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Date: 6月 5th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その1)

昨年12月に、船橋のららぽーとに、ドルビーアトモスの上映館が出来、そこで映画を観てきたことを書いた

今年春に日本橋室町にもドルビーアトモスの上映館が出来た。
5月に「アメイジング・スパイダーマン2」をそこで観てきた。

スパイダーマンの映画は、サム・ライミ監督により2002年に公開、
2004年に続編「スパイダーマン2」、2007年に「スパイダーマン3」が公開された。

いずれも好調だったため、「スパイダーマン4」もサム・ライミによって制作される、という噂があった。
期待していたが、立ち消えになってしまった。
サム・ライミの降板理由については、
あくまでも学生時代のピーター・パーカー(主人公)を描くため、というものだった。

でも一方で製作会社のソニーが、サム・ライミに3Dによる撮影を要求し、
それを拒否したため、らしいと噂もあった。

それを裏付けるかのように2012年に公開された「アメイジング・スパイダーマン」は3Dで撮影されていた。

スパイダーマン・シリーズは映画館で観てきている。
「スパイダーマン2」はいい映画である。それたけにサム・ライミの降板にはがっかりしたし、
3Dで観る必要性もあまり感じなくて、「アメイジング・スパイダーマン」は2D上映館で観た。

「アメイジング・スパイダーマン2」も、
昨年12月、ドルビーアトモス上映館でスタートレック・シリーズの「イントゥ・ダークネス」を観ていなければ、
2D上映館で観ていたことだろう。

Date: 3月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その14)

その13)の最後で書いた「エキゾティシズムへの憧れ」とは、
これまで書いてきたエキゾティシズムとはまったく異るエキゾティシズムではないのか、と思うようになっている。

(その13)を書いたのが二年前なので、少しくり返すが、
1970年代、私がオーディオに関心をもち始めたころ、
オーディオ雑誌では国による音の違い、風土による音の違いが存在することを語っていた。

アメリカにはアメリカならではの音があり、ヨーロッパにはヨーロッパの音があり、
さらに同じアメリカでも西海岸と東海岸では、ひとつのアメリカンサウンドとして語られながらも、
はっきりとした性格の違いがはっきりとあり、
同じことはヨーロッパのスピーカーでも、イギリス、ドイツ、フランスでは違っている。

だからステレオサウンドは創刊15周年記念として、
60号ではアメリカ、61号ではヨーロッパ、62号では日本の、それぞれのスピーカーの特集を行っている。

この企画を、もしいま行うとしたら、ずいぶんと違う切り口が必要になる。
ステレオサウンド 60号の時代からの変化があるからだ。

このエキゾティシズムとは別に、時代の違いによるエキゾティシズムもある、といえるだろう。
原体験として聴いたことのない時代の音を若い人が求める理由のひとつには、
時代のエキゾティシズムが関係しているように感じられる。

このふたつのエキゾティシズムは、変な言い方になるが、まっとうなエキゾティシズムであるといえよう。
けれど、私がこの項でいいたいのは、もうひとつのエキゾティシズムがあり、
このエキゾティシズムはやっかいな性質のものであり、
このエキゾティシズムをもつスピーカーシステムの音を「新しい」と感じ高く評価する人もいれば、
私のように「欠陥」スピーカーとして受けとめる者もいるわけだ。

このエキゾティシズムは、私の耳には音楽を変質させてしまうエキゾティシズムであり、
認めることのできないエキゾティシズムである。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その13)

ここで、また、こんな反論が来そうだ。

グールドのゴールドベルグ変奏曲がアップライトのピアノを弾いているふうに聴こえたのは、
それは、そのスピーカーが、それまでのスピーカーが出し得なかった情報まで音にすること、
そしてそれまでのスピーカーが附加してきた余分な音を徹底的に取り除いた結果としての、
録音の不備・未熟さが、はっきりとあらわれてきたのだろう、と。

ミサ・クリオージャにしても、他のスピーカーでは鳴らせなかった領域まで踏み込んだことによる結果であろう、と。

ヘブラーのピアノにしても、それほどたいしたレベルではなくて、
いままで録音の古さによって覆い隠されてきたものが、はっきりと音に出た結果であり、
日本のとある歌手の歌の下手さかげんについても、まったく同様だ、と。

スピーカーは、たしかに進歩してきている。
進歩してきているところもあれば、そうではないところも多々あるけれど、
それでも全体としては、進歩してきている、といっていい。

スピーカーの進歩によって、余分な音が減り、情報量が増え、
レコード側の、そんな微妙な・曖昧なところがはっきり描写され、
あばたがあばたとしてはっきり聴こえるようになった結果であり、
それをスピーカー側に責任・問題があるとするのはおかしい、という考え方もできる。

