。

このことに同意する人もいれば、そんなこと関係ないという人もいる。
これには人それぞれということもあるけれど、
仕事柄ということも関係していたのかもしれない。

井上先生の仕事、オーディオ評論家として、
メーカーの試聴室やオーディオ雑誌の試聴室に行っては、
さまざまな音を聴く。

それは仕事であり、そこに季節感というものはなかったのかもしれない。
だからこそ、よけいにプライベートな音に、四季を感じさせる、
四季と連動していく音を求められていたのかもしれない。

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その6)」で書いたことも、
このことには関係してくるのかも──、とも思うようになってきた。
「味わい」と四季についてである。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その2)

ヨゼフ・ホフマンが語っている。

Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。

十年前に別項『「音楽性」とは(その5)』でも引用している。

完璧な誠実さ、完璧な単純さ、とある。
この二つに関して考えるだけでも容易ではない。

完璧な誠実さとは、どういうことなのか。
完璧な単純さに関しても同じで、どういうことなのか。

これ以上削る要素がないほどに達していれば、
それは完璧な単純さ(perfect simplicity)ということになるのか。

アンプで考えてみれば、ネルソン・パスが発表しているZen Ampは、
この完璧な単純さを実現しようとしている、と考えることもできる。

それを製品化したのが、First WattのSIT1、SIT2である。
これらのパワーアンプは、完璧な単純さのパワーアンプということになるのか。

そうだ、としよう。
では、ここに完璧な誠実さがあれば、完璧な達成となるのか。

けれどホフマンは、
《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》としている。

完璧な単純さに完璧な誠実さを加えるのでは、完璧な達成とならないのか。

“Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.”を、
Perfect sincerity + perfect simplicity = perfect achievementとすれば、
完璧な誠実さと完璧な単純さを足せば、となる。

日本語訳の《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》にこだわりすぎているのか。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: 映画

ストリート・オブ・ファイヤー(映画性とは)

ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire)」を数日前に観てきた。
もう少し早く行きたかったけれど、うだるような暑さに負けて延ばし延ばしにしていた。

以前書いているように1984年に公開されたとき、映画館で二回観た。
その後もレーザーディスクでも観ていたし、
最近ではHuluやAmazon Prime Videoでも観られる。

なのでけっこうな回数観ている。
最初と最後の、ダイアン・レイン扮するエレン・エイムのライヴシーンだけに限っていえば、
さらに観ている。

それをまた映画館に観に行った。
前日にもAmazon Prime Videoで観てたから、
もう字幕ナシでも楽しめるかもしれない──、
そんなふうにいえるくらい観ている。

同じ料金を払うのなら、最新の映画を観た方がいい、とは私も思う。
それでも「ストリート・オブ・ファイヤー」を映画館で観る機会は、
私が生きている間はもうないだろう。

それに一本くらいは、こういう映画があってもいいじゃないか、
そんな理由にもならない理由をつけて行っていた。

今回上映しているシネマート新宿は300人ほどの劇場だ。
当時観た新宿プラザよりも小さい。

それでも始まれば、夢中になっていた。
何度観ても飽きないシーンから「ストリート・オブ・ファイヤー」は始まる。

ラストもよかった。
ここも何回観たかわからないほど観ているのに、うるっとしそうになった。

そういえば、この映画、淀川長治氏が高く評価されていたことも思い出した。
「ストリート・オブ・ファイヤー 淀川長治」で検索すると、確かにそうだった。

1984年の外国映画のベスト10でも選ばれている。
六番目に「ストリート・オブ・ファイヤー」がいる。
その前がウッディ・アレン監督の「カメレオンマン」だ。

《ことしのアメリカ映画の収穫は「カメレオンマン」の頭脳に迫る「ストリート・オブ・ファイヤー」の映画感覚》
とある。

2017年1月に書いた『「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)』のことを思い出した。

ステレオサウンド 130号、勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
このフェリーニの言葉が、「ストリート・オブ・ファイヤー」にぴったりとはまる。

Date: 1月 29th, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その6)

