Date: 10月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その12)

インターネット以前は、あることに関する情報が、
どこにあるのかを知っているだけで、そのことの専門家とみられることがあった。

情報のありかはどうなのか。
インターネット以前は、そのことから調べなくてはならないことが多かった。

ここまでインターネットが普及しただけでなく、
SNS(ソーシャルメディア)の普及は、情報をありかを調べる(探す)ことは、
ほとんどなくなった、といっていい。

インターネット以前は、だから情報のありかを知っているだけの人が、
偉そうにしていたことすらあった。
ほかの世界ではどうだったのかは知らないが、オーディオの世界ではそうだった。

でも、情報のありかを知る人みながそうだったわけではない。
いとも簡単に教えてくれる人も、また多かった。

もったいぶるだけもったいぶって教えない、というのは問題外なのだが、
情報のありかをなかなか教えない、という人を、全面的に否定したいわけではない。

少なくとも、その人は調べる(探す)ことに、それなりの努力をしているわけだ。
いまでは、そうではなくなりつつある。

情報のありかを調べる(探す)能力を、
ほぼ失いつつある人が増えてくる(増えている)だろう。

情報のありかはすぐにわかるのだから、
そんな能力は、これから先は必要ではなくなる──、
ほんとうにそうなのだろうか。

そして、私が知識過剰だと感じる人は、
実のところ、情報のありかを自分で探し出すことができない人のような気がする。

Date: 10月 22nd, 2020
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(その14)

ステレオサウンド 55号から、タンノイ研究が始まった。
菅野先生がずっと担当されていた。

51号からは4343研究が始まった。
こちらは瀬川先生が二回、柳沢功力氏が一回、
JBLのスタッフが一回だった。

タンノイ研究が菅野先生だけだったことに、特に不満はなかった。
それでも瀬川先生も登場してもいいのではないか、と何度か思いながら読んでいた。

そう思うのは、瀬川先生ならば、タンノイに、どのアンプを組み合わせられるか、
菅野先生とは趣向の違いがはっきりと出てくるだけに、
記事として、よりいっそう深みを増すのは、タンノイ研究にぴったりだからだ。

59号のベストバイの結果を見て、なんとなく瀬川先生が登場されない理由がわかった。
では、瀬川先生以外のほかの人となると、
菅野先生一人だけ、ということになってしまうのはわかる。

55号のタンノイ研究は、オートグラフだった。
55号には、五味先生の追悼記事も載っている。

五味先生は4月1日に亡くなられている。
タンノイ研究の企画は、いつ決ったのだろうか。

思うに4月1日以降なのではないだろうか。
そんな気がする。

私は、そうだろう、と確信している。
その理由は、ステレオサウンドで働くようになって、GRFメモリーについてのことをきいたからだった。
それがどんなことなのかは、まだとうぶん明かさないが、
そのことの準備期間まで含めると、非常に納得がいく。

納得いくことが、単なる偶然からきている可能性もあるだろう。
それでも、そのはずだ(はっきりと書かなくて申しわけない)。

Date: 10月 22nd, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その7)

オーディオ雑誌のバックナンバーを、十年分くらい揃える。
昔のオーディオ雑誌は、けっこう出ていた。
休刊(廃刊)になったオーディオ雑誌の数は、けっこうある。

それらを集めて、真剣に読むのであれば、
同時に、ステレオサウンドが年二回出していたHI-FI STEREO GUIDEも、
できるだけ手に入れてほしい。

あのころもそうだったけれど、
古書店でも、ステレオサウンドよりもHI-FI STEREO GUIDEのほうが高いことがけっこうある。

HI-FI STEREO GUIDEは、いわゆるカタログ誌だ。
だからこそ、オーディオ雑誌のバックナンバーとともに揃えたい。

HI-FI STEREO GUIDEには、その時代、市販されていたオーディオ機器が、
ほぼすべて掲載されている。
価格もスペックも載っている。
海外製品だと、どの国なのかも載っている。

その時代のオーディオを俯瞰したいときに、HI-FI STEREO GUIDEは役に立つ。

そんなこと、オーディオ雑誌を毎号買って読んでいれば、
HI-FI STEREO GUIDEなんて必要ないだろう、と思うかもしれないが、
私が中三のころ、はじめてHI-FI STEREO GUIDEを買って、
こんなにも多くの製品が市場に出ているのかと驚いた。