音が良くなっただけでなく、演奏の良否まではっきりとわかるようになった、と受けとめる人もいるかもしれない。
そして、そういったスピーカーの音を、新しい、と感じている人がいるように思えてならない。

ほんとうに、グールドのゴールドベルグ変奏曲をアップライトピアノで聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で、
ヘブラーのピアノのおさらい会のレベルの聴かせるスピーカーは、「新しい」のだろうか。

じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その12)

スピーカーは、その原理そのものに革新的な進化はないものの、
物理特性的には、確実に進歩してきている。

測定に正弦波だけでなく、インパルス波が導入され、コンピューターによる解析の導入・進歩によって、
周波数特性も、振幅特性だけでなく位相特性においてもあきらかに改善されてきている。
その他の項目についても同様だ。

ステレオサウンド 54号がでたのは1980年。もう30年以上も前のことだ。
この54号でも、座談会で、スピーカーの物理特性が良くなってきたことが語られている。
確実に、その意味での完成度は高くなっている、といっていいのだろうか……。

それとも大きな欠点は、ほぼなくなりつつある、といったほうがより的確だろうか。

それでも「音楽の響かせ方、歌わせ方」にあきからに問題のある(と私には感じられる)スピーカーは、
やはり存在する。しかもこれは物理特性とは関係なく存在している、とともに、価格とも関係なく存在している。

ひじょうに高価なスピーカーシステムの中に、
どう聴いても「音楽の響かせ方、歌わせ方」がおかしいんじゃないか、と思わせるモノがある。
しかも、そういうスピーカーシステムが、ステレオサウンドで受賞していたりする。

すると、お前の耳、もしくは感性がどこかおかしいのだろう、と言われるだろう。

仮にそうだとしても、この項の(その1)や、「AAとGGに通底するもの」の(その6)に書いた例は、
決して譲ることのできない、音楽がひどく変質した実例だ。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その11)

ステレオサウンド 54号のころは、まだCDは登場してなくて、プログラムソースはアナログディスク。
プレーヤーシステム、カートリッジ、コントロールアンプ、パワーアンプ、それにそれぞれの接続ケーブル、
こここまではまったく同一条件で鳴らしても、スピーカーシステムだけが変っただけで、
ヘブラーのピアノが、優美に歌いもすれば、おさらい会レベルにまでおちてしまう鳴り方をする。

セッティングによってスピーカーの鳴り方は、ときには大きく左右される。
とはいうものの、セッティングだけの要因によって、ヘブラーのピアノが、ここまで変るわけではない。
あきらかにスピーカーシステムによって、ヘブラーのピアノの歌い方も、
日本のとあるポップス歌手の歌い方も、大きく変ってしまう。

なぜ、こうも変質してしまうのだろうか。

菅野先生が語られていることで、
「バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前、というか以外というか」に、
その鍵がある。

なにかスピーカーシステムとしての物理特性に、大きな問題点をあるから、
そういう変質が発生する、とはいえない。
むしろ周波数特性も広く、ほぼフラットといってもいい、歪率も低い値で、指向特性も申し分ない。
とにかく物理特性的にはなんら欠陥らしきものは見当たらないスピーカーシステムであっても、
ヘブラーのピアノを、ときに大きく変質させてしまうものがあらわれる。

ここが、ひじょうにやっかいなところだ。

Date: 2月 11th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その10)

音楽性、そして欠陥スピーカーとはいったいどういうものなのかについて考える上で、
いいヒントとなる話を菅野先生が、ステレオサウンド 54号の座談会の中で語られている。

この号の特集は「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」で、
瀬川先生、黒田先生と試聴のあとに、総論といくつかのスピーカーについて話し合われている。
     *
特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
これに関連する話を1年ほど前に聞いた。
その話をしてくれた人は、日本のポップス歌手を、歌唱力が全くない、はっきりいって下手だ、と。
かなり強い口調で、なぜ、あの歌手が、歌が巧いといわれるのか理解できない、とも。

その歌手の歌を、私はきちんと聴いたことがない。
テレビもラジオも持っていないし、当該歌手のCDも持っていないからだが、
たまに断片だけを耳にする、その歌手の歌を、その人が力説するほどひどい、とは思わない。

少なくとも、歌がほんとうに好きなんだな、とは感じていた。
もっともCDを買ってきて、きちんと聴くとどう、そのへんの印象が変るかはわからないが、
少なくとも、そこまでひどくは思わないだろう。

ヘブラーと、この歌手の話は、スピーカーによって、
「音楽の響かせ方、歌わせ方」に根本的な違いがあるから、だと思う。

Date: 8月 30th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その9)