木曜日に会っていたAさんとの会話に、ある人の音のことが出た。
Bさんとしておこう。

Aさんも私もBさんの音を聴いている。
一緒にではなく、別の機会にである。

Aさんと知りあったばかりのころだったか、
AさんにBさんの音のことをきかれて、「時計の音が気になった」と答えたことがある。
もう十年くらい前の話だ。

Aさんは、その話を憶えていて、木曜日に、そのことが会話に出た。
そういえば、確かにそう話した。
話した本人も忘れかけていたことを憶い出せてくれた。

Bさんは、私が伺ったときは、別のスピーカーを鳴らされていた。
その後、(その5)で書いている世評の高いスピーカーにされている。
その音は、私は聴いていない。

私が時計が気になったのは、以前のスピーカーでのことではあるが、
おそらくスピーカーを入れ替え後であっても、同じように時計の音が気になったであろう。

時計の秒針が動く音。
規則正しくカチッ、カチッ、と動く音が、どちらかといえば苦手だ。
かすかな音であっても、何かの拍子に気になると、ひどく耳障りに感じる。

この時計の音が気になる音とそうでない音とがあるように感じている。
Bさんの音は、はっきりと、私にとっては時計の音が気になるものだった。

時計がリスニングルームにあって、秒針の音がしていても気にならないこともある。
そういう音と、秒針の音が気になる音とは、私にとっては大きな違いのある音だ。

これは「「音楽性」とは(映画性というだろうか)」で書こうとしていることにも関係してきそうだ。
つまり記録のような音と記憶のような音、
この違いが、秒針の音が気になり、気にならないにつながっていくようなきがしている。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その3)

「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいる、
いくつかのスピーカーシステムを私は毛嫌いしている。

くれる、といわれても即座に断ってしまうくらいに、これらの「欠陥」スピーカーを認めていない。
なぜ、そこまで「欠陥」と感じてしまうのかといえば、
これらのスピーカーは欠点を持っているスピーカーではなく、欠陥であるから、である。

スピーカーというものは不完全な、だからこそ非常に興味深く魅かれるからくりであるから、
どのスピーカーにも欠点は存在している。
いくつも欠点をもつスピーカーもある。比較的欠点の少ないスピーカーもあるが、
まったく欠点をもたないスピーカーは、此の世にひとつとして存在していないし、
これからどんなに技術が進歩しようとも、欠点が少なくなることはあってもなくなることはない。

欠点を指摘するのは簡単である。
「欠陥」スピーカーにも、もちろん欠点はある。
「欠陥」スピーカーの中には、欠点が比較的少ないスピーカーも、ある。

私は、欠点があるから、とか、欠点が多いから、
いくつかのスピーカーを「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいるわけではない。

別項の、「音楽性」とは(その10)でも引用した菅野先生の発言を、
またここで引用しておこう。
     *
特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
こういうことが実際にスピーカーによって起る。
それだけではない、やはり別項で書いているように、
あるスピーカーでグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲が鳴っていたとき、
いつもならすぐにグールドの演奏だとわかるのに、
そのときは「もしかしてグールド?」という感じになってしまった。
しかもそこで鳴っているピアノは、
どう聴いてもヤマハのCFではなく、どこか得体のしれないアップライトピアノでしかなかった。

こういう体験は、他でもいくつかある。
だから、ある特性のスピーカーを、私は「欠陥」スピーカーと呼ぶ。

それらのスピーカーが、
どんなに音場感をきれいに出そう(ほんとうに音場の再現性において精確かどうかは、別の機会に書く)とも、
歪の少ない音であっても、位相特性が優れている、
聴感上のS/N比が優れていようとも(ただ、これらはすべて世評であって私は必ずしも同意しない)、
ヘブラーの演奏をお嬢様芸よりもひどく聴かせられたら、
グールドの演奏を別人のようなに聴かせられたら、たまったものではない。

そういうスピーカーは、音楽を聴くスピーカーとして私は信頼できない。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その2)

そうとうな数の音を聴くことではっきりとしてくることがあるのだから、
その意味でも、少しでも数多く聴いたほうがいい、と私も思う。

そう思いながらも、最近では、あえて聴かないという選択もあるということ、
そして聴かないという選択が聴くという選択よりも、時としていい結果をもたらすこともある、
と、そうも思っている。

別項の、「音楽性」とは、のところで「欠陥」スピーカーのことについてふれた。

どこのスピーカーを「欠陥」スピーカーと思っているのか、
それについては具体的なブランド名、型番は出さない。
けれど、これらのスピーカーシステムにはどうしても納得できない音楽の鳴り方がしてくる。
もっといえば音楽を歪めて、それもきわめて歪めて聴かせてくれる。

もっとも、これらのスピーカーシステムで歪められると感じるのは、私が聴きたい音楽であって、
それが私にとって音楽が歪められている、と感じからこそ、「欠陥」スピーカーととらえているわけである。
けれど、聴く音楽が違えば、このスピーカーのどこが欠陥なの? と思う人もいる。

私が「欠陥」スピーカーと思うだけであって、
これらのスピーカーのオーディオ雑誌での評価は割と高い。
一部の人はかなり高く評価している。

でも、その人と私とでは聴く音楽が違いすぎるから、
私が優れたスピーカーと思っているモノを、その人は「欠陥」スピーカーと思っているかもしれない。

それはそれでいいじゃないか──、
と私にいう人もいる。
でも、そんなことはわかったうえで、それらのスピーカーを「欠陥」だと書くのは、
これらのスピーカーシステムによって音楽を聴くことによって、音楽が歪められるだけでなく、
聴き手もときとして歪められることもあるからだ。