Date: 11月 22nd, 2021
Cate:

音の種類(その4)

ステレオサウンド 38号、
黒田先生による「アレグロ・コン・ブリオ 岩崎先生の音」のなかに、
こう書いてある。
     *
 大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。
     *
(その3)を書いていて、ここのところを思い出していた。

Date: 11月 22nd, 2021
Cate:

音の種類(その3)

独りで聴く音(聴きたい)がある。
誰かと聴きたい音もある──、
けれど、そういう音を出せるのだろうか、という自問がある。

Date: 11月 22nd, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その9)

新月に出逢う(その1)」で書いているように、
2月12日、新月の夕刻に、ある人形と出逢った。

Enという人形作家の、Eleanorという作品だ。

今年もまだ一ヵ月ちょっとある。
何があるかはわからない。
それでも、今年イチバンといえる新しい出逢いは、これである。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その7)

菅野先生のところできいたディスクで、私がいちばんの宿題と感じているのは、
これまで書いてきたように児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲だ。

このディスクが、菅野先生のところできいた最後の一枚だっただけに、
そして、その時の音のすごさが、まさしく別項で書いているように、
動的平衡の音の構築物であっただけに、特別な存在となっている。

このベートーヴェン以前にもいくつかある。
ミハイル・ペレトニョフのシューマンの交響的練習曲、
コリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集、
ユッカ=ペッカ・サラステのシベリウスなどが、すぐに浮んでくる。

ほかにも挙げられるけれど、
ジャーマン・フィジックスのトロヴァドールを導入されてからの菅野先生の音で聴いた、
これらのディスクの存在感は、どうしても大きい。

あと一枚、どうしてもあげておきたいのが、
ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”で、そのなかの「川の流れのように」だ。

2002年7月4日。
菅野先生にお願いしてかけてもらった一曲である。
まだトロヴァドールは導入されていなかった。
マッキントッシュのXRT20で鳴らしてくださった。

この時の音も、上記のディスクとは違った意味での「宿題としての一曲」である。

ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”は、カレーラスの数多くの録音のなかでも、
ラミレスの「ミサ・クリオージャ」とともに、大切な存在だ。

なのに“AROUND THE WORLD”は廃盤のようである。
TIDALでも、いまのところ聴けない。

ホセ・カレーラスの“AROUND THE WORLD”をMQAで聴ける日が来てほしい。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その5)

もう十年以上前のことだが、
ステレオサウンドの新製品紹介記事で、
あるオーディオ評論家が整流コンデンサーと書いていた。

電源部を構成する部品のなかで、コンデンサーの役割は整流ではなく、
平滑である。
整流するのは整流管であったり、整流ダイオードであったりする。

つまり平滑コンデンサーであり、整流コンデンサーなる部品は存在しない。
そのオーディオ評論家は、整流コンデンサーなる部品を発明したのだろうか。

技術的なことにまったくうとい書き手が、そんなことを書いていたら、
ここで取り上げたりはしないのだが、
そのオーディオ評論家は技術的なこともけっこう書いている人だ。

その人の技術レベルがどの程度なのかは、わかる人にはわかる。
今回、またこのことを取り上げているのは、
ソーシャルメディアでまた整流コンデンサーと書いている人がいたからだ。

しかも、その人はメーカーのエンジニアである。
いまは、そんな時代になってしまっているのか。
だとしたら、整流コンデンサーと書いてしまったオーディオ評論家、
そしてそれを見逃して、誌面にのせてしまった編集者に対して、
あれこれいうのは、もう酷なことなのかもしれない。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その7)

フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。

真理だ、と私は思っている。
でも、そうではないと思っている人もいることも知っている。

どちらが正しいのかは、私にはどうでもいいことだ。

先日、別項「何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その5)」で、
余韻について書いた。

この余韻もまたフルトヴェングラーのいうところの感動と同じように、
人と人との間にあるもの、もしくは人と人との間に生じるもののはずだ。

一ヵ月ほど前に、ある人と出逢ったのがきっかけで、
余韻についておもう日が続いている。

この、私が感じている「余韻」は、いったいなんなんだろうか、
通常、余韻はデクレッシェンドしていくのに、この「余韻」はクレッシェンドしていっている。
とまどいも感じているわけなのだが、
ここで述べている音情も、人と音との間にあるものであって、
私が音情と感じていても、別の人はまったく感じていないということがあっても、おかしくない。