若いひとが、うまれる前に作られたスピーカーや、そのころの真空管アンプに関心をもつことのすべてを、
時代へのエキゾティシズムのひと言で片付けてしまえるとは毛頭思っていないが、
それでも、違う時代に対するエキゾティシズムを完全に否定することができるひとは、果しているのだろうか。

ふりかえることで、時代時代には、やはりその時代ならではの「音」が存在している。
それは技術の進歩とも大きく関係しているし、もちろんそれだけでは語れないくらい、
多くの要素によってかたちづくられている「音」であるし、その時代の「音」がいつ、どう変っていくのかは、
その時代の中にいると、なかなか気づきにくい性質のものである。

時代時代の音がある、と書いておきながら、ある時代とつぎの時代の音のあいだには、
それを区切るものがあるわけではない。
いつの時代もふりかえってみることで、時代の音があったということを、
おぼろげながらだろうが感じているはずだ。

レコードの音の変化をみてもそうだ。
1950年代前半の真空管アンプ全盛時代のモノーラル録音、それがステレオ録音になり、
60年代にはいり徐々に録音器材が真空管からトランジスターのものへと置き換わっていく。
そしてマルチマイク、マルチトラック録音があらわれはじめ、器材のトランジスター化も次の段階へと進んでいく。
マルチマイク、マルチトラック録音の技術も進歩していっている。

そしてダイレクトカッティングがあらわれ、デジタル録音もはじまっていく。

それらの時代を代表するレコードが必ず登場しているわけだが、けれどそれらのレコードが、
前の時代との境界線かといえば、そうとはいえない。

Date: 8月 25th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その8)

若いひとが、以前に聴いた体験がないにもかかわらず、
真空管アンプ(それも古典的な回路のもの)で鳴らすフルレンジスピーカーの音に、
惹かれるものがある、という話をきく。なつかしい音だ、という。

ほんとうに、それは「なつかしい音」なのだろうか。
たとえば私の幼いころ、実家にあったテレビは真空管式でスピーカーはフルレンジということもわずかだがあった。
それにラジオはもちろん、はじめて自分で小遣いを貯めて買ったラジカセも、スピーカーはフルレンジ型だった。

そういう経験が多少なりともある私の世代、そしてもっと真空管式のテレビやラジオを聴いてきた時間の長い、
私より上の世代、さらにアクースティック蓄音機から聴いてきた、もっと上の世代にとっては、
昔ながらの真空管アンプフルレンジ・スピーカーの組合せの音は、「なつかしい音」である。

けれど、私よりも下の世代で、ラジカセは最初からステレオで、もちろんトランジスター式で、
しかもスピーカーはラジカセだけでなくテレビも2ウェイだった、という経験だけならば、
彼らにとっては「なつかしい音」ではなく、いままで聴いたことのない音のはずだ。
じつのところ、時代の違いによるエキゾティシズムに惹かれているのではなかろうか。

ただ知識として、そういうモノが古いということが頭の中にあるために、
ほぼ条件反射的に「なつかしい音」と判断している──、これを否定できるだろうか。

若いひとのなかに、こういう音に惹かれることがあるのはけっこうなことだと思っている。
ただ、それは古い世代のひとたちが惹かれるのとは、また違う意味がある。そう思う。

Date: 1月 2nd, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その7)

少なからぬ人が、「欠陥」スピーカーに惹かれるのは、エキゾティシズムへの憧れがあるようにも思う。

1970年代、スピーカーは、国による違い、風土による違いによって、はっきりとした特色があった。
アメリカでも、西海岸と東海岸のスピーカーは、はっきりと違う。
音だけでなく、技術志向においてもあきらかな違いがある。

アメリカとヨーロッパのスピーカーの音も違う。
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツでは、それぞれ異る音色をもっていた。

技術の進歩とともに、それに製造工場の集中化によっても、それは残り香となりつつあるようにも思う。

つまり異国のスピーカーのもつエキゾティシズムが希薄になっている時代だからこそ、
ひとは、違うエキゾティシズムを、無意識に求めてるようになっているのではないか。

たとえば時代の違いによるエキゾティシズム。

Date: 1月 1st, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その6)

「お前にはわからないよ。まだわからないよ。まだ人生を知る時間を与えられていないんだもの。いつかはお前にも、音楽は技巧やふしだけでなくて、人生そのものの意義であり、限りない悲しみと、堪えられない美しさとを持つものだということを悟る日が来るだろう。その時にはお前にも分るよ」
(パール・バック「母の肖像」新潮文庫・村岡花子訳より)

音楽に涙する母が、「若い娘の高慢さから」なじる娘(パール・バック)に、語る言葉である。

「知る」ではなく「悟る」だということ。

Date: 12月 31st, 2009
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その5)