そしてHI-FI STEREO GUIDEが一冊ではなく、
二冊、三冊と増えてくると、
HI-FI STEREO GUIDEはオーディオの年表がわりでもあることに気づいた。

すべてを網羅するカタログ誌は、時間が経つことで、存在感を増してくる。

同じことはレコード関係の雑誌についてもいえる。
レコード関係の雑誌のバックナンバーを揃えるのであれば、
レコード・カタログ誌も集めて、いっしょに見ていくべきである。

Date: 10月 21st, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その13)

その12)で引用した黒田先生の文章に、
《鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています》
とある。

ここでの「あなたがた」とは、ボザール・トリオのことだ。
オーディオにあてはめた場合、どうだろう。

以前のタンノイのスピーカーは、ボザール・トリオ的だった、といえる。
1976年に発表されたアーデン、バークレーなどのABCシリーズまでは、
スター性などという虚飾をとっくの昔に捨てていた。

GRFメモリーの登場を、タンノイの復活と評価することには、
素直に同意できない気持が、私のなかには残っている。

確かにタンノイは、GRFメモリー以降、息を吹き返した、といえる。
でも、JBLの4343の成功を横目でみながらのタンノイのようにも感じてしまうところがある。

捨てたはずのスター性を、タンノイは身につけようとしているようにも感じられるからだ。
捨てたはず、と書いてしまったが、
もともとタンノイのスピーカーはスター性とは無縁だった、と思っている。

売れるモノをつくっていかなければ、会社は成り立っていかない。
スター性をもつモノともたないモノとでは、持つモノのほうが売れる傾向にある。

ハーマンインターナショナル傘下時代のタンノイのスピーカー、
ABCシリーズの一連のスピーカーは、アメリカナイズされている、といった人もいる。

けれど、スター性を身につけようとしはじめたGRFメモリー以降に、
アメリカナイズされたところを、なんとなく感じとってしまう。

このへんのところは、受けとる側によって違ってくるところだろう。
堕落したタンノイといいたいわけではないし、ABCシリーズのタンノイが、
いまのタンノイのスピーカーよりも優れている、といいたいわけでもない。

ただタンノイは変った、といいたいだけである。
それをいい方向へと受けとるか、そうではないと受けとるかは、人それぞれである。

Date: 10月 21st, 2020
Cate: ヘッドフォン

AUSTRIAN AUDIO(続報)

一週間前に、AUSTRIAN AUDIOのヘッドフォンは、
いつになったら日本で発売が開始されるのだろうか、と書いた。

いつになるのかはまったく知らなかったのだが、
明日(10月22日)から、日本での販売が開始になる、ときいた。

輸入元のMI7のウェブサイトには、
まだヘッドフォンのページは公開されていないが、とにかく販売は開始される。

日本での価格も、良心的といえる。
中野のフジヤエービックで試聴ができる、とのこと。

Date: 10月 21st, 2020
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その62)

オーディオの想像力の欠如のままでは、
「古人の求めたる所を求め」ることはとうていできない。

Date: 10月 20th, 2020
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)

来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。

Date: 10月 20th, 2020
Cate: audio wednesday

DJ:Mike Nogami & Rieko Akatsuka’s Playlist(追補)

10月7日、audio wednesday(music wednesday)でのDJ、赤塚りえ子さんが、
NHKラジオ第一「ラジオ深夜便 明日へのことば」に登場されています。

放送は、10月20日の4:05分なので、すでに放送は終っていますが、
ラジコなどの聞き逃し配信で、一週間は聴けます。

Date: 10月 20th, 2020
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その5)

先日、「eとhのあいだにあるもの(その6)」で触れているグルダのSACDが届いた。
バッハの平均律クラヴィーア曲集とベートーヴェンのディアベリ変奏曲である。

グルダの平均律クラヴィーア曲集は、CDになってから聴いている。
最初に買ったのがフィリップス・レーベルから出た廉価盤扱いのものだった。
それから五年前に出たリマスター盤、そして今回のSACDを買っている。

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、最初は日本ビクターのLPを買った。
次に買ったのはSACDである。

グールドの平均律クラヴィーア曲集は、もっと買っている。
CD初期に出たモノから、かなり頻繁に買っている。
SACDも買った。
LPもオリジナル盤を含めて、買っている。