Date: 11月 20th, 2021
Cate: ディスク/ブック

THE BERLIN CONCERT(その1)

2020年、クラシックのCDで一番の売行きだったのは、
“JOHN WILLIAMS IN VIENNA”のはずだ。

今年(2021年)が、どのディスクだったのかは知らない。
でも来年(2022年)、一番売れるであろうCDは、
“JOHN WILLIAMS BERLINER PHILHARMONIKER”であろう。

ウィーンの次はベルリンである。
“JOHN WILLIAMS IN VIENNA”がそうとうに売れたのだから、
二匹目のドジョウということで企画なのかどうかはなんともいえないが、
来年1月に発売予定である。

先行して、“Superman March”が聴ける。
e-onkyoでも、この一曲のみ先行発売しているし、
TIDALでもMQA(192kHz)で聴ける。

昨晩、寝る直前に聴いていた。
楽しくて二回聴いていた。

オーケストラもスピーカーも同じだな、と改めて感じていた。

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭で書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
オーケストラでもまったくそうなのだ。
瀬川先生の例では、スピーカーの格が違いすぎてもそうなのだが、
オーケストラは格においてもアメリカのオーケストラよりも同等、もしくは上なわけで、
そうなると、どうしてアメリカのオーケストラからは、こういう響きが出ないのだろうか──、
と思うことになる。

Date: 11月 20th, 2021
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4320(その13)

JBLの4320が登場して五十年。
程度のよい4320の数も少なくなっている。

4320に搭載されているユニットは、すべてアルニコマグネット。
アルニコマグネットは衝撃に弱い。

井上先生がよくいわれていた。
アルニコマグネットのスピーカーを、一度ドスンとやってしまうと、
もう元には戻らない、と。

ドスンという衝撃を与えても、見かけはまったく変化なし、である。
けれどアルニコマグネットの性質上、磁気特性がダメになってしまう、とのことだった。

そういうこともあるから、4320の程度のよいモノを見つけ出すことは、
運が味方しないと難しい、と思っている。

それでも一度は自分の手で4320を鳴らしてみたい。
クラシックを4320で聴きたい、とは思っていない。
スカッとした音で、4320を思う存分鳴らしてみたい。

大袈裟な、大がかりなシステムではなく、
ほどほどの規模のシステムで鳴らしたい。

アンプは、GASが、いちばん思い浮ぶ。
AMPZiLLAではなく、その下のモデルのSon of AMPZiLLAでもなく、
Grandsonが合うんじゃないか。

となるとコントロールアンプもTHALIAに決る。
THALIAは、上二つのコントロールアンプの陰に埋もれがちなのだが、
あの時点で、もっとも現代的アンプといえたのは、THALIAである。

Date: 11月 20th, 2021
Cate: ケーブル

ケーブル考(その11)

ケーブルにはインダクタンス成分が必ずある。
そのため電源部の出力インピーダンスがどんなに低くても、
アンプ部に供給するための配線がもつインダクタンスによって、
中高域からインピーダンスは上昇することになる。

定電圧回路を採用して電源部の出力インピーダンスを低くしたところで、
アンプ部までの配線が長くなれば、中高域でのインピーダンスの上昇も大きくなる。

このことに言及したのは、無線と実験において、安井 章氏が最初だったはずだ。
電源インピーダンスのフラット化。
そのことを追求され始めたのは、1980年ごろからだった、と記憶している。

定電圧回路の誤差増幅には、OPアンプが使われることもあった。
オープンループ時のゲインが高いOPアンプを使えば、
インピーダンスはかなり低くできるものの、
その定電圧回路のインピーダンスは、
使用したOPアンプのオープンループの周波数特性をなぞるカーヴとなる。

つまり中高域(可聴帯域内)でインピーダンスが上昇してしまうし、
そこからアンプまでの配線があれば、さらに上昇することになる。

安井 章氏は、だからOPアンプを定電圧回路に使われなかったし、
定電圧回路とアンプ部との配線を極力短くするために、
それぞれのアンプ部に対してローカル電源回路を用意されるようになっていった。

外部電源を採用するコントロールアンプが増えたのは、
マークレビンソンの登場以降である。

そのマークレビンソンのアンプも、
外部電源からアンプ本体へのケーブルの影響を無視できなくなったのか、
リモートセンシングを採用したり、ML6AとML6Bでは、
アンプ本体のスペースに電解コンデンサー・バンクを備えるようになった。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: オーディオマニア

ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その3)

選ばなかった途ではなく、結局は選べなかった途がある。
その選べなかった途をもし歩んでいたら──、
どんな生活を、いま送っていただろうか、とは考えていない。

それはきっとオーディオと無縁の途だったはずだからだ。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 欲する

何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その5)

二年近く前の(その1)の時点では、
デアゴスティーニのサンダーバード秘密基地が欲しい! と思っていた。

欲しい! という衝動である。
でも衝動はしばらくすると薄れていく。
いまではすっかり落ち着いてしまっていて、欲しいという気持はもうない。

こうなるであろうことは、出た時点で予想できていたことだったし、
やっぱりそうなったか、ぐらいに思っている。

どうしてなのか、といえば、余韻を感じていなかったからだろう、と。
欲しい! とおもったほどなのだから、まったく余韻がなかったわけではない。
それでも、その余韻は急速に萎んでしまった。

サンダーバード秘密基地だけではない。
これまで聴いてきた数多くのオーディオ機器、
さらには聴く機会に縁のなかったオーディオ機器、
それらのなかで、欲しい! という衝動にかられたモノはある。

欲しい! と思ったモノで、いまも欲しい、
自分の手で鳴らしてみたい、と思っているモノは、かなり少ない。

これも余韻の持続が関係しているのだろう。
息の長い余韻がある。

そういう余韻は、時として何かに共鳴して大きな余韻となって、
私の裡で膨らんでいく。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その8)

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」、
《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》は、
そこに登場する。

「瀬川冬樹というリアル」を書いていると、
《自らの運命を成就するために生れてきた》ということを考えてしまう。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その7)

(その6)で引用した文章のあとに、瀬川先生はこう続けられている。
《わたくしはこれですべてを語っているつもりですが》と。

そうだとおもう。
この短い文章にすべてが語られているわけで、
この文章をどう解釈するのかは、その人のオーディオの想像力である。

Date: 11月 18th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その6)

ステレオサウンド 9号(1968年冬号)の第二特集は、
「オーディオの難問に答えて」である。

「〝原音再生〟の壁を破るには何を狙ったらよいでしょうか?」と問いがある。
上杉先生、菅野先生、瀬川先生がそれぞれ答えられている。

瀬川先生の答の冒頭に、こうある。
     *
 生と再生音の関係は、ただひと言で言う事ができます。それは──
〈あなた自身〉と〈写真に映されたあなた〉の関係です。
 写真とひと口にいっても、モノクロームありカラーあり、印画もスライド投影もある。ステレオ写真という「のぞき絵」もあれば、映画もある。わたくしのいう「写真」とは、広い意味での映像文化全体の将来までを含んで指しているのですが、かりに映像の技術がどこまでも進んでも、そうして写しとられたあなたがどこまであなた自身に似せられたとしても、それは決して〈あなた自身〉にはなりえず、しかも写っているのはまぎれもなく〈あなた〉に外ならない……。
     *
「瀬川冬樹のリアル」とは、こういうことでもある。

Date: 11月 18th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その4)

FMアコースティックスに関しては、音に関することよりも、
音に関係のないウワサのほうが、私の耳には先に届いていた。

けれど、音に関してもしばらくすると入ってくるようになった。
聴いた人は、かなりいい音だ、と感じているようだ──、
そんな感じのことが伝わってくるようになった。

あるオーディオ評論家から直接聞いたことがある。
地方のオーディオ店に招かれて行く。

どうしようもない音で鳴っていることがある。
イベントの開始時間は迫っている。
そういう時、FMアコースティックスのアンプがあれば、替えてもらう。

たいてい、それだけでうまくいく、ということだった。

この話をきいたときも値上りを何度かしている時だったものの、
いまみたいな価格のずっと手前ではあった。

とにかく困った時のFMアコースティックス頼み、であり、
それにきっちりと応えてくれる。

これはなかなかすごいことである。

オーディオ評論家を招いているくらいだから、
FMアコースティックスの前にスピーカーに接がれていたアンプだって、
かなりいいモノだったはずだ。

そのオーディオ店のスタッフのセッティングが未熟だから、
オーディオ評論家が困る音しか鳴っていないのであって、
本来ならば、それでも十分な音が鳴ってくれるはず。

つまりそういう状況下でも、FMアコースティックスは応えてくれるわけだ。