ヨゼフ・ホフマンが語っている。

Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。

工業製品であるスピーカーに、完璧な誠実さ、完璧な単純さは、いまのところ求められないが、
十分な誠実さに十分な単純さを加えることで、十分な達成にいたることはできる。
欠点はあっても、十分なスピーカーシステムはつくることはできる。

誠実さはあっても十分な単純さがなければ、不十分なスピーカーとなろう。
誠実さもなく、単純さもないスピーカーがある。「欠陥」スピーカーのことだ。

Date: 12月 26th, 2009
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その4)

「音楽性のない音」を別の言葉で言い表すとしたら、「肉体のない音」であろう。

Date: 12月 21st, 2009
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その3)

「現代スピーカー考」を書いている。

(その1)に、なぜ、この項をはじめたのかについてふれているが、
このときははっきりと書かなかったが、現代スピーカーの代表と巷で云われているいくつかの製品を、
じつのところ、私はまったく認めていない。

それらのいくつかは、ステレオサウンドでも割と高い評価を与えているひとがいるし、
個人のサイトやブログでも、なぜか高い評価を得ている。

他人の好みに口出しするのは僭越な行為だというひともいようが、
それでも「欠陥」スピーカーを、現代スピーカーのひとつとしてあげられることには、
つよい抵抗感がたえずわいてくる。

早瀬さんとは長いつき合いで、お互いに好みは知り尽くしているところもある。
よく長電話している。本音で語れるからだ。

早瀬さんが鳴らしてきたスピーカー、鳴らしたいと思っているスピーカーと、
私が鳴らしてきたスピーカー、鳴らしたいと思っているスピーカーは、意外と重なり合うことはない。
けれど、絶対に認めることのできないスピーカーに関しては、完全に一致している。

それらは音の好みといったこととはまったく無関係で、あきからに「欠陥」スピーカーだからである。
ここに欠陥と欠点の違いがある、ともいえる。
どんなスピーカーにも「欠点」はある。
だが多くの「欠点」を抱えているスピーカーが、「欠陥」スピーカーなわけではない。

Date: 12月 10th, 2009
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その2)

黒田先生がアクースタットからアポジーに替えられた理由について、や、「同軸型ユニットの選択」の項を、
これから書いていくにあたってはっきりしておかなくてはならないと思っていることとして、
「ひたる」と「こもる」がある。

たとえば、異常に高価なアクセサリーのはびこりは、「こもり」から生れてきたといえるのではないか……。
音楽性を歪める大きな要因のひとつとなっていくのではないか……。

「こもり」は、オーディオが本来的にもつ性質でもあるからこそ、
聴き手がそこに嵌ってしまうことは、オーディオの罠に知らぬうちに嵌ってしまうことでもあろう。
しかも、「こもり」「こもる」は、ネットワークと結びついてひろがり、
それを本人には気づかせない面ももちはじめているようでもある。

Date: 9月 18th, 2008
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その1)

「音楽性」という言葉ほど、便利な言葉はないように思っている。
この機種は音楽性がある、とか、豊かだとか、もしくは貧弱だとか。
音そのものはよいが音楽性が感じられない、というふうに一刀両断にできたりもする。

音楽性とは、なんなんだろうか。

2006年暮、友人にさそわれて、とある高級オーディオばかりを扱う販売店の試聴会にでかけた。
スピーカーは2機種。どちらも1千万円弱(当時)する。
2つのスピーカーの厳密な比較試聴というよりも、それぞれの世界を味わってください、
という感じで、それぞれのスピーカーには、異るアンプとCDプレーヤーが組み合わされていた。

最後にかけられたのは、ラミレスのミサ・クリオージャであった。
ホセ・カレーラスのではなく、アルゼンチンの大御所、メルセデス・ソーサの歌唱によるもの。
はじめて聴くディスクだが、
それでも、あきらかにAのスピーカーから鳴ったソーサの歌い方はおかしい、と感じた。
ソーサほどの歌手が、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて歌うわけがない。
こんな歌い方ではなく、敬虔に歌うはずである。
ミサ・クリオージャという音楽、メルセデス・ソーサをすこしでも知っていれば、そう思えるはず。

そんな疑問が消えぬうちに、もうひとつのスピーカーからソーサの歌声が鳴ってきた。
正しい歌い方だ。これは、もう直感だ。

なるほどAのスピーカーの世評は高い。ステレオサウンドでも、ひじょうに高く評価されている。
けれど、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて鳴らしているということは、
ラミレスに関しては、音楽性を歪めている、と言い換えてもいいだろう。

このとき、音楽性という、この便利な言葉、とても曖昧な意味で使われることの多い言葉を、
すくなくとも、私自身の中で意味付けられるような感じがした。