グルダ、リヒテル、グールドの平均律クラヴィーア曲集が、SACDで聴ける。
いい時代になったものだ、とおもう。

グルダ、リヒテル、グールド以外の演奏家による平均律クラヴィーア曲集も、
いくつか買って聴いてきた。
それでもリマスター盤が出たから、といって、買い足して(買い替えて)きたのは、
おもにこの三人だけ、である。

それだけでなく、この十数年、平均律クラヴィーア曲集の新譜は聴いていない、といっていい。
正確には部分的には聴いてたりするのだが、
買ってまできいた演奏家はいない。

平均律クラヴィーア曲集に関するかぎり、
マルタ・アルゲリッチと内田光子が録音してくれるのであれば、
ぜひ聴きたい(買いたい)のだが、それ以外の演奏家となると、ほとんど食指が動かない。

これは歳をとってきたせいなのか、とおもうところもある。
新しい演奏に耳を傾けなくなったのは、精神の老化だ、といわれれば、
反論する気はない。

ということは、おまえは平均律クラヴィーア曲集という曲を、
これ以上理解しようという気がないのか、といわれれば、そうではない、と答える。

私がリマスター盤やSACD(できればMQAでも聴きたいのだが)を聴くのは、
グルダの平均律クラヴィーア曲集、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集、
グールドの平均律クラヴィーア曲集を、より深く理解したいがためである。

このことが、平均律クラヴィーア曲集をより理解することになる、と考えている。

Date: 10月 19th, 2020
Cate: 「本」

ステレオ(2020年11月号)

半年ほど前に「ステレオのすべて」というタイトルで、
ここ数年、月刊誌ステレオが変ってきて、興味を惹く特集がときおりある。

いま書店に並んでいる2020年11月号の特集は「ホーン主義。」である。
表紙を飾るのは、JBLの新製品4349である。

買いそうになった。
今月は、いくつか試したいことがあって、
それでなくとも、けっこうディスクを買っているので、
締めるべきところは締めておく必要があるので、買わなかったけれど、
いまのオーディオ雑誌で、オーディオの楽しさを伝えているのは、ステレオだという気がする。

ただ毎号がそうだとはいわないが、応援したくなる。
「ステレオのすべて」のところでも書いているが、
あとすこし読み応えがあれば……、と思うのは、
こちらが長くオーディオをやっているからなのだろうか。

これからも変っていくはずである。
もっと良くなっていくのか、それともそうでなくなるのかは私にはわからないが、
いまの方向で進んでいってくれれば、ステレオを買う日が来るのかもしれないし、
そういう日が来てほしい。

Date: 10月 19th, 2020
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その18)

そういえば、今年になってKEFのModel 303を鳴らしていない。
サンスイのAU-D607からのスピーカーケーブルも外したままだった。

このスピーカーケーブル、コーネッタを鳴らすのに具合のいい太さだったので、
7月に外していた。
そういうこともあって、今年は鳴らしていなかった。

先週、そろそろ303を鳴らそうと思って、スピーカーケーブルを接いだ。
40年前の中級機というよりも、ちょっと下のランクといえる組合せ。

そこにメリディアンの218を接いで、ひさしぶりに鳴らした。
ひっそりとした音量で鳴らした。

ジャクリーヌ・デュ=プレを聴いた。
“THE EARLY BBC RECORDINGS 1961-1965”を聴いた。
モノーラル録音だ。

今日(10月19日)は、デュ=プレの命日。

Date: 10月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その7)

2013年のNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」。
薬師丸ひろ子演じる鈴鹿ひろ美が、最終回に近い回で、歌うシーンがある。

鈴鹿ひろ美はひどい音痴という設定だった。
鈴鹿ひろ美が若いころ、レコードデビューをしようとしたが、
あまりにもヘタなため、小泉今日子演じる天野春子が代りにレコーディングしている。
ゴーストライターならぬゴーストシンガーとして。

その鈴鹿ひろ美が、天野春子が当時歌った曲を歌う。
天野春子が鈴鹿ひろ美に歌の特訓をする。
けれど途中で投げ出してしまう。

歌う当日、天野春子が裏で、ふたたびゴーストシンガーと歌う手はずだったが、
マイクロフォンのトラブルで、鈴鹿ひろ美が歌う。

鈴鹿ひろ美が音痴であることを知る周囲は、どうなるのかはらはらしていたが、
見事な歌唱だった。

そういうシーンがあった。
これをどう解釈するのか。

鈴鹿ひろ美は音痴ではなかったのか。
なぜ、こんなにも見事に歌えたのか。
実力を隠していたのか。

鈴鹿ひろ美は、一流の女優という設定である。
だからこそ、ここでの歌唱は、女優・鈴鹿ひろ美が、歌手を見事に演じたからこそだと思う。

歌手・鈴鹿ひろ美として舞台に立っていたら、ここまで歌えなかっただろう。
私は、そう解釈して、そのシーンを見ていたから、
映画「JUDY」でのレネー・ゼルウィガーの歌唱は素晴らしさは、
レネー・ゼルウィガーが女優として一流だからこそ、なのではないのか、と思ってしまう。

Date: 10月 18th, 2020
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(2021年・その2)

五味先生は12月生れである。
2021年12月に、ステレオサウンド 221号が出る。

221号で、生誕100年記念の記事が載るだろうか。
12月発売のステレオサウンドの特集は、ステレオサウンド・グランプリとベストバイである。

私が編集者だったら、五味先生の特集を組むけれど、
そんなページは割けないのが、いまのステレオサウンドである。

年四冊の一冊が、ステレオサウンド・グランプリとベストバイでとられてしまう。
編集者としてのジレンマを感じないのだろうか。

ステレオサウンド・グランプリとベストバイは、別冊にすれば解決することだ。
それとも五味先生の一冊を、2021年の12月に出してくるのだろうか。

Date: 10月 18th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY, バスレフ(bass reflex)

TANNOY Cornetta(バスレフ型エンクロージュア・その2)

1979年にステレオサウンドから出たHIGH-TECHNIC SERIES 4、
「魅力のフルレンジスピーカーその選び方使い方」に、
瀬川先生の「フルレンジスピーカーユニットを生かすスピーカーシステム構成法」がある。

いくつかの項があって、その一つに「位相反転型の教科書に反抗する」というのがある。
     *
 位相反転型は、いまも書いたように、古くから多くの参考書、教科書で、難しい方式といわれてきた。だがそれは、あまりにもこのタイプの古い観念にとらわれすぎた考え方だ。こんにちでは、スピーカーユニットの作り方や特性が、それらの教科書の書かれた時代からみて大きく変っている。だいいち、メーカー製でこんにち定評のある位相反転型のスピーカーシステムの中に、旧来の教科書どおりに作られているものなど、探さなくてはならないほどいまや数少ない。位相反転型の実物は、大きく転換しているのだ。
 さて、ここで位相反転型エンクロージュアの特性を、多少乱暴だが概念的に大づかみにとらえていただくために、図1から6までをご覧頂く。あくまでも概念図だから、ユニットの設計が大きく異なったりすればこのような特性にはならないこともあるが、一応の目やすにはなる。
 古くからの教科書では、エンクロージュア、ポート、ダクトにはクリティカルな寸法があり、ユニットの特性に正しく合わせなくては、特性が劣化する、とされていた。そして、右の三要素がそれぞれ小さい方にズレると低音の再生限界が高くなりピークができて、低音のボンボンといういわゆる「バスレフの音」になる。また、三要素が大きい方にズレると、f0附近で特性に凹みができて、低音感が不足する……といわれていた。
 意図的に低音の共振を強調して作られた有名な例に、JBLのL26がある。明らかに低音にピークが出ているが、この音を「バスレフ音」とけなした人はあまり知らない。むしろ、とくにポップス系における低音のよく弾む明るい音は、多くの人から支持されている。
 反対に、エンクロージュアを思い切って大きくしたという例は、商品化が難しいために製品での例は知らないが、前に述べたオンキョー・オーディオセンターでの実験で、おもしろいデータが出ているのでご紹介する。
 図7は、同社のFRX20ユニットをもとに、内容積がそれぞれ65リッター、85リッターおよび150リッターという三種類の箱を作り、それを密閉箱から次第にダクト(ポート)を長さを増していったときの特性の変化で、前出の図1や3、4に示した傾向はほぼ同様に出ている。
 これを実際に、約50名のアマチュア立会いでヒアリングテストしたところ、箱を最大にすると共にポートを最も長くして、旧来のバスレフの理論からは最適同調点を最もはずしたポイントが、聴感上では音に深味と幅が増してスケール感が豊かで、とうてい20センチのシングルコーンとは思えないという結果が得られた。
 ヒアリングテストをする以前、無響室内での測定データをみた段階では、測定をしてくださったエンジニア側からは、図7(C)の点線などは、ミスチューニングで好ましくない、という意見がついてきた。しかし、これはあくまでも無響室内での特性で、実際のリスニングルーム内に設置したときは、すべてのエンクロージュアは、壁や床の影響で、概して低音が上昇することを忘れてはいけない(例=図8)。この例にように、エンクローシュア自体では共振のできることを意図的に避けることが、聴感上の低音を自然にするひとつの手段ではないかと思う。とくに、バスレフの二つの共振の山のうち、高い方をできるだけおさえ、低い方を可聴周波限界近くまでさげるという考え方が、わたしくの実験では(この例にかぎらず)概して好ましかった。
 ともかく、バスレフは難しく考えなくてよい。それよりも、むしろ積極的にミスチューニングしよう(本当は、いったい何がミスなんだ? と聞きかえしたいのだが)。
 参考までに、G・A・ブリッグスが名著「ラウドスピーカー」の巻末に載せていたバスレフのポートと共振周波数の一覧表をご紹介しておく(図9)。この本はもともと、一般の計算などにが手の愛好家向けの本だから、なるべつ簡単に説明しようという意図があるにしても、日本の教科書のようにユニットのQだのmだのに一切ふれていないところが何ともあっけらかんとしていておもしろい。そして現実にこれで十分に役に立ち、音の良い箱ができ上るのである。
     *
図について簡単に説明しておくと、
図1は、位相反転型エンクロージュアの箱の容積の大小
図2は、位相反転型エンクロージュアの開口の大きさを変えた場合の傾向
図3は、位相反転型エンクロージュアのダクトの長さの変化と特性器傾向
図4は、位相反転型エンクロージュアのインピーダンス特性
図5は、ドロンコーンの質量の大小と特性の傾向
図6は、吸音材の量と低域特性
図7は、エンクロージュア容積と低域特性の関係
である。
図1から6までは、スピーカーの教科書にも載っていることが多い。
図7は、実測データのグラフである。

Date: 10月 17th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その2)

ベートーヴェンを聴いた、とか、ベートーヴェンを聴きたい、ベートーヴェンを聴く、
こういったことを言ったりする。

ここでの「ベートーヴェン」とは、ベートーヴェンの、どの音楽を指しているのだろうか。
交響曲なのか、ピアノ・ソナタなのか、弦楽四重奏、ヴァイオリン・ソナタ、
それともピアノ協奏曲なのか。

交響曲だとしよう。
ここでの交響曲とは、九曲のうち、どれなのか。
一番なのか、九番なのか、それとも五番なのか。

九番だとしよう。
ここでの九番とは、どの指揮者による九番なのか。
カラヤンなのか、ジュリーニなのか、ライナー、フルトヴェングラー……。

フルトヴェングラーだとしよう。
フルトヴェングラーによる九番は、どの九番を指しているのか。
よく知られているバイロイトの九番なのか、それとも第二次大戦中の九番なのか。

こういうことが書けるのは、オーディオを通してレコード(録音物)を聴くからである。
演奏会で、こんなことはいえない。

東京では、かなり頻繁にクラシックのコンサートが開催されている。
今年はコロナ禍で、来日公演のほとんどは中止になっているが、
ふところが許せば、一流のオーケストラの公演であっても、かなり頻繁に聴ける。

それらのコンサートすべてに行ける人であっても、
演奏曲目は、どうにもならない。
ベートーヴェンを聴きたい、と思っているときに、
運良くベートーヴェンが曲目になっていたとしても、
こまかなところまで、望むところで聴けるわけではない。

その不自由さが、コンサートに行って聴くことでもあるのはわかっている。
それでも録音が残っているのであれば、
オーディオで音楽を聴く、ということは、そうとうに自由でもある。

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。
その1)の冒頭でも引用している。

コンサートでは、なまなかな状態にあるときでも、
ベートーヴェンの交響曲を聴くことだってある。